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ソクラテスの「無知の知」って誤解されてる?

tyr134の回答

  • tyr134
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回答No.10

さてさて、ソクラテスについて語るなら、やっぱりソクラテスの一番の弟子であるプラトン君に登場してもらいましょうか。 彼の本に、ソクラテスの裁判の様子を記録した『ソクラテスの弁明』という本があります。 そこで、プラトンはソクラテスが次のような弁明をしたと書いています。 ===以下引用=== 私の智慧に関する―もしそれが実際智慧と言えるものならば―またその性質に関する証人として、私はデルフォイの神をたてる。思うに諸君はカレイフォンを知っておられるに違いない。(中略(以下「…」で示す) 彼はかつてデルフォイに赴き、次の如き問いに対して神託を求むるの大胆を敢てした。「…」 即ち彼は、私(ソクラテスの事)以上の賢者があるか、と伺いをたてたのである。ところがそこの巫女は、私以上の賢者は一人もいないと答えた。「…」 その神託を聞いたとき、私も自問したのであった。神は一体、何を意味し、また、何事を暗示するであろうか、と。私が大事においても小事においても賢明でないということはよく自覚しているところであるから。して見ると、一体どういう意味なのであろうか、神が私を至賢であると言うのは。けだし神にはもちろん虚言のあるはずもない。それは神の本質に反するからである。「…」 私は賢者の世評のある人々の一人をたずねた(政治家)。そこにおいて「…」神託において反証をあげ、そしてこれにむかい「見よ、この人こそ私より賢明である、しかるに汝は私に至賢であるといった」と、主張することができるであろうと考えながら。「…」彼と対談中に私は、なるほどこの人は多くの人々には賢者と見え、なかんずく彼自身はそう思い込んでいるが、しかしその実彼はそうではないとの印象をうけた。それから私は、彼は自ら賢者だと信じているけれども実はそうではないということを、説明しようと努めた。その結果私は彼ならびに同席者の多数から憎悪を受けることになったのである。しかし私自身は、そこを立ち去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男より賢明である、なぜといえば、私たち二人とも、善についても美についても何も知っていまいとおもわれるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りはしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、すくなくとも自ら知らぬことを知っているとは思わないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で優っているらしく思われる。それから私は、前者以上に賢者の称あるもう一人を訪ねたが、まったく同様の結論を得た。 『ソクラテスの弁明』久保 勉・訳 岩波文庫 ※()は私が付け足しました。 ====以上=== この後、ソクラテスは様々な人と問答を繰り返したことを述べ「尊敬されているひとよりも世間一般の人の方が智見において優れている事」を知ったと述べ、詩人は智慧というよりも「自然的素質と神懸かりとによ」って美しい詩を書く一方で「その真義については何らの理解もないのだ」と悟り、また手工業者にあっては「私のの知らない事を知ってい」て「その点は彼らの方が知者だった」けれども「その業とせる技芸に熟練せる故をもって、他の最も最大の事柄に関しても最大の識者である」と誤解している。 そして、「私自身と神託とに対して、自らあるがままである方が、私にとってよいのだ」と結論付けます。 以上が、プラトン君による「ソクラテスの無知の知」ですね。 私は、この『ソクラテスの弁明』と質問者さまが引用されているサイトを読み比べてみて、どうもサイトの文章は「カントの哲学にソクラテスを結びつけようとして、都合の良い解釈をしているな~」と観じました。 確かに、ソクラテス哲学においても「正義(徳)」というのが「キーワード」として出てきますが、、、。 素直に読めば、「無知の知」とは、「されば私は、すくなくとも自ら知らぬことを知っているとは思わないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で優っているらしく思われる。」ということですね。 一度、『ソクラテスの弁明』を読んでみてはいかがでしょう? 文庫版で60ページくらいの短いモノですので。 ついでに岩波文庫なら、もれなくプラトンのもう一つの作品『クリトン』がもれなく付いてきます(笑)

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