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《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?
tumaritouoの回答
- tumaritouo
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人間には仏性が在ります。悩んでいるときは、分かりやすいかもしれません。普通に暮らしているときにも分かります。それがそうさせているからです。在っても感じ難いものですが。無いと思っているのは勘違いです。それは「絶対の真理」です。 ですが、日本人は自分の考えを他人に押し付ける事はしません。私も貴方に、その事を、分かって欲しいとは思いません。気が付く時には気が付くかも知れない、と思うからです。人は自分の経験した事しか信じないように出来ています。自分の経験を、他人にしても、本当は信じていません。 お釈迦様の「悟りの世界」をどんなに本の中で読んだとしても、それを体験しないと、本当の事は、理解出来ません。ですがその事を体験すれば「絶対の安心」「絶対の心の自由」というものが手に入ります。その時は、仏性なるものが分かります。誰でもが、それのお蔭で生きているからです。
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どう扱っているか? 早くうまく扱うようになって欲しいと思うのですが どうなのでしょう? 《相対・有限・可変性の経験世界》とそれを超える《絶対・無限・不可変性・非経験・非思考の場》とです。 ○ 司馬遼太郎が短い文章として 《絶対》の概念と日本人という主題で語っています。参考にどうぞ。 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html (第一段落の《(開高健への弔辞)》のみで いいと思います)。 ○ すでに同じ趣旨で問うたことがあります。 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3738300.html
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どのような考え方で どのような方向・方策が考えられるでしょうか。 どのように動機付けしていけばよいと思われるでしょうか。 むろん 導入の不要論や反対論も受け付けてまいります。 たとえば 司馬遼太郎の言うには:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに わたしは 日本人のあいだでも 身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 上の事例と同じように おこないとして どうかとも思うのですが 忠臣蔵も 絶対を見ようとしたのかも知れません。 とにかく 多岐にわたるでしょうが たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。そして よかったら そのあたりでなりとも お考えを述べていただければさいわいです。 なおわたし自身は 絶対の概念について自分の見解を持っております。そして その導入ということについては いままでに特に考えたことはありません。
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- 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか
ふたたびの問いです。 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。 たたき台を示します。 1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 1-1. その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。 6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造: ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭: : これは 無根拠である。 : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。 : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか についての疑問すらが起きる。 : 《神》とも《無い神》とも言える。 ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》: : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の 原野)》に移行している。 : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに する場合にすら用いられることがある。《真理》として。 : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり 《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》 を成らせていると想定され そして 《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》 が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。 なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~
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- 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと
・・・思います。そのことをめぐって 問います。 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。 すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。 たたき台です。 1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 1-1. その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。 6-1. 《絶対》の二重構造: ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠 ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果 関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に すら用いられることがある。 たとえとして都合がよいのだと思われる。 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。 ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~
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- 日本人は・・・
小説家の文章をふたつかかげます。 これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。 自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。 なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。 ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~ 神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。 あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。 こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。 最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より) 我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非 らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか) れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は 汝を口より吐き出さんとす。(黙示録) (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭) ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~ http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。 日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。 神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。 山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。 いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。 むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。 (開高健への弔辞) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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抽象的概念の必要性について400字以内で説明せよ。 抽象的概念は一般的には分かりにくいが、具体例を用いて示すと分かりやすいことがある。 具体例は抽象的概念の理解に役立つが、一般化することはできない。 抽象的概念は一般化することができるから必要である? うーん・・・。 現代文の教科書を読んだりしてみているのですが、論が深まりません。 どのように論を展開したらよいでしょうか。 お知恵を拝借したく思いますm(__)m
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なかなか理解できないのでしょうか。そんなことはないでしょうか。 できないとすれば なぜでしょうか。どうすれば よいとお考えになるでしょう。
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についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。 この言葉は 吉本隆明のものです。 ▲ 関係の絶対性 http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。 いまわたしが考えているところとしましては こうです。 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?
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一般相対論についての概念や、数式的に説明(証明)しているページを探しています。 わかりやすいサイトがあればぜひ教えてください。特殊相対論については大体は理解しております。
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カテゴリ的にここが合ってるか不明ですが、一部にセンシティブな物を含むのでここを使わせて下さい。 基本的に人生相談ですが、一部に性的な要素が入る恐れがあります。 世の中にいろいろある物の中で、僕にとって「これが好き」と感じる物がいくつかある訳ですが、なぜかその概念が一般的概念と離れてしまい、実質的に共通点のほとんど無い物になってしまうことや、詳細について他の方と理解し合えなくなってしまうことが多々あります。 一体なぜでしょうか? どうしてこんなにも一般的概念から頻繁に外れるのか自分でも分からず悩んでしまいます。 例えば、一般に「男の人はミニスカートが好き」と言うと、「それを穿く女の人の魅力、特に性的魅力が好き」というニュアンスになってしまいます。 僕にとっても「ミニスカートは好き」ですが、僕にとっては「ミニスカートというアイテムを使ったファッションをしたい」というニュアンスの意味になります。 また、確かに男の人でも「ミニスカートというアイテムを使ったファッションをしたい」という人がいますけど、その多くの意味もどっちかというと「女装をしたい」「女の子の格好がしたい」「ミニスカートが女の子の服だから着てみたい」という意味合いが強い人が多いです。 僕の場合はそっちじゃなくて「そもそもミニスカートがメンズファッションだったらいい」「男の人が着ても絶対かっこいいはず」「あくまで男として、女に負けないぐらい脚線美をアピールしたい」というニュアンスが強いです。 変な話、「女装がしたい」人にとっては「ミニスカートが女の子の服である」ことを前提にした愛情なのに対し、僕の場合は「ミニスカートは女の子の服のみでなければいい」という希望を前提とした愛情なので、愛情が逆向きになっていて一番最悪な関係になりやすいです。 他に好きな話に関してだと、ここらで水着フェチの話をしてみたいです。 多くの男の人はスクール水着が好きですが、この場合のスクール水着とは基本的に女の子の水着のみを差し、また厳密にその好きな対象も水着本体ではなく、女の子が好きというところを中心に、水着というセクシーなアイテムをオプションとして付けたいという意味だったり、スクール水着だと未成年の少女を想定させることでの、一種のロリコンの延長だったりすることが多いです。 また、男の水着が好きな人も多々いますけど、それの多くは同性愛の延長で、水着本体というよりは着ている男の人の身体に性的な興味があることの延長であって、前述の女の子のスクール水着が好きなのと実質的な差はありません。 僕も水着、特にスクール水着は好きですが、僕にとっては着ている人云々というよりは、自分で着るために好き、というニュアンスが強いです。 着られる物、着てみたい物という括りに入っていれば、男用水着女用水着問わないです。 また、自分で着る以外で、誰かが着ている画像を見て楽しむ場合であっても、着ている人への性的興奮という気持ちはあまりなくて、故に着ている人がエロいかどうかじゃなくて、その水着が着てみたいと自分で感じるものかどうかで結局の所好き嫌いが決まっていく感じです。 だから、恐らく同じ「水着フェチ」というカテゴリであっても、実態が全然違うし、恐らくこの両者は絶対に相容れないかなと思いますし、この相容れなさと、一般的概念からズレているように感じるのが自分の側のように感じて、結構ストレスに感じています。 他にもいろいろ好きな物ありますが、大体この図式で一般的概念と差が生まれる感じがします。 どういうわけかこういう状況に結構高頻度になってしまいます。 みんなバラバラだよね、十人十色だもんね、という状況なら、もちろんその通りだと思うし諦めもつくことが多いです。 しかし大体、自分だけが一般的概念から外れた所に毎回入ってしまうパターンが多く、この状況にストレスを感じます。 なぜこんなズレを生んでしまうのでしょうか?
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