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自己ということ、その本当の心性

当然、私も古来からの、多くの優れた方々の高い見識と雄弁に導かれてはきていますが、一方このことではたくさんの自省をさせられております。  小学校の恩師は、優れたことに直ぐに賛同する中学生の私に、 『お前にはな、何も護るものがないからだ。何も財産がないのだよ。 だが人は違うのだ。それぞれ護るべき財産があるのだ。お前はただの無産の放浪者なのだ。  聖人とか、哲学者というのは一般のあり方を熟知していて個性的に生きられている人だ。それを変人といえば、一方のお前は、常識を知らない、常識外れの奇人というのだ。』といわれました。  私は15歳になったばかりだし、哲学者も聖人も意図してない、未だ子どもだと思っていたのだが。  それ以来、多くの方々のしておられるように、常識や一般性、或は普遍性に気を遣い、それを大事にした人間になろうとばかり思ってきました。  都市の城壁の外でしかない、異界をさ迷い歩く遍歴や放浪の生き方をどうにか卒業したいとばかり思ってきました。55年も経ち、http://kikitai.teacup.com/qa3550391.htmlでの拙い書き込みしている今、このことが再た、古い沼底の沈殿物から消えない疑問が、醗酵の泡を水面にはじけています。55年経っても、本当は何も答えが出せないのです。皆様の何かご示唆をいただければ幸甚です。 1. 罪はどちらにあるか。 高い識見とその雄弁なる論説に己を変革する自分が元々悪いのか。 そういう影響を与える雄弁を揮う方が罪なのか。影響するのは罪か。されるのは罪か。 2. そおっと、その自然の発達をしてもらうようにするべきなのか。 そおっと、自分の自然の発達をしていくべきなのか。 そんなことはできない人がいると存じます。 ≪自分というものをしっかりもつために、・・・≫ 3. 発達と変化との違いはどこにあるか。 4. 自己の心性や、本当の自己を経験・確認するにはどうしたらいいのか。 ≪信心や、座禅や瞑想、或は自己に対する審尋というのもあろうが。≫ 5. しかしそれで得たものは本当に自己性なのか、自分の心性なのか。 崇高な教えや導きがが入っているではないか。それを自分性だとできるのか。自分への審尋の手法はどこに起源や出自があるのか、誰のことばか。その用具は自分が本当に苦労して得たものであろうか。自分がそこにあるのか。  何もかもゼロにして、血と汗まみれになって傷だらけの人生と経験をすせよ(そうもしてきました)るしかないではないか。  地底のどん底に落ちて、そこから始めよ。(堕ちるところまで、堕ちました)などと考えてきました。  どうか何かの示唆を、未整理のままでも結構なので、お願い申しあげます。網羅的でなくて、もちろん結構です。

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  • ベストアンサー
  • umasimaji
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回答No.4

1.どちらも悪い。そもそも、高い識見とは無口なもの。声高に識見を表現し、その表現の理解者たる我が身を宣言するなど、他を巻き込まんとする悪知恵に他ならない。如何なる識見による自己理解も、つまりは「我が理」によるもの以外の何ものでもない。 2.自然に発達する以外に術がない。自然の発達が何かといえば、「我が理がある」ということに気付くだけの事である。出来ない事はないが、出来なくても生きていける。 3.形而上の違いのみで形而下では同じ。 4.確認できない。確認できたという認識が既に我が理の内にあり、認識した自己が正しいかどうかは、我が理の外の理である。信心は我が理を虚空に広げてくれるが決して虚空にはならない。 5.わからない。わかったとすれば我が理は既に虚空でありこの世に存在しない。自分をみつけるということは、大事なことのようで実は欺瞞だらけである。虚空への思いは空虚となるが、人生の刹那をただ精一杯に生きれば、その刹那が川となり大海へ通じ、ひいては彼方に虚空との境がわからぬようになる。その時を待つより方法がないのではないか。

krya1998
質問者

お礼

 再び重ねて御礼申しあげます。  ≪4.確認できない。~~が決して虚空にはならない。≫  確認できたということが、もう、我が理の内の内に引き下ろしてきているというか、もともとそれを出ていない。ということは透徹したお話ですね。意識が虚空を観望するが、虚空そのものではない。いつまでも。そしていつまでも自分という個別的な意識があり、それが実在者と分れ、二者意識。だから自己が、その拘る、捨てられれない自己が存在する。  ≪5.わからない。わかったとすれば我が理は既に虚空でありこの世に存在しない。~~≫  私は、この世に存在しない根源に根を持つ、自己を顕在意識ではなく、意識する意識存在が究極だろうと存じます。  そのために何時とはもちろんきめることもどうすることもできなくとも、人生の刹那が大洋につながり(これは素晴しい表現でした)、境が分明ならざるに向かっていく。  やはり自分を見つけるということは、欺瞞ですね。  ただ私が、ここに教えをお願いしたのは、自分が何かを判断したり、考える度に、比較や対照のなかでしかしてないし、且つ、耳目を通してのことが前提されているなとか。生きている今の眼前界のことを思っているな。とか気付いて情けなくなっただけでした。  刹那ということばは知ってはいました。  こういう遣うのでしたか。あくまでも刹那ですね。  言い換えはありえませんね。出来ませんね。説明も解説もありえない。  有難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 有難う御座いました。  ≪1.どちらも悪い。≫   神は自らしゃべらない。もっともなんでもなく、もっとも身近で自分自身であるのに、まったく変哲もないからいるのさへ気付かない。   全てが神がなされ、受納しているのに、端末機意識しかない場合にはそれが判らない。思考も意志も神なのに。  ここの雄弁は、ことばのある人、持っている人という意味で、イエスの演説や釈迦の説法を含め、ロマンロランやガンジー・マハトマ、そして下村湖人という内容のある、真実の雄弁家が頭にありました。もちろん、鉄舟・山岡鉄太郎も。  言説の徒は考えていませんでした。この徒は自分のことばを持ち合わせていない。  どこの葉影や滴にも意識と生命はあり、世界と一生は存在している。たとえそれが人の五感と知覚能力には可視・不可視であろうと。  世界と人生は人、それぞれである。あっちの水が甘いか苦いか。そんなことはどうでもいい。人生者としては。  だからそれを第一としていることを、自ら逸脱することや、何かで影響することはどういうことかな、という問題でした。  ≪2.自然に発達する以外に術がない≫   このお言葉は、よく理解できると存じます。発達とはそういうものでしょうね。  文化や思想の接触や交流という中で、それをどう確保するか。これが難しいですね。示唆をどうかお願いします。  ≪3.形而上の違いのみで形而下では同じ。≫   形而下には変化しかない。   形而下たる創造界とは、取り留めなく続くだけ。   異なるようでみな同じ。正にフラクタル構造ですね。   形而上にして初めて、理念と価値というもの当為と意志、原理と存在がありうる。ここに発達という努力と意志の次元と相が現れる。  以下お礼のみ箱に続きたいと存じます。  

その他の回答 (3)

回答No.3

それぞれの御質問に回答できる分際ではありませんが、共感する面がありましたので感じたところを記載したいと思う次第です。 >自分というものをしっかりもつために、・・・ ここに原点があるように思えるんですね。 私は、既に自己の殻をしっかりと保つことは、あまりに苦痛なので諦めてしまいました。でも、本性の本体は、自己の外側にあって、自己は本性の極一部にすぎないと感じたことでずいぶんと楽になってます。 本性と自己は、同時に両立して認識し合うことは出来ないですよね。 本性はもともと厳然と圧倒的に存在しているだけで、自己の有無とは関係が非常に薄い(関係は当然にあるが)ように思うんです。ちょうど、海と海に降っている雨粒の一粒の関係ですね。もともと同質で、海に降って完全に同化してしまう。 哲学、思想、宗教の世俗的利益を除いた崇高な教えやお導きは、本性を示す矢印であって、本性ではありませんよね。矢印自身を如何に沢山、正確に学び雄弁な論説委員になっても、それだけではメルヘンは語れないんですよね。 いずれにしても、かつて海から昇華し雲となり、自己の殻を作って、再び海へ加速度落下している実はエキサイティングでエクスタティックな存在では無いでしょうか。 支離滅裂ですいません。 ps 知り合いの敬虔なキリスト教徒の方も、 宇宙人に出会ったら、「あなたも罪を犯したのですか?」と 真っ先に聞くと言っていたのを思い出しました。 私も、本性とは、そういうものでなければおかしいと思いますね。

krya1998
質問者

お礼

 bananasand様、あなたのフィーリングは神がめでているのではないですか。  >自分というものをしっかりもつために、・・・  以下は其の通りとであると感じます。大洋と雨滴ですか。  本性というながら、現象の末端の知覚の結果たる自分は本性とは洵に本源であっても、イコールではありませんね。  本性なら、自分をかなえてくれるもの、ということはありませんね。逆ですね。  私は、殻の確保はまだ卒業できないでおります。だからまた、他人や50年も親しく懐かしい友人たちの殻がとても苦痛でもあります。  そうです。矢印ですよね。  自己を昇華し、また海に戻らせている。主なる方以外には存在しませんね。  それを欲望も、動機も、価値理念も目的もなく行っている究極の存在、主なる方に時に叛き、・・・そしてしたがっている私達。  そして創造という、価値を求めない遊びは繰り返されているのでしょうね。  そんな被創造の存在には原罪というものは存在し得ないと存じます。  アダムやイヴとは神の何ものなのでしょうか。不思議なのです。    

krya1998
質問者

補足

 まことにありがとうございました。何か書き込みの場所を間違えました。すみません。

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.2

1. 罪はどちらにあるか。 人間、どんな経験からでもなにがしかの影響を受けます。その意味では受ける方も与える方も罪はないでしょう。 2. そおっと、その自然の発達をしてもらうようにするべきなのか。そおっと、自分の自然の発達をしていくべきなのか。そんなことはできない人がいると存じます。 守破離、という言葉があります。まず先人の教えを学びそれを守ること。そしてその次の段階に、学んだ範囲から一歩踏み出すこと。最後の段階として、学んだ範囲という事から離れて新たな境地を生み出すことができる、という、能などの世界の言葉です。自然の発達の結果などは、他と違うという点では個性ですが、かみ砕いていえば、デタラメです。個性とデタラメは違うのです。 この意味で、自然の発達などには私は懐疑的です。 勿論、新しいものはほぼ全てこのデタラメから生じているのも事実ですが。 ≪自分というものをしっかりもつために、・・・≫ 3. 発達と変化との違いはどこにあるか。 私は、以下のように考えています。 発達:土台の上に建物が建つように、思想などが深化すること。 変化:さっきテレビを見ていた人が今はラジオを聴いている、というように、現在の状態(ラジオを聴く)の前の段階(テレビを見る)がほとんど影響していないでただ違っているだけのこと。 おそらく、先生の言いたかったことは、変化ばかりで発達がない、という点だったのではないかと推察します。 4. 自己の心性や、本当の自己を経験・確認するにはどうしたらいいのか。 「本当の」自己、ですか。鏡でもご覧になるのが一番でしょう。 人間の目は、自分自身だけは見えないものです。他人という鏡でもなければなかなか自分自身はみることが出来ません。 ≪信心や、座禅や瞑想、或は自己に対する審尋というのもあろうが。≫ 5. しかしそれで得たものは本当に自己性なのか...自分がそこにあるのか。 それで得たものもやはり自分自身です。しかし、座禅や瞑想をしなかったのも、やはり自分自身です。崇高な教えや導きにしたがったのも自分自身です。したがわなかったのも自分自身です。自分への審尋の手法を小手先で身につけたのでなければ、その身につけた手法は自分自身の一部です。例えば魚を食べて栄養を吸収したとして、その栄養素から形作られた自分の体は自分自身だと言えないでしょうか。 結局、自分自身ということであれば、あなた自身に表紙をつけるのが一番正しい(坂口安吾の剽窃です)。 > 何もかもゼロにして、血と汗まみれになって傷だらけの人生と経験をすせよ(そうもしてきました)るしかないではないか。地底のどん底に落ちて、そこから始めよ。(堕ちるところまで、堕ちました)などと考えてきました。 前半は中島敦の悟浄出世・悟浄嘆異あたり、後半は坂口安吾の堕落論の剽窃ですね。もしかしたらこの種の議論というか思想は、古くから広くあるのかも知れません。

krya1998
質問者

お礼

 早速に有難う御座いました。ご懇切なるお話を熟読玩味しております。 I. ≪1. 罪はどちらにあるか。⇒人間、どんな経験からでもなにがしかの影響を受けます。その意味では受ける方も与える方も罪はないでしょう。≫として、結論を持つのが自分の無なる出発からのものであるならば、結構なのです。私はそういうことが言える前に、もっと自問しなければならないのでしょうね。 II. ≪守・破・離≫はまことに、学び育つ上では原則ですね。    ≪自然≫は創造界の自然ではなく、なるようにさせよ。されば神の手が働く(機能する)であろう。の自然ですね。   狼に育てられた子の話もあり、首肯できるお話ですね。 

krya1998
質問者

補足

III.≪3. 発達と変化との違いはどこにあるか。⇒私は、以下のように考えています。 発達:土台~~≫。  率直に申しあげますが、こういう定義とご説明に疑問と反論の余地はないでしょう。私が質問でいっているないようというのは、一つはため息、愚痴なのでしょうね。取り乱しですね。  現実の人生、個人として、内面を持ちながら。そういう人生では、しかし、仰せの事だけでは終始しないことや場面が多々あるのではないでしょうか。  自分で時に嘆き、疑う。それが人生ではないでしょうか?  理屈はそうだが、それだけではないこと。そういうものに対応しているのが、宗教というか、聖典というか。聖者や雄弁家のことばですね。 ため息にあわせながら、癒しと慰め。  私自身の今は、仰せの通り土台の上で築こうという作業ですが。古希なのに漸く。恩師は、お前は奇人だ、無産の放浪者だ、までしかいっていません。 IV. 鏡での気付きは、たいへん有効ですね。それは他との対照でのことですね。そしてそれは根本のことに気付く契機とも為りえますね。  自己における、無垢の無は、このこととともに、更に何かがあるのではないかと、探りたく思っています。 V. ≪それで得たものもやはり自分自身です。~~≫  聞き返すようですが、少し自暴自棄というか、投げやりのように聞こえるのですが。反語てきな禅の公案みたいな。  確かに両方とも自分でしょうが、大きな差がありますね。  そして、選択や行為などの結果たるものを自分とする、ということでしょうね。  私は選択や行為する自分、または選択や行為に入る前の自分を経験したいと存じておりました。 VI. 安吾は読んだ事も、近寄ったことも、情報も存じませんでした。  ただ自殺とか、自堕落という印象では、自分の当為的価値とは違う境界の方だとは思っていました。   自分の場合は、自分の放棄、向上心の放棄、真面目さの放棄という実践でした。これはつらいことであり、また、再度自己性の繋続・接続ということは、結局不可能でした。  冬至祭、イエスの季節になりましたが、イエスが自分を避けたら二度と自分には戻れなかったでしょうね。私も、高校になて、父が出て行け、といった時に、謂われなく詫びを入れないで、どんなになっても出て行くべきでした。安吾の話とはずれましたが。  中島敦は虎になったけんかいなる友人のお話だけ存じ上げております。  虎の皮を着ることなくも、多くの方がそうなっているので、身につまされております。  こういう異界への迷い込みの話としては、たいへん示唆的であると存じました。  自分を放棄した私は、虎にはなりませんでしたが、自分ではないものという意味で、異界の夢遊者でした。今も。そして自分放棄以前もやはり、も一つの異界で悪戦苦闘していた自分でしたが。  そして今も尚、血みどろで、傷だらけで、この人生という異界を超越したいと存じております。それから全てがはじまると存じます。  自分の心性、本性の世界に戻るという意味の超越、出て行くということですが。肉体の死では済まない。  理念化した武士道の死、西郷の誘われている死、山岡の鉄兄いのそんなものどうでもいい、といっているような、死。これが或は、超越なのかもしれないと思っています。世界史の面でみると、ご近所の親しい敬愛する範囲をでなくてもいい。普遍や絶対に志向しなくてもいいと存じております。諦めではなく、そんなのに価値を認めるつもりもないし、必要ない。  柔和で優しい、ユーモアに満ちている、ガンジーのヒマラヤの絶壁のような、威厳と恐ろしい風貌には近寄れない。それはそれでいいけれど。  私は、ご近所的な山岡の鉄兄貴に、世界の思想の頂点を思います。美という意味でも。  お江戸はご近所の範囲でしたね。でも日本人を抜けて、自分もふへんも、絶対ももてない。ご近所者にはご近所者の絶対と普遍があり、それは創造の、いや至高の神のものと通底しています。と私は見ています。  そういう自分の本性の世界を奪還したいのです。  生まれてきた、それ以前の。 どうか今後も、ご教示のほどを。    有難う御座いました。 

  • precog
  • ベストアンサー率22% (966/4314)
回答No.1

面白い話ですね。 回答するというよりは一緒に考えるというスタンスでお願いします。 >『お前にはな、何も護るものがないからだ。何も財産がないのだよ。 だが人は違うのだ。それぞれ護るべき財産があるのだ。お前はただの無産の放浪者なのだ。 > 聖人とか、哲学者というのは一般のあり方を熟知していて個性的に生きられている人だ。それを変人といえば、一方のお前は、常識を知らない、常識外れの奇人というのだ。』といわれました。 別に傷つけるような言い方をしなくてもいいという気はするけど、要は言葉(論理)に振り回されて自己の礎がないと言いたかったのでしょうね。 やってみたらわかりますけど、自分を押し通すのは、これはこれでとても大変なスキルと労力が必要です。 > それ以来、多くの方々のしておられるように、常識や一般性、或は普遍性に気を遣い、それを大事にした人間になろうとばかり思ってきました。 論理で考えすぎというか、傍観者としての世界観しか持たないと、その辺はなかなか理解できないのではという気がします。わたしも傍観者になりがちですけど。 >55年経っても、本当は何も答えが出せないのです。皆様の何かご示唆をいただければ幸甚です。 整理できずに、ぐるぐる回ってるみたいですね。 >1. 罪はどちらにあるか。 >高い識見とその雄弁なる論説に己を変革する自分が元々悪いのか。 >そういう影響を与える雄弁を揮う方が罪なのか。影響するのは罪か。されるのは罪か。 それは状況と罪の定義によります。平たく言うと、騙す側が悪いのか、騙される側が悪いのかという話ですよね。その前に、騙すことが悪いことなのかを論じる必要があるでしょう。 >2. そおっと、その自然の発達をしてもらうようにするべきなのか。 >そおっと、自分の自然の発達をしていくべきなのか。 >そんなことはできない人がいると存じます。 ちょっとわかりづらいんですけど、成長のためには放置した方が良いのか? という話ですか? であれば、あるときはYesであり、あるときはNoですね。極端なのはどちらもダメですし、程度問題でもありません。様子を見ながら発達に合わせ、効果的な働きかけをすべきです。この辺は話題の教育方法などNHKが積極的に番組を流してますので、そういう第一線の人の見識をいろいろと聞いたほうが良いでしょう。 どっちにしろ、教育を実践しないとあなたのスキルにはなりませんよ。 >≪自分というものをしっかりもつために、・・・≫ >3. 発達と変化との違いはどこにあるか。 主観的に表現するなら、発達したらその違いは本人にわかります。 客観的には、様々な状況に対して、より的確に対応できるようになり、社会性が増します。 >4. 自己の心性や、本当の自己を経験・確認するにはどうしたらいいのか。 これはわたしにとっても課題ですけど、ある意味、組み合わせによる発見的な解も必要ですので、人生を旅に例えるなら出会いですね。自己の存在に疑義が生じると、あらゆる思考や経験が必要になってきます。 >≪信心や、座禅や瞑想、或は自己に対する審尋というのもあろうが。≫ >5. しかしそれで得たものは本当に自己性なのか、自分の心性なのか。 崇高な教えや導きがが入っているではないか。それを自分性だとできるのか。自分への審尋の手法はどこに起源や出自があるのか、誰のことばか。その用具は自分が本当に苦労して得たものであろうか。自分がそこにあるのか。 > 何もかもゼロにして、血と汗まみれになって傷だらけの人生と経験をすせよ(そうもしてきました)るしかないではないか。 > 地底のどん底に落ちて、そこから始めよ。(堕ちるところまで、堕ちました)などと考えてきました。 頭の中で点検するのは構いませんけど、他人の知恵を全て拒否すれば原始時代に逆戻りだし、再発見は無駄ですね。他人の意見を鵜呑みにするのではなく、それを客観視できる自己が必要だと思います。そのためには、何が魂を揺さぶるのかを知ることも大切です。で、一番上の話に戻るわけですね。 何が信用できて何が信用できないか、あるいはどういう場合は有効で、どういう点で限界があるのかは、自分で確認し決めていく必要があります。 あなたの人生はワンオブゼムであることを忘れなければ、一番下に降りなくても、最も効率の良い点から始めればよい事に気づくでしょう。 以上3つの世界観を理解し、駆使することを述べさせていただきましたがわかりましたでしょうか?

krya1998
質問者

お礼

 早速に有難う御座いました。  いろいろなことを教えていただき、厚く感謝申しあげます。  多少というよりも、基本的に自分性として問題にした事項と内容を別の次元の側面からお話し下さっているので、どうも全てに私の思いと齟齬が御座います。  ここでそれを全てについて、申しあげるのはとても私の状況が許しませんので、貴方様の仰せのことについては熟読玩味し、理解を深めたいと存じます。  有難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 お礼の所で申しあげたことが、私の理解程度が浅いゆえの齟齬感かもしれないことを思いつつ、私は自分とは、人間とは、世界や創造界とは、それらを自分の無なる、本性から出発しているか?ということを反省してきている、一連の問題でした。  自分がここにいる、人生をしている。それではその出発は意識できているか。そこから出発しているか?  ということでした。  そういうことで、人生の開始している我々はよかれあしかれ、多少に関わらず伝承・伝統から、自他から、その無垢の出発が見えなくなっているではないか。  他人に影響したり、自分がどう影響されるかのことで、間違いはないか?  罪作りはないか?ということを主眼にしてきてるのですが。

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