• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.13

私のほうからは、 別な見解(別な方向からの見方)もあるという点だけ 書いておきます。 論議自体の時間は、あまり無いからです。 * 「道徳規範が 愚の骨頂」 とは言えないという見方です。 道徳規範の理解や解釈の浅さ 抽象性、あるいは網の目の荒さが、 愚の骨頂なる硬い(あるいは非動的)道徳堅持を生む  という考え方もあるという地点です。 例えば 最高徳と言われている「愛」や「慈悲」にしても、 その意味合いの深さを知らない人にとっては、 たんなる規範でしかなかったり、 極端な話が硬い解釈どころかその規範を利用して自分をよく見せる権力欲であったり、まさに最高徳でさへその時 愚の骨頂になりえるということです。 しかし、この最高徳というのは 考えれば考えるほど、哲学すればするほど奥が深いです。 そして それはそうするほどに 生き生きしたさまざまな価値を生み出し始めます。 そこを逆に そうであるからこそ、そのぐの骨頂に気おつけようという、ここでの井戸端会議をなんら否定するものではなくて、 偽善への“知のその闘い”を 私はここでも応援したい気持ちになります。 ただ、一つ一つの道徳なり道徳規範なりに あるいは「べき」にそれぞれ奥があり 深みがあるという見解もあり、  一概に 道徳規範を愚の骨頂としない考えを 簡単に避けたりしないようにする「べき」ところかなと思いました。 また キリストをあえて持ち出してしまいますが、 キリストは「私は律法を否定するために来たのでは無い、 完成するために来たのだ」といった意味合いの言葉を言われているはずです。  文自体は正確には覚えていませんが、そのへんの深さを考えさせられ 憶えているところです。 たしかに、 キリストが言われてることは奥が深いのです。 というよりそのシンプルな言葉は あまりにも端的です。  私は何もキリストを絶対視するというわけではないんです。 そんな意味で それを心のカテドラルの中心の柱の根元(ねもと)と表現するのではないんです。   実際に、 謙虚になるべき どこまでいっても謙虚であるべき そういう言葉を語られているからです。それだけのことなんです。 同様に カテドラルという形の知的図形にてそれを語るから 当然中心の柱が、一神教のあるいは存在が与えられている存在だということの感得の柱となるのは当たり前で それを最初にして語りきったキリストへの謙虚さを語るのも当然なのですが、 その図のにおける脇の梁の一つとしての仏教にしても 同じ殿堂を構成するということであり、  どっちがレベルが上とか下とかいうことでは無いということであり、 同じく仏陀への謙虚さの必要も私は、 ごく普通の語りたいだけなんです。 これが二段ロケット論法ということなのかもしれませんが、 私のその図自体はあくまで《多元的なカテドラル》の図であり、 そこから私の表現は生まれています。 たとえば、 仏陀というかたが、 当時のあの例の美女を 糞尿の詰まった体にすぎない と表現したことも 、  実はいろいろな解釈は可能であり、   阿頼耶識とかで表現されてる仏界を信頼するならば、 その深みから推理すれば、  すでに仏陀が悟ってしまいそのために糞尿の含めて存在のすべてがただただあまりにも美しく快いものとしか感じられなくなり、 静寂のその感性からは、  慣用語を使ってみるしか指導できなかったという見方も可能になります。    これは 何を言ってるのか解からないかもしれませんが、   ?  でなかったとしたら私には悟りってなんだか逆の解からないので、 私の推理の中では その可能性の一つとして成り立ってしまうことです。  つまり仏陀は 教育は下手だったとも言えるということです。    私たちの中に残っている下心とか嘘の心とか 思い出すこともできなくなり、 言葉として憶えてることを下にのみ、それでも新鮮な心を大勢の人と分かち合おうとしたのだと思えるということです。   あくまでそれは推理ですけどね。 推理は推理に過ぎないですから、 結局 事実がどうだかは解からないわけですが、 これは人間の脳ではどうせ人のことですから解からないことなんです。      もしかしたら 仏教の歴史というのは、だだの青二才の理想主義者に、大勢の真剣に生きたかたたちが惑わされ だまされもしてきた歴史かもしれません。 しかし、今となっては、 史実の裏の心の世界とはという観点から過去を探ってもどうせ何も生まれないんです。   必要なのは、より深い人生の解釈でありより深い人生の理解です。 道徳にしても、歴史的には あきらかに 上からの規範、押し付けであり、それがまかり通った歴史とかもあったでしょうし、 それこそ最悪の粛清とかにまでその規範がまかり通ってしまった歴史もあったでしょう。 何が よりよい規範かも含め その規範の深さを学ぶという姿勢が 「今」を生きる姿勢と思います。  さらには、その上での自在の行動とうものも ここでの追求課題でしょう。 論議を深められていってください。 私のほうからは、道徳の中に 最高徳としての「愛」がある点、 そして道徳は、その見方が深まれば規範に縛られたものとしてではなく理解されてもくる という見方^^もある、 というここではちょっとヒネた見解を提出しておきました。 そこから では「愛」という道徳においてはどうなのか?という議論をさらに進めていくのもおもしろいかと思います。 時間が生まれれば また参加します。 では、ご活躍をお祈りしております。 * もし、 前回のそちらの質問の削除の原因が 私の極端な形の表現(いっぽう的に見える)が原因だったとしたら、  私の不徳といたすところ、申し訳ないことをしました。    誤解は ここで同時に解いたつもりですが、 後のまつりですね。 

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  ううーんんん。表現の問題 表現の差の問題のようにも見えますし。・・・  まづ 道徳と道徳規範とを分けて 捉えて欲しいとも思います。道徳という場合には 特には 人間関係において 互いに不都合なことを慎しみ 好ましく望ましいと思われることを相手にもおこなうといった内容です。ここから 学習効果としても得られる理論 つまりは 特に 望ましいと考えられる内容を形式(形相=イデア)としてまとめたもの これが 規範であり そのとき 重要なことは 社会にあって 一定の地位にある公的人物が これを掲げるという場合です。  単なる規範だけであれば つまりは そういう理論だけであれば 一人ひとりの生き動き存在する過程においても 主観および相互の横の主観関係として 持っています。言ってみれば 切磋琢磨するその過程が 道徳であり そこに 抽象化し一般化した行為形式もしくは 行為関係形式も 持たれます。後者は 理論であり 道徳に内在する単なる規範のことです。  ★ キリストは「私は律法を否定するために来たのでは無い、 完成するために来たのだ」といった意味合いの言葉を言われているはずです。   ☆ 律法が たしかに 規範です。公的な場において共有され はたらくところの規範です。  ですが 残念なことに 見解を異にするのですが 《律法を完成する》ということは この公的規範が その言葉・その確定した言葉としての法的な効力が どうであろうと 一人ひとりの個人としての人間が その内容を みづから 体現して生きる ということだと思うのですが どうでしょう。つまり 動く道徳のほうを言っているのではないでしょうか。規範を 規範として 大切にしようとか 規範が 規範として 公的に 掲げられてこそ その律法規範を完成させるのだとか そういう意味ではないように受け取っているのですが?  ★ 愛  ☆ も 同じですね。たしかに 《神を愛せ および 隣人を愛せ》という これら二つにして内容が同じ一つの命題を 唯一の戒めとして つまり 規範として 持てとも言われています。しかも 中身は 動いている と見るべきではないでしょうか。動いているという意味は 固定しない。愛という何ものかがあったり 固定した理論があったりするのではない。  仮りに理論としてもあったとした場合でも その理論=規範が 問題なのではない。生き動く道徳としての愛は 理論や規範性をも 難なく超え 突き抜けているのではないでしょうか。  もっとも奥にあるその核は 規範から自由な息吹きのような動態であるでしょう。それが 愛であるでしょう。どんな規範や理論による規定をも 突き破って 活動していると思えます。  ブッダの美女マーガンディヤーに対する態度の問題は 言葉のそれではなく また その言葉の奥に秘められた意義のようなものでもなく そうではなく かのじょが 悟りを得るかどうかにあります。ブッダを嫌って 反抗し ほかの仏弟子を殺すまでに到ったという問題です。ブッダが よいことを言ったかどうかの判定ではありません。しこりが残った その結果 殺人事件にまで発展した。そこに 問題は なかったのか これです。  規範化を嫌い たとえ規範を 社会的に持つこと・それに従うことを余儀なくされたとしても 規範も 流動的だと見ている人は――つまり それが 質問者の趣旨ですが その観点からするならば―― ブッダとマーガンディヤーの人間関係 これが 生き生きとして それこそ《和》を表わしているか ここにあります。それ以外のところに 解答を見ようとも思わないという姿勢であり 思想です。  どうでしょう。こうして さらに この質問への解の問い求めが たしかに 深められていくと思います。そういう意味で ご投稿に重ねて感謝を申し上げます。今後とも 自由に ご回答ください。

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