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わたしのキリスト教史の理解は正しい?

 キリスト教にとても興味があります。でも、キリスト教にはいろいろな種類があるようで、どうもそれぞれの関係や歴史的経緯がよくわかりません。  わたしが聞いたところでは以下のような歴史的な変遷があったとのことです。 (1)紀元前は「神」の教えを旧約聖書で定め、これを人々は守ることに努力した。 (2)その中でも、より厳格な規律に身をおく者たちがいた(十戒の厳守)。 (3)そこで、その者たちはユダヤ教という教徒を名乗りキリスト教から独立した。 (4)その後、キリストの誕生により新約聖書が作られた。 (5)ところが、キリストとその弟子たちによって作られた新約聖書の解釈について、のちの人々の間でズレが生じ始めた。 (6)そこで、本来の教えを信じ、それに従うべく独立する者たちがさまざまな宗派を作った。 (7)それが、カトリック、プロテスタント、セブンスデイ、などである。 (8)そしてそれらに追随して独立しないで留まったのがバプテストである。 (9)その後、エホバの商人、ものみの塔などが本来の教えを貫徹すべく独立し派生していった。  とまあ、こんな感じで理解してますが、これで正しいのでしょうか? いや、わたしが聞きたいのはあくまでも歴史的流れであり、どの宗派の教えが正しいか否かとは関係ありませんので、それぞれに信仰をお持ちのお方には、どうぞ質問の意図をご理解戴きたく思います。  キリスト教を理解しようとすると、どうしても多くの宗派の存在や多少の教えのズレを無視できません。もともとひとつしかなかったはずの「神」や聖書の教えがどうして分裂していったのかが知りたいのです。できましたら、それぞれの宗派の違いや派生原因なども簡単に教えて戴けると幸いです。  どうか宜しくお願いいたします。

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  • netcatme
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回答No.18

#17の回答者ですが忘年会の後に酔ってかかれたので一部補正します。 プロテスタントには正式な「異端」はありません。「なんだかキリスト教とは違う気がするよな、輸血が私たちの内面となんの関わりがあるの?」という違和感とか大勢が思っているのが「異端」だとでも考えてください。戒律を作るなという戒律もないのがキリスト教ですから。 戒律を中心に説明したのは、戒律がないことによる行動の自由が経済発展や社会変化を容認したとされているからです。良心の自由でさえ戒律がないために発生したという人もいます。 エホバの証人についても弁護しておきますが、「裁きの日は近い」「律法を守れ」とかイエスの口からでていますから、元始キリスト教では、エホバの証人と同じように、戒律的で、終末論を唱えていたという説もあります。「だが、我々はキリストの意志から遠ざかっているのではなく、ユダヤ教の意識から抜けきらない人々の時代からやっとイエスの真実の教えに近づいたのだ」などという言い訳も後ろにくっついていましたが。 契約はユダヤ教で有名です。ユダヤ教にとって戒律とは神との契約で、戒律を守れば民族の繁栄が約束され、破れば、滅ぼされたりします。十戒も契約です。この契約でユダヤ人はエジプトの捕虜から解放されます。十戒以前には、旧約聖書にも近親相姦や親殺しがありました。旧約聖書とは神との契約をまとめた書物ともいえます。これをキリスト教は無効にしたわけですが、微妙なところですが旧約聖書もキリスト教の聖典として認め尊重はしているわけです。契約は欧米社会の基礎ですから、全てに影響しています。 なお、現在の日本にもカルビン派の教会はありますが、宗教改革時のようなエキサイティングなものではないようですので。 禁酒法はキリスト教団体の後押しによってできましたが、販売を禁止しても飲酒を禁止しなかったため、酒の密売がアル・カポネなどの資金源となっていました。 また、#17の記述には聖書だけでなく学説や伝説や小説も混ざっていますので、あしからず。

binbou-yusuri
質問者

お礼

わたしの小さな疑問に常に真摯にお答えくださりありがとうございます。    これに懲りずに今後ともいろいろ教えて戴けると嬉しいです。  ありがとうございました。

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その他の回答 (17)

  • bumin
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回答No.7

#2です >キリストが誕生したあとをキリスト教というとすると、キリストが誕生する前は何と呼ばれたのでしょう?  国家の発生的な見地から考えてみますね かつて、それぞれの神を奉ずるグループが多く存在し、それらが統廃合する過程で、負けたグループの神は勝ったグループの神の下風に立つか、勝ったグループの神の分身であったという事にされます その中にモーゼがいるグループの奉ずる神があり、それが時代の変遷の中で生き残り、また他の神の一部も生き残り… 国家というものが出来る程度のグループの規模になって行く… …つづく(^^ゞ こんな感じではじめは~教と言う呼び名も、奉ずる神の固有名詞もなかったのではないかと思います

binbou-yusuri
質問者

お礼

 これまた再度のご回答をありがとうございます。  なるほど、そういわれるとそうですね。でも、キリストの存在以前には固有名詞がなかったとしても、現在ではどう表現するのでしょうか? 「キリスト教」と一言に言うとやはり新約聖書を基礎としたものを指すと思いますが、「キリストが生まれる前のキリスト教」というのも変だし、「ユダヤ教」というと現存するユダヤ教との区別が難しいと思うし、「キリスト教が誕生する前のユダヤ教」とでも表現するしかないのでしょうかね。ただ、確かに、そのキリスト以前の信仰がそれぞれ国家発祥の最小単位となったことは想像に難くないないですね。  今後とも宜しくお願い致します。  ありがとうございました。

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回答No.6

#1です。宗教論みたいなことはさっぱりわかりません。 エホバの証人も”クリスチャン”と言っていますから、キリスト教ですよね。 検索をしてみると、「あれはキリスト教ではない、異端である」と書いてあったりしますが、逆に”教会を運営したり、寄付を集めて儲ける宗派”の意見であって、お金の規定をしていないエホバの証人の方が、人間の本質や信仰を純粋に捉えていると思います。(会館設備は持っていますが、XX像や教会=十字架 というものは存在しません) それから、「カルト教団」ではないです。 OKweb か 教えてgooの 管理人様 か 回答者の依頼かわかりませんが、「カルト教団の解説をしている」と削除されることがあります。本質を知りもしないで勝手な解釈に左右されて欲しくありません。 私自信は現在 無宗教です。 ただ、お金儲けをしない、像や十字架(仏像・仏壇もね)などを持たず、「純粋に信仰する」という点において、考え方が近いかな~ っと思っています。(実在したXX様を振興するより、宇宙を作った神を信仰するほうが自然でしょう?) でも大人数の組織の中には、お金や世間の噂などに惑わされるような俗人も居ますし、欠点ばかり目立つ人も居ます。なにかを信仰したからといって、全員が神様・仏様のような心持になるわけじゃないのですよね(笑) 宗派云々はわかりませんが、”教会”というお金を集めて儲けること(戦争や政治などの背景があると思いますが)に走った結果、いろいろな派閥が出来たってことだと思います。そういう癒着や損得を抜きにした集まりだと思ってください。 ※モルモン教もキリスト教ですね。

参考URL:
http://www.ffortune.net/calen/easter/church.htm
binbou-yusuri
質問者

お礼

 再びお答え戴きありがとうございます。  宗教とは、「神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え」と定義されるそうです。そのような崇高な存在も、一部の独善的思想から歴史や時代の変遷の中で自己中心的になったり排他的になったりお金や権力と癒着してしまい、信仰を歪めてしまうことはあったのかも知れませんね。  わたしも特定の信仰はありませんが、少しずつでも宗教の持つ意味を理解したいと思っています。  今後ともいろいろ教えてくださいね。  ありがとうございました。

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  • cse_ri2
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回答No.5

>新約聖書が編纂されたのは、イエス・キリストの死後です。 >マタイ・マルコ・ヤコブなどイエスの直弟子と、ルカのよ >うなそれ以後の弟子たちによって編纂されました。 一部訂正。 マルコはイエスの直弟子ではなかったかもしれません。 それからヤコブではなく、ヨハネでした。

binbou-yusuri
質問者

お礼

 ははは、訂正ありがとうございました。(^o^)  

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  • cse_ri2
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回答No.4

私個人の見解です。ちなみに宗教学などは専攻してなく、 いろいろな書籍から独学で学びました。 >(1)紀元前は「神」の教えを旧約聖書で定め、これを >人々は守ることに努力した。 >(2)その中でも、より厳格な規律に身をおく者たちがいた >(十戒の厳守)。 >(3)そこで、その者たちはユダヤ教という教徒を名乗り >キリスト教から独立した。 (1)はそうですね。モーセが出エジプトをした時に、神から 十戒と律法を授けられ、モーセとともにエジプトから移動 したイスラエル民族に伝えられました。ここがユダヤ教の 始まりと私は考えています。 (2)については誤解です。 ユダヤ教徒は全員十戒を厳守するのが原則です。 ただ新約聖書によると、イエス・キリストの時代には様々 なユダヤ教の派閥があったようで、十戒だけを守ればいい と考える人たち(サドカイ派)、先祖から伝えられた律法 の解釈を忠実に守る人たち(パリサイ派)、厳格な信仰を しながらメシアの到来を切実に待っていた人たち(エッセ ネ派)などがあったようです。 (3)も誤解で、ユダヤ教から分派したのがキリスト教です。 イエス・キリストの説いた教えは革新的すぎて、残念なが ら守旧的な当時のユダヤ教からは受け入れられませんでした。 >(4)その後、キリストの誕生により新約聖書が作られた。 新約聖書が編纂されたのは、イエス・キリストの死後です。 マタイ・マルコ・ヤコブなどイエスの直弟子と、ルカのよ うなそれ以後の弟子たちによって編纂されました。 >(5)ところが、キリストとその弟子たちによって作られた >新約聖書の解釈について、のちの人々の間でズレが生じ >始めた。 ローマ帝国での激しい迫害の後、コンスタンチヌス帝の時代 にキリスト教は公認されましたが、この時点で既に派閥が あったようです。 それでどの派の教義を正統とするかを決めるため、何回か の公会議が開かれます。 そして異端とされた派はローマで布教できなくなったため、 東方に活路を見出します。何派か忘れましたが、はるか中国 まで伝播した派が景教という名で伝えられています。 >(6)そこで、本来の教えを信じ、それに従うべく独立する >者たちがさまざまな宗派を作った。 >(7)それが、カトリック、プロテスタント、セブンスデ >イ、などである。 >(8)そしてそれらに追随して独立しないで留まったのが >バプテストである。 これはずっと時代を下って、宗教改革の頃ですね。 それまでのキリスト教はカトリックとギリシャ正教だけだっ たのですが、カトリックがあまりに腐敗したためルターが 宗教改革を起こします。 カトリックから独立したルターやカルビンなどに従った人 たちをまとめて、プロテスタントと呼びます。 プロテスタントはローマ教皇のような中心的存在がいない ため、その後どんどん分かれていきます。 セブンスデイ・アドベンティストもその一つだったかと。 >(9)その後、エホバの証人、ものみの塔などが本来の教え >を貫徹すべく独立し派生していった 何が本来の教えかは私には判断できませんが、彼らが信じた 教えを守るべく独立していったものと思われます。

binbou-yusuri
質問者

お礼

 お答え戴いてありがとうございます。    いや~、詳しいご回答を戴いて感謝です。かなりの誤解があったことを自覚しました。cse_ri2さんのご回答や他の方々のご回答や参考URLからかなり疑問が解消しました。と同時に新たな疑問や宿題も増えましたが(笑)。  わたし自身は信仰はありませんが、キリスト教も含めて個人的に賛同できる信仰や教えはたくさんあると思っています。仏教やイスラムの教えからも学ぶものは多いはずです。だから、わたしは今は1つの宗派に固執することなく、客観的に「神」と人間の歴史を知りたいと思っています。  ただ、やはり一朝一夕で理解しようとするとなかなか難しいですね。イスラエル・パレスチナ問題や宗教改革などキリスト教の歴史を理解する上で切っても切れない歴史がたくさんあることに気付きました。一からやり直しって感じです。でも、俄か仕込みの知識で間違った理解を改める良いきっかけになりました。  どうぞこれを機に今後ともいろいろ教えて下さいね。    ありがとうございました。

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noname#4932
noname#4932
回答No.3

こんばんは キリスト教について、多くの知識を持つものではありませんので、詳しいことは他の方に譲ると致しまして。 取り合えず >(3)ユダヤ教という教徒を名乗りキリスト教から独立した。 はあり得ません。 キリスト教が成立するのはキリストの死後です。 そもそも神と最初に契約した人々というのがユダヤ教徒で、ユダヤ教徒にとって聖書とは「旧約聖書」の部分のみだそうです。 そして、キリストと契約をし直した=「新約」ということで、キリスト教徒にとっての聖書は「旧約・新約聖書」の事らしいです。 つまりユダヤ教にとっては「新約聖書」というものはそもそも存在し得ないと言うことらしいのですが、この辺りになると、もう私には… では、失礼しました。

binbou-yusuri
質問者

お礼

 お答え戴きありがとうございます。  そうですね、大変重要な間違いでした。でも、ここで疑問が・・・。  キリストが誕生したあとをキリスト教というとすると、キリストが誕生する前は何と呼ばれたのでしょう? 「キリスト教」はキリストの存在の前後で名前は違わないのでしょうか?   う~ん、またまた疑問が続出しそうです。  お暇があればまたお立ち寄りください。  ありがとうございました。

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  • bumin
  • ベストアンサー率31% (219/686)
回答No.2

非常に微妙かつ難解な問題です 私には正否について語るだけの知識はありません しかし、明らかに違う(と私が思う)事を2~3書かせて頂きます (1)紀元前、”旧約聖書”という集大成された書物はありませんでした (2)十戒は(神の啓示を受けて)モーセにより新たに主張されたものだと思います (5)新約聖書作成にはキリストは携わっていません キリストの言動を用いて後に使徒達が布教に努めた時の話を本人或いはその弟子や周辺の人達が纏めたものです (9)誤変換だと思いますが…エホバの”証人”ですね

binbou-yusuri
質問者

お礼

 お答え戴きありがとうございます。  このような質問自体がお答えになり難いものだとは思いましたが、それぞれの関係を整理して理解したいのです。すべてを論理的に説明するのは困難なことなのかも知れませんが、できるだけ歴史的事実に近い形で理解したいと思ってます。 (1)・(2)紀元前の旧約聖書とモーセなどの存在について  なるほど、確かにいわれてみればそうですね。その当時は文字や書物と呼べるものが存在したかがわかりませんね。モーセ(モーゼ?)という人は神の啓示を受けたとありますが、モーセやノアなど旧約聖書に登場する人物は神やその使徒ではなくひとりの人間(預言者)として理解して構いませんか?  (5)新約聖書の作成について  なるほど、これもいわれてみればそうですね。確かキリスト自身は救いや神の言葉を告げたりはしましたが、実際に新約聖書の編集に参加したわけではないのですね。  ところで、クリスチャンという言葉は宗派を問わずキリスト教徒全体を指すのでしょうか?  なんだか次々と疑問が湧いてきて収集がつかなくなりそうですが、またお暇があればお立ち寄り下さい。  ありがとうございました。

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回答No.1

誤字? エホバの商人==>(正)証人。 エホバの証人は キリスト像・マリア像・十字架など”偶像”に祈りません。心の中に居る神に祈っているので、像は必要ありません。 他のことは知らないので、ココまでm(__)m

binbou-yusuri
質問者

お礼

 お答え戴きありがとうございます。  し、失礼しました。「証人」です。ごめんなさい。  エホバの証人は偶像崇拝をしない、ということですが、やはりキリスト教から派生した一宗派と理解してよろしいのでしょうか? また、偶像崇拝以外は基本的にキリスト教のどの宗派に共通するのでしょうか?  また、わたしが質問文で挙げさせてもらった宗派以外にも存在するのでしょうか(モルモン教というのもキリスト教の一派ですか)?

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