• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

masa2211の回答

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.19

#8 >>>道徳規範は何故なくならないか >>道徳規範が無い場合、「自分さえ良ければ他人はどんなに不幸になってもよい」 / ということが正当化される、つまり強盗殺人okと言っているのに等しいため。 >まさか!あまりにも 決めつけた議論です。根拠として何が提出されているのか分かりません。 え??? 意味わからん。私はbrageloneさんの書いたことを字句どおりにとっています。字句どおり以外の意味を持つなら、それは、文章の書き方がオカシイということです。それを前提にします。 で、道徳規範が愚の骨頂ということと、道徳規範として出回っていることを無視しても差し支えないということですよね? ※それ以外のシチュエーションにおいて、「愚の骨頂」とまでの強い言い方をする用例を私はみたことがありません。 また、道徳規範が愚の骨頂という限り、たとえば「あいさつはすべき」というようなしょぼい(必ずしも全世界で普遍的とはいえない)ことだけでなく、 「強盗殺人は良くない」というような、社会生活にとって影響が大きい徳目についても愚の骨頂といえる何かがあるのですよね? 別に、強盗殺人でなくてもいいけど、具体的にそれは何ですか? 私には、何も思い浮かびません。そういった意味で、道徳は動態でなく生態であり、また、愚の骨頂などとんでもない。行動原理と言ってもいいくらい、道徳規範は確固たるものです。 以下、「道徳規範は愚の骨頂」と、「道徳規範を守る必要がない」が、事実上同義語である、というのを議論の前提とします。 ※何で、こんな自明もいいところをわざわざ断りをいれないとアカンの?ほんと、疲れる.... 技術者倫理 http://www.tokai.t.u-tokyo.ac.jp/~madarame/rinri_note.html について。 >参照サイト(上記)は 規範の是非といった質問趣旨に合った議論が なかなか 出て来ません。 当然そんなことは出ません。 道徳を以下のカテゴリに分割します。そして、どのカテゴリの属することを述べているか。 1.法令で規定されているもの。たとえば、強盗殺人・個人情報開示・誹謗中傷。 2.どのように行動しても法令に触れないもの。かつ、個人が単独でどのような行動をとっても社会的影響の無いもの。たとえば、毎日の挨拶。  ※毎日の挨拶を誰も行わなければ社会的影響は大きいかも。でも、それは個人単独とでは影響は無い。 3.法令に触れない(or抵触する程度)が社会的影響が大きいもの。たとえば内部告発。 内部告発について、たとえば、農薬入り食品など、大勢の方の健康に影響します。そして、それが顕在化するかどうかは、個人の行為にかかっています。 そして、内部告発しようがしまいが法津上の罪に問われることは無いです。むしろ、内部告発は会社をクビいなることを意味するから、 <個人の利益と社会の利益>という、典型的な二律背反です。ですから、 1.法令で規定されている程度に社会から受け入れられている事項は道徳規範として認知されており、異を唱える必要は無い。 2.どのように行動しても法令に触れないもの は、どう行動しても社会的影響が無いがゆえに、議論の対象外。 よって、3.の行動のみを対象としいています。3.の行動是非を決めるためには、 道徳規範は正しいという仮定は必須であるため、規範の是非といった話題は、ハナからありません。 徳目どうしが衝突する徳目どうしが衝突する で、 「強盗殺人は非道徳である」というのには同意してもらえるとして、 にもかかわらず、「道徳規範は愚の骨頂」とは、どのようなレベルからそういえるのですか? 明記しない限り、「道徳規範全ては愚の骨頂」、すなわち、「強盗殺人は非道徳である」も愚の骨頂、すなわち、強盗殺人アリ」としか言いようがありません。 いくら何でも、ハムラビ法典や「劉邦の法3章」から連綿として誰も否定しないことをいくらbrageloneさんといえど否定しないでしょうから、 ※否定するならそれでもいいけど、では、どのレベルから? 単に「道徳規範は愚の骨頂」では、その範囲が示されていない以上、反則です。  で、brageloneさんの定義する道徳規範の中に強盗殺人も含まれているか。それが知りたいのです。そこが肝心要の点。逃げないでね。 ※※私の議論は、道徳規範の中に強盗殺人も含まれているとしています。 理由:#1で、この件について反論していないため。 ※※※道徳規範を、「法令の隙間を埋めるもの」とする流儀もあり、私は本質的にはそっち派です。ただし、そっちだと、法令=絶対であり、本議論にそぐわないので採用していないだけです。 で、私が否定する箇所は、論理の展開方法にあります。 ヰキぺディアの記事を引いて、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2​ 評価は流動的であり、それゆえに道徳規範が愚の骨頂である、という評価を下すのが議論の骨子ですよね。 とんでもないです。 評価が流動的であっても、ある範囲内で振れている場合であれば道徳規範が愚の骨頂であるといいえるか? 答はノー。単に道徳規範に幅があるだけであり、道徳規範が愚の骨頂というわけではない。 で、評価が流動的についてですが、 ・徳目どうしが衝突する、と明言されているんだけど.... 何でそれが、「道徳規範が愚の骨頂」となるの? たとえば、例にあげられている  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。 ですが、 ・身なりが整っていないのは悪である。 ・悪いことは本人に伝えるべきである。 というのと、 ・欠点を指摘するのは、その人に人格を傷つける。 ・人格を傷つける行為は悪である。 という、典型的な二律背反。「徳目どうしが衝突する」とあるから、字句どおりに解釈すればこうなるでしょう。 道徳規範 が流動的だの、道徳規範が愚の骨頂だの、そんな解釈は普通じゃないだろ、ということです。 二律背反は、 「道徳規範について完全に合意できても、二律背反の場合は、行動が正反対になる場合がありうる。」 ということなので、二律背反を話題にする場合、道徳規範は静的で絶対的と考えても何ら差し支えありません。 それでも行動はまるで規定できないから、必然的にこういう結論となります。 で、件の技術者倫理のHPですが、 道徳として求めれられる行動規範はたったの2つです。 ですので、その2つの是非が、道徳規範が愚の骨頂かどうかの決め手となります。 で、その箇所は、HPにも書いてあるけど、 1つは、個人の尊重。 もう1つは、キリスト教でいう黄金律。「自分の望むことを人にせよ」あるいは「自分の望まないことを人にするな」 この2つは二律背反の要素があるので、道徳規範というのは、究極的には 個人の尊重と社会の尊重と、この2つの二律背反から成り立っています。 で、何?  #8より。 >二律背反は 単に論理的な問題です。思考過程としての道徳は とうぜん 人格の全体の問題として 徳目の矛盾に対処するでしょう。そんなことは 問題でもありません。 え~??そんなはずは。 二律背反が根源的な問題であるはず。 某大学HPにしろwikipediaにしろ、二律背反が根源的な問題という前提で書いてます。 少なくとも、そういう暗黙の前提で読んでも、何も矛盾は無いけど.... で、二律背反という根源的問題に対し、個々の事項の道徳の成否なぞ、どうでもいいとしか思えません。 ※強盗殺人の是非のようなものは決着済ということを前提としています。で、#8の応答を読む限り、 brageloneさん自身、強盗殺人の是非までを問題にしているようには思えないけど.... で、私の道徳規範について見解を以下にまとめます。この部分が議論の中核です。 細かいことはどうでもいいです。中核に対し反論してください。 1.道徳規範は愚の骨頂ではない。道徳規範は有効。 2.道徳規範で重要なのは以下の2点。この2点は普遍的とする。   ・個人(自分自身)の尊重。   ・他者の尊重。 3. 一般道徳は、2.のバランス(=二律背反)の上に成立している。 4.したがって、時代や地域により、2.の範囲内で個々の道徳は変わりうる。 で、上記2.に対し「違う」というの?言わないの?  上記のような考えでも、某大学HPやWikipediaの記述には全く矛盾は生じません。でも、brageloneさんは、#8でこう言い切っています。 >二律背反は 単に論理的な問題です。思考過程としての道徳は とうぜん 人格の全体の問題として 徳目の矛盾に対処するでしょう。そんなことは 問題でもありません。 私の意見、某大学HPやWikipediaの記述は違うのですよ。 道徳規範の差異が生じる主因は二律背反であり、他は無視して差し支えない程度なんです。 ですから、二律背反のときどう対処するかを考えることと、道徳規範を考えることはイコールです。 それとも、個人の尊重、他者の尊重のいずれかが誤りなんでしょうか。そんなことないと思うが。 brageloneさんが、どんな意見であろうがそれは自由です。 でも、それと真っ向から対立するWikipediaの記述を、自分の意見の 補強材料とする。それは反則と違います?

noname#80116
質問者

補足

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。歴史物語から入ります。  その昔 奈良のミワ系の皇子イチノヘのオシハ(押し歯)が カワチ系の皇子オホハツセワカタケによって 狩りの野で 暗殺された。その子オホケとヲケの兄弟は その現場から 命からがら逃げた。  のち ワカタケの死んだあと オシハの側が 二人の皇子を探し見つけた。ワカタケの血統は絶えて これら兄弟が おほきみの位に就く。  順序は 弟ヲケが先だったが かれらは 暗殺の現場だった野原に行って ちょうど その地の住人が ワカタケらによって 父オシハの遺体が埋葬されるところを見ていたことが分かり そこで 掘って 遺体を確認したという。八重歯(押し歯)で 特定できたという。  そのあと ヲケは 父親のかたきのワカタケに報復をせねばならぬと考える。ただし その恨みも深かったが すでにワカタケは死んでいる。ヲケは そのみささぎ(陵墓)を 壊せと命じた。その役目を 兄のオホケが やらせてくれと言って 引き受けた。  オホケは 行って 墓の一部分の土を掘り崩して 帰って来た。弟のヲケには そのような部分的な恥づかしめをもって 仇に報いたのだと説明した。ヲケも これを了解した。  このとき 《目には目を 歯には歯を》も そして 逆に 《敵を愛せ》も 言ってみれば 道徳規範です。(法律問題は いま 別としていますから)。  わたしのこの質問での趣旨は これら二つの規範にしても それぞれ その字句どおりに鵜呑みにして行動しても それは 人間として あまりにも機械的であって おかしいでしょう。あるいは もしこれらの規範が 人びとの間に受け容れられていて それによって 社会的な秩序が 曲りなりにでも 維持されているという情況があるのであれば その規範をまったく無視してしまうというのも 問題が生じるでしょう。   したがって いえ そう言うよりも そもそもの初めに 人は 規範には こだわらずに 自分の考えで この場合の報復なら報復について 判断するであろうし そこから自分なりの行動を選ぶであろう。こう考えるわけです。    考えてもみてください。《目には目を》 だから おれは 復讐するのだとか あるいは 《汝の敵を愛せ》 だから わたしは 自己犠牲をもいとわず 命を差し出しますとか どちらも そのように規範に縛られるのは おかしいでしょう。《左のほほをも向けよ》と書いてあるではないか おれが ぶったら そう出来るか?と言うのも おかしな理屈であるでしょう。《書いてあるから そうであり そう成る》などという考えは 愚の骨頂ではないですか?  われらが祖先は 自分で 考えたわけです。動的な思考過程としての道徳を 実践したわけです。そうじゃないでしょうか?  一方で 個人の尊重として 仇を打ちたい / 恨みを晴らしたい があり  他方で 社会(他者という個人)の尊重として 生命の尊厳 / 共生 があります。  あるいは オホケ兄弟にとって 一方で 個人の思いとして ワカタケは 父の仇である。他方で 社会的に われらが従父(をぢ)であり おほきみの職をも務めた人間である。  一方で もし仮りに――この点は あまり 触れたくないのですが―― 因果応報という思潮が 社会的に 優勢であるとすれば 復讐を何らかのかたちで果たさないと 人心に不安が生じる。他方で 報復と言えども 殺すなかれという規範に反する。  このようなこちら立てればあちら立たずの情況にあって オホケ・ヲケ兄弟は 自身の判断によって みづからの考える道徳を 実践したのだと言えるでしょう。道徳規範は たしかに そのような実践道徳の中から 一般化し抽象概念によって理論づけたものでもあるでしょうから 大事だと言えば大事ですが それを無条件に頭に頂いて 無条件にその文句に反応するのは やはり 愚の骨頂でしょう? それとも どういう良いところがあるでしょう?  あらためて お尋ねしたいと思うのですが。  * つまり 規範があるとするなら それを 守るべき規範の地位から 一たんとしてでも わたしたちの目の位置にまで 降ろして来て その規範の内容について 自分たちで考え捉え直していくといいのではないでしょうか。

関連するQ&A

  • 道徳って何ですか・・・

    カテ違いだったらすいません。 大人になってみて、ふと疑問に思います。 道徳って何ですか? ちなみにgoo辞書だと以下のようになってます。 ---------- 1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。 2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。 3 《道と徳を説くところから》老子の学。 ---------- 知りたいのは、1と2についてです。 (3から派生されているのでしょうけど) 道徳を「身につける」?にはどうしたらいいのでしょう。 義務教育時代に習ったことは覚えていません。 きっとちゃんと身についてるのだと思います。 明示的なものでなく、感覚的なものなのか。 大人になったら、社会から学ぶものでしょうか。 何か、参考になる本とかあるのでしょうか。 倫理と関係していますか。 考えれば考えるほど分からなくなってきます。 いろいろなご意見頂きたいです。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • 「罪に服する」は、おかしな日本語ですか?

    土屋道彦という人の書いた「おかしな日本語、正しい日本語」という本を読んでいたら、 「『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしい。服するとは、納得して従うことである。納得して罪に従うなどというのはおかしなことである。恐らく『刑に服する』の間違いであろう。」 というお話が出ていました。 辞書で【罪】を引きますと (1)法律的・道徳的・宗教的な規範に反する行為。「―を犯す」 (2)(1)に対して負うべき責任。また、それに対して科される制裁。刑罰。「―に服する」 と出ていて「罪に服する」の用例までキッチリ出ています。 それでも土屋先生の仰るように、『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしいのでしょうか? 教えてください。 Goo辞書↓ http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BA%E1&kind=jn&mode=1&kwassist=0

  • 宇宙と人間は偶々生じてきたのですか?

     http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1285468867 に人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)と宇宙の森羅万象, 万物に関する規範的関係性について質問があります。  要するに、人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)も、そして宇宙の森羅万象, 万物も偶々、勝手に生じてきているのではなく、当為規範的に存在するのではないか、という質問です。  皆さんにおかれては、この辺り(あたり)のことはいかがご批判されますか?  人間の宗教や哲学は宇宙万物に基盤を持ち、宇宙万物に価値的に関与する必要を意識しなければいけませんよね。

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。