• 締切済み

ある和歌の文末連体形について・追加

また、前回の続きに当たる質問です。 なぜ、これが連体形なのかわからない、という質問です。 文末連体形について例文が追加されました。 すべて古今和歌集の歌で、終止形でないことは明らかです。 文法としては学部レベルの問題だそうです。 連体助詞の「の」「が」を受けているから、連体形で体言止めの一種だそうです。 散ると見てあるべきものを梅の花うたて匂ひの袖に止まれる こぞの夏鳴き古してしほととぎすそれかあらぬか声の変らぬ 人知れぬ思ひやなぞと葦垣のま近けれどもあふよしの無き 思ひやる境遥かになりやするまどふ夢路に逢ふ人の無き 夢路にも露や置くらむ夜もすがら通へる袖のひちて乾かぬ ひとりして物を思へば秋の夜の稲葉のそよといふ人の無き 今しはとわびにしものをささがにの衣にかかり我を頼むる あかざりし袖の中にや入りにけむ我が魂の無き心地する さかしらに夏はひとまね笹の葉のさやぐ霜夜を我が一人ぬる

みんなの回答

noname#160411
noname#160411
回答No.1

以前、私が回答を寄せさせていただいた方でしょうか? >連体助詞の「の」「が」を受けているから、連体形で体言止めの一種だそうです。 その通りです。 では何故「の・が」があると連体形になるかというと… 現代語では「男がいた。」と、文の主語を表すのに「が」を使いますよね。でも、古文では「男ありけり。」と、「が」を使わないのが普通だと習ったと思います。では主格の「の・が」はどういうときに使われるのか? それは、「修飾部分の主語」を表すときなのです。 例えば、現代語で「雪『が』降る。」というと「降る」は終止した感じになりますよね。でも「雪『の』降る。」というとなんだか終わった感じがしなくないですか? でもでも「雪『の』降る『町』。」というと自然な感じがしますよね? つまり現代語では「雪『の』降る」は名詞を修飾するときのみ使われています。「『修飾部分の主語』を表す」とはそういうことです。古文の主格の「の・が」は現代語の「の」と同じ働きをしていると思ってもらえばいいでしょう。 (現)「雪が降る。」=(古)「雪降る。」ともに「降る」は終止形。 (現)「雪の降る。」=(古)「雪の・が降る。」ともに「降る」は連体形(本来名詞を修飾する形だから)。 そして、連体形という形はもともと名詞を修飾する形ですから、次に名詞が来ることを期待されます(「匂ひの袖に止まれる『こと』とか『とき』とか」)。ところが例文はすべて連体形で終わっています。すると、この歌を耳から聞いた古代の人は「匂ひの袖に止まれる(…) アレ? オワリ?」という気分になります。この(…)が「余情」といわれるものです。現代語に訳すときは「止まっている『なあ』とか『ことよ』」などと訳されます。 ただし、「あかざりし」の歌だけは、「魂の」を受ける述語は「無き」のようですので、「心地する」は上記「の・が」と関係なくただの連体止めのような気がします。

kzsIV
質問者

補足

>以前、私が回答を寄せさせていただいた方でしょうか? そうではありません。私は QNo.4412029 係り結びでもないのに文末が連体形なのはなぜ? 質問者:ppocket 質問投稿日時:08/10/19 00:22 に回答を寄せた者です。NASTYさんが解答されたのは、 QNo.4395972 文末が終止形以外で終わる場合 質問者:gudousha1 質問投稿日時:08/10/12 13:38 に対してですね。gudousha1 さんは、私の質問の直前に QNo.4416220 ある和歌の文末連体形について 質問者:gudousha1 質問投稿日時:08/10/20 18:37 「前回の続きに当たる質問です。」 の質問をされた方です。gudousha1 さんが 「しず心なく花の散るらむ」の「らむ」がなぜ連体形なのかとされた質問に寄せられた良回答の   文法的に杓子定規に考えると    1(「など」を補って連体形で疑問として考える)   が近いのですが、近頃では    3(終止形で詠嘆として考える)   のように読む説が有力になっています。従って、   終止形で間違いとは言えません。文学としては   大学院レベルの問題です。 に些か疑義を感じましたので、皆さんのご意見を伺いたく質問しました。 私への回答としてではなく、gudousha1 さんの質問への回答としてお寄せください。

関連するQ&A