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「高麗の城陥りし時」(新編武蔵風土記稿)とはいつのこと?

『昔高麗の城陥りし時、主将敵のために討たれ軍ぬ、家臣遁れ出て落人となりこの地へ来たれリ。彼の者力を合わせて家をつくり、今その子孫分かれて住せり」と新編武蔵風土記に』 http://www.asahi-net.or.jp/~yw4s-stu/kigen.html ここでいう、高麗の城陥りし時はいつのことですか? 高麗とは、埼玉県日高市高麗のことだと思います。 よろしくお願いします。

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  • suicyo
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回答No.10

No.2&6&9です。 一人で何度も投稿するのは憚れるのですが、質問者様からの補足がありましたので、大っぴらに追加投稿します。 質問者様、朝霞の板碑の最古の具体的年代のご教示、有難う御座います。膝折(朝霞市)全体としては1268年、一乗院のピンポイントとしては1330年とのことですので、前提条件に変更がない限りは、これで対象期間が更に狭まった訳ですね。 私は板碑については、高麗郡の落人が膝折を開拓してから暫らくたってから、周辺に住んでいた板碑を造る人々が膝折にも移住して来た、もしくは、高麗郡の落人が膝折を開拓して独自で板碑を造るようになるにはかなりの期間が必要、のように考えましたので、No.2&9でも書いたように、源平合戦以前というやや古めの時代を想定しました。もちろん、確証があっての推論ではありません。 ところで、高麗氏の分家の話ですが、実は私も捨てきれない思いをまだ抱いておりまして、以下に記します。 「古代豪族系図集覧」所収の「高麗氏系図」も分家に関する記載があります。 一つは「純宗 住上野藤岡」というもので、延慶元(1308)年に63歳で死んだ当主観純の弟です。No.2&9でも書いた鎌倉攻めで討死した一族の親の世代です。 もう一方の膝折の分家の方なのですが‥ ご指摘のように時代が合わないので、私も深く追究しなかったので、豊丸改め駒三郎が膝折に分家したのは調べ切れなかったので、ご教示感謝です。 実は‥‥系譜に文亀8年?前後にお家騒動らしきもののニオイを感じていて気にはなっていたのです。 |―1良悟――――|―左膳―――――3良伝(継本家) |―2良阿      |―豊丸 駒三郎   (文亀8寂56) 数字は家督の継承順です。良悟・良阿と兄弟で継承し、文亀8年に良阿が56歳で死亡。次の家督は良阿の子ではなく良悟の孫の良伝ですが、系譜に「継本家」とわざわざ注記されていることを考えると、良悟の子孫はもともと本家と見做されていなかったことが伺えます。 ご教示頂いた豊丸改め駒三郎もその良悟の子で、膝折に分家したのも同じ文亀8年とのことですので、これはなにかある‥という感じですね。 こうなってくると、鎌倉時代までに高麗郡の落人が膝折を《最初に》開拓したという前提を疑うべきなのかもしれませんね。

その他の回答 (11)

  • Pinhole-09
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回答No.12

No.11です。 年代の表記に誤りがあり訂正します。 12C初期は1200年代初期、13C末は1300年代末、14C末は1400年代末です。

  • Pinhole-09
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回答No.11

No.8です。 大手でなくからめ手、朝霞の開拓の方から攻めて見ると、朝霞全体の発掘調査では、奈良、平安時代にかけて大きな集落跡は、見つかっていないという事です。 鎌倉時代初期12C初期に開拓がはじまったようです。 一方新羅王館があったとの伝承があり、発掘調査したが跡は見つかっていません。   新羅王は高麗王の間違いでないかとの説もあります。新羅国からとすると13C末期で別の話になります。 膝折地区では 埼玉県高等学校社会科学部歴史研究部会編の本に 一乗院の項に「室町時代にこの地に移り住んだ高麗氏一族の創建になる」と書かれており、この根拠は不明ですがそう考える人はいるようです。   14C末期の膝折宿の繁盛よりすると、もっと早い可能性も考えられます。

  • suicyo
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回答No.9

No.2&6です。 歴史推理は私も大好きです。ただ、Q&Aサイトで延々と続けるのは問題ありですね。 と自覚しつつも、No.2&6で割愛した内容を追加するという名目でNo.8さんの追加投稿へのコメントをしましたので、興味のある方だけ読んでやって下さい。 No.8さま、コメント有難う御座います。 仰せの通り、固有名詞の高麗城や、「高麗ノ城」と推定される城柵・居館などが現存や推定されていないのがネックです。ただ、No.2でも書きましたが、武蔵国高麗郡の在地領主として代を重ねてきた高麗氏が武士団を形成していたことは確実なので、高麗氏を頂点とする武士団のピラミット構造に対応する、城柵や居館のネットワークが存在したと考えるのが自然でしょう。この手のものはご当地の郷土史家にお願いするしかありません。 本堂建築の時期が南北朝前期でなく江戸期との件ですが、寺は何度も再建を繰り返すものですから、南北朝前期は観音寺の本堂建築、江戸期に一乗院として再興して本堂再建ということでしょうね。 そもそも、高麗郡の戦乱の落人が膝折(朝霞市)に来て原野を開拓したという話ですから、「当寺の開山年月日は不詳であるが、鎌倉時代から室町時代に造立された板碑(朝霞市文化財)が、150基程出土した事を勘案すると室町時代後期と推定される」という URL の記事のように、高麗郡の戦乱と膝折(朝霞市)の開拓は、考古学的にも鎌倉時代以降の時代設定にはなりません。 No.2でも書きましたが、私も最初は高麗氏本体に関係する戦乱だと考えて系譜を調べましたが、No.8さまのご指摘のように、南北朝以前に高麗郡あたりで戦乱のあった形跡が見当たらないので、行き詰まりました。そして、推理の結論は「源平合戦が本格化する以前の院政期初頭あたりに起きた、高麗氏傘下の小さな武士団の私闘」という、何とも味気ないものです。それ以降の「武士の時代」になると、小さな武士団は自立できずに家臣という立場と秩序に組み込まれますので。 蛇足ですが、No.2で書いた高麗氏の討死情報の補足です。 No.8さまのご指摘の1350年頃の件とは、中先代の乱に関係するものだと思いますが、「高広・則名 文和元年(1352)討死」とはその時のものです。 もう一方の「行持・行勝 正慶2年(1333)討死」は、新田義貞の鎌倉攻めの時です。 私もこの討死記事を見つけた時は、これだ!と思ったんですけどね‥。

yoshinobu_09
質問者

補足

有意義な議論ありがとうございます。 じぶんでも調べてみました。 まず板碑ですが、朝霞は板碑製作が盛んだったようで、日本有数の密集地です。 最古のものは岡の東円寺にある1268年のものです。 一乗院の板碑は再調査により190基にものぼり、最古は1330年です。 http://www.city.asaka.saitama.jp/guide/shogai/bunkazai/02.html 板碑を造る文化のある朝霞へ高麗氏が流れ着いて、定住し、板碑を造るようになったのでしょう。 板碑製作の目的は、先祖供養だそうです。 それから、「高麗神社と高麗」(高麗神社発行)では、高麗を名乗らせて分家を出したのは群馬県の藤岡と膝折だけといい、膝折には文亀8年(実際には3年までしかない)に「同豊丸膝於利出。後、駒三郎名乗」とあります。 高麗豊丸が膝折に出て、高麗三郎と名乗ったというのです。 文亀8年は1508年ごろで、時代が合いませんが、高麗氏と膝折と関係があることの証左になります。 そして、高麗の城ですが、それが高麗氏館であるとしても、その存在が確認されていないようです。 http://ckk12850.exblog.jp/3572675 「高麗氏館の場所」ほどの基本的なことが不明になるということは、古文書類が残されていないということでしょう。 高麗族は歴史には関心が薄いのかもしれません。 館が焼けて古文書を失ったとも考えられますが。 一乗院縁起に「乱世の平和に立ち還かえる事を冀い願い、余の人々の後生と菩提を願って守り本尊とし、一宇を建立したのが始まりであり」 とありますので、私闘などの小さな出来事ではなく、鎌倉末期の乱世の戦いだったと考えたいところです。 そのような史実があれば話が合致するのですが。

  • Pinhole-09
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回答No.8

No.5です。 一乗院略縁起を読む限り、SUICYOさんの意見はもっともです。 ただ問題点もあります。   高麗城が存在した形跡が見当たらないことがそのひとつです。   これは縁起の不正確さによるものでしょう。   館を城と書いたとすれば理解できます(落人5人しかいないので)。 もうひとつは南北朝の以前に高麗郡あたりで戦乱のあった形跡が見当たらないことです。   これは縁起の誤りで本堂建築期が南北朝前期でなく、ASAHI NET 記載の江戸期と考えれば解決します。 南北朝期には、1350年頃高句麗の子孫の高麗孫四郎経澄が、足利尊氏側に付き数々の軍功を挙げ、尊氏から高麗郡の地頭職に任ぜられた文書(軍忠状)があるそうです。 この際南に付いたり、北に付いたりしたことが分かっており、内輪もめがあったと思われます。 この頃ではないでしょうか。   

  • hukuponlog
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回答No.7

#3です。素人(もちろん私も素人です)の歴史推理は楽しいですね。 #2さんのおっしゃること,納得しました。私は,勘違いをしていて,一乗院という寺院そのものが,埼玉県の高麗郡にあるものだと思っていました。つまり,高麗の城が落城した後に,どこかから,5人の家臣が埼玉県の高麗郡に流れ落ちてきた・・・と思っていたのです。 でも,たしかに,一乗院という寺が朝霞にあるなら,#2&6さんの説の方が適切ですね。負けたぁ!(笑)

  • suicyo
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回答No.6

No.2です。 No.2は「素人のくだらない謎解きごっこ」と自分で書いているくらいですから、別に自説に固執するつもりはありませんが、他の方の回答に腑に落ちない点がありますので、再度コメントします。 一乗院略縁起の看板の記載事項の文脈を、再度明示します。No.2の繰り返しになりますが、わかり易いように加筆しました。 ・716年 高麗人が入植し武蔵国高麗郡設置 ・その後の戦乱で「高麗ノ城」陥落、主将某は討死 ・「家臣五人逃レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ」 ・(一乗院の起源である)観音寺の建立 ・「その後星移り物替って南北朝時代の初期に」本堂建立 この文脈を素直に読む限り、 高(句)麗人が入植した武蔵国高麗郡に、その後戦乱があって「高麗ノ城」が陥落。主将が討死したので家臣が膝折(朝霞市)に落ち延びて土着し、観音寺を建立 としか私には読めません。なぜ話を朝鮮半島の高麗の方に持ってゆくのでしょうか。私は、質問者様と同じく、「高麗の城」の高麗とは武蔵国高麗郡のことだと思います。 「高麗ノ城」が固有名詞ではないのがネックになっていますが、高麗郡の開発領主?の高麗神社の社家の高麗氏の居館が「高麗城」「高麗館」などと呼ばれていた「らしい」という記述を以前どこかで見た記憶もあり、「高麗ノ城」は素直に武蔵国高麗郡にあった城と考えれば良いのではないしょうか。 更に、朝鮮半島の高麗での異変で膝折に新たな移民・難民が来たと言うのなら、話をそこから始めれば良く、何も716年の高句麗人による武蔵国高麗郡設置の話などを持ち出す必要も無いと思うのですが‥ 但し、上記は一乗院略縁起の看板の記載事項の文脈のみに依拠しておりますので、看板の記載内容自体に不整合や付会などが含まれる場合は、私の論拠も崩壊します。ご当地の郷土史家の方で、何か知見をお持ちの方が居られましたら、是非ともご教授頂きたいと思います。

  • Pinhole-09
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回答No.5

No.4です。   No.3の答えが正しいと思います。 高句麗国でなく高麗国ですね。 [一乗院」の項を読むと武蔵国の高麗でなく朝霞の板碑です。 1232年か1392年かということですが、前者は高麗国がまだ残っており、日本も元との対立から難民を受け入れられる状況ではなく、後者の高麗国滅亡時(室町時代)ではないでしょうか。 その頃は明で対日関係は良好でした。 高麗郡以降の難民渡来の知識がなく間違えました。

  • Pinhole-09
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回答No.4

日本へ高句麗人などが移住し始めは5世紀頃と早いようです。 北武蔵への移住は少数ですが6世紀頃と推定されています。 666年高句麗の使者王族の二位玄武若光は帰る機会がなく、移住することになりました。 二年後の668年唐の援助を受けた新羅が、高句麗を滅亡させると(高麗城陥落とはこのこと)高句麗人の移住が始まりました。 716年朝廷は武蔵国へ集団移住させました。   その数約1800人。   高麗郡と命名しました。    その統領の若光に朝廷は王姓を与えられていました。

  • hukuponlog
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回答No.3

私も推理してみます。 引用urlの看板の文章を読むと, 「716年,駿河,甲斐・・・七国の高麗人,1799人が武蔵国(現在の入間付近)に移住し,高麗郡が築かれた」という文章が先にあり,その続きとして質問文の「その後戦乱ありて高麗の城陥りし時」となっています。 ということは,論理的に考えて716年以降のことだということが分かります。 続きの文章では「家臣5人○○(のが?)れて○人となり此の○○の地にへ来れり」となっています。ということは,「高麗の城」というのは,この土地とは別の場所にあったということになります。 この二つから考えると, 1.元(蒙古)による高麗攻撃と服属 2.李成桂による,高麗滅亡 のどちらかの事件を指しているのではないかな,というのが私の推理です。 1だとすると,例えば1232年の開城陥落 2だとすると,1392年の高麗滅亡 ということになります。

  • suicyo
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回答No.2

以下は、素人のくだらない謎解きごっこです。ので、お暇なら見てやって下さい。 面白そうなので、手持ちの資料の範囲内で調べて見ましたが‥ ご当地でのメジャーな事件ではなさそうですね。 ご紹介の URL に掲載されている説明板の写真の細かい文章を見ると、 ・716年 高麗人が入植し武蔵国高麗郡設置 ・その後の戦乱で「高麗ノ城」陥落、主将某は討死 ・「その後星移り物替って南北朝時代の初期に‥」 という文脈なので、「高麗ノ城」陥落は奈良時代以降、南北朝時代のかなり前のことと推察されます。 で、当然思い当たるのは源平合戦の時代ですし、高麗郡の開発領主?の高麗神社の社家の高麗氏の一族も武士団化し鎌倉御家人にもなっていたらしいので、主将某とは高麗氏の当主か近親のことで、一族の存亡にかかわる大事件だと思ったのですが、ここから先が皆目わかりません。 試みに「古代豪族系図集覧」所収の「高麗氏系図」を見たのですが、討死の記録は南北朝内乱の頃のものだけで、平安~鎌倉期には見当たりません。 行持・行勝 正慶2年(1333)討死 高広・則名 文和元年(1352)討死 つまり、「高麗ノ城」陥落、主将某は討死、というこの事件は、高麗郡の支配関係が転換するような大事件ではなく、高麗氏傘下の小さな武士団の私闘のようなものか、或いは高麗氏内部のお家騒動のようなものではなかったのかと‥ 仮に、小さな武士団の私闘とするならば、源平合戦が本格化する以前の院政期初頭あたりのことでしょうね。

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