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明治新政府に徳川官僚が加わっていたら?

徳川財団の徳川典子氏(宗家18代恒孝氏次女)が朝日新聞の「明治維新150年」取材に応じて、 「もし、徳川慶喜他幕府の面々が明治新政府に加わっていれば、幕府には経験知識が豊富な人材が多かったから都市計画もずっと整備されただろうし、わずか70年で敗戦国に落ちることは無かったろう」と回答していました。 江戸時代が260年の平和を維持したのとは雲泥の差だというわけです。歴史にIFは存在しませんが、自由に想像していただきたいのですが。 ベストアンサーは出しませんのでご了承願います。

みんなの回答

  • 5636apn
  • ベストアンサー率61% (16/26)
回答No.5

江戸時代に貨幣制度が作られました。今までの銅、鉄銭とは違った制度です。ただこの貨幣制度も徳川独自のものではなかったという資料もあります。大判を最初に発行したのは秀吉という説もあります。他の小判や銀貨なども価格がすこいですね。古銭価格表をご参考ください https://old-coin-ikura.net/kosen-old-money-purchase-price-list/

  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.4

こんにちは。 とても意味のある質問です。 結論から言えば、徳川幕府を除いて明治政府を樹立したのは大正解だったと思います。 聖書に曰く『新しい葡萄酒は新しい革袋に』とあります。 新しく何かを始める時思い切った新鮮な人材で事を進めるべきです。 新旧合体などで成功はしないものです。 確かに幕府方に優れた人材はおられました。 徳川慶喜、勝海舟、安部正弘と言った方々が見識に優れていたのは認めますが、彼らが新政府に入って良いことはなかったと思います。  ● 明治新政府の中核が薩摩と長州だった。  これは大正解です。 薩摩は幕末時琉球国を経由しての三角貿易を行い、広く西洋事情に精通しています。 長州も伊藤博文や井上馨など若い志士を英国に留学させて訓練をしています。 長州藩も朝鮮半島に近く密貿易をして財を蓄積していたのは誰もが知っていたことです。 それほどに長州藩の漁師たちは潮の満ち引きの激しい関門海峡をホームグラウンドにして海洋術に長けていたのです。  しかも長州藩は戦国時代には時の守護大名であった大内義孝が明国と冊封関係を結び広く交易をし、留学生を送ってもいます。 雪舟もその一人です。 それほどにここは大陸とは縁が深いのでした。   重商主義に舵を切り替えていた両藩が新政府を仕切ったのは本当に幸いだったと思います。 

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1504/3661)
回答No.3

徳川宗家の一族がそのように主張されるお気持ちは理解できますが、それは現実的ではなかったでしょうね。 まず事実として、幕府の役人だった者の中には、後に述べる榎本武揚のように、のちに明治新政府の官僚になったものも少なくなく、幕府の政権運営のノウハウがまったく新政府に伝わらなかったわけではありません。 もちろん徳川典子氏が言いたいのはそうしたレベルのことではなく、徳川慶喜ら幕府の最高幹部が新政権に参加できなかったことを指しているのでしょうけれど、それは「無理な注文」です。 当時「御一新」と呼ばれた明治維新の改革は、「幕府が完全になくなって新しい世の中になった」ということ、すなわち「劇的な政権交代」が実現して「権力の構造が大きく変化しただけでなく、社会体制も激変した」という点に最大の意義があります。その新政府に旧体制の象徴とも言うべき「最後の将軍」を参加させたのではまったく意味がありません。徳川慶喜は自ら退場することによってのみ、新しい時代の扉を開くことができたということです。 ただし徳川典子氏の主張のうち都市計画云々はともかく、ご質問の“わずか70年で敗戦国に落ちることは無かったろう”という部分、記事の表現をそのまま引用すれば、「何しろ、家康公が築いた平和は260年も続きました。70年余りで敗戦になったその後とは、まるで比較になりません。」という部分は一理があるかもしれません。 その理由を詳しく述べるとキリがないのですが、ひとことで言えば、「敗者のいたみを知る」ことが政治家には欠かせない資質の一つだということです。 函館の立待岬の近くにある「碧血碑」は箱館戦争の旧幕府軍の戦没者の慰霊碑として、榎本武揚が明治8年に建てたものですが、表に「碧血碑」(義に殉じた死者の血は3年で碧く変ずるという中国の考え方に基づく)、裏に「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」【明治辰巳(二年)実に此の事有り、山上に石を立てて歔の志(悲しみの気持ち; 歔はすすりなく)を表す】とだけ書かれています。 第1次世界大戦の際に捕虜となったドイツ軍の将兵に、人道的な取扱いをしたことで知られる収容所の所長が幕府に殉じて敗れ、賊軍の悲哀を経験した会津藩士の子息だったことなども思い出されますが…。

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (397/2006)
回答No.2

う~ん、農民出身者の軍隊が、武士の軍隊を倒した事実、これ無くして、明治新政府は無かったかと。 「徳川(お侍)の時代は終わった!!!」 あの倒幕があったからこその明治時代の急速な近代化があったと思います。 ちなみに、経験豊富といっても、外交経験は全くなし。 徳川という名前は、百害あって一利なしでしょう。 なお、徳川という名前ではありませんが、 明治政府で活躍した旧幕臣は、結構います。 勝海舟、榎本武揚(たけあき)は、どちらかといえば明治政府に反発しましたが、 渋沢栄一、林董(ただす)、大鳥圭介、西周(あまね)、津田真道、加藤弘之、等々は、元々幕臣だったようです。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11129/34640)
回答No.1

>もし、徳川慶喜他幕府の面々が明治新政府に加わっていれば、幕府には経験知識が豊富な人材が多かったから都市計画もずっと整備されただろうし、わずか70年で敗戦国に落ちることは無かったろう 歴史好きからすれば、「それはない」と断言できますね。世界史上どんな国家体制でも、刷新されるときは旧体制の人たちは全員除外されるのです。 なぜなら、旧体制の人たちというのは要するに既得権益の人たちであり、その旧体制の既得権益が時代に合わなくなって邪魔になったから体制が変わったわけですよ。 例えばフランス革命でフランスの王族が共和政府に参加していたら。革命は実に中途半端に終わってしまいますよね。貴族や王族の既得権益が守られるのは間違いありません。しかしそういう身分階級をぶっ壊したことがフランス革命の意義なわけです。 もう徳川家が牛耳る政治体制では時代に合わなくなったから、明治維新になったのです。また旧体制を全て排除したので、全く新しい改革を行うこともできたというのがあります。「70年で敗戦になることはなかった」というなら、「徳川体制のままだったら日露戦争の勝利はなかった(日露戦争を指導したのは陸海軍とも明治維新の歴戦の経験がある薩長の人々でした)」というのもいえますし、歴史好きからすると、昭和初期の日本の政治体制と幕末の幕府の動きって、びっくりするほど似ているんですよ・笑。

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