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男と女
その対等性について問います。 まづは読んでください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。 ところが 男と女の身体によって一つの精神の職務の配分が象徴されるのである。 したがって 私たちが段階的に内観を進めて行き 魂の種々なる部分を考察するなら そのとき私たちが動物とは共有しない或るものを見出し始め そこで内なる人がすでに認識され得る理性がその仕事に着手するのである。 この内なる人自身も 時間的事物の管理を委託されているあの理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ち さらにその頭が同意するなら 言い換えると指揮所で命令し見張る理性のあの部分が いわば男の役割のごとく それを禁止し抑制しないなら その敵の中で衰えるのである(詩編6:8)。その敵とは徳を憎む悪鬼たちとその首長(かしら)たる悪魔である。 永遠なるもののあの直視は妻と共に禁じられたものを食べた頭(男=アダム)自身からも失われ したがって彼の眼の光は彼と共にないようになる(詩編38:11)。かくて この両者は真理の照明によって裸にされて いかに自分たちが恥ずかしく無様に いわば甘い果実の葉のようであり しかも彼ら自身は結実なくあるかということを見るために開かれた意識の眼をもって 善き業の実なくして善き言葉を織り合わせ 悪しく生きながら いわば上手に語って自分たちの汚辱を蔽うのである(創世記3:1-7)。 (アウグスティヌス:『三位一体論』中沢宣夫訳 12・8) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 質問です。 無条件に 分かっていることは ・男女互いに いわゆるこの世の悪(歴史知性によるその知と意識) に対して 責任を負っている。 であり 頭で――頭で です――分かっていることは ・男女ともども この人類としての歴史の共同相続人である。 ということであり しかしながら この事項は 条件つきでなければ 了解しがたいというのが わたしの実情です。 ・女は 《理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし は なはだしく滑り落ち》る度合いが 男よりも 激しいのではないか。 この条件をつければ すべて 男女平等で進めます。 しかも 救い難いほど頑迷ではないかとおそれられることは このような条件としての内容は 経験現実として・また社会現象としては 実際であるのではないかと わたしが 認識しているところです。 どうか 最大限の自由に ご批判をたまわりたいと存じます。おしえてください。
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あなたのお会いになったあらゆる女、行燈の火影で歌を唄う街の女から輿の上で薔薇の花をちぎる貴族の女にいたるまで、あなたが垣間見たあらゆる女の姿、あなたの欲望から生まれるあらゆる幻、それが欲しいと仰ってごらんなさい! あたくしは一人の女ではないのですからね。あたくしはひとつの世界なのですよ。あたくしが着物を脱ぎ捨てればよいのですわ。そうしたら、あたくしの体の上に次から次へと神秘が現れてきますわ。~フローベール『聖アントワーヌの誘惑』 >笑っている。抑えて 小さく 下品にならないようにして。くすくすは 止まらなかった。一たん場を離れた。時間を取った。静まるまで待った。言葉はかけなかった。それで駄目なら 駄目でよいと考えた。 さらに抑えるようにしたようだが ついにくすくすは止まらなかった。強行すれば 口づけだけなら 出来た。強行せず。 >最初は 笑い飛ばそうとしていたから 侮辱と感じたわけです。だが 数年つきあった後のファースト・キスです。そう簡単に解釈を決めつけるわけにはいかない。そこで 五分か十分か 間を取ったのです。それでも 小さく くすくすと笑うのが止まらなかった・止めようとする気配がなかった。 唇を 唇のすぐ前にまで持って行って そこで 止めていました。くすくすは止まらなかった。強行すれば 出来ました。 「友情から始まった恋は力弱い恋愛にしかならない」 誰かが言ってたっけな。 あーあ、シマラねえ。男も女も。 あのね。相手を手に入れたい、相手と重なり合って一つになりたい。この衝動は強烈だよ。生半可な思想だの理屈だの、ブッ飛ぶんだよ。狂気の沙汰なんだよ。これを経験してこなかった人には永久に分からないだろう。いや、実際、知らないままにきてる人も多いみたいだけどね。 女の中にはセックスの間じゅうクスクス笑うやつもいる。快感の沼に引きずり込まれるのを恐れるがごとく。快感の強さを確認するがごとく。 >意思表示のない動物では 人間ではないと感じたからです。 >わたしは 人間である女とくちづけをしたいのです。 人間以外の動物の方が、よっぽど意思表示するんじゃない? 本当に意思表示がない、と言えるのか?意思表示の仕方なんて人によって違いますよ。 それに女性は、本当に嫌だったら嫌悪感をはっきり出すのが、まず普通ですよ。 いかに修道院入りするような女性でも、果たして一般の女性と心身ともに大きく乖離しているものだろうか?それは信仰心に薄い当方には実際のところが分からない。 結婚申込を断られたときに貴方が、ではこの先の付き合いは無用、と断ち切らなければ、彼女が修道院入りするとき、いつ決心したことなのか、その理由など彼女に直接問う事だってできたろう。尤も、本心を打ち明けてくれるかどうかは保証の限りでないが。 >可能性を こちらから 断ち切るというわけには行かなかった。女も 男と同じく 人間であると信じていたのです。 前から思ってたけど、貴方が追究しなければならないのはポーラさんじゃないだろう。貴方自身なんです。 頑固と錯誤はセットものだ。 「可能性を捨てない」ためには厳しい受容が先決です。このことはクリスチャンならば尚更、必須のことではないんですか? 貴方が言う、その「可能性を捨て」ることで、いったい誰が傷つくんだろうか? その、「たった一匹の羊」は迷っているのか? 自分が行くべきところを見つけて行ったのなら、それを尊重してやる、それが「たった一匹を捨てない」ことだ。 その「一匹の迷い羊」って実は貴方のことでしょう。 彼女は自分が行きたい場所を見つけてトットコ歩いて行った羊だった。 取り残された迷い羊である貴方を、彼女は、とうとう探しに来てくれなかった。 他者を完全に把握できるとでも思ってますか? そんなの並の人間である限り幻想だ。 把握しようとし続ける限り、貴方は永久に届けない。 だからと言うんで自分が把握できない、させてくれない人は対等じゃないことにしたいですか? 静かに背中を向けて去って行く自由まで責めることはない。 真正面から相対して闘うべきときがあるとしたら、相手が積極的に、こちらの尊厳を傷つけようとしたときくらいでいいんじゃないですか。 ただ一つハッキリ言えることは――これまでも言ってきたことだが 少なくとも貴方との関係の継続を、貴方が望むようには!貴方が望むほどには!彼女は求めなかった、という事実。 残されたのは、それだけだ。 そのことゆえに彼女を責めたいですか?聖母でもない「ただの人」に過ぎない彼女を! 「確かさばかり求めてぐずぐずしている人には大きなことは決してできない。」Jエリオット
うあ、、本当にビッシリですなぁ~。 先日「なまぬる」の質問の方に投稿して、貴方に促されるまで気がつかなかったス。 もしやと思って来てみたら、線路は続くよ、どこまでも状態か。ビックリしたなぁもう。 改めて断っておきますが、こちとら一応間に合ってる身ですから、今更、というか元々他人の恋愛話にゃそれほど興味がない。それなりに多忙だし次も来れるかどうか期待はしないでくださいよ。 「テツガクに再び戻す要あり」と仰ったんで、それらしいヒントをあれこれ並べてみて、どれか一つでも、お気に召すものがあれば、くらいにしか考えとりませんでした。 「二十代の恋は幻想である。三十代の恋は浮気である。 人は四十代に達して、初めて真のプラトニックな恋愛を知る」~ゲーテ >つまる所をおしえてほしい。 つまるっつうか、文学的な言い回しをしてるだけなんだから大体のとこでいいでしょう。要は若いころの恋はイメージばかり先立ってたのが、30代ともなると特に女性の場合、容姿の衰えが気になり始める年齢でもあるし、20代のころはツンと澄まして構える余裕もあったのが、その余裕もなくなってきて急に焦りが出始めるみたいです。その結果、己の容姿や肉体に、まだ幾ばくかは男の欲情を引き付けるだけの魅力が残されているのか否かを確かめるかのように、慌てて扇情的な、と言うのは往々にして、もってまわった言動になりがちなんだけど、そういうことをやり始めたりする。往々にしてピントの外れた、つまり効果のないやり方で男の視線に縋り付こうとする。独り身の女だと、なかに、こういうのも出てくるのが目につく。男の方はヨメと倦怠期だったりで、こりゃまた都合がいい。だけど、あくまで肉体先行。中身は二の次。そこを通り過ぎたら、いよいよ衰えも増してくるし若いころみたいにガッつかなくなった分、人間味だとか情緒的な方に気持ちを向けられるようになってくる。若いうちに、いろいろ罪な事も重ねてきて、ふた皮くらい剥けとるから妙な罪悪感も背負い込んでない。ある種さばさばと大らかな気分で性を堪能できる余裕すらある。余裕があるにも関わらずというか、それはそれとして人間味だとか情緒の方を重んじて、お互い分かっているという暗黙の合意のうえで、いたわり合う。こんなとこじゃない?ガキには味わえない境地だな。まあ、こっちも、まだまだ修行中の身だけど。 格言だとか他人の恋愛観なんてものは、自分が経験した事をもとにニヤッとできればいいようなもんで、いちいち目くじら立てんでよろしいと思う。それと何でニーチェを出してみたかというと、この人、若干、貴方と似た経歴がなくもないんだ。もちろん恋愛方面でのことだけど。 ルー・サロメの言葉も出しておいたでしょう。この女性は、ニーチェ唯一の恋愛相手として有名だけど、どうやらニーチェ先生、片思いだったらしい。それも彼女の方から誘惑するようなそぶりを見せておきながら、、、という、さんざん恨み言を残しているそうだ。ちなみに彼女は映画なんかで非常にスキャンダラスな悪女として描かれてるようですが、実際のところは、単なる性的に放埓な悪女と言うよりも当代随一の才媛であり学究肌で進歩的思想の持ち主だったようです。しかも、強く望まれて始めた、その結婚生活において、夫とベッドを共にしなかったという。そのための代理妻を認めて同居していたらしい。 >性欲のない生殖行為は 原罪の前でもあったろう。 どこかに、これを記しておられましたが、まず、普通に生理学的見地で考えてみたとき、「性欲」なるものが何のためにあるか、というと生殖行為に向かわせるためです。言い換えれば、性欲がないと、なかなか励まない、ということです。 性欲というのは、つまり生欲だと言う。生き延び生き残りたい。だが限界はあるから子孫を残すという形で続いていこうとする。この「生欲」旺盛な人が異性に縁が薄かったとか、子供を残したかったのに子に縁がなかったとなると、いかにも寂寞、リビドーのはけ口求めて右往左往の苦しみだろう。 男性と女性とでは、どうやらセックスに対する感受性が違うらしい。このことは何種かの調査で明かされているようですが、一般的に女性は男性ほど性欲が強くはない。それは性犯罪の件数を見ても明らかです。俗に「男は上半身と下半身の人格が違う」と言われますが、女性の場合は「上半身と下半身の人格が繋がってる」「情緒でセックスをする」「精神でセックスをする」とか言われる。そもそも快感自体、男性ほどでないのが現実で、なかには、一度も快感を感じたことがないと告白する女性も、かなりの数にのぼるらしい。それならば尚のこと、もし女性に一たび明らかにして純然たる、本来の「性欲」というものが湧くとき、それは男性のそれよりも激しいものかもしれない。すれば、それに伴う羞恥心も連動して強くなるだろう。何せ「上半身と下半身の人格が繋がってる」んだから。それは女性の、性に対する屈折した態度を助長するかもしれないし、何よりも生殖行為において一方的なまでのリスクを背負うのは基本的に女性側です。これは忘れちゃいけないことでしょう。 >(雅歌 2:7) この言明に適うもの あるいは それを凌駕するものは 見当たらないと言っていいのではないでしょうか。この文章にかなっている女は いろっぽいと思いますよ。 そうですね、そう思いますよ。ただ、女の好みというものが男にはイマイチよく分からんところがあるように、男の好みが本当に分かってる女も少ないんですよ。あるいは分かっていたとしても、そう易々とは従えないんでしょう、男が本当に好む女を演じるのは。 >信仰者が集団として集まるのは 社会一般としての信仰抜きの場合しか考えられない。それ以外は すべて 支配欲を満たそうとする政治的な行為であり 誰か一部の者の営利を目指す利己的な行為である。(研究専門の施設が考えられるか)。この意味で 宗教観には 共感するところがあっても ニーチェの信仰観は ほとんど支離滅裂である。 世間の「組織」と名がつくもんは、「支配欲を満たそうとする政治的な行為であり 誰か一部の者の営利を目指す利己的な行為」という共通した属性において、ことごとく宗教的ですよ。 ニーチェが支離滅裂なのは仕方ない。発狂しちゃったくらいだから。それでも、もとが並外れて鋭敏な人だけあって、拾うべきところは多いと思う。 >外面は菩薩の如くして 内面は夜叉の如しとか。まぁ こんな人間がいるとは知らなんだわい。《完全な女》??? 「知らなんだ」ですか。ハッハァ、相当のおくてだな。外面を菩薩の如くすればするほど内面は夜叉にしないとバランスとれない。バランスがとれてこそ「完全」でしょ?だから恋愛感情を押し込めてツルッとした顔したがる女ほど意外に内面夜叉なんですよ。こういう女は、いっぺん思いっきり嫉妬させてやりゃいいんです。たちまち本性剥き出しになるから。「うりゃあぁ、ひとの男に手ぇ出しやがったらブッ殺すぞテメェ」てなもんですよ。女は恋愛(=ロマンチック)命!だからね。まぁ、あくまで一般論としてです。外も内も夜叉丸出しだって、もちろんいます。 >貞淑でない女は一割だと 高校からのわが友のひとりは 語っていた。じゃあ その一割に当たってしまったと我が悔い。後半は ぴんと来ていない。 「一割」の根拠が分からんけど、貴方のクレオじゃなくてポーラさんの場合は貞淑でないと言えるのかなぁ?キリくんと貴方と二股かけてたんじゃね?てことですか? 女のなかには、男が完全に自分を愛してくれてるかどうか確かめるために石橋叩いて叩き壊しちまう亜フォがいるんス。普段チャッカリしてる女ほど恋愛に関しては何故だか計算違いしやすいんス。こういう場合は間違いなく女の方がイカレとるんス。と言うか計算違いするやつは要するに男女関係なくイカレポンチです。普段そうでもないのに恋愛絡みでそうなるときは、そいつの方がイカレてるんです。冷静じゃないってことです。 >自己侮蔑を強いるのは 相手の女なりけり。もしくは 女がまづ先に わたしって何てばかなんだと悔やむ。その思いが 男に 乗り移って来る。一般に真面目な男ほど その効果はてきめん。ただし 誰も この影響を いなして避けることなど出来ないはづ。 (乗り移るといった系統のほうへは 持っていきたくないが 精神分析に 逆転移という現象も ある)。 ま、男は惚れた女に嫌われると惨めだ。「オマエなんか産んだおぼえはないよ!」って、おふくろに突き放された小さいころのような気分になる。惨めさ余って憎さ百倍。 「人類を惑わす魔女である処の道徳が、あらゆる心理理学的な事象を根こそぎまやかしと化して来た―すなわち道徳化してきた―その揚句、愛とは「非利己的」なものでなくてはならないと説く、あの戦慄すべき荒唐無稽についに到達してしまったのである。…が、人はしっかりと自己の上に腰を据えていなくてはなるまい。また自分の両足で毅然として立っていなくてはなるまい。さもなければ、人を愛するなんてことは出来ない相談なのだ。この点は結局、女の方がずっと良く知っている。女というものは、自我がなくてただ単に公平にすぎないというような男には、興味を示さないものである」 >後半が ニーチェ先生のめちゃくちゃな信仰観を表わしている。冒頭ゆえに 人間が自分の努力で 愛を実践するなどということは ありえないという結論にならなければ うそ。《自己の上に腰を据えて》も ダメだというのが 信仰の立ち場。 そりゃ、しゃーねえですよ。ニーチェ先生は信仰クソ食らえでしょ?と言うか自分がディオニュソス気取りだもん。しかし、まずは自分を真に愛することなくして他人を愛せないというのは現実にかなってるんじゃないかな?それよりも「女というものは、自我がなくてただ単に公平にすぎないというような男には、興味を示さないものである」ここんとこに注目してほしかったね。 「真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らがこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ。――そこであらゆる種類の独断は、今日では悄然として意気阻喪した恰好で立ちつくしている。それがなお立っているとすればだ!」 >《真理》が 女であろうとなかろうと 人間が真理を《理解する》ことが出来るという前提が おかしい。経験的な相対的な真実しか われわれは理解し得ず。 だから「籠絡されなかったのは確かなことだ。」と、ゆっとられるだけですがな。なんでか、ということを説明しとるんでしょ。 「そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにそなたを失いたくない」 バイロンって人は女性にモテることで知られていたらしい。貴方も大いに見習うべきだったんでは?「そなたのために世界を失いたくない」なんて言う男は女性が鼻白むこと請け合いです。 >吉行淳之介 は いいことを言っている。けっこう読んだ。ブレがないと感じたことあり。宮城マリ子との関係も けっこう 知ろうとした。裏切りを元にした関係が 長く持つのは どうしてか。 吉行淳之介は、あいにく、こっちがよく知らない。読んだこともないし。宮城マリ子さんって元女優でしょ?障害児の施設かなんか経営してたっけ? 「裏切りを元にした関係が 長く持つ」ってのは実際、けっこう、よく見かけるようでもある。裏切りが絆みたくなってんじゃないかな?二人だけの間に起きた二人だけの問題には違いないわけだし、他には、これといったものがなければ。 「あんたーッ、あの時あたしを裏切ったじゃないキィーッ」「そんなら、おまえだって、このオレを裏切りやがって、あの時クソーッ」で、ど修羅場のあとの爛れた官能。。こんな感じかな?そういや自分にも覚えが(汗 まあ大概の場合だと、簡単に裏切るような性格の悪いもん同士で似た者同士の一種の居心地のよさもあるし、結局、お互い他に相手が見つからなくて仕方なく引っ付いてるだけでしょう。 でも、稀には、どちらかの側が深く愛していて、裏切りをする存在であることそのままを受け入れているということもあるかもしれない。何にしろ離れられないだけの理由があるのかもしれないし。 「女性というものは、引き離すものであり、自分自身からおのれを引き離すもので、女性の本質は存在しないのです。女性は、あらゆる本質性、あらゆる同一性、あらゆる固有性を、終わりなく、底無しに、呑み込み、底から投げ出します。ここでは哲学的な言述(ディスクール)は、盲目になって、沈没する――破滅へと投げ入れられるがままになる――のです。女性の真理というものは存在しないのですが、しかし、それは、このような真理からの深淵的な引き離し、このような非-真理が≪真理≫なのだからなのです。女性とは、このような真理の非-真理の名称であります」 >分からん。《底無し》だが 《底〔に達したのち 底〕から投げ出す》のかいな? デリダ先生は 学識があれど 思想は よう分からん。 いやいやいや、デリダ先生は確かに分からんと仰る方が多いようですが、この部分は読み返す価値ありじゃないかと実は一番オススメしたかったんス。ま、細かい言葉の違和感を追及するのは、ちょっと置いといて。 >神のように いかなるものの下にも立つまいというかのごとく 理性統一神のもとに(あるいは みづからがその神となってのように) 女は自分を定義づけされるのを嫌う。謎だと思ってもらいたいのよ。だから自分自身が神さんなの。やり方が下手なやつと上手なやつがいるだけ。(一般論ですよ) 今回の、このご質問に対する最も妥当な答えなんじゃないかなあ。 >鬼と化して申します。方向が逆です。ニーチェといえども 《人間は克服さるべき或る物》と言ったなら 何らかの還相として 書いているはづです。つまり もうすでに 現実の先端である感触の領域にまで《克服された人間の像》が 分かっていて 言っていることでしょう。《永劫回帰》だからと言って 再び・みたび 往生して来ますという方向転換をここで見せたのでは 議論になり難いでしょう。 すでにいま 《永遠の現在》を生きているという還相を 曲がりなりにも その人なりに 持っていて それを述べているというのでなくては 未完成の作文に終わります。 まあまあまあ、別に鬼にまで化さんでも。そんなこと断言できんでしょう。「克服されるべき」でしょ?「べき」でしょ?「べき」まででしょ?予定は未定にして確定にあらず。 「未完成」で、ええがな。何ら<「固定的」なものでもなければ、「信用」に足るものでもない。ただ、克服されるべき現在の状態の別名にしかすぎない。>んだったら。 >松岡正剛の矢川澄子著『反少女の灰皿』に対する批評 松岡さんの書評内容が気に食わんってのは、まぁ理解できなくもないですが、どうも良い書、じゃない、ヨイショが最終目的みたいな一貫性を感じるんで、しょうがないですよ。友好第一、を心がけておられるんでしょう。それに矢川さんの場合、自死なさってるしねぇ。 >こんな内容って ありますか。分かりますか。 つまり 矢川は いくら《少女》のままだ / いや 《反少女》だと言っても しっかりと このように文章を著わして 自己表現をしています。そのことを取り上げなければいけない。 〔あるいは すでに今は亡き人であるというものの 生前に しっかりと その自己表現の中味を 尋ねてやっておかなければいけなかった。そうすれば 別の展開もあったかも知れない。(この言い方は余分かも知れません)。それで 相手が 退いたのなら それは それで かのじょの意思表示なのだから それとして 尊重するという段階になったのかも知れない。うんぬん〕。 けれども 矢川は 次のように書いていると言います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「少女はもしかすると呆れるほど身の程知らずなのかもしれない。身を鴻毛の軽きにおくなどという、偉丈夫どもにとってはえてして悲愴感を伴いがちなわざを、だれよりもあっけらかんとやってのける〔ことができる〕。・・・ 「現身(うつしみ)はここでははじめから無にひとしい。こうした女性たち(上のような少女たち)をまえにしては、識閾下の抑圧された獣性をいまさら云々してみてもはじまらない。むしろ彼女らがそれぞれの罪のない小宇宙の構築にかけた生得の美意識のしたたかさをこそ評価すべきではないのか」と。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり 外に見せないというエロスの問題はさておき かのじょらの《生得の美意識のしたたかさ》と言っているのだから やはり ここにも 自己表現が出ていると捉えるべきです。しかも その美意識のしたたかさ《を 評価すべきではないのか》と 明らかに 意思表示をおこなっています。 その前の箇所では 松岡は 《告白否定》のことを取り上げており そのこととも関連させて けっきょく《幻の村での酔生夢死(その願望)》につなげているようですが ひとこと 応答してやらねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「不言」こそが、少女の少女たる真骨頂だというのである。「少女は黙った」。これでいいでしょ、ほかに何か文句あるの、というのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つねに この路線で 捉えようとしている。それは 早合点ではなかったか。 このような意味合いで 矢川澄子 / 《少女 / 反少女》等々と わがポーラを隠遁の性癖から捉えたときの像とは 別だという感触です。 また ポーラには 同じく自己表現はあったと思うと同時に 意思表示は なかったと考えられますが その時の像とも やはり違うでしょうね。 では 意思表示として 《美意識のしたたかさを評価してほしい》というような訴えを持っていたとしたら どうか? 分かりません。あるいは 同類だという可能性が出てくるかも分かりません。 ただ 修道院に入ることは 《幻の村で少女のまま生活を送る》こととは どうも ちがうような感覚があるのですが どうでしょう。というのは わたしから見れば ふつうに社会の中で生きているよりも 何かを訴えている度合いが強いようにも 思えますし。・・・ >あるいは すでに今は亡き人であるというものの 生前に しっかりと その自己表現の中味を 尋ねてやっておかなければいけなかった。 どうかな?ここが貴方一流の勘違いかもしれない。 「現身(うつしみ)はここでははじめから無にひとしい。こうした女性たち(上のような少女たち)をまえにしては、識閾下の抑圧された獣性をいまさら云々してみてもはじまらない。むしろ彼女らがそれぞれの罪のない小宇宙の構築にかけた生得の美意識のしたたかさをこそ評価すべきではないのか」と。 ここでデリダの言葉を思い出してみてください。 >ひとこと 応答してやらねばならない。 「少女は黙った」。これでいいでしょ、ほかに何か文句あるの、というのだ。… ポーラさんの場合は、そりゃあ宗教がらみだからね。単に自分を永遠の少女のままに留め置く、というような単純なナルシスティックな美意識とは違うはずじゃないかとは思うけど、こっちは信仰心も薄いし、よけい、よく分かりません。修道院入りするって、若い娘にとって並々でない決意も必要だったろうしなぁ。その決意の萌芽が、いつから芽生えたか?ってことだ。 >送り届けた自宅の前で 別れ際に 愛しているという無言のメッセージを受け取るという感覚を持った。 (first kissの話完了) * このあと かのじょにはっきりとした決断を迫ったことになる。(親を介してのプロポーズ)。 だからfirst kiss話完了とプロポーズまでの間に何か変化があったのか、あっ、プロポーズの返事もらうまでに大分、間があいたって言ってたっけ?じゃその間に心境の変化でもあったかな?心境の変化というよりも心境の確認かな?「やっぱ、あかんわ、こりゃ」とかさ。 彼女がキリスト教に帰依して最終的に修道院入りを決意するまでの心境の流れが大きく左右してるように思うんだけどな。修道院入りするって、要するにキリくんと結婚します、ってことなんでしょ?そうすると、ま、あたかも嫁入り前のアバンチュールのごとくですなあ。場合によってはキリくん袖にして、娑婆の男である貴方の方に寝返ることができるかどうか賭けてみたのかもしれないけど、やっぱキリくんとの婚約を全うしよう、ということで決心したんでない?つまり、ああか、こうかと女の顔色ばかし伺ってる貴方はキリくんの魅力に勝てなかったということでは?ある意味、世界最高峰の、男!キリくんだもんな。 しっかし清らかなもんだよなー。時代の差を感じるというか、いまどき中学生でも、ここまで純情かどうか。 「恋愛感情を持った同士の精神と精神との間に濃厚な分泌物が生れ、そういうものが場合によっては、なまじの肉体関係よりも、はるかに強烈なものになる」 濃厚な分泌物、そうなんだよ。エロエロなんだよな。もぉーおジトジトなの。肉地獄のヨロコビ。それがなくって清らかな愛だったらさ、なんたってキリくんに勝てるわけないよな。娑婆の男じゃ中途半端だもん。 貴方はね、やっぱり女の顔色見過ぎだったんじゃないかな。それだけ真面目な紳士なんだろうけど、男女共に、相手の顔色見てるようなやつは結局取り逃がす。そして思いを遂げられなかった相手のことは、いつまでも心に残る。 >専門雑誌に掲載された小論で ドイツ人の研究者がフランス語で書いたものを日本語に翻訳してあった。この訳者は わたしの大学時代の恩師だよと 次の電話で ポーラに言ってやった。そこらあたりで 話が続かなくなった。中味については わたしは何もまだしゃべっていないのだが ポーラはもう自論を引っ込めにかかった。 うーん、案外、自分に自信がないのかな?権威に弱いかな? 絶対的な唯一神を求めるような人でしょ、もっと有無を言わさぬ荒々しい情熱を示して欲しかったのかもしれないし、所詮ただの人間の男よりも神と名のつく至高の存在こそ我が身の伴侶にふさわしいと思ってたかもしれないし。 女のナルシシズムって筋金入りだと思うのよ。表現の仕方は個人によっていろいろだけど。そのナルシシズムを優先的に満たしてくれる男とだけ特別な関係に入ろうと思うのかもしれない。 この、女特有のナルシシズムについて少し。生物学的には本来、女性性というものが性の基本であるらしいこと(これはキリスト教の見解とは全く反対ですね)だから、女性は性的に異性を求める衝動が男性のそれほどには激しくないのではないかということ、特有の優越感とでもいうものがあるとしたら、この、性の基本者たることが由縁するかもしれないということ。それでいて腕力等の面では男性に圧倒的に劣るゆえの危惧感だとか無力感、依存心、そういうものが混淆して、また葛藤して女性独特のナルシシズムを形成しているということも考えられる。 ちなみにだけど、狡猾に立ち回ろうとするのも、かえってショボい結果を招いてしまうのも、いわゆるカタギの女に割合が高いと思うゾ。 もう一回言いますが、やり方が下手なやつと上手なやつがいるだけなんです。 貴方の場合だけど、顔色伺ってくる男に対して永久に顔色を伺わせ続ける、手の届かない高嶺の花でいることでナルシシズムを満たそうという方法がポーラの流儀だったのかもな。(だけど、こういうやり方をする女は多いよ。)そして、それが自分をさらっていかない貴方への持続する罰だったかも。 世の中の女性に聞いてごらんなさい、なんだって、こんなサエない男とくっついてんの?って理由が、「全然タイプじゃないし興味もなかったけど、押しに押されてホダサレたから」というのが、けっこう多い。このホダサレってのはね、相手の男に対する憐憫よりはナルシシズムなんだろうと思う。 …と言っても、あくまで一般論としての作文だからね。作文だから。 ああー、くたびれたぜ~やっぱ貴方は女にモテるタイプでないのは確かなんじゃないですか?相手するのに男でも骨が折れるようでは。女をモノにする方法、キリくんに教わるべし。女が、その柔らかな髪でもって足を拭ってあげたくなるような、男キリくんにさ。(キモチよさげ。。いっぺん、やってもらおか♪言ったとたんに、はったおされるかな~;)女の足舐めて悦んでるような男たぁワケが違う。。あ、もう遅いか。
お礼
(つづき) ですが――わたしのいいところは―― そのあと 相手が何らかの別の行動や意思表示をしたなら それに合わせて 対処したということです。可能性を こちらから 断ち切るというわけには行かなかった。女も 男と同じく 人間であると信じていたのです。 これが 今回の大発見です。わかっていたように思っていましたが このように質問もしていることですから 女は いわゆる人間種としての男に対してその亜種だという世間の噂に染まりつつあったわけです。 今回は このあたりまでが いいでしょう。もう一回は ご回答をお寄せくださいませ。
補足
まさに教えて!goo特別公開講座《これが恋愛だ》であります。ありがとうございます。 ・今回は 発見がありました。大発見です。 その前に ものには順序で 一つひとつ取り上げます。 ・けれども ランキングでついに姿を消しましたね。更新がないのだから 無理もない。或る意味で 佳境に入ったところですがね。 (1) ★ キリくんに教わるべし ☆ というのでしたら わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではあり ません。 (パウロ:コリント人への第二の手紙10:3 新共同訳) この箇所 以前の共同訳では 《人間的な動機で動く / 闘う のではない》となっています。つまりその昔 ポーラとの絡みは 人間的な動機で 自分の考えにもとづいて 持ったのですが いま これを取り上げているのは それだけではありません。共同主観( common sense )としての人間論のためです。そうでなければ これだけの私的なことを公表するわけも意味もないのですから。 (2) ★「少女は黙った」。これでいいでしょ、ほかに何か文句あるの、というのだ。… ☆ ですから 一度は 《文句あるよ》と返してやらなければいけない。それが 人間というものだ。一人ひとりが互いに関係的な存在だということです。相手が それに対して 《いや 言ってはみたが 文句は受けつけない》と答えたのなら もう放っておけばよい。自死でも何でも 好きなようにすればよいと。九十九匹よりも一匹を。 (3) ★ 女は自分を定義づけされるのを嫌う。謎だと思ってもらいたいのよ。だから自分自身が神さんなの。やり方が下手なやつと上手なやつがいるだけ。(一般論ですよ) 今回の、このご質問に対する最も妥当な答えなんじゃないかなあ。 ☆ 今回の全体にわたって 《恋愛講座》だと言ったように もしキリくんにわたしも会わなかったなら この講義で納得ぅーーと言っていたかも知れません。世間のありさまが 隅から隅まで描写されました。 たしかに 出世間が問題だと言っても 煩悩即菩提とも言うように この世間のあり方に即して すべて 対処するしかないわけですが 一味ちがう信仰の立ち場もあります。これは (1)(2)でも述べたとおりです。 そしてこれが 今回の大発見です。 (4) ★ やり方が下手なやつと上手なやつがいるだけ。(一般論ですよ) ☆ これは あくまで 女に合わせて 人間を考えています。わたしの質問は そもそも はっきり言えば 《人間として 女は 男と同じように 人間であるか》なのです。もしこの質問が想定する内容が まぼろしであるとするなら 質問が成り立たないでしょうし 現象面では 女は 男と平等ではないということになります。 (5) ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 車にもたれたポーラに近づいたところ 笑っている。抑えて 小さく 下品にならないようにして。くすくすは 止まらなかった。一たん場を離れた。時間を取った。静まるまで待った。言葉はかけなかった。それで駄目なら 駄目でよいと考えた。 さらに抑えるようにしたようだが ついにくすくすは止まらなかった。強行すれば 口づけだけなら 出来た。強行せず。ポーラ物語は ここで一巻のおわりだと思った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき 最初は 笑い飛ばそうとしていたから 侮辱と感じたわけです。だが 数年つきあった後のファースト・キスです。そう簡単に解釈を決めつけるわけにはいかない。そこで 五分か十分か 間を取ったのです。それでも 小さく くすくすと笑うのが止まらなかった・止めようとする気配がなかった。 唇を 唇のすぐ前にまで持って行って そこで 止めていました。くすくすは止まらなかった。強行すれば 出来ました。なぜ しなかったか。こんどは 怒りではなく もしこの状態と情況で くちづけをすれば それは 飼い猫にするのと違わないと感じたからです。 つまり 意思表示のない動物では 人間ではないと感じたからです。 このような嫁をもらっても ソクラテス先生ではないのだから 百年の不作だと考えたからです。一巻の終わりだと思いました。二度と会わないと思いました。 (6)ですから 《やり方が下手なやつと上手なやつがいるだけ》と聞けば たしかに その世間の知恵で うまくやろうと思えば 出来たのです。しようという気が失せたのです。 いまは 猫と変わらないが そのうち 人間になるだろうという保証は どこにあるのかという問題です。猫を飼う趣味もないのです。わたしは 人間である女とくちづけをしたいのです。(つづく)
あのね、何故だかヤケに喜んでいらっしゃるようですが、わけが分からん。ともあれ >テツガクに再び戻す要あり。 とのことなので。 「宗教は間接的にも直接的にも教義としても比喩としても、いまだかつて一つの真理も含んだことはない。 というのは、どんな宗教も不安と欲求から生まれたものであるから。」 ~『人間的な、あまりに人間的な』 「宗教などは愚衆の所轄事項である。宗教的な人間と接触した後では、私は必ず手を洗うことにしている。…私自身は「信者」などというものを欲しくはない。思うに私は甘い人間ではないので、自分で自分を信仰するということが出来ないのだ。私は決して大衆相手には語らない。…いつの日にか人から聖者と呼ばれることがあるのではないかと、私はひどく恐れている。」~『この人を見よ』 こんなことを言う男ですから、貴方のお口には合わんかもしれませんが 「男が本当に好きなものは二つ――危険と遊びである。 そしてまた、男は女を愛するが、それは最も危険な遊びであるからである。」~『曙光』 「完全な女というものは、自分が愛するときには相手を八ツ裂きにするものなのだ。…私はそういう愛すべき狂乱巫女(マイナス)たちを知っている。…ああ、何という危険な、忍び足で歩く、地下に住む、小さな猛獣! それでいて何とまあ好ましい!」 「女は男より、言いようもないほどに邪悪である。男より利口でもある。女に善良さが認められるとき、早くもそれは女としての退化の一形式である。」~『この人を見よ』 ニーチェ先生のお好みも、悪女派だったとみえる。 世の中は、安全を求める男女と危険を求める男女とがいる。但し、安全を希求するあまり、かえって危険に身を投じる痛々しいやつもいる。こっちの方は女に多いかもしれないなぁ。 「自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である。」 「人類を惑わす魔女である処の道徳が、あらゆる心理理学的な事象を根こそぎまやかしと化して来た―すなわち道徳化してきた―その揚句、愛とは「非利己的」なものでなくてはならないと説く、あの戦慄すべき荒唐無稽についに到達してしまったのである。…が、人はしっかりと自己の上に腰を据えていなくてはなるまい。また自分の両足で毅然として立っていなくてはなるまい。さもなければ、人を愛するなんてことは出来ない相談なのだ。この点は結局、女の方がずっと良く知っている。女というものは、自我がなくてただ単に公平にすぎないというような男には、興味を示さないものである。」~『この人を見よ』 ははは。。まあ、そうなんだろうな(笑) 「人間は行動を約束することはできても、感情は約束できない。なぜなら、感情は気まぐれだからである。 自己欺瞞なしで永遠の愛を誓うものは、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ。」~『人間的な、あまりに人間的な』 「真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らがこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ。――そこであらゆる種類の独断は、今日では悄然として意気阻喪した恰好で立ちつくしている。それがなお立っているとすればだ!」~『善悪の彼岸』 「冷静な女なら賢い男は御せる。だが、愚かな男を御すには賢い女でなければ無理だ。」~キップリング 「恋をする男は自分の能力以上に愛されたいと願ってる人間である。 それが彼を滑稽に見せる理由である。」~シャンフォール これは男女関係ないでしょうね。 >――これは おかしい。逆だ。♪世界のため 二人はあるの だ。 とやったら こうなった。 ――(女子T) でも 女は うれしいものよ。逆じゃないわよ。 ――(女子Y) だから brageloneくんは だめなのよ。そんな女の人みつかるわけないじゃないの。 「そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにそなたを失いたくない」~バイロン 「恋愛は何か本当のことを聞かれないために滅びることがある。ちょうど友情が何かの嘘によって滅びるように」~『友情論』ボナール 「どんな男でも、ある女性を自分のものにしようとするときは、その人が自分の愛に最もふさわしい女性であり、自分がこんなに夢中になるのももっともなことだ、と思いこんでいるのである。 そして、それが迷いであったと気づくのは、あとになって別の女を愛するようになったときである。」~アルツィバシェフ 「二十代の恋は幻想である。三十代の恋は浮気である。 人は四十代に達して、初めて真のプラトニックな恋愛を知る」~ゲーテ 「恋愛感情を持った同士の精神と精神との間に濃厚な分泌物が生れ、そういうものが場合によっては、なまじの肉体関係よりも、はるかに強烈なものになる」~吉行淳之介 いろいろ並べ立てたけど、まー結局 「どんなバカでもヘンテコリンでも、女とつき合うほうがおもしろい。 男とつき合うくらいなら、うちへ帰って本を読む」~萩原朔太郎 皆かあちゃんのぬくいアソコから生まれて来たんだもんな、どんな変なかあちゃんでも!『女は男のふるさとよ』ってね。 「女とは、自分を引き裂く雷を渇望する木のようなもの、しかも同時に成長を欲する木のようなものです」~ルー・アンドレアス・サロメ(Louise Andreas-Salomé) デリダ「尖鋭筆鋒の問題」によれば 「女性というものは、引き離すものであり、自分自身からおのれを引き離すもので、女性の本質は存在しないのです。女性は、あらゆる本質性、あらゆる同一性、あらゆる固有性を、終わりなく、底無しに、呑み込み、底から投げ出します。ここでは哲学的な言述(ディスクール)は、盲目になって、沈没する――破滅へと投げ入れられるがままになる――のです。女性の真理というものは存在しないのですが、しかし、それは、このような真理からの深淵的な引き離し、このような非-真理が≪真理≫なのだからなのです。女性とは、このような真理の非-真理の名称であります」 と、いうことでっす。分かったような分からんような、ですが。 他に、こういうサイトもあったんで、まあボチボチ気分転換に覗いてみますか。特に、ここの「2・恋愛という思想」あたり。 http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kaerimati.html 矢川澄子『反少女の灰皿』 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0591.html http://homepage1.nifty.com/cactus-hp/koko07.htm
お礼
(つづき) 運転するわたしが 途中で三叉路をまちがえて左の道へ入ってきたと気づいたのは むしろ 隣りのポーラが 下向き加減に わたしに合図を送っていたからだった。 なにか気配を感じて横のポーラのほうへ振り向いたあと たしかに その同じ目で周囲を見ると 様子がちがう。――行き交う交通もなく 古びた景色が広がり 明らかに走っているべき幹線道路ではなかった。 §7 こわあーい!!!! ポーラは済まなさそうにしている気配があり 三叉路を間違えさせたのはわたしですと言っていた。(すでに 断言のかたちをとることにする。)オソロシイと思ったかどうか。そう思うことにも言うことにも踏み出す前にわたしは Uターンして 引き返していた。幹線道路に戻りつくまでに ポーラは どこへでも付いていきます 連れて行ってくださいと言っているとの感覚があった。無視した。 §8 べらぼう話きわまる!!!!!! 幹線道路は 二車線だが 幅広く まだ山の中とはいえ 運転は楽だった。前を走るトラックがいやにのろかったのは事実で これを追い抜こうとする。この動きが 助手席からの指示によるのか はっきりしない。どういうわけか 対向車線にかかった追い越しのかたちになっても だめサインは出なかった。ただ まだ遠くながら 一台大きなトラックが対向車線を来るのが見えた。 ここで速度を落として 車線に戻ろうとすると まだ なお 行けという感覚が残っている。それが 隣りから出ているものと すぐに分かった。つっきって この追い越しを敢行する。わたしは じゃじゃじゃじゃーんと口走っていたはずだ。 §9 愛している???????????? 送り届けた自宅の前で 別れ際に 愛しているという無言のメッセージを受け取るという感覚を持った。 (first kissの話完了) * このあと かのじょにはっきりとした決断を迫ったことになる。(親を介してのプロポーズ)。 ★ 自己欺瞞なしで永遠の愛を誓うものは、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ。 ☆ 五十年 欺瞞まじりの見せかけを貫き通してみせるという覚悟である。その限りで しあわせにしてみせると。これが 背水の陣であった。
補足
テツガクおもしろいので任せて こちらは ファースト・キスの物語。 1 リルケの詩?批評? それは夏 八月だった。しばらく振りの電話での応対があった。 どちらから掛けたか いまは さだかではない。リルケの詩についての小さな評論があるという。面白いという。わたしは リルケが好きでなかった。適当に受け応えていた。この適当さというのは ポーラとのあいだで わたしにとって 初めてである。コピーして送るということになった。 専門雑誌に掲載された小論で ドイツ人の研究者がフランス語で書いたものを日本語に翻訳してあった。この訳者は わたしの大学時代の恩師だよと 次の電話で ポーラに言ってやった。そこらあたりで 話が続かなくなった。中味については わたしは何もまだしゃべっていないのだが ポーラはもう自論を引っ込めにかかった。 2 初めての誘い その年の暮れに 新年にかけてわたしは ヨーロッパへ初めてのパッケージ旅行を思い立った。その留守のあいだに ポーラから自宅へ電話があった。夏以来である。 旅行から帰ると 早速 電話した。K市に来いという。ポーラの引越し先の町である。ポーラからの誘いなど 初めてのことである。わたしは 特に高速道路で車にチェーンが必要なことから 乗り気でなかった。車で来て とまで言って来た。(リルケの件は わたしが 応対の適当さを初めて見せたそのことが この誘いにつながったかという一つの推理から。) 3 冬の古都 一年以上の空白がある。それ以上に最初の誘いに応えてきたのだから 緊張感がある。わたしにも増して はじめは ポーラが緊張していた。古寺へ行ったが 昼近くになったので まずご飯である。ところが もりもり食べた。しっかり食べようと言葉でも言いながら 平らげた。(わたしは いつも残らず食べる習慣だが。) とはいうものの 寺の中に入って 見てまわり始めてからは ポーラは もう 何もなかったような素振りだった。わたしは 最初のポーラの様子を見たときから 緊張がほぐれていた。 そう言えば プロポーズもしていた。茶店に入った。いつしか 英語でしゃべろうということになっていた。ポーラは わたしが 人見知りをし はづかしがり屋なので こう聞いてきた。教壇に立てるかと。I can manage.と答えた。(つまり この英文を覚えている。)冬の観光地には 客は ちらほらとしか いない。茶店は 貸切りであった。借景もきれいだった。Would you marry me? と尋ねた。ゆっくりゆっくり 答えようとしていたが I don't know.と返ってきた。そう言った。好きではないのかと尋ね返した。記憶をたぐって 想い出すその返答は 以前の高校時代よりは 好きではない だったか。Yesも Noも あたまにつけなかった。I don't know.以外に答えはなかった。 4 以心伝心?? わたしは そろそろ ポーラにとっての連れ合いの候補の位置を降りるときが来たと思った。 どこへ行くともなく 寺をあとにして 車に乗った。ここからが 世にも奇妙な物語である。以心伝心という言葉があるが 暗黙のうちに会話が成り立って 事が運んだ。街から遠くへ行きたい 自宅を離れて遠くへ行こう というメッセージを運転席のわたしは 助手席から 受け取った。目的地も決めずに 帰路とは反対側の道を選んで走った。山の中へ進んだわけである。 かなり奥へ入った。引き返そうという信号。あまりにも道が狭くなってきたのだった。引き返す途中に 車のすれ違いのための割り合い広い空閑地があって わたしは 自分から ここに休憩をとろうとした。 5 なぜかファースト・キス!? 相当深い峡谷に沿ったところで 向かい側には 杉の林が茂っていた。外に出て のんびりしていたが なんとはなしに キスの問題が現われた。 車にもたれたポーラに近づいたところ 笑っている。抑えて 小さく 下品にならないようにして。くすくすは 止まらなかった。一たん場を離れた。時間を取った。静まるまで待った。言葉はかけなかった。それで駄目なら 駄目でよいと考えた。 さらに抑えるようにしたようだが ついにくすくすは止まらなかった。強行すれば 口づけだけなら 出来た。強行せず。ポーラ物語は ここで一巻のおわりだと思った。 6 以心伝心?? そのまま運転席に坐ると ポーラもさあーっと車に入ってきた。古寺の近くまで戻って来て山道に別れると 一直線でポーラを自宅へ送るという作業に徹した。 ポーラも おとなしいものだった。助手席で 怒った様子もなければ 不平も文句も言わない。何かを言いづらそうにしているわけでもなければ おかしい・分からないという素振りひとつもない。そして その底力を見せつけられるのに 五分とかからなかった。(つづく)
>一度だけ《突然ぶち切れたことがあった》とき その場から姿を消したのだけれど しばらくして すまなさそうにして 戻って来た。《必死に取り繕》うこともなく 一切何も言わなかった。 それなら、その女性は比較的知性の高い人だと言っていいんじゃないかと思う。向こうも何かこう、もどかしい思いを抱えてたのかも。そこんとこが分かればよかったんでしょうね。 貴方は確かどこかで「仏教では、ぬるかった」とか何とか言ってませんでしたか? 修道院入りするくらいだから、彼女も「ぬるさ」が耐えられなかったのかなあ。。 ハンパに小賢しい女ほど取り繕いや言い訳が多いもんです。そこを追及したひにゃ、哀れなくらい、べろべろの支離滅裂になりやがる。 >わたしが ケッペキペキペキなのは 段々わかるに決まっていると思ってた。じっさい 離れていくとも思っていた。 もう一点は プロポーズを断わったあと ふつうに結婚してくれていたなら そのことは 風の便りにこちらも知るだろうから それで 最小限度のめでたし めでたしだと思っていたのに。 最初から、いつかは離れていく予感がしてたわけなんだな。 それでも自分側を変える余地なんて思いもしなかったわけだ。 向こうが結婚するまで身動き取れないということは、自分が未練引きずってるということですよ。 >サルトルとボヴワールの関係がいいわねと もらしたことがある。藪から棒であったが わたしの趣味ではないので とりあわなかった。これが いけなかったかとの反省はある。 だからね。趣味が合わないうえに譲歩しようという気すらない。ホントに好きだったのかよ? >★「清濁併せ呑む」 ☆という態度は 連れ合いと一緒に 人生を生ききるときのものだと思っていた。ふたりで一つの人格であるという感覚です。それには きちんと合うか合わないか はっきりしとかなきゃならない。 あのね。結婚って、そうゆうもんじゃないと思うゾ。青年の理想というのか何と言うのか。。。 貴方ひょっとして曲がり角を曲がるときも直角に歩いてやしませんか? いっそ実験同棲でもしてみりゃよかったのに。 夫婦なんて二心二体が実際でしょ。最初から合うか会わないか、事前にはっきりさせとくんじゃなくて、時間かけて、すり合わしていくんです。そして、それを面倒に思わないんです。好きだから。 こういうことは結婚だけじゃない、人間関係すべてに言えるんだろう。 >いまも探しているけれど。タイプは あさぎくにこ。 ほほぉ、案外ふつーなんだ。んじゃ心がけときましょう。って心がけたって、どーすんだ。紹介するわけにもいかねえ。だいいち角を直角に曲がるようなケッペキペキペキオヤジでもいいって女いてくれるかなあ?(笑) ところで「コミュニケーション」ということに関して。 骨董の世界でよく用いられる、陶磁器なんかの修理法に「金継ぎ」「銀継ぎ」というものがあるそうです。 http://butuzou.net/kintugi/kintugi.html 人間関係、特に夫婦の関係なんて、こんな感じでつくっていくんじゃないかな。継ぎ合わすのも不可能なくらいチグハグだったり、粉々になってしまったらしょうがないけど。 >《キリくん》って わたしのことですか? そして 《ま、ある意味で「世界最高峰の」男だからさ。》てなことになるんですか? どしてなの?? いちおークリスチャンを名乗ってる人が、イイのかな~、そんな不敬なこと言っちゃって。クレオパトラちゃんが聞いたら、ロザリオの十字架で引っ掻かれちゃうかも。
お礼
ANo.24終わりにあるサイト三箇所に対するお応えです。(#1)(20080218記) ★ 松岡正剛の矢川澄子著『反少女の灰皿』に対する批評 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0591.html ☆ ゲーテの恋愛に対する寸評の内容と同じように わたしには ぴんと来るものがありません。もしこの感覚を信頼してよいとすれば つまらんです。何か言っているけれど 中身は 一向に 読み取れない。それでいいとして 書いているのか。それとも 読み取れる者には分かるはづだ・それ以外は お呼びでないと割り切っているのか。・・・ あなたの注目箇所は どのあたりですか。 ★ ココロのメイクーページ07:恋愛 もしくは 男と女にかんする寸評集 http://homepage1.nifty.com/cactus-hp/koko07.htm ☆ そうとう傲慢になってきましたが そのわたしを表に出しとおしますと ここにある文章(=判断)は すべて 世間の知恵です。われわれは 仏教ふうに言わば出世間の知恵を 問題にしていると言わなければならないでしょう。たとえば エルサレムの娘たちよ、 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、 あなたがたに誓い、お願いする。 愛のおのづから起こるときまでは、 ことさらに呼び起こすことも、 さますこともしないように。 (雅歌 2:7) この言明に適うもの あるいは それを凌駕するものは 見当たらないと言っていいのではないでしょうか。この文章にかなっている女は いろっぽいと思いますよ。 ★ 「ニーチェの帰り道」 http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kaerimati.html ☆ これの批評は かんたんではありません。ですが 倣岸ぶりをとおしてみます。 仏教には 往相(おうそう)と還相(げんそう)という見方があります。行きと帰りです。この批評子は 《帰り道》と言っているし そのような還相の見方を知っています。この世の経験現実から抽象して 哲学を敢行し あるいは神学にまで達し そのあと またこの世に還って来る。還って来たその境地に立つという課題を 前提にしています。要するに 終わりから ものごとを始めるという行き方です。 ただし これが 徹底されていないうらみが ある――ただ これだけが わたしのコメントです。 (ANo.21お礼欄につづく)
補足
おはようございます。 矢釣山(やつりやま) 木立ちも見えず 降りまがふ 雪にうぐつく 朝(あした)楽しも (柿本朝臣人麻呂 万葉集 巻三・262番) 今回は 一段と格調高く しゃれたご回答をいただいたので 響きたいとの思いにて。 判定を下すのに必要な提供すべきだったと思う情報を 掲げます。 ・中学一年での同級生時代から始まっている。(話しをしたことはない)。 ・中学時代をつうじて わたしには ついぞ口を聞いたこともない初恋が 別の学校にいた。 ・高校時代から ポーラ(《ヘイ!ポーラ》を歌ったのでこう呼ぶ。クレオパトラは返上)を意識。 ・後から思ったのだが わたしは ポーラの顔つきが好きだった。性格は分からなかった。 ・わたしは早婚主義だったが 高校生では無理だと決めていた。 ・わたしは 教会の日曜学校(英語。ほかに教理もあった)に行ったりしたが 信仰とは 三十歳ころまでかかわっていない。(親鸞だったんだから)。 ・ポーラは 学生のとき二十歳くらいに洗礼を受けた。 ・信仰のことで なにか不都合があるとは わたしが思ったことはない。というより どうだろうな?とか考えたことがなかった。能天気。 ★ 最初から合うか会わないか、事前にはっきりさせとくんじゃなくて・・・ ☆ けれども 互いにこころが通ったという気持ちを持ったことがないわけだから。やっていけるか いけないかの分かれ目の感覚を持つものでしょう? 持ちたいと思うものでしょう? ★ 趣味が合わないうえに譲歩しようという気すらない。 ☆ ここは 婚姻関係を結ばずに ひっつくという形態(サルトルら)のことだから 《譲歩しようという気すらない》ですよ。ポーラには はじけたところがあったようです。中学生のときから 映画好きだった。当時は――かのじょが行ったわけではないが―― 映画館禁止だった。 ★ 向こうが結婚するまで身動き取れないということは、自分が未練引きずってるということですよ。 ☆ これはですね 表現が至難であると言いますか 思い切って言うとすれば あたかも源氏物語で六条御息所なる女性が紫の上(だったっけ)に憑いたというように そのもののけ(生き霊)のごときものを わたしが感じていたというのが いかにばかげており ばかにされたとしても いまのわたしの心の真実です。おかげで 2006年春に これが落ちました。 (もっとも 三十歳代では むしろ これのおかげで 体が軽く感じるくらいで どこまでも 前へ進め前へ前へというような感じでした)。 (これを 取り除くには いい連れ合いを見つけることだと思っていました)。 (それが 未練だよと言われれば 論駁・論証することはできません。《角を曲がるときも直角に歩いてやしませんか?》というような声となって訴えようとしていたのかも知れません。そんなことは自由だ。《清濁併せ呑》まないと言っているわけじゃあない。つまり 角を曲がるのは ほとんど 一人だけの行動なのだから 放っといてくれ)。 ☆ あれぇーーっ。そんなわたくしを 褒めてくれているんですか。まぁ 自分でも 一時期 なんて面白い人物になったなぁと思ったことがあったけれど。 街を歩いていて 警官が 何でもないことで えらそうにふんぞり返って 詰問するものだから まづ善良な市民にふつうに挨拶をしてから 問い掛けてきなさいと言ってやったら そばの男が うれしそうに笑った。(チンピラ風の男だった。胸の痞え(つかえ。へぇ こんな字あんの)が取れたように笑っていた)。まぁ そういうようなことが重なったから 遠山の金さんに惚れない奴は悪だけだが オレには悪も惚れるのかと 掛け値無しに思ったことがあった。(アア もうこんなことを書いても 顔を赤らめないですましていることが出来るようになってしまった。嗚呼)。 ★ 《金継ぎ》とコミュニケーション ☆ どうなんだろう? 人間のささやかな かつ 力強い知恵なんでしょうねぇ。 ただ わたしには 独自の考えがある。二人が 互いに互いを見ているから そういう問題が出てくる。割れ鍋に閉じ蓋のままでいいのでは? 相良直美の歌に《♪二人のため 世界はあるのぉ・・・》とうたう歌詞があったが 高校のクラブで わたしは ――これは おかしい。逆だ。♪世界のため 二人はあるの だ。 とやったら こうなった。 ――(女子T) でも 女は うれしいものよ。逆じゃないわよ。 ――(女子Y) だから brageloneくんは だめなのよ。そんな女の人 みつかるわけないじゃないの。 少々脱線。テツガクに再び戻す要あり。おあとがよろしいようで。
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こんばんは、brageloneさん。 (e_e).。oO 夜中だというのに… 鬼コーチ! はいはい、起きてます。打ちゃーいいんでしょ―? あぁ、そうでしたね、前回は先にあがっちゃった=☆ (*^^*)>゛゛゛幺九振り切り~♪ *** 詳しくは↓ココを参照あれ~ *** QNo.3417579 【三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html ********************************************** ☆ この場合 男の《偉いさん》は たとえば所属する組織のためという御旗のもとに おこなう場合があります。もちろん まったく個人的で私的なふるまいも あります。そして これらは 女の場合にも 同じようであるでしょう。 ただし ここで 男は一般に そういうことを いけないことだと思っているのがふつうです。もしくは 一度は そのように考えた経験を持っているように思われます。けれども 女の場合には その多くは いま述べた男と同じようだと見ていいと思いますが 中には あたかも例外というべき場合が あるように見える。 つまり これは わたしの体験と主観です。神のように いかなるものの下にも立つまいというかのごとく 理性統一神のもとに(あるいは みづからがその神となってのように) どこまでも進みいく人 そういう女の事例があるかに見えます。 このうたがいを 解きほぐしていただけますかという問いです。 ******************************************** ↑ 井戸端会議ですか? にゃらば、しばしブレイクタイム! 【シミュレーション体験コーナー】 http://www.sp.ous.ac.jp/experience/index.html http://btg.blog46.fc2.com/blog-entry-162.html 司馬遷ときて霍光をひいてみた、もひとつおまけに楊惲でどだ?
お礼
意味が取れません。
補足
この場をお借りします。No.24へのお応えです。(20080218記) ★ ニーチェの宗教観と信仰観 ☆ 信仰者が集団として集まるのは 社会一般としての信仰抜きの場合しか考えられない。それ以外は すべて 支配欲を満たそうとする政治的な行為であり 誰か一部の者の営利を目指す利己的な行為である。(研究専門の施設が考えられるか)。この意味で 宗教観には 共感するところがあっても ニーチェの信仰観は ほとんど支離滅裂である。 ★ 完全な女というものは、自分が愛するときには相手を八ツ裂きにするものなのだ。…私はそういう愛すべき狂乱巫女(マイナス)たちを知っている。… ☆ 外面は菩薩の如くして 内面は夜叉の如しとか。まぁ こんな人間がいるとは知らなんだわい。《完全な女》??? ★ 世の中は、安全を求める男女と危険を求める男女とがいる。但し、安全を希求するあまり、かえって危険に身を投じる痛々しいやつもいる。こっちの方は女に多いかもしれないなぁ。 ☆ 貞淑でない女は一割だと 高校からのわが友のひとりは 語っていた。じゃあ その一割に当たってしまったと我が悔い。後半は ぴんと来ていない。保留。 ★ 「自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である。」 ☆ これは 別の見方有り。自己侮蔑を強いるのは 相手の女なりけり。もしくは 女がまづ先に わたしって何てばかなんだと悔やむ。その思いが 男に 乗り移って来る。一般に真面目な男ほど その効果はてきめん。ただし 誰も この影響を いなして避けることなど出来ないはづ。 (乗り移るといった系統のほうへは 持っていきたくないが 精神分析に 逆転移という現象も ある)。 ★「人類を惑わす魔女である処の道徳が、あらゆる心理学的な事象を根こそぎまやかしと化して来た―すなわち道徳化してきた―その揚句、愛とは「非利己的」なものでなくてはならないと説く、あの戦慄すべき荒唐無稽についに到達してしまったのである。…が、人はしっかりと自己の上に腰を据えていなくてはなるまい。・・・ ☆ 冒頭(《その揚げ句》まで)は パウロが ユダヤ教の《律法》を批判したところ。要するに 倫理規範主義がまやかしである。後半が ニーチェ先生のめちゃくちゃな信仰観を表わしている。冒頭ゆえに 人間が自分の努力で 愛を実践するなどということは ありえないという結論にならなければ うそ。《自己の上に腰を据えて》も ダメだというのが 信仰の立ち場。 ★「真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか・・・ ☆ 前項と同じである。《真理》が 女であろうとなかろうと 人間が真理を《理解する》ことが出来るという前提が おかしい。経験的な相対的な真実しか われわれは理解し得ず。 ★「そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにそなたを失いたくない」~バイロン ☆ これを 通過するとは 考えられる。自我というか 男としての面子があるから。 ★「二十代の恋は幻想である。三十代の恋は浮気である。 人は四十代に達して、初めて真のプラトニックな恋愛を知る」~ゲーテ ☆ これは へのかっぱである。くだらん。すべて つまらん。つまる所をおしえてほしい。 ★ 吉行淳之介 ☆ は いいことを言っている。けっこう読んだ。ブレがないと感じたことあり。宮城マリ子との関係も けっこう 知ろうとした。裏切りを元にした関係が 長く持つのは どうしてか。 ★ デリダ「尖鋭筆鋒の問題」によれば 「・・・女性は、あらゆる本質性、あらゆる同一性、あらゆる固有性を、終わりなく、底無しに、呑み込み、底から投げ出します。・・・」 と、いうことでっす。分かったような分からんような、ですが。 ☆ 分からん。《底無し》だが 《底〔に達したのち 底〕から投げ出す》のかいな? デリダ先生は 学識があれど 思想は よう分からん。
>けっこう ねちっこく来ますね!? 貴方の「ねちっこさ」に打たれて響いてるだけでさ。サッパリしてる相手だったら、こっちもサッパリしてるさ。 >《達磨さんは いつおトイレに行ったのかしら》 ハハハちょっと面白かわいいこと言うじゃん。 >きっぱりとけじめをつけますということを言いに 大学入試の発表後(二期で四月に入っていた)に 家を訪れたのです。別れが どういうわけか 曖昧になってしまった。(言いそびれたのではなく)。それで 文通が始まった。 きっぱりとけじめ、ってのもまたずいぶん御大層な感じだなあガキのくせに。婚約してたわけでもないんでしょ?ここらへんからしてもう、くっそマジメなの。その当時の若人って、そんなもんだったの?うちらだったらフェードアウトだよフェードアウト。 向こうさんだって、なんと大げさなことよと思ったから敢えて曖昧にしたのかもしれないけど、文通というかたちででも、とにかく続けたいという意向は間違いなくあったんなら、その時点では、それなりに将来の可能性に賭けてたかもしれないね。 >だめなら あたらしい人を早く見つけたいと思っていた。きちんとしなければ 次の行動に出ることは わたしにとって むつかしかった。 あたらしい人を見つけるべきだったと思う。きちんとしなければ、って思いは独り相撲じゃなかったのかな。「あたらしい人を探してもいいかな?」って聞けばよかったし、実際見つけてしまえば、そのこと自体で相手の気持ちを確認することができたろうに。ただまぁ、あたらしい人に気持ちを移してしまっていたら、もしもそのクレオパトラさんから「実は」と告られても後の祭りになってしまうわけだけど、貴方がためらったのは、その一縷の可能性のためでしょう?それはそれだけ貴方側が未練を残してたってことに他ならない。そんな未練、本物の「あたらしい人」に出会ってしまったら、さっさと吹っ飛ぶんだけどね。まあ二股になっちまう恐れもありかな? あたらしい人が見つかった、ということが明らかになっても、なおもクレオパトラ側が文通とか、これまで通りの付き合いを続けようとしたのなら、やっぱり、どこまでいっても社交辞令的な付き合いに過ぎないということの証明になったんじゃないかなあ。 >全か無かは わたしの性癖なのだから それが嫌なら 別れるのは ごく当たり前と思っていた。 ハムレットかよ。 そのことを先方に伝えていなかったんですか?自分はこういう考え方の人間だと。 ただね、こういうケッペキペキペキな感覚の人って、少くとも日本人にはあまりいないと思う。「清濁併せ呑む」って言葉あるでしょ。右か左か有か無か、しからずんばってのは、ある種みっともない、度量が欠けとる、っていう一種の美意識に反するという感覚があるんじゃないかな。つんのめりやがって余裕がねえな、っていう。 それとは別に、トモダチの数を誇る、みたいな変な見栄もあるしね。 実際こんな女がいた。ここの遣り取りしてるうち思い出したんだけど、なんか知らんが何かの拍子にメチャクチャ苛々し始めて、突然ぶち切れたことがあったんだけど、普段のその女は、わりに澄ました、もの分かりのいい態度をとる人だったんだけど、同時に変に我慢強い人でもあった。ストイックといっていいのかな。本人自身がそうであると信じてたというか自分に課しているかのようだった。欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌だって、はっきり言わないんだな。そういう素直さを出すと自分の値打ちが下がるとでも思ってるみたいだった。それでも、ただの人間には違いないから、当然好き嫌いもあるし欲しいものだってある。それでも自分を、できた人間、ものの分かった女と思ってもらいたいという縛りがあるもんだから、普通に話してても、どうかしたら言葉の端々に捻くれた嫌味が出てくるんだな。正直ウンザリだった。可愛げのねえ女でよ。だからこっちは、それ以上付き合いを続ける気がなかったんだけど、これがまあ、貴方の話で先方の親が年賀状を云々ってのがあったけど、それと似たようなことを、その女も延々やってた。まるで、自分は何も失態など見せてないし嫌われるようなことをした覚えもない、だからこれからも、これまで通りに付き合いは続いていくに違いないんだ、って思い込んでるみたいだった。必死に取り繕ってたんだな。何もなかったことにしたいと。ま、欺瞞とか偽善ってやつかな。こっちはシラケるだけさ。 >神のように いかなるものの下にも立つまいというかのごとく 理性統一神のもとに(あるいは みづからがその神となってのように) どこまでも進みいく人 そういう女の事例があるかに見えます。 これはね。女ってのは男のとは違うナルシシズムがあるんだと思う。いわゆる自己陶酔ってやつ。特に恋愛絡みだとね。傍から見てると酷く滑稽なんだけど、本人は気づいてなかったりするんだな。そいでフラレそうになったり、あるいは本当にフラレてしまっても、「最初から、あたしはそんなつもりなかったですから。」って取り繕いやがんの。フラレる側にまわるのだけは死んでも嫌だってことなんだろ。欲しけりゃ欲しいって言えばいいのになぁ。損するぜ。 ただ貴方のクレオパトラさんに関しては、第三者には何も断言はできない。何せ修道院に入るくらいの人だからなぁ。もともと、そこらへんの男なんかよりキリくんのほうが魅力的だと思ってたのかもしれないしね。ま、ある意味で「世界最高峰の」男だからさ。 これじゃ恋愛相談だな。。。 だからか、いやに人気があるらしいのは。やっぱテツガクより下世話が好きだよな。本音がよく出とる。
お礼
No.23お礼欄からのつづき(#2)です。 ☆ 「ニーチェの帰り道」の結語の部分です。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言葉は<感触>に追いつけるか? だけどほんとうは、もうこういう語り口自体が窮屈でイヤだ。分かってるのさ。問題はいつもここから先だってことはね。 * こうなると 還相からまた往相に旅立つと言っています。 《感触》というように 現実の或る意味で先端である知覚の領域にまで 還って来ているのに また 往生すると言う。往相・還相は なるほど 循環する過程だという見方もあるでしょうが そんなことは分かってい ることです。再び往生するといって回れ右するのなら すでにそこから みたび還って来てからの問題となってしまう。(以上 bragelone 註) ああ、わたしの友よ、人間は克服さるべき或る物なのだ。 (「ツァラトウストラはこう言った」) 人間は何ら「固定的」なものでもなければ、「信用」に足るものでもない。ただ、克服されるべき現在の状態の別名にしかすぎない。ニーチェは鮮やかに、キッパリと言ってのけた。僕らが<現在>という画像を描くとき、それは同時に、「人間」という枠組みの組み換えをも意味していることになる。それができるかどうか、わからないけど、いまや僕らは、膨大な<現在>という未知の画像を前に、何の手がかりもなく、立ちつくしている。 茫然とするけど、でも、少なくともこれは、はじまりなのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 鬼と化して申します。方向が逆です。ニーチェといえども 《人間は克服さるべき或る物》と言ったなら 何らかの還相として 書いているはづです。つまり もうすでに 現実の先端である感触の領域にまで《克服された人間の像》が 分かっていて 言っていることでしょう。《永劫回帰》だからと言って 再び・みたび 往生して来ますという方向転換をここで見せたのでは 議論になり難いでしょう。 すでにいま 《永遠の現在》を生きているという還相を 曲がりなりにも その人なりに 持っていて それを述べているというのでなくては 未完成の作文に終わります。(すごくいい線を行っていると思ったところが 途中 何箇所かあったけれど すべては 水の泡であると 鬼は言います)。
補足
★ これじゃ恋愛相談だな。。。 ☆ とわたしも思う。やや不本意である。ただし ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただ貴方のクレオパトラさんに関しては、第三者には何も断言はできない。何せ修道院に入るくらいの人だからなぁ。もともと、そこらへんの男なんかよりキリくんのほうが魅力的だと思ってたのかもしれないしね。ま、ある意味で「世界最高峰の」男だからさ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という文面は それ以前とうって変わって えらい真面目である。哲学者のよう。 《キリくん》って わたしのことですか? そして 《ま、ある意味で「世界最高峰の」男だからさ。》てなことになるんですか? 前半と百八十度ちがうんでない? ★ その時点では、それなりに将来の可能性に賭けてたかもしれないね。 ☆ この点は 分析したことありです。 あっちこっち飛びますが ★ 突然ぶち切れたことがあったんだけど・・・(=あなたの出した女の例) ☆ こちらの場合 一度だけ《突然ぶち切れたことがあった》とき その場から姿を消したのだけれど しばらくして すまなさそうにして 戻って来た。《必死に取り繕》うこともなく 一切何も言わなかった。 要するに わたしが ケッペキペキペキなのは 段々わかるに決まっていると思ってた。じっさい 離れていくとも思っていた。 もう一点は プロポーズを断わったあと ふつうに結婚してくれていたなら そのことは 風の便りにこちらも知るだろうから それで 最小限度のめでたし めでたしだと思っていたのに。 ★ 「清濁併せ呑む」 ☆ という態度は 連れ合いと一緒に 人生を生ききるときのものだと思っていた。ふたりで一つの人格であるという感覚です。それには きちんと合うか合わないか はっきりしとかなきゃならない。 どうしても 秘密があって わたしにも言えないのなら あるけれど 言えない・墓場まで持っていくと ひとこと 言ってくれれば それでよいと考えていた。そういう相手は とうとう いなかった。いまも探しているけれど。タイプは あさぎくにこ。ほんとに 下世話になってきた。テツガクに戻しといてちょうだい。 あと 大学に入ってすぐ 文通を始めたころ すこし危ないところまで行った相手が ほんの短期間いた。これも 一方をきちんとしないでは 進めないと思って 止めた。そうしないと 何ごとも きっぱりと言えなくなるという理由。 もう一点。いつぞや サルトルとボヴワールの関係がいいわねと もらしたことがある。藪から棒であったが わたしの趣味ではないので とりあわなかった。これが いけなかったかとの反省はある。 とりとめなき状態にて。
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こんばんは、brageloneさん。 ANo.15へ補足とお礼をいただいていましたね。 :*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:ぼーっとしてました。 遅ればせですが、ちょいとUPします。よろしく。 ●それぞれの どこそこを読むと これこれのことが書いてあるというふうに 指示してください。ませ。 フラ語の単位を落としてますから…強くは言えない。古傷が、、、 ヾ(-_-;) ちょっと ちょっと、 ↑ 【説明】これご挨拶。Bonjour! Ça va? http://web1.nazca.co.jp/lalalafrance/TAKEnoKantannaFrancegoKouza.html QNo.436540 【「サン トワ マミー 」とはどういう意味か 】 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=436540 【眼の誕生】 http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%BC%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%80%... 【進化の不思議な大爆発】 http://www.wink.ac/~ogaoga/seimei2.html 【奇跡のシステム】 http://www.wink.ac/~ogaoga/seimei6.html 【地球と生命の誕生と進化】 http://nihon.matsu.net/seimei/09.kanburia.html 【第16回松陰教学研究会】 http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/16kaikyougaku.htm 【ヨーロッパ・ポルトガル語強勢母音体系の音韻論的記述 】 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/thesis_jp/master/makino_jp.htm ↑ それぞれのどこそこを読むととかじゃなくて、ぼーっと眺めんの全体で1枚の絵 XY XX 染色体 遺伝子 にゃーんてこと考えてたからね、チョイスしてきたのが上の絵 だってさー、性同一性障害を考えた場合、性同一性障害であると認定されれば性別の変更が 可能とかいうじゃない。男から女へ。女から男へ。紙上やら見た目をあちこちいじくっつて それそのように変えることはできても、XY XXはXY XXそのまま変わりはない。 これ、むちゃくちゃややこしい。女性は子供を産むという前提でいろんな場面で法律的にも保護されている。女性は出産でカルシウムを失うことが多い。骨粗鬆症然り。肉体的な性差への配慮がなされている。給食のおばさんのお昼寝タイム然り。ところが、肉体は男性の骨格をそなえた性別女性だったり、肉体は女性であっても子供を産むことがなかったら、男女平等の名のもとに、これまでなされてきた女性への性差への配慮が小さくなりはしまいか。と、こんなことを口走ろうものなら田舎のばあちゃんが怒鳴りだしそうだ。「わしら、子供を産もうが休みなく畑さでてるださ、そんなの関係ねえー!」いやいやばあちゃん、それはそれだども法律では一応女性であるということで守られていること結構あるもんよ。
お礼
おはようございます。 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 世の中には 《打てば響く》のほかに 《打っても響かんヘッポコ》がいるでしょうが さらに もう一種類います。《打った場所や方向とは関係なく 響かせようとする偉いさん》です。その意味でのクレオパトラです。(No.19bragelone) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合 男の《偉いさん》は たとえば所属する組織のためという御旗のもとに おこなう場合があります。もちろん まったく個人的で私的なふるまいも あります。そして これらは 女の場合にも 同じようであるでしょう。 ただし ここで 男は一般に そういうことを いけないことだと思っているのがふつうです。もしくは 一度は そのように考えた経験を持っているように思われます。けれども 女の場合には その多くは いま述べた男と同じようだと見ていいと思いますが 中には あたかも例外というべき場合が あるように見える。 つまり これは わたしの体験と主観です。神のように いかなるものの下にも立つまいというかのごとく 理性統一神のもとに(あるいは みづからがその神となってのように) どこまでも進みいく人 そういう女の事例があるかに見えます。 このうたがいを 解きほぐしていただけますかという問いです。
補足
《ポーラの手記》#2(No.26お礼欄よりのつづき) でも それは 幼く純粋で 世間の色に染まっていないからというよりは かれは つぎのような態度を つねに示していたのです。わたしが 少しでも OKの言葉や仕種を示そうものなら ただちに かれは 襲ってくるというその意志のあり方が はっきりしていたということです。 もちろん おそってくるというのは わざとそういう表現を用いたのですが 平俗に言えば 油断も隙もあったものではないという・こちらの思いのことです。 狼の素振りを少しも見せないことと その油断も隙もないと思わせることとは 決して矛盾していません。その配合は まさに妙でした。言いかえれば その後ずっと この油断のあってはならない紳士の態度がつづきました。狼にはならないと暗に宣言した狼紳士のポールです。 このわたしの思いは 途絶えることがなかった。別れるという思いの起きたとき 最後の一線で 突き放すことが出来ずに 結局ずるずると 十年つづきました。何事もなく つまり言いかえると 付かず離れずに です。 十年のあとは どうか。もう 会うこともなかったのですが あいまいなままに経過してきています。わたしは 一歩しりぞいていますが それでも わたしの気持ちをあいまいにしていることは あいまいではないのです。 その点は わたしは ポールにわるいことをしたという気持ちが あります。もっともポールは そのような《後遺症》を もともと 見通していて 分かっているとも思ったのですが・・・。必ずしもそうではなかったようにも あとで 聞きました。でも ポールは《池に落ちて 水に濡れずに 上がって来た》と言ってもいるようですので そういうおとこだとは わたしは 思っていましたよ。 こうして 四十余年 それは いろんな感慨があります。追い追い 話すべきは 話していくことにしたいと考えるようになっています。 §9 ポールの気づいていないことで わたしが怒っていることがあります その後――会うのは 年に 二回もあれば多いほうで 時々手紙をやり取りしていましたが―― この前にお話しした内容が変わることなく 推移しました。その中で どうもポールが 自分では気がついていないことで わたしが ひどく怒っていることがあります。小さなことですが ひとつの事件だと思っていることです。 それ以外では 初めからの印象と評価とが変わることはなかったのですが この件では おかしいのではないかと疑いました。結果は 以前と同じことになったのではあるのですが・・・。 もう学部は卒業したあとの話で 修士課程のとき ポールは フランス政府給費留学生の試験を受けたことがあります。一次試験は わたしの街で おこなわれるというめぐり合わせだったと言います。二日つづくもので その第一日の終わった夜に ポールは その滞在先のホテルから わたしに 気軽に・まったく気軽に 電話をかけてきました。 それまで 手紙ではなく 電話で声をかけてくるときは 特別のことだったのです。はるばる会いにいくといった内容がほとんどです。このたびは なんの事前の連絡もなく 同じ街に身を移してから 突然の電話だったからです。しかも ポールは 電話だけかけようと思った云々と言って 電話を切ろうとします。もう一日 試験があるという理由があるにはあるのですが 決定的なことではないでしょう。 こちらも 特には引き止めなかったのでした。ただ そのあと なんとはなしに わたしは 居心地が悪くなりました。こんなに近くまで来ていて 会わないということを伝えるために電話をして来たかと思うと どうしても 許せない気持ちが起きました。どうも かれは その様子全体から判断するに なんにも気づいていないと思われました。怒りに怒ったのですが これは 伝えることもしなかったことです。 考えた結果は ここで ポールが こんな仕打ちを策として思いついたとは思えないということです。こんなかけ引きをして来たとは考えられないということです。そのため 余計に かれを見捨てるということは 出来なかったのでした。怒れば怒るほど そのぶん ポールとのつながりは 消したくなるほどであると同時に 決して遠くへは離れて行かないという気持ちの動きがあったのでした。 でも わたしは 怒っています。いま 初めて言うことです。 (No.14補足欄につづく)
久しぶりに投稿したついでに、いままでの補足とか、ざっと読み返してみた。追加。 うん、やはり修道院に入るなんてこと自体が、ちょっと珍しいことではあるんで、世代的な違いとかも含めて、私自身の世代感覚とか、信仰が特に身近な暮らしでないこととかあって、ご質問者の若かりし日のお相手の女性像というものがイマイチ思い浮かばなかったですが、通しで読み返してみれば、短大の英語の先生になるような優等生のミッション系お嬢さんってなイメージが湧きました。お嬢さん育ちの優等生らしい真面目さとプライドと、お固さ、そして女性ならではのロマンチシズムと背中合わせみたいに意外なクールさを隠し持ってる。こんな感じなのかなあ? で、ご質問者の方も、いちおーこれまた、ソレナリおぼっちゃん育ちじゃないんですか? 当時の貴方の全体的な態度に、彼女にとっては、もの足りなさが感じられたのかもしれないと思いました。この人は本気なんだろうか、自分を強く求めてくれているんだろうか、自分を本当に守ってくれる人なんだろうか、とか。女ってのは何だかんだ澄ましてようが強そうにしてようが、結局、自分のことを逞しく守り抜いてくれる男にホダサれるんス。ははは。やっぱ押しと気迫が足らなかったんじゃないの?(笑) だからって、そのまんま修道院入り?というのは、ちょっと時代がかったというか驚いてしまうけど。まぁ信仰心に乏しい者には分からんものもあるんだろうな。 それと、これが実は一番の問題点だったかもしれないと思ったのが、 bragelone:クルマの名は みな ラ行の音が入っているね? cleopatra:・・・(どうも 考えている様子。どうやら サニーというクルマを思い浮かべたらしい)・・・(ふっと後を振り向いて すましている)。 bragelone:・・・。 こういう会話では 関係が(あるいは コミュニケーションが)成り立たないと思います。 というか、なんでワザワザ >クルマの名は みな ラ行の音が入っているね? (これ自体は、あくまで、たとえ話としても) こんな、しょーもないことを話しかけるかな。しかも相手、優等生でしょ? 多分、相手に積極的に喋ってもらいたくて工夫したつもりだったのかな?だから cleopatra:・・・(どうも 考えている様子。~)・・・(ふっと後を振り向いて すましている) …逆に彼女は口をつぐんでしまう。ってことなんじゃなかったのかなぁ?? 人に聞くとき、試してるだろコラ、って誰かに言われたことないですか? 試したり反応伺うってのはイヤがられる。失恋の原因だったかも。です。いや分からんけど。
お礼
けっこう ねちっこく来ますね!? わが人となりが 俎上にのぼってしまったのですが この件にかんしては かんたんですよ。 高校時代は 最後まで行かないと決めていたから 措いておきます。(それで だめなら 諦めるとも決めていた)。 けれども大学は 互いに遠い。ゆえに きっぱりとけじめをつけますということを言いに 大学入試の発表後(二期で四月に入っていた)に 家を訪れたのです。別れが どういうわけか 曖昧になってしまった。(言いそびれたのではなく)。それで 文通が始まった。・・・ ★ 人に聞くとき、試してるだろコラ、って誰かに言われたことないですか? ☆ ですから このようなことがあったとしても(つまり 面と向かって 言葉で言われたことはないのですが あったとしても) これと 失恋とは 別だと考えます。 というよりも 失恋は もう 通り越していたと言ったほうが 正確です。わたしは 早婚主義でしたから 遠距離をつづけるのは 感覚的に合わなかったのです。 クルマの名うんぬんという《しょーもないことを話しかけ》たのは――いま思えば―― 次のような意味で 《試した》のかも知れない。つまり とうぜんのように 何でも話し合える仲を望んでいたから。 でも いつだったか 《達磨さんは いつおトイレに行ったのかしら》などと言いましたから。 《反応をうかがう》という考えはなかった。つまり どうして 心や気持ちにおいて もっと寄って来ないのか。寄って来ないのなら なぜ 離れて行かないのか。こう思っていました。全か無かは わたしの性癖なのだから それが嫌なら 別れるのは ごく当たり前と思っていた。 要するに わたしの気持ちは 互いに信頼関係が築けて(コミュニケーションが成り立って) そのとき 笑顔で別れるなら 別れる。こういうふうに なぜ 行かないか。だめなら あたらしい人を早く見つけたいと思っていた。きちんとしなければ 次の行動に出ることは わたしにとって むつかしかった。・・・
補足
ふと気がつくと この質疑応答は 二週連続して人気を博していますね。 もう少し 議論のたどり着くところまで 無理をしないで すすめておくべきでしょうか。締めるのを 延期します。
仕事が混んで離れてましたが、まだ閉じておられなかったんですね。 >誉められていい文章 悪文の見本みたいな人に誉められても嬉しかないですよ。 新たに経緯を補足されてますが、もういいんでないかと思います。だいぶ、お若い頃のことだったんですね。一応、目は通しましたが、やはり個別の事例であり、特殊な事情のようでもあり、ありふれたことのようでもあり。 >話しがつながらない >意思疎通の困難 って、そもそも相性悪いんでは。そんな女性と付き合って楽しかったんスかー?「オレとは合わねーな!」とか思わなかったんスか?向こうも、そう思っててもらったほうが、、、って考えはなかったのかなぁ?他では人当たりいい人なんでしょ? >相手が 誠意・自分の真実あるいはいわゆる真心を見せたと思った瞬間があった と思っていたからって、こういう場合、最終的な結果で判断するしかないですし。 これは経験豊富な?人から聞いたことでもあり、自分でも実感はあるんだけど、やっぱり「縁」としか言いようのない流れってのもあると思います。特に男女のことはね。すごく好きでも何故か駄目になることもあるし、渋々一緒になって、それなり続いてるのもいるし。何より「この女、絶対、他のやつに渡さんぞ!!」くらいの想いはなかったですか。まータイミング逃したんだな。んでウジウジしてるうちに彼女はキリスト氏と結婚しちゃったと。 「つまらんだろう続かないだろうあほらしい」 ま、そーゆうことをゴチャゴチャ計算してるうちは本物じゃないってことでしょう。 それと先方の親御さんは親御さん、彼女のことは別に判断すべきだと思います。 >おそらく 学力の問題ではないと考えます。(エジプトの女王は 短大の英文学の講師まで行きましたから)。 ハハハそうですか(それにしてもマジな顔つきそのもので、こたえてそうですね貴方は、苦笑)学力の問題ではないとなると、人間力の問題かな~? >わたしは 女も男も同じだという命題を 具体的に 理解したいというのが 原則の願いです。どうも そうならない事例も見られるようだ それでも対等じゃないですか、あらゆる事例を超えて。 男には男の、女には女の傾向が確かにあったとして、だからと言って、それが全てにはならんでしょう。貴方のクレオパトラとは正反対の似ても似つかない女だって、また大勢いるんですから。そういう女との物語も与えられていたなら、その女と、クレオパトラの両方をどう位置づけるのか? 引き剥がすようにして無理にでも他のものに当てはめることで何か良いものをもたらしますか? 貴方専用に与えられたクレオパトラの物語だ、そのまま持っていればいい、だってそれは貴方のものなんだから。皆それぞれ与えられてるように。 >《打てば響く》は 人間にとって 最高の徳 その「徳」を得させてもらえるならラッキーってもんですね。 打っても響かんヘッポコであっても、そのままで対等だし。
お礼
このところ 回答をもらって うううーんとうなる場合が よくあります。 けっきょく わたしが すでに さばけているので 問題を――その特定の男女関係ということとしては―― つづける気はない こういうことだと理解しました。 一般的な男女間の対等 あるいは 人びと一般のコミュニケーションの成立の問題 これに対しても まあ 世間の知恵で どうにかこうにか やっているのだから そう目くじら立てなさんな こういったところでしょうか。 まあ 一つには あなたの性癖として 裏側やさらにその奥を家捜しするのを嫌うということで 一定の相互理解に達したところで おしまいというだろうし。もう一つには 考えてみれば たとえわたしに素晴らしい表現能力があったとしても 公共の場で 何もかも 白日の下に出していいかどうか この問題もあるようです。ゆえに 少なくとも 場をあらためるべきでしょう。 前者の 思考の傾向という点で ひとこと 反論しておきます。 ★ 打っても響かんヘッポコであっても、そのままで対等だし。 ☆ これは わざわざ裏側に回ってものごとを見るという芳しくなさそうな見方の問題になりますが わたしの見るところ 問題は こうです。 世の中には 《打てば響く》のほかに 《打っても響かんヘッポコ》がいるでしょうが さらに もう一種類います。《打った場所や方向とは関係なく 響かせようとする偉いさん》です。その意味でのクレオパトラです。これは 現実認識そのものなのだから 拾い上げておくべきではないでしょうか。 しばらく(一両日)して締めます。
補足
ANo.24・松岡正剛の 矢川澄子著『反少女の灰皿』についての批評 これにかんするわたしのコメント(No.23お礼欄)を補足します。(20080219記) 松岡の文章そのものに関してだけ 批判していました。 矢川澄子(この人を知らないのですが)の表現した《反少女》の像が わがポーラに似ているのではないかと noema_1970さんは おっしゃっているのかと気がつき 筆を執りました。 まづやはり松岡の文章についてです。結語として ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そういえば、シュペルヴィエルのこんな話を紹介していたことがありましたね。思い出します。 「はるかな沖合の波間にうかぶ無人の村。その幻の村で、少女はいまもなお生きている。ひとりぼっちで、おさらいをしたり、手紙を海になげこんでみたり。少女はいつまでも十二歳のまま、老いることも、いまさら死ぬこともできない。なぜならとうに死んでしまっているのだから――」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんな内容って ありますか。分かりますか。 つまり 矢川は いくら《少女》のままだ / いや 《反少女》だと言っても しっかりと このように文章を著わして 自己表現をしています。そのことを取り上げなければいけない。 〔あるいは すでに今は亡き人であるというものの 生前に しっかりと その自己表現の中味を 尋ねてやっておかなければいけなかった。そうすれば 別の展開もあったかも知れない。(この言い方は余分かも知れません)。それで 相手が 退いたのなら それは それで かのじょの意思表示なのだから それとして 尊重するという段階になったのかも知れない。うんぬん〕。 けれども 矢川は 次のように書いていると言います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「少女はもしかすると呆れるほど身の程知らずなのかもしれない。身を鴻毛の軽きにおくなどという、偉丈夫どもにとってはえてして悲愴感を伴いがちなわざを、だれよりもあっけらかんとやってのける〔ことができる〕。・・・ 「現身(うつしみ)はここでははじめから無にひとしい。こうした女性たち(上のような少女たち)をまえにしては、識閾下の抑圧された獣性をいまさら云々してみてもはじまらない。むしろ彼女らがそれぞれの罪のない小宇宙の構築にかけた生得の美意識のしたたかさをこそ評価すべきではないのか」と。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 外に見せないというエロスの問題はさておき かのじょらの《生得の美意識のしたたかさ》と言っているのだから やはり ここにも 自己表現が出ていると捉えるべきです。しかも その美意識のしたたかさ《を 評価すべきではないのか》と 明らかに 意思表示をおこなっています。 その前の箇所では 松岡は 《告白否定》のことを取り上げており そのこととも関連させて けっきょく《幻の村での酔生夢死(その願望)》につなげているようですが ひとこと 応答してやらねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「不言」こそが、少女の少女たる真骨頂だというのである。「少女は黙った」。これでいいでしょ、ほかに何か文句あるの、というのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つねに この路線で 捉えようとしている。それは 早合点ではなかったか。 ☆ このような意味合いで 矢川澄子 / 《少女 / 反少女》等々と わがポーラを隠遁の性癖から捉えたときの像とは 別だという感触です。 また ポーラには 同じく自己表現はあったと思うと同時に 意思表示は なかったと考えられますが その時の像とも やはり違うでしょうね。 では 意思表示として 《美意識のしたたかさを評価してほしい》というような訴えを持っていたとしたら どうか? 分かりません。あるいは 同類だという可能性が出てくるかも分かりません。 ただ 修道院に入ることは 《幻の村で少女のまま生活を送る》こととは どうも ちがうような感覚があるのですが どうでしょう。というのは わたしから見れば ふつうに社会の中で生きているよりも 何かを訴えている度合いが強いようにも 思えますし。・・・ (このユレのままにて)。
>わたしは 《ノー》の返事をもらって ほっとして 気がゆるんだのか 《ええっ ほんとですか? ほんとですね?》というような顔をして 相手を見つめたらしいのです。そこへ 《これからも自由に 家へ遊びに来てください》と言われたのです。 「《ノー》の返事をもらって ほっとして 気がゆるんだのか」って、本当はしたくなかったんですかね?だとしたら、どんな理由があろうと、本気でしたくもない結婚の申込をするというのは相当、変わったことをする人だなと思う。相手の女性にしたって、本当はしたくもないのに申し込まれたということに気づいていたなら、何よ失礼な人ねって思うんじゃないですか。 >★「人と人の関係が成り立たない地点」てな、なんですか? ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelone:クルマの名は みな ラ行の音が入っているね? cleopatra:・・・(どうも 考えている様子。どうやら サニーというクルマを思い浮かべたらしい)・・・(ふっと後を振り向いて すましている)。 bragelone:・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ こういう会話では 関係が(あるいは コミュニケーションが)成り立たないと思います。 まあ こんなところですかね。 《打てば響く》の看板選手だったんじゃあ? ご自分の文章の分かりにくさを棚上げして勝手に「看板選手」にせんでください。文章ってのは人となりが出るって言われるけど、分かりにくい、分かりやすくしようという努力をしない人は、その能力に乏しいのか、独りよがりで思いやりがないのか、あるいは腹に一物あるか、大体そのどれかだ。 まぁ今回の例え話は、やっとこさ比較的に分かりやすい。 要するに、自分はこう思う、ということを真摯に話そうとしないで、腹の中では疑問や異論があっても正面から受け止めようとせず、はぐらかして澄ましているってことですか。 で、その姿勢を追及しようという意図の下に貴方は結婚申込をしてみたってことなのかな?つまり相手を試した? その貴方のクレオパトラさんが実際どれに該当するのか、こっちは与り知らないが こういう「はぐらかし」をやるタイプというのは、これも考えられる理由は幾つかあるでしょう。恐らく貴方の個人的な話で挙げられてる女性の場合は、修道女になるくらいだし、私よりも世代がグッと上であるらしいから、人の意見や考え方に正面切って疑問を述べたり反論するのが女らしくないとか、黙っているのが謙譲の美徳、みたいな勘違いした道徳観を持ってるのかもしれない。しかし、これも個々人の価値観の違いです。皆が皆そうということではなかろうし、女性だけに見られる価値観でもない。 あるいは、まともに話を始めたら最後、コイツはうっとうしい、だから放置プレイだ、ということかもしれない。これは私としても理解できないことはない。思い込みが激しくてモノ分かりが悪くて、こっちはどーでもいいことだと思ってるのに、それではならん!と巻き込もうとしてヤッキになる、ウンザリするほどシツコイ、こういう場合は、敢えて話を深めようとはせんでしょう。触らぬ神に崇り無しだ。 今一つ考えられるのは、マトモに話を受け止めるだけの能力がない、且つ、そのことを知られたくない場合です。この場合は当人だって望んでそうなったわけじゃなかろうから、惻隠の情ってことで、そっとしといてやることです。何も向こうの方から執拗に絡んできたわけじゃないんでしょう? 私は、すでに申したとおりアウグスティヌスにもキリスト教にも疎いし特に関心もない。しかし貴方がヒョイとご自分の個人的な逸話を出されたので、そっちの方から考察の糸口を引き出せるかと思ったんだが、聞けば聞くほど特殊な極端な話だ。しかもその極端さ特殊さというのが、ご質問者の主観から結論付けられているふしが感じられないでもない。だから、大昔の人が考えた宗教絡みの男女観に、これまた個人の偏った主観による男女観を結び付けて一般論にしようとすること自体、無理じゃないかと思ったんです。 それよりも貴方が心しなければならないことは >関係が(あるいは コミュニケーションが)成り立たないと 成り立たないというよりも、成り立たせようとしない、相手がそのことを欲しない、その理由は何なのか、いきなり男女の一般論に持っていくのではなくて、個人個人のレベルでの考察から始める、そして何よりも、貴方とのコミュニケーションを相手が望んでいないようだと感じたら、それを認めてやることも大事でしょ、ってことです。そりゃ面白くはないでしょう、特に自分が好意を持ってる女性だとね。しかしコミュニケーションってのは首に縄つけたからってやれるもんじゃない。それは発露ですから。自分で気がつくしかないんだなあ。 もちろん、そもそも相手の方から注意を向けるよう要求しておきながら、途中で投げ捨てて逃げ出したなら無礼千万だ。しかしこれも、よく見分けることです。自分が相手にとって真正面から相対するに喜ばしからざる人物と判断されたのか、それとも最後まで応答を尽くすだけの能がないだけなのか。 自分をどう判断されたかについては最終的には相手まかせです。仕方がない。相手が望んできたならば、いつでも受けて立つ、それは自分側の心構えでよいのではないですか。 相手の能力そのものに問題がある場合、これはもうどうしようもない。責め立てたからって相手に能力がつくわけじゃない。バカが急にカシコにゃなれない。 いつでも誰に対しても自分が望む形でのコミュニケーションを強要するのは、これも不寛容の罪かもしれません。互いに気をつけなきゃいけないことなんですがね。
お礼
今回は すがすがしさが漂います。えらそうに言いますが 誉められていい文章ではないですか。 いえ ご回答をありがとうございます。 そうですね。この特殊なクレオパトラ物語は まあ どれだけ議論になるか――言葉にして表現することができるのか―― わからないところです。 一点だけ 反論します。次の事項を取り上げることをしませんでしたね。 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ひとことだけつけ加えますと 向こうの親から 五十歳ころまで 年賀状が来ていたのですよ。わたしのほうは 何もしていないし 出してもいないのですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ けっこう 大きい情況証拠だと考えますが 何せ いわゆる欠席裁判になっていますので この事例の詮索ということからは 一歩距離をおいたほうがよいのでしょう。(問い合わせには いつでも 応じます)。 さて 争論は――中国には 《争友》という語があるそうです――終結に向かっているようです。 けれども この質問の趣旨をたがえないように 次のようにも からめてわたしの見方を 覚え書きしておきたいと思います。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 相手の能力そのものに問題がある場合、これはもうどうしようもない。責め立てたからって相手に能力がつくわけじゃない。バカが急にカシコにゃなれない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ おそらく 学力の問題ではないと考えます。(エジプトの女王は 短大の英文学の講師まで行きましたから)。とすると それは 男も同じように 陥る《コミュニケーションの欠如状態》なのか それとも これは 女に特有と言っていいほどの事態なのかです。わたしは 女も男も同じだという命題を 具体的に 理解したいというのが 原則の願いです。どうも そうならない事例も見られるようだ これをどう理解すればよいか これが 最初からの疑問でした。 《打てば響く》は 人間にとって 最高の徳ではないでしょうか。
補足
★ 「《ノー》の返事をもらって ほっとして 気がゆるんだのか」って、本当はしたくなかったんですかね? ☆ ここのあたりが――その後の親からの接触が絶えなかったという事例をあげただけでは―― まだ 《変わったことをする人だなと思う》という疑念を払えないのではないか。こう思ってさらにつづります。(2008・01・29記) すべて初めから説き起こさなければならないところを 簡潔に箇条書きにして記します。 (1) 途中で 気持ちの切り変わりがあったということ。なぜなら 話しがつながらない。 (2) ただし 一度―― 一度だけ―― 相手が 誠意・自分の真実あるいはいわゆる真心を見せたと思った瞬間があった。わたしは これを大切にしようと思っていたし ついぞ最後まで これを捨てきるわけにはいかなった。 (3) さらにただし 相手が 気のない素振りを見せるなら ただちにお別れだと思っていた。 (4) つかず離れずが つづいた。(我慢づよいとは 全然 思っていなかったが 今から思うと そうとう 我慢づよい。ここから 《変わったことをする》ことになるのかも)。 (5) つかず離れずではなく なんらかの決断をうながすには どうしたらよいか。(意思疎通の困難という問題もあったが そのときには まだ なんとかなるさと思っていたものだ)。いちど まだ表現力の弱さゆえに明かすことのできない事件があった。離れないというような気持ちを示したかに思われたというのが その内容である。したがって 背水の陣で 苦肉の策として 《プロポーズ》という邪道によってこれ(意思表示をうながすこと)をおこなおうと思い立った。 (6) その返事をもらって思ったことは また振り出しに戻ったわい でした。 (7) まだまだ いろんな事情経過を説明する必要があるでしょう。たとえば 引越しで遠くなってしまったのと 大学時代は さらに遠距離となったことなど。(文通をしたが 会うのは 年に一・二回である)。などなど。 (8) また たとえば《押してもだめなら 引いてみな》のごとく 《引く》ことは出来なかったか。できなかった。その結果がこわかった。そのまま離れた場合は 我慢して諦めればよいのだが その逆に出た場合 それは ただのその時の勢いでそうなっただけだと思うから つまらんだろうと思った。また そんな女とは 続かないだろうし あほらしいと思った。 とにかく 特に男女間のを取り上げるべきか まだ思案の余地があるでしょうが コミュニケーションの成立とは如何にという議論を あらためて 始めるべきだと考えられます。
お礼
(つづき)しばらく 様子を見るしかないと考えた。 §6 高校性のとき スピーチ・コンテストのあと しばらくして 担当の先生に頼んで 大会入賞のカップと賞状とを持った写真を校内で写すという機会を持てた。ポールは 依然として 変わらなかった。 同じ高校へ進んでから 進展があった。朝 登校のとき ポールのいる教室の窓から 生徒たちの登校の様子が見えている。その行列のなかにいたわたしにも その窓から人が見ていることがわかる。ポールだと認識できたとき わたしは 信号を送った。中学の同窓生で いっしょにスピーチ・コンテストに出た仲ですよねといったかんたんな内容を 気持ちとして送った。 一週間ほどで 視線にちからがあるように感じた。互いの目の動きのことです。気持ちが届いたと思った。そのあと ほどなくして 校内に噂が立った。ポールがわたしのことを好いているという噂。 これで 接触のきっかけは出来たと思った。部活動で 同じ部にいたから 事務的に話をする機会はあったのだけれど その後ポールと口を聞くという間柄になったのは もう二年生になっていた時だった。 §7 話は飛びますが・・・。 途中の話は 端折りたいと思います。わたしから思えば冗長です。 結論に飛びます。 二点 両極というべき印象を もたらしました。 まづ いわゆるデートのごとくの経験を持つには持ちました。これは 週に一度か二度 夕方 英語教室からの帰り道で その七・八分ほどの時間を二人で共有したのですが けっきょく正直にいって わたしには わたしをエスコートしてくれる相手としては もの足りないという思いを禁じえなかったのです。当時わたしは 銀幕をつうじて マクシミリアン・シェルが 理想の男性でした。そのおとなに比べるなら なんとも 青いという感じは どうしようもないのでした。 ただ 一点 逆にわたしは 自分の不明を知らされ 唸らせられるという体験も持ちました。それは まだまだ こう言ってよければ幼いポールだったのですが それでも かれは あの狼理論にかんして 驚くようにあざやかな態度を示すということがあったのです。 §8 つまり その結論は・・・ かれは 狼であるという素振りを ひとかけらも見せませんでした。 (No.20補足欄へ)
補足
《ポーラの手記》#1 §1 わたしは ませていました。 ポーラと申します。仮名です。思ったとおりに 語ってしまうことになるかもしれませんが いくらかの感慨がありますので 要望に応えて お話ししてみたいと思います。 さっそくですが わたしは ませていました。いろんな小説を読んでいましたが 中学生のころから 映画にも興味がありました。世の中がよくわかった気持ちになっていました。 映画館へ行って見ることが――学校の規則で――できなくても 紹介する雑誌などを読めば 見た気分にもなります。恋愛ものが わたしの心をとりこにしました。登場人物のこころの動きが 手に取るようにわかったと思ったものです。 親戚には すでに大学生になっている人たちもいたので その人たちと 映画や恋愛のことで 議論をしていました。同じ年頃の人たちは ですから 物足りなくて 学校は 退屈でした。 §2 神秘的な男の子が好きでした。 ボーイフレンドが欲しかったのですが そして 生徒会の正副の会長どうしとして話をするとか いろんな機会に多くの人と接触はありましたが みんな帯に短し襷に長しでした。 そんな中で ひとり 快活そうに見えるとともに どこか ぼうっとしているところもある同級生がいました。不思議な感じで 気になったのですが 考えてみると 学業の成績が 決してわるくはないのですが 飛び抜けてよいとも思われない。そして そのうち クラスも別れて しばらく あまり学内でも 会う機会がなかった。もう一度 気になるほどに その存在に気づいたのは 三年生になってからです。 §3 その前に わたしの《男性経験!?》についてです。 小説と映画をとおして 恋愛について 学んだことは 男はみんな狼であって かけ引きが重要である でした。けれども わたし自身は かけ引きをしようとも あまり思わなかった。恋愛は 一度はしてみたいと思うものの 実際では その結末が見えているようで それほど 乗り気というものではなかったです。 ただ そのように学んだことについて 実際はどうかということにも 関心があって 確かめたいと思います。そして すぐに実行に移しました。たとえば まず ほんとうに男が 女に興味があるのか。はっきり言えば おんなのからだに興味を示すのか どのように・どの程度に 関心があるのかです。 同級生のおとなしい男の子を 家に呼んで わたしは 下着だけの恰好で 応対するという試技に出ました。はっきりわかりました。 §4 接触に失敗しました。 神秘を感じる男の子に 三年生になったとき 接触しようと考えて したことは 上に述べた秘密のエピソードを人を遣って その神秘おとこに 伝えるということです。このおとこが どう反応するかを見たかったのです。 自信がありました。この天然ぼけプラス快活おとこ(――これから後は ポールとよぶことにします――)が わたしに 靡いてくることにも。このポールなる中学三年生が 女に興味を示し 男が女に興味を示したという話にも関心があるはずだということにも。要するに 不思議な感じを漂わせていても 中味は 女に対してなら 狼なのだということにも。 伝えに行ってくれた人に聞くと このポールは 何も返事をしなかったと言う。その噂を聞かせられて しばらく考えている様子だったが けっきょく何も言わず ただ分かったという様子を見せて去っていったとのこと。 ますます変に神秘的になったが 結果は ポールからのはたらき掛けは なにもなかった。 §5 接触の機会を いま一度つくりだした。 なんの反応もなかったということは それだけのことだと割り切った。もし 尾を引くことがあったとすると それは 狼理論が いくらか 不確かとなったことである。じつは たしかに この点だけが わたしに 響いた。世界の恋愛理論が 傷つくわけにはいかない。 知り合いの英語の先生から 弁論大会(暗誦を競うもの)に出てみないかと言われたとき 策を思いついた。ポールと二人で出られるようにと 先生に頼み込んだ。放課後の暗誦とスピーチの練習は 大会のひと月ほど前から始まり じゅうぶんに接触の時間がつくられた。 どうなっているのか ポールは まったく動かなかった。 大会が終わっても なにもなかった。わたしのほうから 声をかけアプローチするわけには行かないのだ。 ただ 行きと帰りの電車の中で かなり気をつかってわたしのほうに注意を向けていたようだった。片道小一時間を つり革につかまって 並んでいたのだから よくわかった。憎からず思っているということは分かった。同級生とのエピソードを 噂として かれの耳に入れたそのことが 影響しているのかなと思った。(つづく)