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「西郷南洲 勝海舟 会見の地」記念碑の疑問
tasukarimaの回答
状況はどうだったのでしょう 緊迫絶対絶命 の一言でしょう かりに 絵のように武士の習いに反して刀を右に置かず左だったとしたら いつでも切りますよといっているわけです 勝が左利きだったかどうかはわかりませんが 武士の左利きご法度ですからね まずありえないでしょう だとしたら 一応敵としての会談といえるのでしょうか 当時 勝の動きは以下のようでした 慶喜の心が恭順に傾いて、江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎 東海道を一気に兵を進めてきた官軍、陸軍総裁となった勝の肩には幕府と江戸百万市民の運命がかかっていました。そのため勝がすぐにした仕事は、これまで幕府に肩入れをし、協力的であったフランスとの 従来の契約を解除してその協力を辞退しました。先ず、フランスの援助を絶って、フランスを中立の立場におく、次に薩長を支持してきた英国に働きかけて、薩摩藩と英国との関係の力を弱める、むしろ徳川方に有利に動くように働きかけました。フランスとイギリスの間で内戦回避の重要性を説きましたね 本格的な内戦が始まれば、日本の国の内乱をついて欧米の強国が襲いかかり、日本が植民地化される、これは清の例があります。近代日本の最大の国難という事態がすぐ目の前にある。猶予がない。そこで勝は薩長軍の総督である西郷に直接談判に及びます その前にフランスやイギリスに色々と裏工作をして、手を回していきます、この工作のお陰でイギリスは薩長軍の攻撃に待ったをかけました。3月9日、勝は密かに幕臣の山岡鉄舟を西郷の下に遣わして、総攻撃の中止を訴え、江戸で西郷を待ちました そこには和解の七項目を出したのですが、それを確認して海舟のところに山岡が帰ってきました。しかし3月15日が官軍の江戸城総攻撃の予定日であることは、依然として既定の事実です、続々と官軍は江戸の周辺に迫ってきていますが 海舟は江戸城総攻撃の直前まで満を持して動きませんでした。その間に、もし西郷との談判が決裂した場合、を予想して三つの準備をしています。 その一つとして、将軍慶喜を英国に亡命させる。そのためにはパークスを通じて亡命受け入れの了解を取付ける 第二は江戸を焼け野原にさせる。その準備として、予め江戸城下の火消組の親分たち・博徒・無頼の衆らにまで呼びかけて 組織をつくり、合図があったら火を点ける、というゲリラ戦術も用意しています 三番目としては、江戸城にいる皇女和宮・天璋院の命を助けるために、房州の舟を隅田川の河口に集める。イザとなったら千葉木更津当たりまで疎開させる用意をしておく、そういう三つの準備をした上で、3月13日、西郷と第一回の会見が高輪の薩摩屋敷で行われたわけです だから刀が左だったんだと思います しかし、この日の勝は、ただ皇女和宮のことだけを話して、あとは何も話をしなかったようです というのは、勝の見積りでは、その日の官軍の参謀木梨精一郎が横浜でイギリス公使に会っている。その結果の報告を西郷へ報告するはずだと、予想どおり木梨精一郎からの英公使の意見に、西郷はひっくりしています、何故なら、パークスが江戸の戦争に反対しだしたからです でも薩摩藩の蔵屋敷での西郷と二回目の会見では 西郷もパークスのことは一言も出しません。勝の優勢勝ちです。山岡が駿府から持ち帰った七ヶ条はここですべて改正されて、徳川方に有利になりました。14日、両者の和解は成立し、西郷は15日に迫っていた江戸城総攻撃の中止を命じ、総督府へ使いを出してこの一件が収まりました。 池上本門寺の松涛園がありますが、慶応4(1868)年、そこでも勝と西郷により江戸城明け渡しの話し合いがされています。本門寺の記録に残っています。歴史上では、薩摩藩の屋敷で13日、14日の両日の談判になっています つまり刀の置き方ひとつも勝の大芝居ではなかったかと どうでしょうか
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詳しく解説してくださってありがとうございます。 ご回答から重要なヒントを得ました。 鉄舟が西郷を駿府に尋ねた場合はどうなのか、調べました。 この場合は、鉄舟は西郷にお願いに参上している立場なので、刀を右側に置いています。 http://yasuike.pr-blog.jp/Entry/32/ さらに調べますと、岩手県の「シニアネット」というサイトで「西郷と勝の会見」の絵を見つけました。 この絵では、勝は刀を左背後に、西郷は左手元に置いています。 http://isnhp.web.infoseek.co.jp/bunkasalon/42kai.htm また、鹿児島県のHPでは、西郷南洲顕彰館にある「会見の模型」を紹介しています。 ここでは、刀を左手元に置いています。 http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/rekishi/bakumatu/boshin.html 刀をどこに置いたのか事実を知りませんが、武士の作法を守るか、自分の決意を相手に知らしめるために作法を逆に取るか、勝の心理を理解する上で、ご回答は大変役立ちました。