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「怒り」は実在する感情、でしょうか?

こんにちは。 心理学のカテゴリーと迷いましたが、こちらに致しました。 タイトルにあるように、 「怒り」の感情は、皆さんお持ちなのでしょうか? 私は「感じない」のですが、これは何か「問題がある」のでしょうか? 例えば、「理不尽な目に遭った時」。。。 私はひたすら「悲しみ」を憶えます。 どんな目に遭っても(なかなか酷い目にも遭っている、と思うのですが)、「ああ、私は今怒っているんだ」と思う事がありません。 自分に対する「反省」、 相手に対する「想像」、 すれ違いに対する「無念」、 相手に悪意を抱かせてしまった事に対する「哀しさ」。。。等しか、自分の中に見つけられません。 「怒り」は感情の中では「低次なもの」と言う事ですが、 私の他にも「怒りを感じない人」はいらっしゃるのでしょうか? 私は「変」なのでしょうか? いえ。。。「変な人」と評される事には慣れているのですが。。。笑 漠然とした質問で申し訳ないのですが、何か、回答頂けたら、と思っております。 よろしくお願いします。

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noname#82286
noname#82286
回答No.9

 フロイトイズムですが どうも怒りというのは解離的現象から発生するそうです 簡単に言うと心理状態をざく斬りされたような現象です。 つまり自我がエスと連動していてそれが現象や他者から エスを自我から解離させられるとその反動で死の欲望〔タナトス〕が 沸いてきます、そのタナトスは自我と連携する ことになります、そのとき何かのある種の現象から エスを自我から受動的(~させられた)に解離させられ ると自我は不満足になりますからその不満足の自我と タナトスが融合するので【破壊性】として現れてくるのだ そうです。 なので怒りでなく悲しみという場合は他者(そのたもろもろ) に破壊性を向けるのではなくその現象に対しての虚しさとし て現れてくるということではないでしょうか? この違いは自我の能力の違いと言えるかもしれません はじめの怒りの方は自我を守るということだと思います 悲しみの方は自我が悟るということだと思います。 ちなみに自我の能動的(~した)なエスの昇華で自我から解離した場合 自我は【~させられた】のではなく【~した】と感じる わけですから満足となりますのでその後タナトスが沸い てくるのですがその場合自我が満足しているので怒りや 悲しみという不の感情ではなく、【安らぎ】とか【落ち着き】 などという【静】の感情が沸いてくるはずです。 つまりこれが超自我となるわけです。  なので育成過程で超自我を形成させるというのはまず自己満足 を旨く果たさせてあげることつまり子供を子供だからというなかば 投げ出しの目でみないということ、つまり自己に対する愛情を注いで やることがまず第一優先です、その後超自我として素敵な敬意とし て帰ってくるのだと思います。

noname#122427
質問者

お礼

回答頂き、ありがとうございます。 >怒りは解離的現象から発生する つまり、外からの刺激に対する「自己防衛の手段のひとつ」と言う事でよろしいでしょうか? >エスを自我から受動的(~させられた)に解離させられると >【破壊性】として現れてくる 破壊性。。。と言う言葉にハッと致しました。 そうなのです。「怒り」に潜む「非生産性」が私は嫌いなのです。 >自我の能動的(~した)なエスの昇華で自我から解離した場合 >自我は満足となりますので >【安らぎ】とか【落ち着き】などという【静】の感情が沸いてくる うーーーん。。。要は、「自分の言動全て」に「自分の意志を意識」していれば、「刺激に対応する反応」は「生産的なもの」になる、と勝手に解釈しました。^^ 二十歳のある大事件、ですが、 あれは、あまりにも「自分の意図と乖離した結果」が出てしまい、呆然としたのです。 自分の善意が悪意にすり替えられる。 努力が他人の業績になり、立場がすり替えられる。 私が護って来たものが、悉く破壊されており、その事にその時まで全く気付いていなかった「自分の落ち度」。 「あーーー私は無意味な事をしていたんだ」と当時は思いました。 でも、その時迄の「自分の努力」を「間違っていた』とは、私はどうしても思えず、何年も堂々巡りに考えて来ました。 まあ、「他人に対して責任を持とう」とした事、「責任の範囲」を間違えていたのかな。。。と。 それは、こども達を世話していても思います。 こどもが牛乳のコップをひっくり返したからと言って、「私が手伝っていれば」「私が少なく注いでいれば」等と、考えたって「出来っこ無い」のです。 怪獣は三人、対するこちらは私一人、なのですから。^^ その代わり、自分の言動は強く意識し、忘れないようになった気がします。 勿論、「こども達の失敗」が「私の失敗」にならないように「言い訳の為の資料集め」です。笑 そっかーーーこの方法、ちょっと嫌だなと思っていたのですけれど、結構生産的なんじゃありませんか!笑 。。。と、勝手に結論付けて喜んでおりますが、 「解釈に間違い」がありましたら、訂正をお願い出来ますでしょうか? あーーーでも、何だか「すっきり!」してしまいました。 ありがとうございました!!^^

その他の回答 (22)

  • boke-chan
  • ベストアンサー率22% (137/604)
回答No.2

怒りとは、センサーのように、触れたら爆発する場合と、 火山のように溜まったものが爆発する場合があるかと思います。 怒りの沸点が高い人、低い人、人それぞれですが、 質問者はの場合は、 1)通常の人以上に怒りの沸点が高い。 2)怒りセンサーの感度が小さい、あるいは切れている。 3)センサーは正常だが、怒りのエネルギー量が少ない(無い)、 4)違うエネルギーに転換している。 などが想像されます。 さて、怒りが無かったら変かどうか?ですが・・・、 普通ではない事を「変」と呼ぶのであれば変とも言えますが、 個性とも言えます。 自分の事では怒れなくても、他人の事で怒る事ができたら大丈夫です。 一番良いのは、不正に対して怒る事です。不正に対しての怒りは正義です。 又、重要な事は、行動する事ですから、 無理に怒らなくても結果、行動に移せれば問題は無いでしょう。 >例えば、「理不尽な目に遭った時」。。。 >私はひたすら「悲しみ」を憶えます。 悲しんだ後に、どういう行動がとったかが重要ですね。 怒った後の行動と、悲しんだ後の行動が同じであれば、 怒る必要は無いと思います。 私も怒りの沸点は高いので滅多に怒りません。 ただし、時々のガス抜きは必要のようです。

noname#122427
質問者

お礼

こんばんは。 丁寧な回答をありがとうございます。 >怒りとは、センサーのように、触れたら爆発する場合と、 あーー!そうですね! そうか。。。子育て(未就学児三人)を言い訳に、自宅にいる事が多いですし、今は仕事もしておりませんので、「怒りたくなる場面/人に、そもそも遭遇していない」かも知れませんね。^^ >火山のように溜まったものが爆発する場合があるかと思います あ。。。こっちの「溜まって行く怒り」は、時たまあるように思います。 何と言うか。。。boke-chan様の「場合分け」に添って行くと、 >1)通常の人以上に怒りの沸点が高い。 「三度の出産」とそれに続く育児の日々で、かなりの「忍耐力』は付いたように思います。^^ 「そんじょそこらの理不尽では腹が立たなくなった」ような。。。 >2)怒りセンサーの感度が小さい、あるいは切れている。 これも、育児の日々の中で、「いちいち反応していたら身が保たない!」と言う気も致します。汗 >3)センサーは正常だが、怒りのエネルギー量が少ない(無い)、 んーー。。。「理不尽の種類」によっては「爆発」の可能性も感じます。 >4)違うエネルギーに転換している。 自分ではこれを一番強く感じます。 理不尽な目に遭っても、なんやかんやと理由をこじつけて、「相手に良いように解釈する癖」があるのです。 この「癖」に関しては、注意が必要な事は自覚しております。 「相手を悪く言いたくが無い為に、自分の感情をねじ曲げかねない危険性」がありますし、現にそうやって「行き詰まって」しまう事も経験しております。 #1の方へのお礼にも書きましたように、私は「怒りと言う感情」が嫌いです。「醜い」と思っていました、今もややそう思います。 でも、「最も原始的な感情」であるが故に、これを「封じ込めたり」「無理に方向転換」したりする事は、「危険」でもあるのだな、と回答を拝見して思いました。 何事も「バランス」ですね! 気をつけて生きたいと思います。 ありがとうございました!!

noname#122427
質問者

補足

boke-chan様、この欄をお借りする事をお許しください。 回答くださった皆様へ。 次々に暖かい回答をお寄せくださいまして、とても嬉しく、また感謝しております。 皆様の回答に目を通しながら、色々と考えております。 申し訳ないのですが、お礼が遅れがち、または順不同になるかも知れません。(既に遅れております。汗) 必ずお礼を書き込ませて頂きますので、ご了承頂ければ、と思います。

回答No.1

「怒り」は実在する感情です。 演劇の俳優術では、感情曲線を勉強したりします。 時間によってピークが訪れやがて消えてゆく その流れを度合いを曲線で時間を追って表わすものです。 確実にそのようななんらかのピークを迎えてやがて消えてゆく 生物であるならば必ず存在してしまう感情のひとつです。 でも、yukkinn66さんが変だということもまたありません(^^)。 心配はいりません。 どういった時に、起こる感情かというと、まず、それはいきなり何かを邪魔された時の感情だということです。  そのことに本気で打ち込んでいる場合、その本気度が大きければそれがいきなり邪魔されれば そこに怒りを感じるということです。 あるいは、いっしょうけんめいやってることがようやく実現しそうな時 それがもうぎりぎりの努力であるほど、 いきなりそれが不理尽に(悪意からと考えてもいいです。)ストップされてしまった時に、起こります。 好きなことでもいいです。 情熱を打ち込んでるものでもいいです。 そこにいきなり逆の力が利己的な相手の理由でストップされたら、 そのときに生物なら必ず起こる感情なのですが、  まず、これで、想像はつくようになったのではないでしょうか? 実際はもっと複雑の過程とかがあるわけですが、根本はそんな感じで説明されている感情であるわけです。 でも、これがいきなりではなくて、じわっと来た場合は これはかえって深い怒りの場合と、 別な感情が変わりに起こる場合が出てきたりします。 また、じわっなんてものじゃなく 時間かけてゆっくり起こる場合は怒りっぽい人ですら気がつかない場合もあります。 気がつかないうちにいつしかストップさせられていたら、 えええっと驚きはしても 怒る対象さえつかめなかったりします。  すくなくとも この感情曲線は怒りと呼べる曲線を描きません。 この 1やりたいこと望み やってることの意気込み度合いに対して 2その逆の押さえつけが 怒りの原因であるわけですから 1と2の対比とか差が大きくなければ 怒りはあまり大きくなく感じないで終わる時もあったりします。 ここで 相手の押さえつける気持ちを理解できる人の中で 自然におおらかな度量の大きい心で普段から人を思いやれる性格とか、磨かれた訓練された心とかがある場合は、 押さえつけられても綿や水のように柔軟であることもできたりするのですが、 それでも怒り自体は、たいてい感情として理解できるのが普通です。  あ   大丈夫ですから、まだ先を読んでください^^)。 (そうそう、 理解できたからってそれだけでどりょうが自然な形で広い場合と、 相手のために無理をして許してあげるとかの場合とは違ってたりします。  けっこう人間の感情って複雑ですね。) また 苦しいことや、悩みごとをたくさん体験してきたような人も、時として そのぐらいの押さえつけなどへとも思わないという場合もあるでしょう。 もうひとつは 自他を普段から大きな目で「見つめる」ことが出来てる人の場合もあるかと思いますが、 このような人も腹が立つという経験をしない時があります。  状況自体を大きく客観視してしまうからです。 こうして 普段の平和な社会の中の普通の衝突とか 押さえつけという形の中では、怒りは感じないままとなってしまう人も充分考えられるのですが、  それはすべて、なんらかのその人のむしろ健康さとか心の広さとか忍耐強さとか経験の大きさとかいうプラスの人格のおかげです。 ですので「変」と思う必要なんてまったく無いですね。  喜怒哀楽の 人間味の一部が無いのでは、と思う必要もないです。 充分に 強い人でも ほんとうにいきなり抑えられたら、その悪意の中にはいつくばされたら、 それが強烈だったら、怒りの感情はおこります。 相手のために穏やかでありつづけることは出来ます。 でもそこにはむしろはっきりと今度はその感情の流れが客観視できるはずなのです。  たぶんおぼれてる人よりもその感情は乱れていないので、ピークの山を早くこえた感情曲線となるでしょう。  でも、それは必ず起こるときはあるものなのです。   生物であればそのはずなのです。  悟った人はそれをも知ることが出来ないので、この場合オシャカのお話でいいですよね(^^)。 私は 子供の頃 南京の大虐殺の当事者の方のお話を聞いたことがあります。 おだやかさが子供にも伝わるようなはっきり心の温かいおじいさんからのお話です。    最初は 昔の日本人の虫も殺せない素朴な若者が多かった兵隊仲間、誰もが銃の引き金を敵であろうと人間に向けるなんて まして人を撃ってしまうなんて手が震えて出来ないことだったといいます。  でもそのうちに、目の前でそんな中だからこそ心を深く交し合った友が撃たれて苦しみ死んでもいく姿を見るうちに引き金は引かれるようになっていったのだと言います。   神経が変わってゆくこまかい因果も相手は子供なのに何故か詳しく語ってくれました。 やがて、あの自分達よりはるかに多い捕虜のいたあの南京の地にて、  ある恐怖が引き金となりあの大虐殺の雪崩現象が起こってしまいます。 その人自身が子供も女性も関係なく威嚇的に(威嚇的にという言葉を何度も何度も使っていました。)捕虜をおどし、こずき、生き埋めにしたのだと言うのです。 これ、今の私でさへ、たぶん、その状況を生きていたら 其の過程を生きていたら おなじことをしていると思います。 人間って弱いです。 でも でもそれさへ、謙虚に知っていればいいことなのではないかと思うのです。 自分はみんなみたいに、怒ったりはしない。 そうそれははっきり言ってあなたの長所です。  大切にすべき長所です。 生かすべき長所です。 でも同じ人間だということを忘れたら、それを生かすこともしない人生になるだけじゃないですか(^^)。    問題は無いです。問題があるとすれば、 それだけです。。。笑。

noname#122427
質問者

お礼

早々の回答ありがとうございます。 イマイチ「お礼」と「補足」の使い分け、がよくわからないのですが。。。汗 >「怒り」は実在する感情です。 はい、明確な回答に感謝致します。^^ 実は、二十歳の頃までは「頻繁に感じていた」気が致します。 でも、「ある大事件」、結婚、三度の出産、育児と体験して来る中で、最近はこの感情が「薄れて来た」または、「頻度が格段に減った」と感じるのです。 それこそ、「怒りって何?」と言った感覚なのです。 >どういった時に、起こる感情かというと、まず、それはいきなり何かを邪魔された時の感情だ そうですね。。。そうでしたね。。。^^ >その本気度が大きければそれがいきなり邪魔されれば そこに怒りを感じる はい。そのように丁寧に説明頂いて、「感覚が蘇って来た」ように思います。 >喜怒哀楽の 人間味の一部が無いのでは、と思う必要もないです。 はい。 ところで、私自身は「怒り」と言う感情に、「理不尽」と「非人間的」なもの、を強く感じます。そして、「理不尽に自分を突き動かす」感情である「怒り」を、私は物心ついて以来、「毛嫌い」して来たように思います。 「理不尽」「非人間的」加えて、「幼稚」と言ったところでしょうか。。。 「怒りが薄れている」今の自分の方が、「怒りに突き動かされていた」頃の自分より、「格段に人間味がある」ように思えるのです。 こんな自分の感覚が、「正しい」のか、それとも、「何かを無くしてしまった」と言う事なのか、。。。。と少し不安になり、質問させて頂いた次第です。 >人間って弱いです。 でも でもそれさへ、謙虚に知っていればいいことなのではないかと思うのです。 そうですね。。。「謙虚」。。。私の大好きな言葉です。 暖かくて「芯」が在って、大きくて強い。。。でも、だからこそ「哀しさ」を感じてしまう事も多いように思います。 これ以上「謙虚」に、なんてなりたくない!!と思ってしまう事もあります。悪い子ですね。。。 回答頂き、また「自分の中の謎」が増えてしまったようにも思います。 でも、こうして「悩む」事も好きですので、気になさらないでくださいね。 丁寧に書いて頂いた文を拝見して、とても嬉しかったのです。 ありがとうございました!

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