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自分の十字架
マタイによる福音書10章38節 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、 わたしにふさわしくない。 ルカによる福音書14章27節 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 ここで述べられている「自分の十字架」とは何を意味するのでしょうか。 今までは単純に自分の境遇や背負っているものと解釈していましたが 聖書を何度も読み返す中で、もし自分の境遇や背負っているものという 条件だけならキリストに従う者でなくとも誰でも何かは背負っていると思います。 そうであればキリスト者として生きることを対外的・社会的に表明することで 家族や周囲との齟齬や確執などのキリスト者特有の新しい重荷が十字架でしょうか。 実際、これらの前後には家族のことや、つるぎを投げ込むために云々の表現があります。 今まで自明と思ってきたこの「自分の十字架」とは一般論としてはどのような ものを指すのか。またキリスト信仰を持っている人で具体的に「自分の十字架」を 自覚している人は、どのような事例を挙げられますでしょうか。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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いわゆる、生身の人間たちの集う、教会にはいっていない者ですが、イエスと信徒との関係については、身につまされる思いでおります。 ☆ここで述べられている「自分の十字架」とは何を意味するのでしょうか。 ★自分の人生での、聖書的解決課題、生き方。 そういう中で、イエスを慕う者。これが信徒でしょう、今だって。 そういう中で、しかもいろんな生活上のこと(解決や考えたりしなければならないこと)もあるでしょう。 それを自分なりに、そこそこに対応しておいて。ということになります。 一般論や哲学、神学がほしいなら、それはまだ深刻ではないですね。 生活がまだ、逃げがありますね。これは実戦・実践ですので、牧師さんか、神父さん、ご先達さんにご相談した方がいいでしょう。 面談であれば、会話も出来ますが、文章は無理です。 毎日の生活、心身の動作がすべて事例です。
- mmky
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イエスの聖句「人もし我に従い来たらんと思わば、己(おのれ)を捨て、己(おの)が十字架を負いて我に従え」 この本来の意味について現在のイエスご自身のお答えは: 「この世で生きやすく生きたい」というような思い、そのような、とらわれている自己を捨てなさいということです。しかし、十字架というのは一人一人が負っているものです。肉体を持つことによって、肉体自身が十字架になっているのです。肉体をよく見なさい。十字架になっているはずです。: ということでした。 マタイによる福音書10章38節、ルカによる福音書14章27節は、イエスの話を聞き「ああ・・いいな」と思う人は多いが、しがらみを捨て私にその身(十字架)そのままでつき従うものは少ないといいたかったのでしょうね。実際、弟子は12人しかいませんでしたしね。 同じような話は、金持ちの息子の話がありますね。「全てを従者に与え、我に従いこよ」といったら逃げ帰りましたね。救世主にさえ自分の身かわいさでみんな逃げるのですね。自分の身(十字架)を背負ってついていくことは大変なことですね。あえてその一線を越えないと我が弟子にはなれないといいたいのですね。これはいつの時代でも同じでしょうね。信仰の門は万人に開かれているが弟子になることは簡単ではないということでもあるということでしょうね。 参考までに
お礼
「自分の十字架」を「自身の肉体」とする見方でしょうか。 肉と霊という分け方が考えると生まれ持った肉体は 悪と罪に傾きやすく、背信の性格をもともと持っている、 それゆえにキリストの霊に生きるのであれば自分の肉体が枷となり、 それを「自分の十字架」と呼んだのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。
- kigurumi
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十字架はどこからきたのか。 ♀ エジプトのアンクだと思うんですね。 http://www.karakusamon.com/egypt/ankh.html 『エジプトの言葉でアンクは人生・生きるを意味する』 これはなんのシンボルかというと、男性と女性の結合だそうです。 男女の結合により、新たな生命が誕生する。 ♀は「ナイル川の鍵」とも言われ、神と女神がナイル川の聖なる源で結婚をすると、ナイル川が氾濫すると考えられていた。 キリスト教のシンボルはもともと、、、記号描けないですね。 ちょっくら探してきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 この目の形みたいなものだった。 ヨナは大魚の腹の中で3日間過ごして、再生しました。 イエスも3日間腹の中で過ごして再生したという物語になっている。 えっとtombって墓で、wombって子宮という意味。 語源は同じなんですね。 キリスト教は、神の子の頭文字をとると、イエスになるってことで、魚を意味するichthysだから、魚をシンボルマークにしていたと説明していますが、本当は違うんですね。 この目みたいな形は女陰。 このままじゃ女神崇拝になってしまうとして、アンクの円い部分をとって、十字をシンボルマークにしたらしいです。 初期のキリスト教の中には♀をシンボルとしていたところもあった。 輪つきの十字形を不死のエンブレムとして用い、とってのついた十字かを呼んだ。 しかし、本来の意味は単に「生命」。 >自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 >だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 と聞いて思い出すのが、「自分の立っている床を担って歩け」とイエスが叱咤した一件。 要するに自分の人生をちゃんと歩けってことじゃないかと。 このおとっちゃんは、ヒッキーという設定だったのでしょうね。 ひきこもっており、自分の生を歩こうとしなかった。 イエス作家は、聖職者を聞き手と想定して話を作ったのではないかと思うんですね。 聖職者の中には、ワイロで買収される人もいて、人々に奉仕する宗教的指導者という人生をいつまでも歩こうとしない人もいたんじゃないかと。 ユダヤ教の祭祀って例外を除いてレビ人限定で世襲制でしたから、生まれながらに聖職者と運命は決まっていたわけです。 人々を宗教的にひっぱっていくべき責務をいつまでもやらない状況だったので、そういうことを嘆いてイエス作家はエピソードを作ったのではないかと。 そういえば、西洋の人の苗字を見ると、大祭司の家系の人がいるが、聖職者ではなくビジネスマンを生業としている人が多い。 本当に大祭司の家系なら、自分の床を担って歩くのが筋だと思うんですけどね。 ただ、それじゃメシ食っていかないから、商業を生業としているのかもしれませんね。 イエス作家に言わせれば、「自分の十字架を担って歩こうとしないものは、私の弟子としてふさわしくない」でしょう。 イエス作家だからいいですが、キリスト教が彼をそう批判したら、「すいません 私は神を冒涜したキリスト教じゃなく、神の民であるユダヤ教を信仰しているんです。神を冒涜した異教徒に私がどう生きようととやかく言う資格など無い」と逆にやられちゃうでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- ttaro
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ここでは自分の十字架を背負ったものはイエスの弟子として”ふさわしくない”と書かれていると認識しました。 ですから、質問者さまの思っておられたとおりであると思います。 その上で、イエスは「イエスの十字架」を背負いなさいといっているのだろうと解釈しております。 私も含め人には、色々な人間社会のしがらみ、職場での人間関係、両親との不和などのしがらみ(十字架)を背負って生きていおりますが、キリストの十字架を背負うということは、そういうことを全て自分自身で引き受けてそれでもイエスがいわれたように「イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うこと」なのかなと勝手に理解しております。 もし可能なら神父様、牧師さまに質問してみたらいかがでしょう? もし信者さんではなくても近くにある教会に聖書の勉強をしているんですが、と聞いてみると親切に答えてくれるはすです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「自分の十字架」ではなく「イエスの十字架」を背負いなさいとの 解釈を頂きましたが、それですとルカによる福音書の 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、 だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」 との発言と矛盾してしまうような気がします。ですが参考意見として頭の片隅に残します。 改めてご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。