• 締切済み

宗教を信じると人間味が減るような気がするのですが。。

仏教に関する本が好きで、(主にスマナサーラさん)時々読んでは、いいことがかいてあるなあと思います。こんな考え方でいれば、人の言動に動じることなく、心穏やかに過ごせるんだろう、そうなりたいと思うのですが、日々職場の人の態度にいちいち腹が立ったりしてしまう自分です。褒められれば喜んでしまうし。 でも、自分のそのままの気持ちをコントロールしようとすると本来の自分の持ち味が減ってしまうのではないか、と思うのです。こんなことを思うのは、私は昔宗教ではないのですが、自分で良い人間になろうと決意して、それまでは周りの友達を笑わせたりひょうきんな人間だったのに、真面目になってしまい、自分自身もなにか生き生きとしたものをなくしてつまらなくなってしまった経験があるからです。個性が失われたような感じです。これは私がきっと不器用すぎるのでしょうね? 良い人間になり、かつ自分らしさも失わない方法ってありますか? アドバイスお願いします。

みんなの回答

  • marcy1
  • ベストアンサー率27% (96/346)
回答No.3

人類学的に言うと、ある一つの理論を元にそれを前提として考えないと成り立たないものは、全て宗教なんだそうです。物理学などもそういった意味では宗教ととらえられるそうです。社会から評価をうけた人、たとえば、松下幸之助だったり、本田宗一朗だったり、稲盛和夫だったり、渡辺美樹だったり、宗教色のある考え方を取り入れている部分はあるようです。自分が、どうなりたいのかというものを持っているなら、先ず、思うことだそうです。思わなければ→行動に結びつかない 完璧人なんてどこにもいません。実際、歴史が証明していますが、宗教戦争なんてものもあるんですから。宗教やってたって相手を認めず戦争することがあるんです。自分が良いと思うことからはじめましょう。

noname#97816
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。お礼が遅くなり、すみませんでした。 そうですね、色んな考え方っていうのは、宗教っていうものなんでしょうね、私も何かで聞いた事があります。なにかを信じるっていうのはそういうことかもしれません。 あまりとらわれず、単純に生きて行った方がいいのかもしれません。 ありがとうございました。

  • 00118937
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.2

まず「良い人間」という定義が人それぞれ違うと思います。私が思う「良い人間」とは、冗談も言わない堅い人であろうと、ひょうきんで人を笑わせる人であろうと、ぼーっとした人であろうと、テキパキした人であろうと、根っこが意地悪でない人であるということです。 できればいつも誰かの役にたちたいとか、自分を横に置いても誰かのために何かしてあげたいとか、そう思えたら素適です。 仏教でもキリスト教でも共通している教えを簡単に言うと、こういうことだろうと思います。 つまり隣人への献身や愛ですね。 表面の個性はあって当たり前。不器用も個性。人に腹をたててしまったら、ちょっと深呼吸をしてみたら意外に怒りが収まることもあります。あなたは怒りの時も有頂天の時も、すでに立ち止まって自分を客観視できているので、そんな自分を認めてあげてくださいね。心の深層の部分で、上記のようなことを中心に置いて日々を生きる鍛錬をすれば、きっと心のきれいな「良い人」になれるんではないでしょうか。 ですからひょうきんなあなたでも全然大丈夫です。 少しは軽くなりましたか? もともと真剣に生きたいと思っているからこそこういった疑問が湧くわけで、とても素晴しい悩みだと思います。 ちなみに私もかつて「自分てなに?」と悩み、いろんな本を読み、どう生きていったらよいか答えがみつかりつつあります。本屋さんであなたに合った本を探すのもいいかもしれませんね。

noname#97816
質問者

お礼

そうですね、仏教でもキリスト教でも、周りに左右されず自分の心をきれいにして人につくすっていうことだと思います。心が汚れるのを嫌うっていう教えですね。 でも、日々心が汚れると感じることは多いです。言っていただいたように、私はいつも自分を客観視しています。逆にそうでない人にたいして、どうしてそういう言動ができるの?って、そんな自分嫌にならない?って思ってしまいます。たとえば人の気持ちを考えずに傷つけるような言い方をするひとに反感を持ってしまいます。自分をみるもうひとり?の自分がいなければ楽なのに、とも思いますが。 そのせいか職場の人にもいつも平常心だよね、と言われたり、冷静が歩いてるなんてからかわれます。 きっと心のきれいな人になれるって言ってくださってありがとうございます。一度目指してなったことがあるんですけど、その時は自分を半分失っていたような気がするんですよね。みんなに奇特ないい人だって言われて、自分でも心がきれいになったような感じがしてとてもいい気持だったんです。でも、なにかが違っていた。でも、わたしなりに頑張ろうかって思える元気をいただけました。ありがとうございます。

noname#171433
noname#171433
回答No.1

【良い人間になり、かつ自分らしさも失わない】って いうのは、多分、仏教(少なくとも日本の仏教)では 無理だと思います。 日本の社会運動を見れば分かりますが、本当に自分を 投げ出して貧民や病者の為に尽くしたのは、クリスチ ャンの人達です。西洋人宣教師は、医師であった人も 多く、幕末など、日本ではありがちな上下の身分関係 なく診察していたので日本人に大いに驚かれましたし、 棄てられていたハンセン病患者の救済に尽力したのも 西洋人宣教師が中心でした。彼らの少なからずは、 貴族や母国で財をなした人達でしたが、それを捨てて 日本にやってきていました。 キリスト教にも触れてみて下さい。 賀川豊彦(字が違うかも?)始め、弱い人の為に尽力 した人は多かったです。あの人、田中正造もそうでし た。廃娼運動もクリスチャンが中心になって行ってい ましたね。

noname#97816
質問者

お礼

キリスト教徒の方はすごいと思います。マザーテレサさんくらいしか知らないんですけど。。。でも、三浦綾子さんの本は好きで、たくさん読みました。心が綺麗でいいな、と思いました。やっぱりそれは信仰の力なんでしょうね。でも、ちゃんと個性も保っている。遠藤周作さんの本も読みました。本はとても面白いですね。 私の場合、何かを信じるとそれに傾倒して、個性がなくなる感じ、自分のオリジナリティの危機を感じてしまうんですよね。 何かを信じるっていうのは、弱いからなのか、でもそれによって人は強くなれるのかもしれません。いづれにせよ、自分を見失いたくないですね。 教えて頂いたクリスチャンの方の本も読んで勉強してみようと思います。ありがとうございました。

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