• 締切済み

哲学の教会へ助けを求めています。

楠んだビーダマの中に美しく輝くビー玉がありました。 ビー玉は体当たりされました。あるビー玉はさらなる輝きを得ました。 あるビー玉は輝きを失い、ビーダマとなってしまいました。 美しく輝くビー玉の中に楠んだビーダマがありました。 ビーダマは体当たりされました。あるビーダマはいつしか輝きを得ました。 あるビーダマはヒビが入り、粉々に砕けてしまいました。 ビー玉、ビーダマの中に気泡まじりのびーだまがありました。 びーだまは破壊されました。「びーだまは破壊する決まり」がありました。 びーだまは抗議しました。 ビー玉は破壊されることを強要しました。 ビーダマは見て見ぬ振りをしました。 びーだまの魂は哲学の教会へ助けを求めています。

みんなの回答

noname#70147
noname#70147
回答No.7

ビー玉、ビーダマのなかに、心の美しいビー魂がいました。 彼らはびーだまを必死に守ろうとしました。 ビー魂はびーだまに言いました。 気泡まじりのあなたは 本当のあなたではない。 あなたの真実の姿は別にある。 と。 びーだまは幾多の困難を乗り越えました。 そしてやがて気づきました。 本当の自分がビー魂だったということを。 びーだまは幾多の試練によって磨かれ、そして輝くビー魂となったのでした。

yuka8riko
質問者

お礼

いつの日か。 びーだまは「哲学の教会のビー魂たち」に感謝しました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

[びーだまの魂は哲学の教会へ助けを求めています。] 何でも平等思想の弊害ですかね。自由であれば平等なんぞ存在し得ないんですよね。 一番でいられるのは2番がいるからであって、べりから2番目でいられるのはべりがいるからですよね。つまり何番であっても前と後を喜ばしてるんだよね。その中でも1番とべリが一番えらいよね。これビー玉とびーだまの話と同じなんだよな。社会に出るとべリが一番になることおおいんですよ。ボクシングの内藤さんなんか世界チャンピョンだもんな。つまりびーだまは大手をふって進めばいいんだよ。みんなと同じという教育や思想が元から間違ってるんだから!

yuka8riko
質問者

お礼

そして。 びーだまの魂は安らぎました。

yuka8riko
質問者

補足

びーだまの魂はすこし癒されました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A 『教会(きょうかい)とは、共通の信仰によって形成される人々の集まり。 または宗教活動の拠点となる建物。主に、キリスト教のそれを指してこの言葉が使用される。』 ということで、それに則して、物語の再構築を試みてみます。 (実は、30分かけて一度書いたのに、操作ミスで投稿前に消えてしまったってのは秘密 orz) たくさんのビー玉がいました。 その中に、1つ違ったビー玉がいました。 実は、その変わったビー玉は、ガラス玉じゃなくて、ダイアの原石でした。 ダイアの原石は、ガラス玉の中でも、磨けば輝くと思えるビー玉がいることを知りました。 ダイアの原石はそれらのビー玉に声をかけ、一緒に行こうと言いました。 そういうわけで、12のビー玉が、ダイアの原石についていくことになりました。 あるビー玉は、「私もついていきたい」と言いました。 ダイアの原石は、「自分を覆っている全てを捨てなければ、我々についてこれない。」と言いました。 あるビー玉は、「せめて、家族に別れを告げてから、ついてきたいと言いました。 ダイアの原石は、「どうやら執着を捨てられないようですね。じゃ 無理です」と見抜き、ついてくることを断りました。 あるビー玉がいました。 それは1つのようで、実は多くのビー玉が寄り集まり、大きく見えているだけでした。 あるビー玉は、ダイアの原石の存在が気に入りませんでした。 自分達を構成しているビー玉が、自分達から離れて、そっちに行ってしまったら、自分は小さいビー玉になってしまうから。 それで、あるビー玉は、ダイアの原石のやっていることにケチをつけました。 しかし、ダイアの原石は傷つくことなく、投げたケチは跳ね返り、投げた当のビー玉に当たりました。 投げたビー玉は自分の投げたケチにより傷つくことになってしまいました。 自分の投げたケチにより傷ついたビー玉は、いよいよダイアの原石を危険視し、鉄の玉に「あの玉は悪者です、悪者には死を」と言いました。 鉄の玉は、ダイアの原石のどこにも悪が無いことを知っていましたが、大量のビー玉たちの抗議に、こりゃたまらんと思い、ビー玉たちの言う通り、ダイアの原石を処刑しました。 しかし、ダイアの原石は傷つきませんでした。 そればかりか、幾度もビー玉により体当たりされたことで、覆っていた物が剥がれ落ち、ダイアの原石そのものだけになってしまい、輝きを増しました。 そして、ダイアの原石についていったビー玉に言いました。 「君達の中に、私はいる。君達の中に私と同じものがある。だが君達を覆っているものがあるため、君達は自分の中にあるそれに気づかない。そして君達は、覆っているものを剥ぎ取りことができず苦しんでいる。 こびりついて剥がれ落ちないものをはがすには、どうすればいいか。 怒るべきときに怒らないのは、意気地なしという業を得る。 怒るべき時に勇気という徳を持てばいい。 快楽に酔いしれていれば、罪をおかすことになる。 そういうとき、苦痛をもって抑えようとしても無駄だ。 節制という徳を持てば、無謀を中和し徳を得られる。」 ビー玉たちは言いました。 「でも それがうまくいけば苦労はしません。」 するとダイアの原石は言いました。 「確かに長年こびりついた垢を一気に落とすことは無理だろう。 だが、日頃落とすことを習慣としていれば、やがてそれが当たり前になる。 生きている以上、垢はつく。 これは自然なことなので、つかないようにと遠ざけても、逃げ回っても無駄だ。 どこで生きていこうと垢はつく。 それを毎日落とすことをやっていれば、後々それが垢なのか、自分の本質なのかわからなくなるってことは無くなる。 一日一回身を清めればそれで十分。 過剰と不足が垢を積もらせる原因だ。 過剰と不足に中和という徳を使えば、どうにもならないほど垢がたまるなんてことは無い。」 ってのは いかがっしょ? 参考にしたものは、イエスとアリストテレス。 ユダヤ教と神道の風習も参考にしました。

yuka8riko
質問者

お礼

哲学の教会でお話を聞きました。 びーだまの魂はそのお話をなんども思い返しました。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.4

びーだまは哲学の教会へ転がり込みました。 「私はやっとのことで形を保っています。しかし私のことを理解しない多くの敵達が攻め寄せて、今にも滅ぼされてしまいそうです。どうか私の魂をお救い下さいませんでしょうか」 哲学の教会にいた僧侶は寝そべりながら鼻糞をほじくっていました。 「魂の救済などということを言うのかね? くだらん。お前の敵を含めて、魂なんか持ってる奴なんてそうはいないさ。もともと魂のないものをどうやって救えと?」 びーだまには僧侶の言っていることが理解できませんでした。 僧侶はさらに続けていいました。 「形を持っているものは『壊れたくない』と思うものだ。それで自分を壊しかねないものを排除しようと努める。傷ついたり壊れたりすることを恐れる。そんな俗物に魂などない。形を持つということはその時点ですでに『壊れる可能性を持っている』ということなのだ。だから、傷つくこと、壊れることに怯えるな。そんなことに怯えてルールを作る奴の愚かさくらい許してやるといい」 びーだまは、それは難易度の高いことではないのかと思いました。 さらに僧侶は言いました。 「お前の気泡はなんだったのか。それは欠点ではない。それは他者を受け止める余裕ではなかったのか。お前は他の奴より余裕があったのだ。余裕のない他の奴は余裕があることを欠点であるかのように言い、お前を苦しめただろう。しかし、お前までがその風説に惑わされる必要はない」 びーだまはそうと言われてもよくわかりませんでした。 そしてそのまま、哲学の教会を後にしました。 僧侶の言ったことは、びーだまの魂には響きませんでした・・・

yuka8riko
質問者

お礼

哲学の教会を後にしました。 びーだまの魂は雨上がりの空を愛おしく思いました。

回答No.3

ビー玉は、美しく輝き、比較的長寿で、中には落ちこぼれてビーダマになる場合があり、ビーダマは、良くも悪くもなる可能性があり、輝いたり粉々になったり二極分化するようであり、びーだまは、比較的に短命で破壊される運命にあるようですね。 気泡交じりで、美しく輝かないびーだまは、抹殺されるべきという優生思想を連想させる状況に対するびーだまの魂の叫びを聞いて、哲学的に如何に助けられるかという問いと解釈してみました。 欠陥品の排除は、高品質確保や効率性を重視する生産現場では当然ですが、びーだまたちが人を連想させる比喩だとすると、劣性排除の人権問題になりそうです。それは、道徳の範疇に収まりきらず、法律問題ですから、法律の専門家を紹介させていただくことになりそうです。 しかし、単に、工場の生産管理の話ならば、残念ながら、冷徹に執行を支持させていただきます。以上。

yuka8riko
質問者

お礼

びーだまを冷静にさせていただきました。

noname#80116
noname#80116
回答No.2

 ひとえに  ★ 「びーだまは破壊する決まり」  ☆ の問題だと考えます。  そのような前提を設定すること自体の問題であるというのが 第一です。  そして第二には もしそれが 現実であるとすれば そのときには 無力の有効性という視点が いちばん ふさわしいと考えます。無効が――つまり その《決まり》のことです その決まりが無効であるのに――実際には有力であるという問題です。  第二の視点につけ加えるとすれば 人びとの連帯という問題です。連帯が 現実でありうると考える人びとが 現われれば その方向を目指すというものです。むろん 有効性を問い求め その実現に力を合わせていくというものです。  道は 遠いです。助けとしては 以上のような視点に立ち その方向をきちんと向き 一歩一歩すすめることだと考えます。

yuka8riko
質問者

お礼

びーだまは「方向を見定めた」かもしれません。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

どんなに美しく輝くビー玉でも、そのビー玉がいてくれて良かったと言うことを、お世辞や恐怖でなく、心からそのビー玉に言ってくれるビーダマやびーだまがいなかったら、そのビー玉は決して幸せを味わうことができません。 どんなに気泡まじりのびーだまでも、この世の中にたった一つでも、そのびーだまがいてくれたお陰で私は幸福を感じることができたと言うことを、そのびーだまに言ってくれるビー玉やビーダマやびーだまがいてくれたら、そのびーだまは、大変は幸福感を味わえます。 ビー玉やビーダマやびーだまの幸福度は、自分がどれだけ完全であるかによって決まるのではなく、自分が他のビー玉やビーダマやびーだまに対して全身全霊を捧げて相手に尽くした時、その相手が、それを認めてくれるかどうかに掛かっています。他の方法では決して幸福感を味わうことは出来ません。 ですから、そのびーだまがもし幸福になりたいのなら、自分が幸福になることなど忘れて、これと思った相手に徹底的に尽くすことです。それでも運が悪く、相手がそのびーだまの存在を理解してくれなかったら、それで終わりです。別な言い方をすると、たとえ美しく輝くビー玉でも、幸福とは自分ではどうにもならない所にあり、相手次第で決まってしまいます。相手に全てを尽くし、後は天命を待つしかありません。 でも、楠んだり、気泡が入ったりした市井のびーだまでも、意外に多くのびーだま達が幸福感を味わって暮らしている理由は、きっとこんな簡単な所にあったのではないでしょうか。すなわち、この世の中にたった一人だけだったかもしれませんが、「貴方がいてくれて良かった」と言ってくれるびーだまを見つけることができたからではないでしょうか。

yuka8riko
質問者

お礼

びーだまは「貴方がいてくれて良かった」と思っているかもしれません。

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