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第二次世界大戦でナチスがスペインを占領しなかった理由

janne01の回答

  • janne01
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回答No.10

当時のスペインのフランコ政権は1936~39年にスペイン内戦で、ドイツ・イタリアが支援して成立した親独的な中立のファシズム政権でした。なのでわざわざスペインを攻撃・占領して敵に回す必要はありませんでした。1940年にドイツも地中海の要衝であるイギリス領ジブラルタルを攻略するフェリックス作戦を実施するために、スペインを通過する地上進攻ルートの提供や、スペインの枢軸国側としての参戦を求めましたが、内戦が終結して間が無く国力が疲弊していること、スペインの軍事力・軍需物資の不足、枢軸国側の勝利に確信が持てないフランコの慎重な判断により、ドイツの要請を断り、対ソ戦への義勇軍(青師団)の派兵にとどめ、大戦を通じて親独的ではありながらも中立を貫きました。ヒトラーもフランコの姿勢に内心不満を感じながらも、スペインの中立を尊重した形で対応しました。

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