• 締切済み

何もやらないということは何もやらないということを「選択」しているの?

違いますよね。 何もやらないというのは、言葉どおり何もやらないということで、 何もやらないということを「選択」しているわけではないですよね。 僕のイメージでは「選択」ということをする瞬間に少なからず、 ある量のエネルギーを必要とし、緊張感を感じるということです。 言葉どおり何もしないというところにはこの緊張感がありません。 ただ、未来の時点から過去を見た場合、何もしないことを 何もしないことを「選択」した。と、捕らえられないこともない な、とも思います。 ⇒混乱 だれか、うまく説明していただけませんか?

みんなの回答

回答No.25

何もやらないということは何もやらないということを「選択」しているの?という結果的にはそうなる

回答No.24

迷った挙句の果てに意図的には何にも着手し難くなる、 という展開の存在は有り得るのでしょうね。 実際には、何もしないのではなく、生理現象は機能していますので、 そういう「気がし」ているだけです。

noname#3511
noname#3511
回答No.23

この質問を超えるために、過去を見るという設定のうえで語るとすると、過去のある時点で、選択肢すべてが消えうせることを、「選択がない」といえると思います。 意図的に、選択肢すべてを消すというのは、選択しているうちだろうと思います。 >言葉どおり何もしないというところにはこの緊張感がありません。 こういう状態は、選択肢がないといえるのではないでしょうか?   ある選択を行った場合、その選択にとどまることにエネルギーを使うとも考えられます。継続です。力積とでもいえるでしょうか。 ですから、すでにしている状態というのは、その状態にとどまっているということなので、選択をすべて消す場合にしても、消えた状態にとどまるエネルギーがあります。ということは、選択をすべて消した状態というのは、そこにその能動の選択者がいてはならない。また、受動でその状態になったとしても、これからの未来に、選択肢が出てくる可能性がある。しかも、この場合の可能性があるということは、出てくるということです。なぜなら、選択肢がない状態で、もうひとつの状態が選択肢が出ている状態だからです。0か1かの場合は、無限の時間を抱えれば1は確実にでます。 ですから、何もしないという状態になるには、後にも先にも「選択肢がない」ということを考えなければなりません。無論、今もないのはいうまでもありません。 とりあえず、過去、現在、未来の時間を統一している思考状態が必要になると思います。

noname#3721
noname#3721
回答No.22

 最初の質問だけで考えますが、行為者が連続して存在 していることを考えると何もしないという状態の前に 必ず(?)何かをしていた状態というのがあると思います。 そこで何かをしていた状態のときに次の選択肢があります。 1.そのままその行為を続ける 2.その行為をやめて違う行為を始める 3.とりあえずその行為をやめる ここで3を選んだ場合その後何かをするのを選択するまで 何もしないという状態になるはずです。そうすると 何もしないという状態になるためには、何かしていた ことを止めるという選択が必要となり、何もしないという 状態はある選択の結果と言えるのではないでしょうか?

Evianus
質問者

補足

回答ありがとうございます。 今就職活動も中盤に入ってきまして、出遅れた僕は毎日が 忙しいです。 忙しいと本当に考える暇ってなくなるんですね! ということで、回答に今きちんとお答えすることができません。 今度時間ができたときにゆっくりお答えしたいと思います。 回答ありがとうございました。

  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.21

質問の一部を変えて考察してみました。 何もやれないというのは何もやれないことを選択しているのか? これは明らかに選択ではない。例えば自分が植物状態だとしたら、それを選択しているということはとても考えられない。可能性という意味では完全否定は出来ないですが。地球の全人類が植物状態に突然なったとしてそれを望む人はまずいないだろうという前提で話を続けますが、ということは、何もやらないというのは何もやらないことを選択していると言えるのではないでしょうか? つまり、無意識にせよ意識的にせよ無数に存在する選択肢の中からあえて何もしないことを選んでいる、明確に選択していると私は思うのですが・・・。 何もやらない状態・何かやる状態・何も出来ない状態・何でも出来る状態の後者二つは選択できないが前者二つは選択によってのみ実現できる。ただし、何かやらされる状態というグレーゾーンも確かに存在するのですが。そのグレーゾーンは質問内容の範疇には入らないと思うので私の考えを書いてみました。

  • white-z
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.20

No4の方へのお礼に対して考えてみました。 私が思うに『【存在する】ということを行為数として数える』ということ自体が「ルール違反」だと思います。 なぜなら意識しようとしまいと「存在」自体は変わらないからです。 一瞬を限りなく細分化したとして、「その時点」で存在しているものは存在しているし、存在していないものは存在していません。そこに「選択の余地」はないように思えます。なんといっても「限りなく細分化された一瞬」なのですから、「行為」という概念自体が存在しえないのではないでしょうか。 ということで私のまとめとしては 「行為」とは「連続した時間(気の利かない言い回しですが)」を前提としてしか「存在」できない概念である。 です。 本題のほうは、言葉尻をつかまえるようですが、 「何もやらない」というのならその時点で「やる」「やらない」という選択肢から「選択している」と言えると思います。 もし質問が『「何もしていない状態」というのは「何もしない」ということを「選択」しているのか?』 というものでしたら(いやまあ、そうであるのは今更明白ですけど)、…微妙ですね。今のトコロ「私には分かりません」です。

noname#3336
noname#3336
回答No.19

具体化された平穏を感じない しかし 無意識の苦しみが自らを干渉しないであろう状況下と 死や狂気に直面し確信する 他者からの追従などありえないそれぞれの絶望下においては「 何もしない 」という言葉の含み持つ重みが 違うように思えるのです 生ていることが 脳みそをかき混ぜられるような 生々しくもゾッとする感触で満たされた恐れであるとき「 何もしない 」ことは 選択肢の一つであり あなたの仰られるところのエネルギーを 多大に使用せねばならない状態にあると言えます 何故「なにもしない」ことが選択肢の一つであるといえるのか・・それは 死や狂気の危機に瀕するとき 私には 三つの選択肢しか在り得なかったからであります 一つは 異様なほど研ぎ澄まされた感覚が 際限なく滅びの恐怖を感じ得るために その絶対的危機から逃れようと 恐怖の持つ不安に身を委ねてしまうことであり 一つは まさに 取り巻く恐怖のあまりのオドロオドロしい気色悪さに耐え切れず その恐怖の持つ凄まじさを己が身を持って吹き飛ばさんと暴れ狂うことであり 一つは どんな言葉も記憶も もろもろの物でさえも ましてや他者も自らでさえもどうすることの出来ぬ絶望の淵を 直視せずに「ただ見ている」という 抗わない「何もせぬこと」でありました あなた様の問われることに 少しでもお役に立てればと思います

Evianus
質問者

お礼

renaosさんの回答を拝見していくつか僕の理解を超える表現が ありました。もしよろしければ、その言葉の意味を教えてください。 1.具体化された平穏とは何でしょう。 2.無意識の苦しみとは何でしょう。 3.他者からの追従とは具体的に何を意味するのでしょう。 4.死や狂気に直面し確信するものは絶望のみでしょうか。 5.生きていることが脳みそをかき混ぜられるような生々しくもゾッと する感触で満たされるというときの具体例を教えてください。 6.絶対的危機と相対的危機の違いを教えてください。 7.絶望の淵とは具体的にどういうものなのでしょうか。 ありがとうございます。

noname#3019
noname#3019
回答No.18

 時間を固定的に捉えるとは、単純に「過去」⇒「未来」とみる発想。いまや常識になってますけど、これは現在のような「進歩がすべてだ」という時代になって生まれたものじゃないかという感じじゃないですか。  というのは僕が子供の頃、テレビや映画にニカウさんという名のブッシュマンのおじさんが出ていて、未だ原始人のような狩猟採取生活を営んでおられるというので、当時は文明人の目線でやや見下した見方をしていただろうと思います。しかしあのおじさんの笑顔は、なんともいえない懐かしさみたいなものを感じさせ、今になってみればこんな顔文明人にはないだろうなと思わせられ、だから当時多くの人に好かれたのだなと思います。  このブッシュマンの時間感覚ですけれど、「過去」⇒「未来」というまっすぐなものではないんじゃないかという気がしてならないんです。でなければあんな顔しないんじゃないか、今の我々といえば憂いをかみ殺したようなあんまりいい顔じゃないでしょ。  人間の時間感覚が「過去」⇒「未来」と固定されるにつれて、「原因」⇒「結果」の公式の中に自分という存在を「行為者」として縛りつけなくてはいけなくなるというような発想が生まれてきました。「~すれば~なる」ということは、「~しなければ・・・」結果がわからなかったり悪い結果を想像してしまったりするぐらいなら年がら年中手足をバタバタ動かすほうがましだ、という存在認識になってしまいました。これは近代人の業みたいなものです。占いが流行ったりノストラダムスが流行ったり、多くの若者が未来に不安を感じ取ったりしたのは、科学の進歩の結果が、公害や戦争被害につながるのではないかというところからくるもので、すべては因果論の固定観念の呪縛から生まれてしまった苦しさじゃないでしょうか。  「~しなければ」というのは責任感でしょう。まあとりあえずは。あるいは人間は、そこから解放されたがっているかもしれません。そこが難しい。「~しない」というのもひょっとして責任感?と思ったりする。ますます難しい。ここは「選択」の難しいところですね。そうそうこれが「選択」に伴うエネルギーの緊張だったんですね。俺も書いてて疲れてきた。アハハハ。  「惻隠の情」で、或いは気ままにすべてがやれたらいいでしょう。心は自由に融通無碍に。鈴木大拙の禅仏教もそういうことを言ってそうに思えます。しかしここに「結果」を重んじる時間感覚が紛れ込んでくると、せっかくの「自由」が死ぬんです。もともと「自由」は仏教用語だったんだって。欧米のフリーだのリバティだの日本語に訳すとき、福沢諭吉が勝手に仏教から拝借し、これらにくっつけて意味が混乱してしまった。本来はもっと伸び伸びした心境を表していたのではないかと思うのだけれど、フリーだのリバティだのは、自己責任でしょ。なんか窮屈ですね。だから欧米人に「自由」を説明するときは”JIYU”と書いてやるんだと鈴木大拙は書いてました。  この「自由」(JIYUのほう)に対して、かの直線的な時間感覚って、規制してくるように感じられませんか。これって批判がましく感じられるでしょ。カントの言ってる批判ってよく知りませんけど、日本人の感じてる「批判」とはこんなものじゃないですか。  最後にブッシュマンについて、「かまきりの賛歌」(ヴァン・デル・ポルト/秋山さと子訳 )という本があるので読んで下さい。なかなか感動的ですよ。ロレンス・ヴァン・デル・ポルトというのはたしかブッシュマンの乳母に育てられたという話じゃなかったっけかな。「戦場のメリークリスマス」という映画の原作を書いた人ですが、本人は出来上がったのをみて違うと思ったらしい。では失礼。

Evianus
質問者

お礼

碩学ですね! 僕は(いつもそうですが、苦笑)鈴木大拙の本を持っていますが読んでません(泣)。 彼はそんな事を言っていたんですね。 JIYUか、面白いですね! 確かに、101101さんがつかれたのと同じようなところで 僕も疲れてしまったんです。101101さんは僕が感じた疲労を とてもわかり易く説明してくださいました(笑)。 「カマキリの賛歌」(ヴァン・デル・ポルト)ですね。 「戦場のメリークリスマス」を書いた人。 覚えて置きます。(出来るだけ読むようにします) 解答ありがとうございました。

noname#3019
noname#3019
回答No.17

 これはどんな本を読まれて着想されたご質問なのでしょう。ハイデッガーやサルトルでしょうか。私は一番最初に答えたばかりに、その後いろんなそれぞれの多数のお答えがメールボックスに届いてしまって、すべてのメールを読む事ができず、頭がパニックに成りました。そこで自分的にリフレッシュしたいがための再投稿、お許しくださいませ。 「選択」ということにこだわる人について、これは「意志」のパワーを重んじる欧米人的発想だと思いました。しかし東洋人には孟子のいう「惻隠の情」というものがまだ多少残っていて、例えば困っている人がいれば、「選択」⇒「意志」⇒「行動」などというまだるっこしい神経回路のような工程を経ずにスルリと手が伸びる、ということがありそうに思えます。しかし明治時代の文明開化以後、欧米的な「選択の自由」自分は自分の人生を自分のために選べる、という発想が入ってくるうちにこのことは「古い」発想ということになりつつあるようにも感じられるようになり、少々寂しくもあります。  そこで「選択」を迫られるときに緊張エネルギーを感じるということ、これは先程の「惻隠の情」に表されるような、情動的な(これは衝動的・アクティングアウトばかりを意味しません。)スルリとやってしまうような行動のきっかけと、それをまるで批判するかのように働く、自己防衛的な「自分(ミーイズム)」志向が葛藤を起こし、摩擦から生まれる緊張感だと思います。  そこで「何もやらない」と言われていることですが、その状態はそれだけ心が対象事物に向かっていなくて、「惻隠の情」みたいなものがなにも働いていないので「情動」⇒「自己防衛」⇒「葛藤」⇒「緊張エネルギー発生」という工程が生まれ得ないことを表しているのだろうと察せられるのです。  未来の時点から過去を見直したとき、「選択」したんじゃないかと言われることについては、私も読んでないくせに言うのが恥ずかしいいんですけれど、「存在と時間」(ハイデッガー)のような発想に多分示されているように、欧米人的な「時間・過去から未来へ」というのをかなり固定的にみる発想の影響なのではないかと思います。このように時間を固定的に捉えると、それぞれの行動に「責任感」というかなりの重圧が加わるようになり、「批判」という精神が生まれたのではないかとも思われます。  以上の答えは湯浅泰雄氏の「身体論」「ユングとキリスト教」(講談社学術文庫)をずいぶん昔に読んだ時の記憶をふと、たった今思い出したので、最初の答えよりはマシになったことだろうと思います。

Evianus
質問者

お礼

>欧米的な「選択の自由」自分は自分の人生を自分のために選べる 僕もこれについては少しさびしいと感じますし、窮屈でもあります。 実は僕も「存在と時間」は読んでいないのですけど、時間を 固定的に捉えることにより生じる、「責任感」の重圧と「批判」精神 の発生について、教えていただけるとうれしいです。 僕はなんとなく、それとは違う人生観を持っていそうなのです。 あと、一つ前のお礼のところに書いた、影響を与え合っている 世界という考え方は「Hugh Everett III」の多世界解釈というものを 読み、着想を得ました。(ちなみに、いつもこういうものを 見ているわけではなく、たまたま知りました) 参考URLです。 http://www.station1.net/DouglasJones/many.htm

Evianus
質問者

補足

とても興味深い回答をありがとうございました。 うれしいです。 僕も深層ではそのことが気になっていたんだと思います。 僕もなぜかそのことが心の奥に引っかかっていたのです。 今、時間がないので101101さんの回答していただいた答えに 適切に御礼することはできませんが、後ほど僕の思ったことを 書こうと思います。 「惻隠の情」か。いいですね!

  • ticky
  • ベストアンサー率36% (123/337)
回答No.16

「選択する」というのは、つまり (選択肢があって)、(それを吟味して)、(どれにするか決定する) ということですよね。 (吟味して)、(決定する)のは、意識下でも、無意識下でもかまわないとすると、 ある行為が無意識下で行われた場合、それが(吟味して)、(決定)した結果かどうかというのは、わかりません。 また、結果からみて、「選択した」ということも出来ますが、でもこれは、 (吟味して)、(決定)したかどうかということから、あえて焦点をはずしていて、 さきほどの(吟味して)、(決定)したかどうかが問われる「選択」とは意味が違います。 故に、以上二つの「選択」は、同じに議論することは出来ないと思います。

Evianus
質問者

お礼

「選択する」と「選択した」は意味が違ってきそうですね。 [A] 「選択する」に関しては、それは意識的であるものと思います。 それ以外は、「選択する」の範疇から外れると思うのですが…。 よって、ここでは『意志』が注目されているのではないでしょうか。 [B] 「選択した」に関しては、無意識で行った行為であれ、意識的に行った 行為であれ、結果論として、未来の立場から過去の状態を見る という視点で語られます。 そこでは個人の、意識は無視され、事実のみが語られます。 よって、ここでは『事実』が注目されているのではないでしょうか。 僕は人が無意識で物事を行うとき(意識的でもある程度遭難ですが) すべての責任がその人に及ぶというのはおかしいと思っています。 人は実態としては、周りの環境から孤立していますが、思考 や、その他さまざまなレベルで、周りの環境、過去、(あるいは未来) などと連続しているのではないか。 ある程度確信に近くこのように思っています。 回答ありがとうございました。

Evianus
質問者

補足

影響を与え合っている世界という考え方はHugh Everett III の多世界解釈というものを読み、着想を得ました。 (ちなみに、いつもこういうものを見ているわけではなく、 たまたま知りました) 参考URLです。 http://www.station1.net/DouglasJones/many.htm

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