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長い箸の原典

「天国でも地獄でも長い箸(またはスプーン)で食事をさせられる」という話の原典(おおもとの出どころとなった本)を探しています。 (こちら「教えて!goo」でも「地獄とか、天国ってホントにあるの?」という質問の中で引用されていますが、原典のタイトルは書かれていません。) インターネットで検索をかけると、法話、講話、説教、自己啓発セミナー、TV番組、「人から聞いたいい話」など、数多くヒットしますが、原典を明示していないものは除外してください。 また、『こころのチキンスープ』という本は除外してください。 (http://www.diamond.co.jp/books/chickensoup/osusume.html) 出版年が新しいので、原典ではないと思われます。 ダンテの『神曲』が原典だと紹介しているサイトがありますが、 (http://www.paperbirch.com/zadankai/zadankai12-3.html) もしそれが本当なら、何篇の何章なのか、教えてください。 けっこう時間をかけて探しているのですが、なかなか解決しなくて困っています。 よろしくお願いいたします。

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回答No.3

#1です。 neil_2112さん、有り難うございます。やっぱりそうですよね。 というのは、『神曲』っぽくないなあ、と思ったその理由が、neil_2112さんと全く同じなので。『神曲』でも、地獄編と天国編はきちんと区別されていて、こんな風に対比されて書かれることはない(なさそう)ですし、第一、『神曲』の地獄も「長い柄のスプーン」なんてどころではない凄惨さだし。長い柄のスプーンは、天国も地獄も生温すぎる、華厳経は随分甘いことをいうなあ、と思ってたのですが、・・・。 山田無文なら、いかにもそれっぽいですね。(いや無文と決まった訳では・・・)間違いを訂正して下さって、有り難うございました。恥が最小限で済みました。 序でに、今度は間違いのない話を。英語には、「悪魔と食事するときには長い柄のスプーンがいる」という諺があって、シェイクスピアも引用しているそうです(『間違いの喜劇』第4幕第3場。『テンペスト』第2幕第2場)。諺の意味は、慎重な注意が必要、ってことだそうです(富山房『英米故事伝説辞典』)。

whatnot
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 翻訳版の『神曲』(河出書房新社 世界文学全集1)に、ナナメ読みというか真横読みでひととおり目を通したのですが、結局それらしい記述は見つかりませんでした。 まさにashenbachさんがおっしゃるとおりで、地獄と天国は別々に書かれ、並べて対比した記述はありませんし、地獄の描写は「長い柄のスプーンで食事」どころではない凄惨さでした。 最初からあまり期待はしていなかったのですが、探し物は見つからないし、ナナメ読みのせいで内容はほとんど記憶に残らないし、得るもののない作業でした。やれやれ...。 「悪魔と食事をするときには...」という格言は、インターネット検索の途中でちらりと見かけて、面白い言い回しがあるものだと思っていました。 シェイクスピアも引用している、というashenbachさんのご指摘は思いがけないうれしい収穫です。お礼申し上げます。

whatnot
質問者

補足

もう少し待ってみよう、もう少し…と先延ばしするうち、ずいぶん時間が経ってしまいました。 締め切りがたいへん遅くなり、申し訳ありません。 回答をくださった御二方様、ありがとうございます。

その他の回答 (2)

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.2

単なる推測に過ぎませんがアドバイスさせてもらいます。 この話が広まるきっかけになったのは山田無文老師の法話集ではないかと思います。実際私がこの話を初めて見たのは恐らく20年以上前ですが、その頃以来いろいろなところで引用され始め、一気に広まったような気がします。(今でも山田老師の法話集は沢山出ていますので、その中で確認できると思います) ならば山田老師がどこでこの着想を得たかということになると、これは正直なところ藪の中という感じがします。私の知る限り、箸であれ匙であれ、このようなモチーフの比喩を持った経典は思いつきません。あくまで推測ですが、この話は私には山田老師のオリジナルではないかという気がします。 そう思うのにはいくつか理由があります。 まず、一般に経典では地獄と極楽が同じ脈絡の中で対置的に用いられていること自体が大変珍しいということ。 それから地獄描写が軽妙に過ぎること。例えば華厳経なら、入法界品という章には、悪人に改心を促すために地獄の模様を仮に現出させる菩薩が描かれていますが、その様子は例えば死体を食べるなどの凄惨で恐ろしいものです。およそ経典で地獄というのは、程度の差こそあれ、そういう苛烈な場所として表現されるのが常で、問題の話のように、椅子にかけての食事風景が描かれるなど、大変珍しいことです。 同じ意味で、極楽の描写は逆に極楽らしさを全く欠いています。代表的な浄土三部経などが描く姿とはかけ離れています。 総じてこの問題の話は、地獄もさほど厳しくなく、また極楽もさほど素晴らしいところではない、この世は心掛け次第で程ほどに…といった風にも受けとめられますが、このようなシリアスさに欠ける軽妙さで全体が貫かれているのも経典の引用としては違和感があります。 しかも確か山田老師の法話では、観察者である主人公が最後に目が覚めて現実に返るとされており、これは脚色なのかも知れませんが、まるでお伽話のようなイメージです。 あえて経典であるとするなら、長編の一節ではなく、その自己完結性から言ってイソップ物語のように短い寓話集のなかのひとつというイメージです。感じとして近いのは百喩経や出曜経、譬喩経といった短い寓話的説話を集めた経典だと思いますが、概してもっと現実的な内容で、やはり毛色が違います。 #1のご回答の参考URLを拝見しましたが、華厳経がその出典でないのはほぼ確実だと思います。「心のありようで現実が地獄にも極楽にもなる」というテーマは、「心仏衆生、是三無差別」を説き「三界虚妄、但是一心作」と言う華厳経と通じるところがもちろんあります。しかし一読すればわかりますが、あまりにトーンが違いすぎます。 「華厳の思想」に鎌田先生が書いておられるのは、唯識での心の働きの議論や「大乗起信論」の仏性論を統合したそのうえで、人と仏と世界の関係を説く(円教という)華厳の教えが説かれている、その例として…ということだと思いますので、必ずしも華厳経からとった話という意味で書かれたものではないのでしょう。そもそも仮にそうであれば本の中にそのまま引用すれば済むことです。 要するにこの話は、地獄と極楽それぞれが語彙としては一般的でありながら、そのリアリティが全く失われて価値が相対化されてしまった現代に作られたものである可能性が非常に高いと私には思えます。ともかく、この話がいつごろから出現し人口に膾炙し始めたのか、そのあたりをたどることが解決の糸口になるのでしょう。 大した結論もなく長々と書きましたが、もちろん経典は膨大にありますので、私が知らないだけでどこかの経典にはっきりした着想のヒントがあって、それが脚色されたものなのかも知れません。そうであれば是非ともどなたか碩学の方のお教えを請いたいと思います。

whatnot
質問者

お礼

丁寧なアドバイスをありがとうございます。 さっそく山田老師の法話集を探してみます。 『華厳経』が出典ではないだろうとご指摘いただき、ほっとしました。 オリジナルが発表されたのが20年前、というのは私にとっては微妙な古さです。 漠然と、もっと古い話のような気がするのです。 というのは、質問で書きましたように、この話はバリエーションが非常に豊富です。さまざまな宗派にわたって語られ、話の細部も少しずつ違っています。 口承で伝わるうちに変化したものと思われますが、「20年でこれだけ多様化するだろうか?」という点が、納得できるような、できないような...。 日本で広く知られるきっかけとなったのは山田老師の法話かもしれませんが、やはりそれ以前に原型となる話が存在するような気がします(ただのカンですが)。 もう少しねばって探してみようと思います。また何かありましたら、アドバイスをよろしくお願いいたします。

回答No.1

『神曲』は通読した訳ではないのですが、どうもそれっぽくないなあ、と思っていたら、仏教のほうが原典のようです。

参考URL:
http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~aruka/Experiments/avatamsakajp.htm
whatnot
質問者

お礼

さっそく回答をいただき、ありがとうございます。とてもうれしいです。 けれども、ご指摘のサイトでは、例の話が実際に『華厳経』に書かれているのかどうか、よくわかりません。 (鎌田茂雄著『華厳の思想』そのものは出版年が1988年と新しいので、これが原典とも思えません。) 『華厳経』に書かれているのなら、『華厳経』のどのあたりに載っているのか、原文では何と書かれているのか、そこまで知りたいのです。 注文が厳しくて申し訳ありませんが、もう少し詳しい情報をお願いいたします。 #私はこの難問のせいで、渋々『神曲』を読んでいる最中です。(こんなことがなければ一生読むことがなかったかも...)その上『華厳経』も読むのか?と思うとメマイがします(@_@;;

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