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道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.22

(A)(B)両方とも、もちろん含みます。  すみません。 この内容ですから、私の書く時間帯をもっと考えて、いっぺんに書くべきところでした。 いそいでお詫びしたい気持ちになったものですので、あわてました。 徹底して疑ったということは、その誤解が解けたということですから、徹底したbrageloneさん応援団となれたということでもあるわけです。 それにしても、応対が早いですね。  「今日中に書きますので、待っていてください。」と書いておけばよかったですね^^。 * No20の方のコメントについてですが、 ↓↓↓ 「霊」についての 考えのズレにつながりそうなことについては、後で書きます。 先に 三位一体についてですが、そこが重要な誤解となっていました。 まず、詳しくはともあれ そういうキリスト信仰であるならば、まったく問題は無いと思えますし、 それどころか キリストへの謙虚さの私などよりはっきりした謙虚さをこそ意味するだけであり、  ふたたび、 これにより、そちらのその謙虚さの地点のブレの無さに、感動しています。 たとえそこに《幻想》とかが混ざっていたとしても <それならば*註あり>私の考えにては問題のないところ、 (信教 良心の自由) >主観内面における自己表現であるに過ぎません。< という表現は、人間としてすばらしい表現だと思います。 註*→<それならば>の内容ですが、 教祖様云々とは間逆に 人に上下をつけない事の正しさの核心の確信としての信仰こそ 「謙虚さ」を意味すると思いますので、 そのへんが むしろ以前よりもはっきりしたということを意味します。   ならば幻想が例えあったとしても、何で何の問題があるのだろうと、私には思えるということです。 ( 例えば、 ちょうどいい例があるのですが、 私は これはたった一回だけなのですが、 ある時 ふと、なんとキリストが私を見ているとその視線を感じたことがあります。  なんでキリストとわかるのかも解かりません。 ただ はっきり あまりにもはっきり、その時はそう感じたのです。  えっなんで?  なんでただの青二才の ただの馬鹿なふつうの人間を見に来たの? どんな意味があるの?   ?? しかし、 後から考えても それがあまりにも確かに思える感覚だったので、意味が解からないだけでなく、、そんなことありえないという科学観からも否定したい気持ちにはなっても しばらく否定は出来ませんでした。 まず、そんなにも強い《幻想》が、人間の脳にはありえるということです。 どうやって 私がそれを幻想と規定したのかについては ここではともかく、 さて、 もし、私がそう規定することが出来ずに、そのままそのことを信じたとして、  そこに問題があったとすれば、 それが故に 私は特別な人間でありほかの人間とは違うのだと思いこんだ時だけです。 そうではなくて、いよいよ、謎の前に 人間や自己の小ささに気がつくのみであったとしたら、そこには何の問題があったでしょうか。  そういうことなんです。) * 次には No21へのコメントとしてまとめてくださった(A)(B)が重要と私も思います。 常識に 歩を合わせないのは、まさにこのケースにての動的道徳そのものということですよね。 brageloneさんの>《挑戦的な質問》<は、↓ (A)(B)二つに関ることと思いますが、和という道徳や 良識が、すばらしいものでありえるものでありつつ、 すばらしいからこそ、それゆえに思考停止になっている この見えにくい事態とその矛盾を、その尊さを深く信仰によって認識するからこそ、見抜いている!事態を意味します。 科学と哲学による純粋なそちらの信仰は、 そのへんがはっきりと見えるだけでなく、 常識が権威となってしまっている姿をも、おそらく誰よりもクリアーに見抜くのでしょう。 見えてしまうのでしょう。 おそらく リアルにリアルにくっきりとです。 アンデルセンの「裸の王様」の話は 正直で素直な子供が王様の服が 透明であることを見抜いたら死刑になるかもしれないという邪念で曇らされていなかった といったたとえ話にすぎませんが、  現実には、この和のまやかしの世界は、 その“だまし だまされ”の世界は、 それが真の和の世界を邪魔してたりします。   因果をたどれば それこそが人間の大きな醜さや悲惨さの原因だったりします。  半端でなく切実な現実の問題です。(あるいは 平和への道の巨大な壁としての因が、そこにあります。) *** おそらくbrageloneさんは、 直情的というのではなく、そういう性格はあるかもしれないですが、それよりも 実直な人というのが当たっているかと思います。 それも実直すぎるのです。 以前 そちらの心の清さへ感動したと書いたことがありましたが、それがゆえに実直すぎ、 実直すぎるから誤解を受けてしまうような書き方表現をも平気でしてしまうのだと思います。    たしか キリストの言葉のどこかでも「心に清い人は神を見るであろう」という言葉があったと思うのですが、 まさに brageloneさんはそういう実直さを持った人なのだと、あらためて思いました。 (それプラス 頭の回転が速いです。 ついてゆくのが大変なぐらいどんどん理論が頭の中に出来ていってしまう感じですね。  早合点も 自然に生まれてしまうということもあるかと思いますが、 ともかくこれでズレが生じるのかもしれません。) *** しかし、それらのあまりにも実直な文は 時として、今回のように大きな誤解へと発展していってしまいます。 和という道徳ですら 実直な鋭い矛盾凝視が必要な世界です。 ですから そういう「見抜き!」と その鋭さは この世界にどうしても必要なことですし、 実直さゆえの言葉や文体も すばらしいものでもあるのです。 そして、それは まさに 私たちの文化の内 宗教という権威ある世界がむしろ陥ってきた さらに見えにくくなってしまってもいる矛盾の世界です。 なおさら そちらの実直な筆は反骨の熱をおび、 一般の常識の目からは誤解を生みやすくなってしまうのでしょう。 その接点にて、この「道徳規範は、具の骨頂」という質問があり、懐疑の文が 抗議の文があるのだと思います。 * 仏教についてのそちらの姿勢も キリスト者だから攻撃するというのではなくて、 まさに《無限》の前の人間ゆえ、 同じ人間仲間としての辛らつな発言なのだと理解しました。(それもまた 誤解の種となってしまっても、実直ゆえに、 ストレートにそちらはままに語り続けるのでしょう。) * 「霊」については、 私もうまく言いたいことを表現できるかどうかはともかく、 これは中途半端には書きたくない点ですので、 それで 後回しになるということです。  再度、ここに記しておきました。 * いずれにしても、このような感じで誤解自体は すべて解けたということなのですが、 霧があったとすれば そのあたりの霧自体はすべて消えたかと思うのですがどうでしょう。 * 今後 私は 忙しくなるかと思います。 ですが、 ここまで実直すぎる反骨では、心配となります^^。  今後も ここでの井戸端会議にだけは ちょこちょこと 見に来たり お邪魔虫となったりすると思います。 今は このまま 先をつづけましょう。 * >▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2​   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。< の部分なのですが、 これは 確かに 中途半端の語り口です。 《その流動的な評価の下となる精神的機軸となる世界》は、けだし明確に求められるべきと考えるからです。 そのへんから 議論を再開したいと思いますが  、よろしいでしょうか?  また(筆自体は進めますが) brageloneさんならば、どう思いますか?      あの、 あまり深くはまだ突っ込まないでください^^。 早すぎるとついてゆくのが大変になります^^。( どうか私のいそがしい>状況の応じて 考えつつ対処<していただけますよう、お願いいたします^-^:。

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  もう けんかは終わったのですか?  なあんだ つまんないの。  ふたたび 今度は こちらから ふっかけましょうか。  ★★ 蚊に刺されたようなものです。  ☆☆ 蚊が刺しただけです。  ☆ これら二つは まったくと言っていいほど 違います。  後者では 《蚊が刺しただけ》が 歴史事実です。前者では なにかが別に歴史事実としてあって それが《蚊が刺した》ことに喩えられると言っています。   それは 次の表現にも見て取れます。  ★★ 瞬時に過去のトラウマから開放されたりもすると思うのです。  ☆ これでは だめです。《〈トラウマ〉も何もかも 〈蚊が刺した〉という事実以外には まったく なかった》のです。  ★★ その時は、大きく心傷ついたことであったとしても、  ☆ 《心が傷ついたこと》も何も なかったのであり 《大きく心傷ついたことであったとしても》という仮定も何も なかったのです。

noname#80116
質問者

補足

 補います。  すべては 計算づくだと 受け取ってください。  この段階で はっきりと お伝えしておいたほうがよいでしょう。  計算通りに行くか行かないかは また別の話ですが 表現のありようは 《たとえ にせの信仰者に見えようとも》です。あるいは 表現は まさに自己表現であり 自己表現であるほかなく 自己を 思う存分に発揮するかたちで 表現していくのですが それにもかかわらず 自己を見せるためにおこなっているのではないわけです。  さらに言えば 自己を見せる表現をするという場合 これさえも あるわけです。しかもつまり すべては 計算づくなのです。  直情的だの実直だの 心が清いの清くないのと言っているようじゃ まだまだだなぁ。  《メンタル》は 相手の問題として とらえなさい。こちらは どうでもよいのです。じっさい 心理の動きなどというものは 延々とつづく麻雀競技のごとくであって おもしろいかも知れないけれど 果てしがありません。  おのれは 《たとえ にせの人間であるように見えようとも》 相手が わたしがわたしするようにということを願って 表現するようにしてください。  というのが 《道徳規範は 愚の骨頂》という意味になると思うのですが いかがでしょうか。

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     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

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