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信仰の種類

execrableの回答

  • execrable
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回答No.1

イワシの頭も信心から などと言いますので、たとえば日本の汎神論的な環境では、どんなものでも信仰の対象になりうると思います。たとえば、針とか、水子、使わなくなったお守り、人形などを供養することがあります。かまどなどにも神を認めることがあります。 ちなみに、一神教の世界では、神以外を信仰の対象にすることはないと思います。神をイメージした像でさえ、「偶像崇拝」と言って良くないこととされます。 そして、古代ギリシャや古代ローマなどのように、神様がたくさんいる多神教というのもあります。これは、日本などの汎神論と同一視されることも多いですが、厳密には違います。前者は、たくさんいるけど、決まっていて、後者は、森羅万象に神が宿ると考えるので、どんなものにも神性を認めるので、どんな対象でも神でありうるので、自分で勝手に信仰の対象を作ってもOKです。 たしか、江戸末期にある西洋人の技術者が日本に来て、ある日本人はその人の技術を身につけたいと願って、まだ会ったことのないその西洋人をまつる神社を自分で作って毎日拝んでいたといいます。 近年では、横浜ベイスターズの佐々木というリリーフ投手を祭る「浜の大魔神社」というのが作られましたが、誰も罰当たりだとは言いませんでした。何でも神にしていいという日本的な環境がそれを許していると思います。 今思い出しましたが、兵庫県で、北斗七星を祭る神社を見たことがあります。汎神論的世界では、なんでもありです。

MargnalSea
質問者

お礼

日本:現存物への信仰 ローマ:ストーリー中の人物への信仰 なのですね。 実際に触れ得る、あるいは近くに見られるもののみが日本人の信仰の傾向だと思っていたのですが、北斗七星を祀っているのは意外でした。勉強になります。 回答ありがとうございました。

MargnalSea
質問者

補足

>日本:現存物への信仰 誤りでした。太陽や月への信仰は「お天道様」という言葉に代表されるように、少なからず日本には存在したと思います。 天照大神が太陽を神格化した人格神であるので、正しくは、 日本:神格化した人格神+現存物への信仰 ローマ:神格化した人格神 でしょうか。失礼しました。

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