- ベストアンサー
「西郷南洲 勝海舟 会見の地」記念碑の疑問
tasukarimaの回答
- tasukarima
- ベストアンサー率22% (12/53)
がんばりましたね 歴史というのは過去の事ですので 昨日の事実も 一分一秒正確にとはいかなくなるものですよね ましてや それが 勝者敗者となれば 都合によって いいように書き換えられる性格も合わせもっています 絵が西郷側から描かれたものか ということも 頭の中に入れておかなければなりませんし どこのだれが描いたのかということです でも 刀の置き位置に 目がいかれたことに 正直驚きました 平成の時代から幕末に下ったのでは その絵の表す瞬間に立ち会えないものだということも また歴史のおもしろさといえるんだなあと。。。
関連するQ&A
- 西郷さんと勝海舟の会見
テレビもそして無論、ドラマも見ませんので、もしもう皆さんには充分分かっていることでしたらお許しください。 http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0730.htmlには、“三田の薩摩藩邸上屋敷”のことが出ていて、 ◎“三田の薩摩藩邸上屋敷”においては、西郷隆盛と勝海舟の会見の場はここの藩邸であるとあります。 ◎本日、ある日刊紙のコラムでは、大田区池上本門寺の松濤園の案内があり、そこが西郷さんと勝さんの会見のばだとありました。 どちらが本当なのでしょう? その日刊紙の発行者や上記の、http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_0730.htmlにお尋ねしようといろいろやってみましたが、上手くつながらないのです。 どうかよろしくお願い申しあげます ◎またこの“三田の薩摩藩邸上屋敷”の近くには、会見の図を刻した岩の碑があるでしょうか? 左に西郷さんらしい人、右に勝産らしい人が配されております。 そして右の武士は右側に大刀を置かないで、左においています。 その位置もお辞儀をして直ぐに左手で手に出来るようです。 西郷さんは人間の素晴らしさとは別に剣術はやらない人でしたよね。 多分その背後の唐紙の向こうを暗示した図なのでしょうか? どうかお教えください。いつもすみません。教わるばかりで。
- ベストアンサー
- 歴史
- 池上本門寺での勝海舟・西郷隆盛会談について
江戸無血開城へといたる、官軍参謀の西郷隆盛と、幕府代表の勝海舟の会談は三田の薩摩屋敷のほかに、東京都大田区の池上本門寺の庭「松濤園」でも行われたとか。当時の本門寺の関係者が記録した資料があるようですが、具体的なことをご存知の方教えてください。
- 締切済み
- 歴史
- 薩摩藩焼き討ちについて
幕末の薩摩藩焼き討ちになったのは、三田と芝の両方の薩摩屋敷なのかどうか教えてください。三田と特定して書かれてある場合もあり、三田の敷地だと、焼け跡が薩摩っ原と言われるには狭すぎるし・・・どうなのでしょう。
- 締切済み
- 歴史
- 「勝海舟江戸開城図」川村清雄/画
このURLにある「勝海舟江戸開城図」は、江戸城を明け渡したその日の勝海舟を描いたもので、いろんな書物に載っていますが、勝の後方に描かれている3人は何者でしょうか。 東京都歴史文化財団 http://www.rekibun.or.jp/license/picture_02_06.html# この画像では不鮮明ですが、角川文庫『日本史探訪 22 幕末維新の英傑たち』の口絵写真を見ますと、彼らは外国人のようで、右側の男が刀か剣を持ち、勝を背後から睨んでいるようです。 それを左側の男がなだめているような感じです。 二人の後にも一人の顔が見えますが、表情は分かりません。 勝の足元の丸い物体は、葵の紋の軒丸瓦です。 この絵は、徳川家に恩義を抱く旧幕臣・川村清雄が、明治17年頃、描いたもので、江戸城を明け渡したその帰途と説明されています。 勝の後方にわざわざ3人を描いたのは、何か意図があったと思うのですが、何を表現しているのでしょうか。 想像でも良いですから教えてください。 それをヒントに考えます。
- 締切済み
- 歴史
- 大河を見て、江戸にお供する武士の費用
大河を見ているのですが、武士が地方の藩から江戸へお供をする場合、何か役料というのは出るのでしょうか? 江戸の薩摩屋敷で食事は出ると思うのですが、その他何が自弁で何が藩の支給なのでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- 「江戸開城談判」絵画の疑問(その1)。
教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 両者は正座していますが、当時、正座は、罪人がお白洲でするものではなかったのでしょうか。武士は、通常、胡座や合蹠座だと思っていました。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問で、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))
- ベストアンサー
- 歴史
- 「江戸開城談判」絵画の疑問(その3)。
教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 勝は、床の間を背にして座っていますが、床の間を背にして座るのは、その家の主人とする考え方もあります。そうであれば、両者の座っている位置をどのように解釈すればよいのでしょうか。 この会談の前日にも両者は、同じ屋敷で会談しています。このときの場面の絵では、西郷が床の間を背にして座っています。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))
- ベストアンサー
- 歴史
- 「江戸開城談判」絵画の疑問(その2)。
教科書に出ている有名な絵です。 気になる箇所がありますので、教えてください。 畳のへりは踏んではならないという作法があったと思いますが、勝は、畳のへりにちょっとかかったところに座っています。微妙な位置ですが、どのように解釈できますか。 この絵画は、昭和10年(1935年)に制作されたものだそうですから、勝も西郷もとっくに亡くなっており、想像で描いたものと言えばそれまでですが、ある程度の考証はされているようです。 どうでもいいような質問ばかりで、また人によって、いろいろ見方があるでしょうが、よろしくお願いいたします。 聖徳記念絵画館壁画「江戸開城談判」(結城素明画) 明治元年3月14日(1868年4月6日)薩摩藩邸(東京) (西郷隆盛(左)・勝海舟(右))
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
作家ならどんなドラマに仕立てるのでしょうか。 勝が先に座って待っており、西郷が入ってきたとき、左に置いた刀を左後ろにずらすとすれば、心理的にはドラマティックになると思います。 武力による抵抗はしない、あるいはいまの日本はお互い武力で解決しているような状況にないという無言のメッセージを送ったという設定です。 再度のご回答ありがとうございました。