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「西郷南洲 勝海舟 会見の地」記念碑の疑問

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.5

 回答番号:No.4:  口幅ったいのですが、歴史書や歴史、人生に事実や真理を確認することはほとんど無理ではないでしょうか?  自分についても、社会や国・民族についても、その歴史とは、解釈と編集は最初であり、最後であり、事実の確定はコンクリートにちりばめた砂利みたいです。  紡ぎ、創造、解釈、編纂ではないかと存じます。  勝海舟も西郷南洲も問われれば、時には片言隻句を口に上ぼしたかもしれませんが、殊更自らは語る性格でもないし、そんな心境にはいなかったろうと存じます。  結局は、ほとんどが周囲か後世の解釈と編纂ではないでしょうか?  画家が武士の作法に無知であったとすれば、当該の絵は致命的です。 全て考えることは無いのですね。  一応、知識があったと仮定しての、私の理解と解釈を陳述いたしました。  ご質問者と異なり、この絵を多くの方が目にしてきていながら、指摘されるまで、少しも気づくことが無かったのは、一定の効果を狙って左に置いてもあまり、注意を引かなかったということですね。  そうすると画家も見てきた人も、両方ともそのことに頓着しなかった。ということも頷ける話ですね。  つまり頓着無かった。効果も狙わなかった。そして事実と合致するかどうかもあまり問題とされてこなかった。  ということになるかもしれませんね。

goo-par1732
質問者

お礼

お付き合いありがとうございます。 私は、1枚の絵でこれだけ楽しめたのですから満足です。 私は、自己紹介にも書いていますように、想像するのが大好きです。 この歴史カテを学問として見ているのではなく、楽しみながら気づいたことを質問したのであって、事実を追求しようなんて、まったく思っていません。 ただ、絵巻物を見るときの心構えとして、例えば題材が平安時代の事象であっても、絵巻物の制作年代が鎌倉期であれば、衣装や小物は鎌倉期の物が出てくることがあるので、留意するようにと聞いたことがあります。 武士の作法云々もこの習慣の延長での考えで、krya1998様の真剣なご回答に対して申し訳なく思います。

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