• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.18

No17から続けます。 すみません。 やはり、急ぎすぎの回答だったようです。 通常 私は質問文は徹底してよく読んでから回答を書き始めるようにしています。  それでもなお、 読み落としすらあり、 もちろん、その質問文自体の裏のその人の人生など、読めてなんかいないからです。 慎重にならざるを得ないはずだと思っているわけです。 しかし、 この質問文の場合は それの質問意図の深さを読めなかったというよりも、 何故なのか?自分でも不思議なぐらいよく読まないうちに回答を始めてしまっていました。 肝心のその文自体は後回しで、先に回答者のみなさんの文をざっと読み 突然書き始めてしまった感じでした。   失礼いたしました。 * 道徳規範の規範という言葉も、「べき」という言葉も、 含まれている意味合いは ピンからキリまで、 レベルの低い認識で解釈したものから 高度な深い意味合いで認識されたものまで、 さまざまであり、 これは 確かに“言葉の使い方の難しさ”をも意味するところなのでしょうが、 ご質問文をよく読んでいれば、 《“考えが固定されてしまった「べき」として受け取られた段階の個人の当為としての、動的でない(その場によって違ってくることを理解していない)取り決めとしての 道徳規範”は愚の骨頂である》という意味合いであることは、 すでに明白なところであったわけです。 具体的に言えば URLに掲げられた例にても、 ここは助けちゃいけない甘えさせちゃいけないんだ。 自分で考え、傷ついてでも自分で起き上がることを学ぶべきところだ。 と明らかに思える時ですら、  助けなさいと 先生(> 一定の地位にある公的人物<)が言ったから、あるいは その宗教の教義に書かれてるから なんであれ助けるのが正しいという、そんな内的強制をともなう規範は 愚の骨頂ではないか? ということなのですよね。 実際に 強制力(公的罰)をともなう法律は、けっこう深い理解から生まれている(弱い者の立場の重視、個人の尊厳性の理解、あるいは互いに矛盾する規範の場合におけるバランス、とかの理解の上に、 さすが罰をともないそのコンセンサスを前提ともしているだけ、よく考えられていて、そこには長い間の重みもある。)けれども、 ほんとうは、外からの強制力をともなわない、内的規定こそ、さらなる中道あるいは中庸のより深い理解が必要なものであるのに、   そこを間逆(その状況等の理解とは間逆)にも規定してしまう>規範<は、 まさに>愚の骨頂<なのではないか?  なんで?、 この時代にても その大切な点の大切さに関する疑問の声が何故あがらないのか? という 誠実で強烈な内的叫びからの 質問となっていると思いました。 ☆その観点から 宗教をながめると、 大の大人が なんとそんな地点の>規範<に閉じ込められているすがたが見えてくるではないか。 そんなの 信仰と言えるのか?  信仰の名をかたる、考える行為の自殺なのでは?   という疑問も ここには絡んでいるのですが…?  といった意味合いの質問文ですよね。 * これでは、別な観点からの見方もありますよ。とう回答では それはそうであっても 回答として不十分すぎますよね。 * 先へ論議を進める前に、 まず わたしが 急ぎ書いてしまった(1)キリストの言葉のあたりと、 (2)仏陀のことについて コメントをいただきました点に筆を伸ばしておきます。 >宗教<への疑問という内容もともなう質問だと思いますので、 この論議自体 回答の内と言えるかもしれませんが…。 (1)「私は 律法を否定するために来たのではない。 完成するために来たのだ」と言われるキリストの言葉の中での 律法は、もちろんその言葉(「律法」という言葉)自体が、 動的な道徳の事を言っているのは当然と私も思っています。   >規範<に閉じ込められた道徳や律法のことなど最初から眼中には無い感じの言葉として、 明らかにそう解釈できる言葉だと思っています。 そうでないと、全体の“キリストの言葉”に整合性も生まれませんし、これは ちゃんと考えれば誰もがそのように理解できるところと判断出きるかと思います。 (2)私の中には、 悟りきって戻ってこれなくなった人は この世にいらない(オシャカ様にすぎない^^)という前提がありますが、 マーガンディアのは話がもし実話であれば、 そしてそれが仏陀が悟った後のことであるというならなおさら、  仏陀自体はオシャカとして考えるべきだという前提にもなるところです。 仏教に対しては その上での悟って無い人達の 努力(幻の仏旅)のほうから学ぼうとするという立場ですし、 そこにしか《多元性》という観点からの仏教への《よりそい》の道徳意義は感じません。 ただ単なる ブッディスト規範での 仏界への謙虚さとか仏教への謙虚さを大事にしているのではありません。  たぶん 結論はbrageloneさんにしても同じだと思います。 ↓ これに反論とかがあれば 別ですが、 同感であるならば、上記(1)と(2)については、ここまでとさせていただきたいところです。 * 私の急ぎにての回答の方でも、別意図でこちらから取り上げてしまった問題、 》★ すべての宗教の和解という大きな課題《 については、 ここでのもともとのそちらの質問文とも直接に対応する問題と思われます。 重要な論議の地点であることは理解しているつもりです。 しかし、 これも 後回しの論議課題とさせていただきたいと思います。 もう大の大人であるにもかかわらず、《>規範<に閉じ込められている》姿を 大勢の人が子供でもあるかのように露呈している姿は、 一度その怪奇さ?に気がついた人にとって、  なんとも、簡単には言い表しようがなく 考えがたい感じの問題となってしまいます。 どんなに理性的に批判しても 泣いて怒ってみても、 物語で理解をうながそうとしても、 何かの実践にて体験を通じて事を解かって欲しいと実行してみても、  目的である理解を深める地点には 出てこれないかのように思えてしまう事態と認識しています。 ですので、 ともあれ、 最後の論議として 心にとどめつつも、 回答の筆を 待っていていただきたいのです。 (これも 反論があれば、必ずしもその限りではありません。 規範としてそう思っているわけでは、ないからです^^。) ☆ しかし、そちらの その点についてのコメントの前半部分については、後回しの問題とさせていただきたいということなのですが、その後半部、 その後半部分の、 “深い内実があれば、 >道徳規範<には縛られない、その状況に応じた意義の深い実践性が生まれるはず” という論理については、 ただ賛同するだけでなく、 そこをこそ 私の方からも より具体的な、>一つひとつの主題や現実の課題に対して 何が 必要で 有効であるか この視点を重視するという わたしの側からの 物言いです。<と言われるそちらのコメント意図に添った形の回答にしていきたいと 思っています。 今回は その予告偏回答とさせていただきました。 * なお、>慈悲は 経験現実か。< という部分のコメント文について、少し説明していただけますか。 愛は経験現実か。 という命題とは別ですか? 「経験現実」とは、というあたりの言葉の定義のあたりが 今一掴めていないからです。 かってな私の解釈から言えば 「当然、愛も慈悲も経験現実だ。」ということになるのですが。 それは、もちろん「慈悲とは」のそちらの質問の時に私が回答した内容は前提とした上でのことです。 これも ここでも 論議の対象となりそうですか?

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。少し氷が解けたのではないでしょうか。全部と言いたいところですが 疑問も 残ります。  ★ すべての宗教の和解という大きな課題  ☆ これを 保留ということで あとは そのとき 道徳規範あるいは 規範としての教義の問題にからめて 《道徳規範は 愚の骨頂》とは別の見方が成り立つかどうか に焦点が当てられます。  しかも この質問趣旨としては 別の見方は 成り立たないと仮説しています。むろん どなたかのお応えとして書いたことを覚えているのですが 成り立つという歴史的な事実や 理論が あったなら おしえて欲しいという問い求めになっています。  ★ 慈悲は 経験現実か。 愛は経験現実か。  ☆ これは 字義どおりの問いです。すでに  ★ 「当然、愛も慈悲も経験現実だ。」ということになるのですが  ☆ とお答えいただいても います。ここでは 《当為》とからむこととなったと思って あらためて 持ち出したのですが たいした質問ではないと考えなおしました。  つまり 主観としては できる という答えが返ってくるでしょうから あまり 対話にならないようだと あとで 反省しました。  課題は 保留の件と あと マーガンディヤー問題ですね。  後者は   ★ 悟りきって戻ってこれなくなった人は この世にいらない(オシャカ様にすぎない^^)という前提  ☆ がよく分からないのですが 焦点は 単純です。成道のあと つまり 法を説き始めたあとのブッダが この女性に対しては ほかの人びとに対する接し方・法の説き方とは違って ついに 最後まで 説得し得なかったという問題です。たとえ実話ではなく 虚構であったとしても そういう物語として 伝えられてきたその意図は 何かと問うことができます。  のちに 王の第三夫人となったマーガンディヤーは 第二夫人で ブッダの弟子となった女性を憎んで その館に火を放ち 女官何人かとともに 焼死させた。ブッダから マーガンディヤーは 道徳という見地から見て すでに 死んでいると酷評されたわけですが それでいいのだろうかという素朴な疑問が残ります。それだけです。  ブッダが どういうことを言ったかではなく 事実が 上のようだったという点に 説明が求められるという意味です。もし かのじょにブッダがかけた言葉こそが 深い意味あいを持つというご見解でしたら その意味あいを 上の不幸な事実の解き明かしを交えて 説明しなければならないと思われます。  次のご回答において arayata333さんは 多くの場合に 予告編だけであることがあると言われないようにと 当事者であるわたしが いま 言っても まちがった言挙げではないように思い始めています。と 心より お伝えいたします。

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