• 締切済み

自己決定、自己選択について

物事を決めるとき、 迷いながらも、とか 思い通りに、 悩みつつも、などしつつ 自分が選択したように思います。 しかし、過去の記憶、論理プロセス、そのときの外部状況が決めているのであって、本当に自分が選択したと言えるのかすこし疑問があるのですね。 確かに、自分がその物事を選択した自覚はあるのですが、その状況でそうでない決定をする場合はないわけで、その選択は、自己決定というより全体の中での必然ではないかと思ってしまうんですね。 そんな筈はないので、反論をお願いします。 ただし、過去の記憶、論理プロセスは自分の一部ですが、選択意志まではないものとしてください。

みんなの回答

回答No.7

人間が生きていて何かをしている時には、全て自分でやっていて、全て承知していると思うのは、大いなる誤りかと思います。自分の意思で生きてゆこうとしている人達が居ます。意思の力、意識の力で生きてゆく時は、大変な事になります。その時には「神経症」「うつ」その他のいろいろな「精神疾患」の原因になります。 例えば眠りに付く時を思い出してみてください。その時には、自分の意識は関与していないはずです。意識の力で意識的に眠りにつこうとする人は「不眠症」の人です。普通の人は眠る前に「無意識」に任せています。 例えば畳の上を歩く事を想定してみてください。地上に敷いた場合と、100Mの高さにセットされた場合です。どちらも幅約90Cmです。100Mの高さでは「意識」が邪魔をしてうまくいかないと思われます。人間は「意識」してやろうとするときに、「意識」が邪魔をして、体がいう事を利かない様になっている気がします。 「神経症」の場合でも「うつ」の場合でも「無意識の世界に」入りにくくなっています。普通の人がうまく人生を生きてゆくときには、本人が自覚する、しないに関わらず、「自分の意識」と「自分の無意識」の切り替わりがうまくいっています。自己決定、自己選択が自分で承知し難い事は多分自分の無意識が関わっているのかと思います。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.6

#5です。 >去年の今日のどうでもよい記憶は忘れていようがいまいがもはや自分の一部ではありません。この辺の境界が解らないですね。 :あ~、なるほど。確かにそういう見方もできるのかもしれませんね。 個人的には、「『>忘れていようがいまいが』まぎれもなく自分の一部」と考えています。 いわゆる無意識の存在ということになると思うのですが、何らかの意志や決定が表面化する際、その神経回路の元を辿ればここにいきつくという(意識することが難しい)領域があるように推測します。 「>本当に自分が選択したと言えるのかすこし疑問がある」 というのは、この無意識(と銘打たれているもの)の存在を認めているか否かの違いになるのかもしれません。 脳は、記憶する能力に比べて思い出す(再現する)能力が弱いのではないか、という気もします。 能力が低いということではなく、全てを再現できるような仕組みになってしまうと、(記憶力以外の)他の部位との関連でキャパシティをオーバーしてしまうから、といったようなこと。 他の部位とは、脳の部位のみに限らず、肉体的要素全てを意味しています。 つまり、その選別基準は不明ですが、思い出さないほうがよいと脳が判断したものは、たとえ記憶されていても思い出せないようになっていて、しかし、何かの拍子に連想的、あるいは芋づる式に過去の記憶として蘇る場合もある、ということではないかと思われます。 かなり妄想的推測も混在していますし、もとより学問的裏づけがあるわけではありませんが、このように感じます。 その意味で、「>その状況でそうでない決定をする場合はない」というのは、どのような「>状況」なのかにもよるでしょうが、一概に決め付けることは直面してみないとわからないことが案外多いのではないか、という気もします。 無意識を認めるかどうかということはまた別の問題になるのかもしれませんが、このあたりの個人的結論としては、 (意識的には)納得しきれないような「>選択」であったとしても、(無意識領域も含めざるを得ないわけなので)何事も「>本当に自分が選択したと言える」事柄は案外多い、ということになりそうです。 ただ、検証を伴なっているわけではありませんので、話半分ぐらいで受け止めておいていただくほうが良いかもしれません。  

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

>過去の記憶、論理プロセス、そのときの外部状況が決めているのであって、本当に自分が選択したと言えるのかすこし疑問がある :おそらくは「記憶」が全ての出発点になると思っているので、この部分は個人的には頷けます。 後は、視点の問題になるのでしょうが、「>外部状況」を受け取って処理する(判断する)のもまた、それまでの記憶を土台とした「>論理プロセス」になるわけで、外部状況によって左右されるというよりは、むしろ「>自分が選択した」と捉えるほうがなじみやすい気がします。 つまり、「>その状況でそうでない決定をする場合はない」という状況が構築されること自体がすでに(それまでの蓄積としての)自分による(無意識にせよ)決定と解釈して良いのではないか、ということですが。 ただ、その点も含めた上での「>必然ではないか」ということであれば、それを言ってしまえば全ては必然ということになりますから、また別の話になってくるのかもしれません。 反論というほどのものではありませんが、一素人の戯言としてご笑納ください。

bananasand
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 記憶が自分を構成する主要部分だとするとそうなりますね。 記憶は、どこまでが自分の一部で外部なのかよく解らないんです。 自分が連続して自分であるためには記憶が不可欠ですし、思考そのものが記憶を必要としますから間違いなく記憶は自分の一部です。しかし、去年の今日のどうでもよい記憶は忘れていようがいまいがもはや自分の一部ではありません。この辺の境界が解らないですね。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.4

こんにちは。 それが必然でないということは、運命を否定するということですよね。 もちろん、私も運命を否定します。 「自由意志」とは「決定論に従わない意思決定」と定義されます。 我々生物には「生きる」ということが定められており、この生体構造を自分の意志で変更することはできません。このため、生物の生体機能によって行なわれる選択といいますのは全てが定められた目的を達成するためのものであり、その結果は必ずや自らの「生物学的利益」を受け入れるものでなければなりません。従いまして、我々生物には「生きるという前提に従わない意志」というものは存在しないことになります。 ですが、この選択には生得的な遺伝情報だけではなく、個体の生後体験から獲得された無数の学習結果が反映します。このような個体に内在する判定基準を「行動選択における内的導因」といい、そして意思決定とは、生後環境において偶発的に発生する「外的誘因」に対応して行なわれます。このため、このような選択の積み重ねによって成立する我々の人生といいますのは、その結果が必ずや「未確定」となります。 質問者さんが必然的と思われるのはご尤もであり、残念ながらそれは事実です。ですが、生物学的利益が決定論の全てではありません。事実、我々の人生は未確定であり、そこで行なわれる意思決定はちゃんと未来の結果に反映じます。従いまして、未来が未確定である以上、そこに我々の自由意志は認められるということになると思います。 では、ここでは選択意思は存在しないということでありますから、この条件において質問者さんが提示なさる「自己決定」というものをきちんと弁別しなければなりません。 只今触れましたように、我々動物の行動選択とは「外的誘因」と「内的導因」が両立することによって、ここに「欲求・動機」が発生します。ですが、それは「今現在の動機」であり、これがそのまま行使されるものは「無意識行動」となります。 これに対しまして「思考」とは、過去の学習結果を基に今現在の状況に対応したより価値の高い「未来の結果」を予測ということです。従いまして、ここで質問者さんの仰る「自己決定」とは、それは「原因と結果を自覚した意識行動」ということになります。 では、果たして未来といいますのは未確定でありますから、それが必ずしも正しい結果を生み出すとは限りません。ですが、只今定義しましたように「自己決定」とは原因と結果を自覚した選択です。そして、これが自己決定である限り、必然であろうがなかろうがそこには必ずや「責任」という代償が伴います。従いまして、当人が結果を自覚している以上、それが如何なるものであろうとも自分の人生には全て自分が責任を持たなければなりません。 では、ならばそれが必然であるかどうかをあれこれと悩んでいるよりは、我々は運命を否定するのですから、そのためには自分の人生において自分の責任というものをきっちり果たせばそれで良いということになるのではないでしょうか。そしてこれにより、それが「自己決定」であることが立証され、「自分の未来」を自分の手で作り出すことができます。 最後に余計な話ですが、「意思」とは「エントロピーの原則に逆行する選択」と定義します。 ですから、「太陽系」「地球」「気象」「生命」、このようにエントロピーの増大に逆行するものには全て意思があります。では、ここで自分の責任が果たせなければ絶滅するだけです。従いまして、我々は生きている限りエントロピーの増大という運命を退けていることになります。これが、私が運命を否定する理由です。宇宙の全てが運命に従っているというわけでは決してないんです。

bananasand
質問者

お礼

ご回答感謝致します >未来が未確定である以上、そこに我々の自由意志は認められるということになると思います。 ポイントは時間と自分自身にあるのかもしれません。 未確定な未来は必ず到来し、確定し、自己決定が自己へ環流する。 思考による未来の予想結果としての意識行動については、その通りですね。整理がついてきました。 エントロピーの増大に逆行する存在は、少なくとも運命が否定されるということも、逆行する意志の範囲内で真だと思います。

noname#49302
noname#49302
回答No.3

あなたが自己決定を自分でしたいと。でも誰もが思うことだと思います。結論はその時代にまぎれて、集団に属している以上、影響されないと属してないことになります。自分の価値を持つというのも自分の価値形成の時に感じて形成されると思います。歴史上、バブルとかなど忘却されて同じことを起こします。影響されて自分で意志決定するということだと思います。

bananasand
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 集団意識、連帯意識、潜在意識、記憶さえも全体の一部として捉え、 物事を決められると思っている顕在意識のみを自己決定する意識としたんです。 その自己決定する意識以外の外部が確定すれば、意志決定は選択でも何でもなく、その決定は必然となってしまうというイメージなんです。

noname#53063
noname#53063
回答No.2

恋愛で考えると分かり易いかも?です。

bananasand
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 打算なしの恋愛はもっと自分に近くて自己選択決定から遠いんでしょうね。打算は、自己選択決定そのもののような気がします。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.1

「自由意志」に関してですね。著書「ユーザーイリュージョン」をオススメいたします。 私の回答履歴をご覧頂けたら、ユーザーイリュージョンの抜粋を投稿しております。

bananasand
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 早速、購入し流し読み完了しました。非常に沢山の示唆を与えてくれる内容ですね。改めてじっくり読み返すつもりです。 本書の、意識はゲーデルの深みに浮かんでいる、で妙に納得してしまいました。

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