• ベストアンサー

信孝は、秀吉が三法師を支持したことにどう反応しましたか?

信長死後の、5大老などが集まって信長家の今後を清洲城で会議しましたが、その際秀吉は信長の幼い孫、三法師を家督にと支持しました。 信孝はそれを聞いてどう思ったのか、そしてそれに対してどう行動したのかを知りたいです。信孝は信長の弔い合戦である明智光秀との戦い(山崎の戦い)を主導してくれた秀吉に恩義を感じ、自身も戦いに参戦しました。でも自分を家督に支持してくれなかったことは恨みではありませんでしたか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#77472
noname#77472
回答No.2

本能寺の変では信長、信忠(長男)が討ち死にしています。 官位の問題では明確な返事をせず、信忠を征夷大将軍にすれば良いと返事をします。(したいなら、そうせい。) その後の事件でした。 秀吉の言い分では、信長→信忠→三法師 (信忠の子であり、信長の孫。長男の正当な家督相続。) 勝家は三男信孝を推薦します。 (勝家は信孝の元服時の烏帽子。) 筋目を押す秀吉 対 烏帽子親を利用して実権を握りたい勝家。 秀吉は信孝を三法師の後見人にする事で丸め込みます。 勝家はお市と再婚。 信長葬儀では秀吉が太刀持ちを勤めます。 信雄、信孝欠席。羽柴、瀧川も欠席。 ここで本格的に対立する姿勢をおのおのが見せますが、 こうなった原因は秀吉を排除しようとやっきになっていた信孝本人にあるようです。 煽り、煽られ、煽り返すと言う悪循環が正当後継者になるべき人間であると言う根拠の無い理屈を生んだのだと思います。 勝家の討ち死で全ての幕が閉じたと言っても過言ではありません。 信孝は切腹。 秀吉が天下を取ったように見えますが、 徳川、伊達、北条の3国同盟で秀吉との兵力は互角。 臣下の礼に顔を見せません。 面白くない信雄は徳川の協力を得て挙兵。 秀吉は大軍とは言え局地的な手痛い負け戦を経験し、信雄と講和を結びます 信雄は家康に無断で講和してしまいます。 その後家康に人質を差し出して臣下の礼をさせ、未だ逆らう北条を下します。 伊達はこれに参戦し、家臣である証を立てた訳です。 こう言う流れです。

その他の回答 (1)

  • mable2006
  • ベストアンサー率35% (214/598)
回答No.1

下記のリンクをお読みください。 http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m258.html

関連するQ&A