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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:平城天皇陵と平城天皇の死亡記事)

平城天皇陵と平城天皇の死亡記事

suicyoの回答

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.3

No.2です 平城上皇が晩年住んでいた「楊梅宮」と光仁天皇時代の「楊梅宮」が同一のものかどうかは、私にはわかりません。「平城上皇が住んでいた草庵」みたいな表現を以前どこかで見た記憶もあるので、奈良時代の宮殿をメンテナンスして使い続けたというよりは、上皇の住んでいた立派な草庵?を「楊梅の宮」と呼ぶことがあった‥てなことではないかと。 なお、その草庵?「楊梅宮」は、後に息子の高岳親王が「池辺院」という別荘?寺?にしたようです。その跡地は江戸時代には「超昇寺」という寺として残っていたようです。 陵戸とは御陵を守護するために置かれた奴隷です。「烟」という字の正確な意味も分かりませんが、律令以前の法令では普通に「戸」の字が使われているみたいです。やや時代が下った延喜式(諸陵式)でも「烟」の字が使われています。 あくまで推測ですが、勤務地として配属される「番人小屋」などではなく、奴隷一家が御陵の脇に煙(烟)を立てて住みついて家族総出で奉仕するというような意味を込めた用法なのではないかと、勝手に考えています。

noname#82952
質問者

お礼

何度もお手間をとらせてすいません。 平城上皇が「楊梅宮」に住んだという記録があるのですね。 ネットで探してもなかなか出てこなかったので 光仁天皇の「楊梅宮」のことかと思ったのですが 下記に記されていました。 http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030105-01.html 高岳親王って空海の弟子の真如親王のことですね。 羅越国へ行ったきり戻ってこなかったという。 陵戸は奴隷のことなのですね。勉強になりました。 丁寧に教えてくださってありがとうございます。 今夜はぐっすり眠れそうです~。

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