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第16代・徳川家達はなぜ明治政府で権力者になりえたのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94 徳川家達(いえさと)という人物は徳川宗家第16代当主です。 15代将軍徳川慶喜の実子ではありませんが、御三卿の田安家の出身です。 徳川家達は、大正時代にワシントン会議において貴族院議長として 首席全権大使を務めた事で知られています。 さて徳川家とは、明治政府から朝敵とされ、尊皇攘夷勢力からは「悪の象徴」と された一族ですが、その最頂点にあたる徳川家達が明治政府で主導権を握るほどの 権力を得る事が出来たのはなぜでしょうか? フランス革命後の議会にルイ16世の息子がちゃっかり座っていたら変ですよね? 激動の政権交代の末に、その後の権力体制の中枢に「旧勢力の主」がいちゃ変じゃないですか?

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  • buck
  • ベストアンサー率14% (97/678)
回答No.7

ワシントン軍縮会議についてですが、首席全権は徳川公爵だけではありません。 海軍大臣加藤友三郎大将と駐米大使幣原喜重郎を徳川公爵の三人です。 確かに徳川公爵が筆頭各だったのかもしませんが、実質的には海軍を代表していた加藤大将が最も重要な役割を果たしています。 既に回答のある通り、徳川公爵が実質的な権力者であったことはありません。 また、フランス革命と明治維新を同一視することもできません。 江戸の将軍とフランスの国王では、そ権力の拠り所は大きく異なりますし、徳川慶喜は自ら大政奉還をしています。 ギロチンで処刑されたルイ16世とは異なります。 単なる歴史好きの私見ですが、江戸から明治への時代の移行は、徳川家を含め、旧大名を温存することによって可能だったのではないでしょうか。 徳川宗家だけでなく、京都守護職を務めた会津松平家も過酷な処分を受けましたが、存続しています。

その他の回答 (6)

  • jamiru
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回答No.6

一方的にすれば反発が起こりますから。 それに、徳川慶喜は最後まで根拠地に寄らず、一度も玉座に座っておりません。 薩長の大将はずっと薩摩・長州から出ていません。 それに引き換え幕府は大将自ら最前線に居ます。 それほどの人間がよく将軍職を辞した後に趣味の世界で生きれたと思います。 処罰したりすれば明治政府に大義名分は無いよ。 少しでも旧幕府勢力の感情を抑えるために家達を取り込むのは政治の定石でしょう。 フランスは処刑してしまったために大混乱を招き、欧州全土で戦乱が飛び火しましたね。

  • suicyo
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回答No.5

徳川家達は別に「明治政府で主導権を握るほどの権力」なんて持っていないと思いますよ。 明治の華族制度のことを言っておられるのなら、それは身分と権力の混同です。明治時代の「貴族院」議員や「公爵」というのは、天皇制を支える華族として支配階級には属しますが、実際の「権力」を握っているかどうかは別の次元のものです。 貴族院議長 伊藤博文、蜂須賀茂韶、近衛篤麿、徳川家達、近衛文麿、松平頼寿、徳川圀順、徳川家正 私は伊藤博文と近衛文麿以外は、権力者としてどんな事績を残した人か知りません。 首席全権大使と言えば、ポーツマス講和会議の小村寿太郎を思い浮かべますが、小村寿太郎って権力の中枢にいた人ですか? また、徳川家達の家督相続は幕末には予定されていたとは言え、実際の相続は幕府崩壊後です。慶喜は「旧勢力の主」の生き残りですが、家達は「没落後の旧勢力を継承したただの当主」にすぎません。

  • cse_ri2
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回答No.4

質問者さんは、本当に日本人なのかな?(苦笑) 朝敵とされた徳川家すら、時がくれば取り込む。ここに和の国、日本の真骨頂があります。 ざっくばらんにまとめると、明治三十年に最後の将軍徳川慶喜が明治天皇に謁見して、公爵の位を賜ります。 これで天皇家と徳川家の手打ちは終了し、徳川家ですら天皇を主君として仰げば、出世できる道が開かれたのです。 もう少し掘り下げると、ヨーロッパやアジアの大陸国家は、国家の最高権力者が富も名誉もすべて独占します。 そのため、権力者間の争いが激しく、闘争と対立は徹底して行われます。 ですので、革命で追い出されたブルボン家は、フランス革命が頓挫して王制に戻るまで、権力の座に帰ることができませんでした。 しかし、日本やイギリスのような島国は、少し違います。 逃げる場所のない島国では、本質的に争いを嫌う傾向があります。 その知恵として、権威をもつ君主を立てながら、実際の権力はその臣下が握るようになりました。 イギリスの王家も日本の天皇家も、ずっと血がつながった長い家です。 イギリスの場合女系相続が認められているので、天皇家のように男系でずっとつながっておらず、また家名も何度か変わっていますが。 そういう日本の統治システムでは、権威をもつ天皇さえしっかりしていれば、権力はある意味誰が握ってもよいのです。 たとえ徳川家であっても、天皇家との手打ちが住めば、彼らも権力者になる資格は生じますし、実現はしませんでしたがそうなる機会もあったようです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

日本が大戦で破れた後、吉田茂に率いられた日本は米国に徹底的に協力しています。彼の自伝によると、彼の岳父牧野伸顕の忠告に従ったと言うことです。日本からの徹底的な抵抗を予測していたアメリカはこれには驚いたようです。花は武士と言って切腹でぱっと散ったり、死を恐れず西洋人から見ると想像もつかないほど抵抗して戦った国民が玉音一つで無抵抗になったり、外国人には理解できない行動を繰り返してきました。西洋人は最初は「日本人とは権力者の命令に唯々諾々と従う可哀想な遅れた国民なのだ」と理解しようとしたのですが、「それにしては、民主主義が明治大正期にあっという間に根付いてしまったのみならず、非西洋国で唯一工業立国として戦前では軍事大国として、戦後では経済大国としてのし上がって来るなんて、この国は遅れた国なのか進んだ国なのか良く判らん」と大混乱しているようです。ことほど左様に、日本には外国の俗な頭で考えつくのとは一味違った発想や行動があったようです。信長もそうでしたが、前後の経緯や家柄などに囚われずに、役に立つなら敗者でも取り立てると言う変な行動をときどきしていたようです。どうもこの上の例で示すようないろいろな「変じゃないですか?」という行動を採るところが日本の個性のようです。そしてその変な行動が、日本を豊かにしたり、文化の発展の促進に役に立ってきたようです。その結果、西洋崇拝で何でも西洋を真似ているその他大勢の国とは違った、したがって他の国からも尊敬される国で居られているようです。 このことからも判るように、質問者さんが「変だ」と思っていることが、実は「変」ではないのですね。逆に言うと、質問者さんが「変でない」と思うことを実行してしまうと、何かおかしいことが起こってしまう可能性があると言うことですね。そのぐらい人間の行為は込み入った複雑な物なのですね。この機会に、「変」なものが何故「変でない」のかを考えるばかりでなく、「変でない」と思える物が何故「変」なのかも御自分で一皮も二皮も剥いて考えてみて、人間の深みと面白さを味わってみることを御薦めします。

回答No.2

徳川家は260年の長きにわたり日本を統治しました。 政治能力は長けています。 新政府に徳川慶喜を入閣させようとした話は有名です。 新興の薩長出身者より国家運営の方法を知っていましたからぜひ新政府でもと思って推挙したのでしょう。 それに意外と朝廷で徳川慶喜は高く評価されていました。 ですが、この案は薩摩の西郷隆盛や大久保利通らにより封印されてしまいました。 徳川家達は16代当主ですから幼少から政治や国家の運営方法の帝王学を学び、徳川幕府の政権末期とはいえ実際に政治を見ていたので、明治政府の重職に就いたのだと思います。 帝王学のおかげで新政府の重職を任されたのでしょう。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

徳川家としては納地納官を命ぜられた後、静岡藩に再度封じられています。 70万石という大藩のトップですから爵位もそれに応じた公爵になったのですから、別に不思議はない。 明確に明治政府に反逆した西郷隆盛も名誉回復されているお国柄ですから日本は。

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