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カトリックとプロテスタント

求道中の者です。 現在バプテスト教会に通っています。 いずれ洗礼を受けるつもりですが、最近カトリック教会にも 興味が出てきました。 洗礼の前に色々な教会に行くのも悪い事ではないかと思いまして。 そこで質問です。 (1)カトリックでは祈りはどういう感じですか? 現在は結構自由に祈っています。いつも気軽に思った事を 祈る感じです。カトリックでは何か司祭を通じてでなければ 聞き入れられないと聞いた事があるのですが? どうなんでしょう? (2)カトリックでは異言はどういう扱いでしょうか? 勿論教会内では言わない方が良いでしょうが。 今通っている教会では重視しないが止める事もないといった 扱いでした。勿論教会内では語りません。 (異言についての反論はここでは議論しません) (3)プロテスタントで身につける象徴の様な物はありますか? カトリックではメダイやロザリオ (これは身につけるものではないですが)ですが プロテスタントの者が十字架等を身につけるの はおかしいですか? (4)カトリックは人間関係難しい(笑)ですか? (5)ずばりカトリックとプロテスタントの長所と短所は? 又ここが素晴らしい!といった主観的な意見も歓迎です。 以上一つだけでも良いの回答頂けば嬉しいです。

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  • kigurumi
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回答No.5

No.3です。 閉めてないので、前回の返信内容について。 >まあ牧師さんの話ではサタンとは人に向かって話す >ものではなく「信仰を妨害するもの」「神に反するもの」 >にいう言葉で決して人に向かって言っているのではない >と聞いてなるほどと思いましたが。 サタンってヘブライ語では<敵対する者>という意味。 例えばディスカッションをする上で、全員同じ思想なら、進展(変化)はないですよね。 裸の王様ってあって、皆が王様は素敵な衣装を着ていて、馬鹿だけはそれが見えない と言われているので、皆本当は衣装など見えていないのに、素敵な衣装だと褒め称えた。 つっこんで「どんな衣装を着ているか」と個別に質問したらおもしろかったでしょうね。 回りがそういうから、自分もそう言う。それが波風立たない。 「見えていません」 と正直に言えない。 何故なら馬鹿だと思われたくないから。 ユダヤ教において、エリートの学校があったそうなんですね。 イエスは実在していませんでしたが、エリート学校は確かに存在していたそうです。 レビ族の子女が学んでおり、教師はアロン系の祭司だったそうです。 で、「らくだが穴を通るより、天の国に入るのは難しい」って言葉が聖書にありますでしょ? 英才教育のその学校では、ランクがあり、卒業間近いランクはらくだと呼ばれていたらしいです。 で、天の国ってのは、聖職者の中のトップクラスの人たちによって構成されていた。 「神の義のために迫害されたものは幸いなり。天の国は彼らのものなり」 となると、宣教して迫害された人たちは、死んだあと天国に行ける切符を手に入れられるような そんな印章をもちません? 殉教すれば、天国に間違いなく行けるような そんな気になりません? これはキリスト教の教理の1つです。 でも、実は「神の義を<追い求めるもの>は幸いなり。天の国は彼らによって構成されている」というのが本当の意味だとしたらどうでしょう。 神の義を追い求めたヨブは、とうとう神の前に立ちましたよね。 ユダヤ教のエリート学校を卒業したものは、将来のユダヤ教の幹部候補生。 彼らの中から天国を構成するものが出るわけです。 トップクラスの大衆者と呼ばれる12人だったような・・・・。 12人ですが、大衆者と呼ばれる。 だから聖書に大衆者という言葉が出てきたとき、多くの人たちという意味なのか、天使(天の国を構成する者たち)のことなのか、注意する必要がある。 で、卒業試験ってのがあって、審査をする人はサタン役になって、挑戦者に問答をふっかける。 イエスの荒れ野の修行でサタンと問答のやりとりをしましたが、あんな感じ。 サタン役の審査官から「よし」という合格を貰う返答ができなければ、卒業試験に失格となる。 この場合サタンとはディスかションする相手方のことですね。 「地位・名誉・財産など欲しくない」と言っただけでは不合格なわけです。 それがなんになろう という論法をもって試験管を唸らせないと符合買うになる。 恐らくその箇所は、この学校を出た人だったんじゃないか と。 もしかしたら、自分が受けた試験の問答内容を小説に書いたのかもしれないですね。 問答内用が外部に漏れたら、難易度が下がりますが・・・ 恐らく 受ける生徒によって内容は違ったのでしょうね。 >根は真面目で悪くはないと思いますよ。 だから怖いんですよ。 まるでロボットのように、命令する対象者がスイッチを切らない限り、それが正しいのか間違いなのか、自分の頭で判断せず、コマンドをなんのためらいもなく実行できてしまうので、恐ろしいんですよ。 そういう改造ロボットが。 そういう血の涙の無い、ロボット人間が。 それはキリスト教の歴史を見ればわかりますでしょ? ホロコーストでユダヤ人を殺していった人たちは、家に帰れば同じ年頃の子供を持つ優しい父親だった。 でも、コマンドを打ち込まれたら、実行してしまった。 <ミルグラム実験>でどうして真面目で善良な子供思いの男が、ユダヤ人をためらいもなく殺せたのかを検証しています。 >分からない事は分からないで良いと私は思うのです。 ですね。 ただ、信者になる人は、わからないけど、何かを信じたい という気持ちが強いんじゃないか と。 日本は宗教熱がほとんど無いですよね。 ある人はひきこもりで、 その人が言うには「この家には宗教が無い」だそうです。 括弧たる揺らぎの無いものが無いことが不安でしょうがないわけです。 選択肢が1つしかなければ、悩まなくてすむ。 だから、戦争が始まると、精神科は閑古鳥が鳴くそうです。 人は自由という牢獄に書せられている と誰か哲学者が言っていた。 人に「こういう道を歩きなさい やりなさい それがあなたの唯一の使命です。」とやることなすことを全部決めてもらえたら、ある意味楽でしょう。 全部 命令してもらって それを実行するだけでいい。 ロボット・・・・。 自分はロボットになりたい。 カトリックの方が選択肢が無いので、生き易いかもしれないですよ。 楽したかったら上の人が言う通りにやっていればいい。 選ぶことは無いので、迷う機会が無い。 1行目から順に実行をしていけばいいんです。 プロテスタントは、人によって捉え方が違ってもいい という結構ゆるい考えなので、自分は聖書のこの箇所はこう読みとる と言ってもいい。 でも、違う読み方をする人と相容れないので、どっちが正しいのか、相手が正しく自分の理解が間違えているのか 不安になるんじゃないか と。 今 どれくらいキリスト教派閥があるんでしょうね。 でも2千年ほど前は、今とは比べ物にならないくらい 沢山の種類があったそうです。 それぞれがこれがイエスの言った言葉と主張した。 その多様性を容認できなかった人が、新約聖書を作ったんです。 たった一つだけの解釈にして、他を殲滅するために、聖書という核兵器を作った。 これが新約聖書ができた理由。 人を幸福にするために造ったのではなく、自分以外の思想の人を根絶するために作った。 ところがその作った人も異端として迫害されちゃった。 3人が主な編纂者ですが、そのうちの少なくとも1人は異端としてのちに迫害されたと記憶しています。 自分の作った爆弾でまさか自分が死ぬなんて・・・・ ねぇ。 というわけで、新約聖書は初期の教父が作ったんです。 文章を作るにあったって、あっちこっちから文節を取り 繋ぎ合わせて作ったわけですが、山上の説教あたりでも、編纂間違いがあるらしいです。 どっか他のところにあった文節を、山上の説教の中に間違えて入れちゃって、文節全体の意味が違うことを示すようになってしまった。 まあ 人間が作るので、間違いは起こりうるわけです。 が、その間違えを真実だと教えるってのは。。。。 レシピが違うから、当然 できませんよね? で、恐らく元の内容はヘブライ語で伝わっていたと思うんですね。 だから もし文章化していたら、どっかから将来出てくる可能性もある。 原文が。 でも、新約聖書を作り押し薦める際に、偽物として他の福音書とともに焼かれてしまった可能性もある。 ユダヤ教では例え偽物という疑いがあるものでも、神のことについて書いてあるものは燃やしてはならない となっているんです。 キリスト教は燃やしちゃった・・・・ orz・・・・。 その命令があったとき、アレクサンドリアの教会の人が、ひそかに対象もものを隠しただろう ってのが、ナグ・ハマディー写本。 グノーシスの文章だから偽物 とキリスト教は言ってますけど、キリスト教自体がグノーシス思想。 ユダヤ教からすれば冒涜の思想。 新約聖書のイエスの言葉って、ユダヤ教で既に言われてきたものばかりなんですね。 なんら新しいものは無い。 だから、旧約聖書を読めばイエス作家の言っていることがわかる。 あの当時 今のように印刷技術は無いので、ユダヤ教の英才教区を施された学生とか、聖職者のみが、後に聖書となる文章を読めたと思うんですね。 ということは、イエスの言葉はユダヤ聖書の中にあるってことだから、イエス作家は、聖職者 もしかしたら、大衆者の1人だったかもしれないですね。 もちろん文章にしたのは写字生でしょうけど、写字生も神学に熟練していなければ、文字を書けないので、ユダヤ教エリートたちの作品かもしれません。 ま その人たちの作品を読むわけですから、何十年もかかって理解を深める人によって作られたものを、数年で理解するってのは無謀だとは思いますが、、、、 というわけで、私は冒険物語として捉えています。 こんなこと 実際あった怖いです。 あくまで創作文学だからと思っているから読める。 なんだっけ? こんな感じの文章だったような。 「私が救いに来たとおもっておるのか。そうではない。火を放ちにきたのだ。既に火が放たれて審判がされていた後ならどんなによかったことか」 みたいなことイエスに語らせていますよね。 死刑執行人? って感じ? 「諍いをもたらしにきた」とかも言ってますでしょ? キリスト教の言い方をすればイエスは悪魔 笑。 創作文学だと知っているから読めるんです。

keukegen
質問者

お礼

kigurumiさんの知識には舌を巻きます。 私はまだこれからですね。 ただロボットの話やナチスの話を聞くと 貴方は本当に優しい人なのですね。 頭の回転が良すぎる感じがします。 でも本当に勉強になりました。 貴方の意見が今後の私の思想に確実に 影響を与える事は確かです。 何か褒めちぎる言い方をしました。 この様な表現も貴方にとっては不本意でしょう。 貴方の言う創作文学・・・聖書は確かに 人の手垢にまみれている事は確かかもしれません。 イエスなる人物も存在していなかったかもしれません。 ただ私は遠藤周作氏の 99%の疑いがあっても1%の希望 という言葉を信じたいです。 あぁやはりクリスチャンなんて!と思うかもしれませんが それが「信仰」なのです。 「信仰」とは決して本人が目で確認した事ではありませんよね。 ですからkigurumiさんの意見に反論する術は私にはありません。 目に見えてそれが確認出来きるのであれば 現在ではそれは「事実」でしょう。 又今で言う科学や物理現象でしょう。 出来ないから「信仰」なのです。 いや確かにその「信仰」が大きな不幸を起こしてきた 事もあるかもしれません。 でも開き直って言えばそれが「人間」なのかもしれません。 でも「信仰」に関係なく結局人間は残酷ですよね。 戦場では宗教家だろうが無心論者だろうが自分が生きる為 に人を平気で殺すかもしれません。 ですからそれはオウムだろうがキリスト者だろうが 無心論者だろうが同じです。 kigurimiさんにはこの様な長い回答を頂き感謝しています。 何か最後は反論みたいになってしまいましたが正直 な気持ちです。 しかし、聖書は創作で矛盾に満ちているかもしれないが そこに「一つの真理」を自分の直感にのみ感じる者が キリスト者になるのでしょう。 それは良い事でも悪い事でもありません。 貴重な時間を使って頂き本当にありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • kjssiy
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回答No.4

こんにちは。(5)の質問に関係するかと思いますが、カトリックとプロテスタントの違いについて、お話させていただきます。日本では、両方ともキリスト教として広く認識されていますが、信じている内容を比較すると、ほとんど別の宗教と言ってよいと思います。欧米や南米では、完全に別扱いです。友人に、日系ブラジル人のクリスチャン(プロテスタント)がいますが、ブラジルでは、カトリックの信者のことをクリスチャンとは呼ばないそうです。それぐらいの距離感が、日常的にあります。実際、信仰内容を見れば、根本的に違っていることがよく分かります。たとえば、カトリックは、真理のすべてが聖書にあることを認めません。教皇の言葉や、教会会議の決定事項なども、神の啓示です。また、信仰による救いではなく、行いによる救いを明言しています。ですから、自分が救われているという確信を持つことはできません。他にも無数の相違点、しかも根本的な相違点があります。そうした違いを学ぶには、ICM出版の「プロテスタントとカトリックの団結ですか?」(1400円)が参考になります。カトリックの教えと聖書の教えとを丁寧に比較検討してあります。カトリックの主張を、カトリックの文書から引用していますので、信頼できます。一般の本屋さんでも注文できますので、ぜひ、ご一読ください。

keukegen
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ブラジルではカトリックの事をクリスチャンと呼ばない のですか? プロテスタントは確かに聖書が全ての感じはします。 カトリックも聖書が中心だと思っていましたが。 勿論教皇の言葉は重要な意味があるのかもしれません。 >自分が救われているという確信を持つことはできません。 これに関してはちょっと疑問です。 カトリックだろうとプロテスタントだろうが目的地は一緒 だと私は思っていましたが。 なんにせよ同じ最終地を目指している者がいがみ合うのは醜い ですね。でも現在のキリスト教はこういう問題を含んで いるんですよね。何か悲しいですね。 本の紹介ありがとうございます。 ネットで調べて読んでみます。 ありがとうございました。

  • kigurumi
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回答No.3

No.2です。 >ですから宗教にはまっている連中を毛嫌いしていました。 >ですがそういう精神は結局「宗教気になる」だった様です。 まあ、私も似たようなもんです。 無神論者なのに聖書もってます。 ご丁寧に、日本語と英語の両方。 (日本語訳だと意味わからないから。日本語の聖書を読んで言っている意味がわかるって人いたら尊敬します。) なんで聖書持っているかというと、気になる詩をネットで書かれ、「なんだろう 全文を見たい」と思って調べたら、それが聖書の文句で、全文を知るには、聖書を手にいれなければならなかったから。 私、本に関してはお金出し惜しみしない主義。 買ったものはもったいないから読む主義なので、お陰で、キリスト教こそ真理だと言うバリバリのカトリック信者の主張を、<聖書の言葉>をもって、あなたの聖書理解は間違いである とバトルして、結構いい戦いができるレベルにまでなっちゃいました。 相手の主張に対して、無神論者の私が聖書の言葉で対抗する。 普通、逆ですよね・・・・ 例えば相手が聖書の文句をもって私に言っても、聖書が矛盾をはらむから、私に聖書の別の言葉を使われて、否 とされてしまう。 聖書の怖いところは、使い方でどうにでもできてしまうところ。 聖書の言葉をもって、聖書の言葉が打ち消されてしまうところ。 だから 聖書の言葉を利用して、キリスト教が腐敗しまくってしまったってわけです。 使う人によって善にもなれば悪にもなりえる。 で、私を制するために、挑んできたカトリック信者の方は私に煽られ・・・、 とうとう、罵りが始まり(これぞ私が待ってましたという状況)、果ては悪魔ちゃんを召還するまで、相手の人は、私に追い込まれた。 さあ 今こそ見せてみろ! お前の信仰心を!!! と待ち構えました。 ここが最大のチャンスだったのに、相手は逃げた。  やっぱり~ お前もかぁぁぁ です。 何から逃げたかというと、<神の前に立つ>ことから逃げた。 神の前に立たずに、助っ人呼んだ。 私は、追い込まれた相手の人がヨブのように泣き叫んで、神の前に立つ行為をしたら、相手に敬意を表したと思います。 満足して引きだがったと思います。 なんでしたっけ? 聖書ではイエスが十字架にかかると宣言したら、ペトロが「そんなことしちゃあいけません」って言って、イエスがペトロに「退け サタン」と言いましたよね。 聖書作家 おしいって思いました。 これじゃ イエスは私とバトルしたあの信者と同レベル。 まあイエスもペトロの実在の人物じゃありませんが、聖書作家の信仰が聖書に描かれているわけですが、、、 おしーーー。 まっ ともかく 結婚したら離婚できませんから、、、、 つまり 恐らくどの宗派で洗礼を受けても、あなたはキリスト教徒になり、宗派を変えようと、宗教やめようと、死のうと 自分はキリスト教徒じゃないと言おうと、あなたはキリスト教徒になるので、儀式を受けて入会する時は慎重に。 烙印は死んでも消えませんから。

keukegen
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 kigurumiさんはその辺のクリスチャンより 聖書を読んでいるかもしれませんね。 私はまだ求道生活数ヶ月なので聖書を全部読んでません。 新約は全部読みましたが旧約はあと3割程です。 あぁ確かにイエスの言葉は私も疑問でした。 「下がれ!サタン!」ですよ。 あんた一番弟子に向かってサタンはないでしょう。 まあ牧師さんの話ではサタンとは人に向かって話す ものではなく「信仰を妨害するもの」「神に反するもの」 にいう言葉で決して人に向かって言っているのではない と聞いてなるほどと思いましたが。 でもこういうところがクリスチャンが誤解される 原因ですよね。 サタンですよサタン!デビルマンじゃないんだから(笑) 私も教会でサタンと聞いたとき「なんだ~!?」と思いました。 でもあまりクリスチャンをイジメないで下さいね。 私も含めて浅はかな人もいるかもしれませんが、 根は真面目で悪くはないと思いますよ。 もし私がクリスチャンになってkigurumiさんの様 に切れる人と論争になったらヨブの様に神の前に 立ちますね。「助けてくれー」と(笑) いや冗談でなく確かにそれが真理ですよね。 分からない事は分からないで良いと私は思うのです。 それをクリスチャンだからと片意地張る事ないですよね。 第2の結婚は確かに慎重にしなければなりません。 こんなはずではと思いたくないですからね。 色々ありがとうございました。

  • kigurumi
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回答No.2

結婚前にいろいろな人と付き合い、その中から自分と相性がいい者と結婚するってのは、賢い選択だと思います。 >1)カトリックでは何か司祭を通じてでなければ >聞き入れられないと聞いた事があるのですが? それは聞いたことが無いですが、ありえると思いました。 カトリックはヒエラルキーがあり、階級社会です。 教皇が一番トップで、神と会話することが可能な唯一の人間としています。 カトリックは信者が神と直接会話することは絶対に許されません。 というか、教皇が唯一会話できる人なので、祈るなら神じゃなく自分より上のランクの人に祈れってわけです。 何をぺーぺー信者が神に言葉を直接伝えようとするのだ、恐れ多い ひかえおろ~ ってわけですね。 宣教もペーペー信者にはその資格はない。 対するプロテスタントは万人司祭なので、ぺーぺー信者でも祭司として布教活動してもいい。 いわば教皇の権力とプロテスタントの一信者の権力は同じだとしている。 従って、プロテスタントの場合は、信者が神に祈っても(神と直接会話しようとしても)いいんです。 2) うーーん。反論じゃなく真実だと私が思うこと。 バプディストは異言を重要視していますが、要するに http://209.85.175.104/search?q=cache:wAVVjm9Zz9oJ:scaryfilm.blog101.fc2.com/blog-entry-1172.html+%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A7%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B&hl=ja&ct=clnk&cd=1 のようなことを推奨しているわけですよね。 冷静に見ればこれは、集団ヒステリー。 コンサートやサッカーの試合で興奮して叫んだり 暴れたりする人 多数出ますでしょ? 集団で興奮状態になり おのおの ヒステリーを起こすという集団心理現象。 カトリックはもっとお上品なので、教会において集団興奮状態に身を置くってのは聞いた事が無い。 イギリス国教系だと思えるところの集会に参加したことありますが、静かに脳内麻薬によりエクタシーを感じ、失神する人は続出してはいました。 「おお ロード」とか 両手をあげて ゆさゆさ体をゆすって 満面の笑みを浮かべ 急にバタン!!! あっちで バタン こっちで バタン。 こえ~ と思いました。 これも集団催眠ですね。 200円ほど前、ヨーロッパではカトリックが腐敗しまくっていて、恐ろしい状態になっており、それで人々は宗教から逃れるために、アメリカに渡ったわけです。 19世紀前半まではアメリカは宗教熱が無かったのですが、ベトナム戦争後に、バプディスト系が活発に活動し、それでアメリカにかつてヨーロッパで起こった悪夢が再び起こることになった。 イラク戦争(殺人と略奪目的の戦争)を支持したのもバプティストとかそっちの系統が中心でした。 ケーブルテレビの普及により、テレビ教会ができて、人々を興奮させる話術を持つ伝道者が、集団催眠を使って人々を興奮させるようになった。 要するにヒトラーの演説と同じ手法を使って集団催眠にかけるってわけです。 だから 説教を聴いた信者は、コンサート会場のように 叫び 地べたを転げまわるったりするわけです。 昔テレビで催眠術のショーやってましたが見たことあります? 術者に誘導されとても普段はできないことを、公衆の前でやらせたりしたあの集団催眠ショー。 あれと一緒。 でも 本来は、、、 ユダヤ人はディアスポラしてローマ帝国各地に散らばっており、(ギリシャ地方だけでも本国の8倍のユダヤ人が住んでいた)、それぞれが母国語がヘブライ語じゃなかったわけですが、そのディアスポラした異邦人 すなわちディアスポラしたユダヤ人に布教し、各地から集まったディアスポラしたユダヤ人が、一堂に会して祈りを捧げるとき、それぞれ喋る言葉は違うが、同じユダヤ人の血が流れていると気づいたって下りじゃないか と。 父により散らされていた羊が、父の元に戻ることが許されたってこと表す箇所じゃないか と。 放蕩息子の帰還と対応。 3)カトリkックは偶像崇拝ですが、プロテスタントは偶像崇拝しません。 これといったシンボルをつけることは、偶像崇拝を意味しており、神は偶像を作って神の代替として使うことは禁止していたと聖書に書いてあるので、プロテスタントはしないです。 プロテスタントの信者の中にも、処刑道具のミニシュアを首から提げている人はいます。 が、ほとんど見かけません。 十字も切らないです。 処刑を意味するので。 目の前で十字切られたら、「殺すぞって言ってる?」とか思っちゃうかも。 4) 人間関係。。。 なんたってヨハネ・パウロ氏も内部でイジメにあっていたらしいので、上がそうですから、上がそうであれば下もそうなんじゃないか と。 なんって上のやることを下もやれって教育ですから。 上がお手本を示すので、下もそのようにやらなければならない。 天がそうそうであれば、地もそうなるしかないって聖書に書いてあったような・・・。 要するに軍隊と同じで上官の命令には絶対服従。 従わないと 鞭とか棒で殴られる。 以前カトリックの信者の人と会話したことありますが、家に鞭あって時々使っているそうです・・・・こえーーーー! 今じゃないんじゃないかと思いますが、教会の言うこと聞かない聖職者は公開鞭打ちとかやって 辱めを与え、絶対服従を体に叩き込ませたらしいです。 それとカトリックは金持ちしか信仰を維持することは難しい。 金かかるらしいです。 いろいろなボランティアに借り出されるが、金が続かなくて、カトリックの友人は教会に行けなくなった。 それが彼女が教会から遠ざかざるをえなかった理由だそうです。 で、参加しないと、結構冷たくされるらしいです・・・orz。 あと、狂信的 というか 異常なまでに厳格的な人が多い。 一度、バリバリのカトリックの人とネットでバトルしたことがありましたが、大笑いすること面白かったです。 まあ 私も煽って本性を公衆の面前でさらけださせようとしたわけですが、、、、 見事に私の計画通りに 本性を公衆の面前でぶちまけてくださいました。笑 私、信者のみなさんから悪魔と呼ばれていましたが、魔女とか蛇とか言って欲しかった。笑 ああ、そうそう、私とネットでバトルしたバリバリのカトリック信者のその方、親友を召還するって言ったんです。 ほーー 何人でも かかってきんしゃい! って待ってたら、親友やってきた。 そのネットで私達のバトルにやってきた召還されたその人のアバタが・・・ 悪魔だったんです! 爆 「よん?」って、うけました うけました。 いやあ カトリックは信者が知恵をつけることを妨害するため、図書館を閉鎖したという歴史がありましたが、、、今も図書館閉鎖しとるんか と思いました。 いきなり路線変えて、笑いを取りに来たのか?と一瞬思ったが、マジで攻め込んだつもりだったらしい。 いや 気持ちはわかりますよ。毒には毒をでしょ。 でもねぇ、 キリスト教は絶対だって言う人の選んだ助っ人が、悪魔のアバタじゃ しゃれにならん。 天使アバタならいいですが、覚悟しろ!って選んだ自分の助っ人が悪魔 やばいっしょ。 自分も悪魔だって言って公言したようなもの。 それすら気づかない墓穴掘りまくったカトリック信者・・・orz 「あんた 安心せい! お前は知恵の実食べとらんことが今証明された。!!!!」です。 このような方々とあなたは交流をしたいですか? よん と友達になりたい? よんの友達が悪魔ちゃんですけど・・・。 悪魔ちゃんに囲まれた楽園・・・ 死んでも行きたくないわ! そいつらが全員天国行くなら、私絶対地獄行く!  マジボケ笑いの悶絶拷問を永遠に受けたくない。 (まあ そんなもんないですが) 5) 何をもって長所・短所とするのかは、人によって違うと思うのですが、、、 まず、カトリックは避妊をしてはいけない。 コンドームやピルの使用も絶対に禁止です。 性欲を感じたときは、神が祝福を与えたときですから、すぐに性交をする。 生めよ増やせよ なので、カトリックの家庭は子沢山なわけです。 そしてカトリックは絶対に離婚はできません。 カトリックのいいところ・・・・ 自分で何も考えないでいい。 信者は神と直接会話することは絶対に許されませんが、教皇はでき、教皇が判断したことが、神が判断したこととなり、要するに上が言う通りに信者はしていればいいわけで、楽なわけです。 オツム使う必要ない。 上の言うことを ハイハイって実行していればいい。 楽でしょ? 殺せといわれたら、はい ただちに って何も考えずに殺せばいい。 誰も批判しない だって神が命令したことだってなるので。 あと、稼いだ金は教会に貢ぎ、信者は財産を増やしてはならない。 信者は清貧であるようにと説いています。 プロテスタントは、儲かった場合、それは神の祝福だからもらっちゃいなさい 方針なので、稼いだ金を全部教会に貢ぐことを強要するってことは無い。 万人祭司なので、信者が自分は神と同質であり、自分の言ういことは神の言うことと同じだとして、説教をしても構わない。 プロテスタントは、避妊していい。 堕胎していい。 離婚していい。 カトリックが教会の幹部の言うこと神の言うことだとして教会の言うことに絶対服従なのに対して、プロテスタントは教会 すなわち幹部によらず、聖書を神の言葉だとして聖書に従う。 牧師の言うことに賛同できない場合、牧師と議論していい。 カトリックは絶対にそれは許されない。 やったら破門。 プロテスタントは牧師と信者は身分は同じ。 カトリックは階級社会で上のものには絶対服従。 ここがすばらしい? うーーーん これはパス。 なんせ 私無神論者なので、これがすばらしいって思ったことないです。

keukegen
質問者

お礼

長文の回答ありがとうございます。 非常に考えさせられました。 kigurumiさんの意見ではプロテスタントやや有利か? と感じました。 実際プロテスタントは祈りも自由で皆平等で良い感じです。 反して、カトリックのヒエラルキーに関しては私も 少し納得いかないところではあります。 kigurumiさんは無神論者なんですね。 私も実はそうでした。 昔は宗教大嫌っきらいでした。(力をこめて!) 宗教なんて信じている奴は胡散臭い奴だと。 ですから宗教にはまっている連中を毛嫌いしていました。 ですがそういう精神は結局「宗教気になる」だった様です。 でなければ「無関心」ですものね。 張っていた弦が強ければ強い程、逆に作用する力も強い様に 今私は宗教に「はまってしまった」訳です!(笑) kigurumiさんの意見を参考に今後も教会選びをしたい と思います。ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.1

 こんにちは。水を差します。  個人の信仰と 教義を持った宗教(教会)とは 直接の関係はないと考えるものです。  《QNo.3013375: 水による洗礼は必要不可欠なことですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3013375.html 》を問うたものです。  《わたし(パウロ)は植え アポロは水を注いだ。しかし成長を与えるのは・・・》に忠実でなければいけないと考えるものです。つまり 教会の自己解体を主張するキリスト者です。

keukegen
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 brageloneさんはキリスト者なんですね。 brageloneさんの意見では教会は信仰には不必要という 事で良いのでしょうか。 私の意見は必要と考えます。 「わたし(パウロ)は植え アポロは水を注いだ。  しかし成長を与えるのは」 という聖書の御言葉で理解すると私にはまだ完全に植えられていないし 水も注がれていないと考えるからです。 パウロやアポロの役が現在の教会の役目(あくまで建物としてではなく)ではないでしょうか。 肥料は微少ですがあるかもしれません。 でも実がなく水を注ぐ者がなければ・・・。 肥料だけで芽は出ないと考えます。 キリスト者はあくまで信仰が大事とは思います。 ですから形だけにこだわった信仰は馬鹿馬鹿しい事かもしれません。 しかし、教会での神父、牧師の存在、儀式の必要性に関しては 私には議論する力はありません。 それこそ神の御心のままにとしか言えない事です。 私はあくまでまだ未熟な求道者です。 ですからこの議論は霊的に優れた神父や牧師でなければ 答えられないと思います。 私ではとても手に負えない問題なので議論は控えさせて頂きます。 まだ勉強不足で考え違いもあるかもしれませんが、貴重な意見 として受けとります。 ありがとうございました。

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