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万里の長城の役割と意味とは?
万里の長城は中国歴史の発展過程においてどのような役割と意味をもっているのですか?
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- koon1600
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国境を持たなかった国の国境ですね。 もともと中国の思想的には国境、というか国自体がなくて、あくまで世界は中国ひとつであり、その中心(つまり中国本土)から近いか遠いかによって違いがある、というような感じです。で、中心が一番えらくて周りは文化的に未開という話で、建前上はこれです。 しかし、実情は違っていました。中国という国は伝統的に「文弱」と揶揄される国でして、周りに比べてとにかく軍事力が弱いのです。軍馬も輸入に頼らなければ良い馬は手に入りません。 中国が軍を動員して勝てた例は少なく、攻め入っても返り討ち、攻め入られても勝てないのでお金を払って出て行ってもらう、ということが多かったのです。 勝てたときというのは、「統一直後で国に活気があり、また軍事力も精強だった」時で、かつ「相手が内訌を起こしてバラバラ」になっていなければ勝てませんでした。 特に問題となったのが、馬を乗りこなす遊牧民族がたくさんいる北部です。騎馬民族は古代~近代にかけて反則的に強い民族でして、中国以外にも敗北例は数多くあります。ヨーロッパにもこの系列であるフン族が入り込んで大混乱に陥りました。そして13世紀には世界の半分を支配したのは、ご存知のとおりです。 で、中国という国は紀元前から騎馬民族の侵攻に悩み続けていたのです。攻め込まれればまず勝てませんから、略奪はされ放題です。唯一の対策は「相手が略奪し終わって帰るのを待つ」という悲しいものでした。 で、これでは面白くないというので、新たな対策を考えました。攻め込まれても勝てないならば「攻め込めないようにすればよい」という話ですね。そこで作ったのが長城です。ただ、長城もあれだけ長いとさすがに完璧ではなく、破られることは多かったのです。 長城というのは、中華思想と中国の限界をあらわす「物質的な」境界線であるとともに「精神的な」境界でもあったのですね。中国の理論が通用しない世界との境界で、歴代王朝はそれをある程度意識しつつ統治することになりました。結局、中国が騎馬民族におびえることなくこの境界線を越えるようになったのは清の時代になってからでした(まあ、その清の統治者は、長城の北からやってきた民族にほかならないのですが)。そのため、中国の経済は今でもそうですが伝統的に南がずっと強く、北は南の経済力で維持しているという状態でした。これは南が穀倉地帯という理由もあるのですが、どうしても北は政情不安定になりやすいという都合もありました。その点南はそれほど強い民族も、勢力もいないので、中国の発展は南で進んでいったといえますね。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
戦略の生成 上下 の 上の一章がそのテーマで書かれています。 読んでみてはたと思ったのが。 現在の長城は明の時代のものであり、明の国防戦略を体現したものであるということ。 一つの王朝の国防戦略である以上、「中国歴史」というくくりで考えても意味がない。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
国境。 あれが中国の行動限界線。 駅のホームの黄色い線。 それ以上進むと保証しません。 これ以上の進軍・侵略はたいした意味は無い。 律儀に歴代中国王朝はこの国境を踏み越える事は少なかった。 踏み越えると国が傾く。
- jayoosan
- ベストアンサー率28% (929/3259)
実質的に漢民族の中国王朝の支配する土地の北限、と考えていいとおもいます。 ですので、満州は満州族のものだが今の中国のものではなかった?
- kyoromatu
- ベストアンサー率14% (746/5024)