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「源義経が生きていた」と言う説

kenkeyの回答

  • kenkey
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回答No.6

お初です Wikiに記載が無いところを1点述べます。 義経北行伝説の跡を辿ると、実は奥浄瑠璃(奥州の浄瑠璃)の辿った跡とほぼ一致します。義経が北に逃れた話は奥浄瑠璃の語り部が語る全く違う話と混同されたものとも考えられます。 いずれにせよ義経北行伝説は室町期以前には無かった話です。 もっと言えばチンギス・ハン=義経は江戸期以降の話になります 伝説の足跡を検証してみると、義経一行を泊めた、とか、風呂に入れたとか休んだ場所・・・など現在では検証不可能な物が多く、単なる伝説と考えられています。 また、北海道に渡ったとする事に付いては北海道経営政策上都合の良い話だったとも言われています。

Ivane
質問者

お礼

kenkeyさんお初です。宜しくお願いします☆ 久々にガソリンが安かったので、平泉だけの観光の予定が、義経伝説の看板を読んで心変わりして、遠野まで足を伸ばしてみました。 自動車を運転しながら考えたんですが、義経は奥州藤原氏に庇護されて、平泉で何年か過ごしたわけですよね?だったら義経が逃げた時ではなく、本当に生きていた時に立寄った処だったんじゃないかと思った時もありました。 >実は奥浄瑠璃(奥州の浄瑠璃)の辿った跡とほぼ一致します 奥浄瑠璃につては知識が無いのですが、琵琶法師の戯曲集みたですね。是非読んでみます。 歴史は不得意なので、義経を期にちょっと古代の歴史物を読んでみたくなりました。次に何かまた質問する事があると思いますが、その時は良かったらkenkeyさんのお力を貸してくださいね。有難うございました。

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