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聞き手や「聞く」という行為に関する理論ありますか

哲学、社会学、言語学、心理学、教育学などの文野で、会話における聞き手や「聞く」という行為、あるいは相互行為一般における相手の行為の解釈者に関する理論はありますか? あるいは、これらについて考える上でヒントとなりそうな理論でも構いませんので、あれば教えて下さい。

noname#63019
noname#63019

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

いくつかのアプローチの仕方があると思うんですが、とりあえずこういうのがあるよ、と思いついたものを。 身体論の方では「聞く」というくくり方ではなく、「感応動作」あるいは「役割的同調」という観点から考察されているはずです。 わたしはここらへん、あんまり知らないんですが、市川浩『精神としての身体』とか佐々木正人『からだ:認識の原点』あたりをとりあえず手にとってみてください。これとか尼ヶ崎彬の『ことばと身体』にもよく引用されているスペルベルとウィルソンの本とかをみていくと、きっと参考になると思います。 この方面は認知心理学に詳しい方からもう少し適切なアドヴァイスがあるかもしれません。 言語哲学の方では、「会話」を中心に考察したのは、なんといってもポール・グライスです。代表的なものに『論理と会話』(清塚邦彦訳 勁草書房)がありますが、やっぱりこれを読もうと思ったら、サールを読んでおく必要があるように思います。 言語哲学は「言葉」の哲学ですから、基本は「発話」にあります。 それはもうこの系統の元祖といってもいいようなオースティンの『言語と行為』の原題「言葉をもっていかにしてことをなすか」に明確に現れている。根本にあるのはそういう問題意識なんです。 そこからサールの『言語行為』(なんで似たようなタイトルばっかりつけるかね。ただこっちの原題は"Speech Act" ですからその通りなんですが)がでてくる。 サールの言語哲学のアウトラインがつかみたかったら、『アメリカ言語哲学入門』(冨田恭彦 ちくま学芸文庫)がおすすめ。これ、サールからクリプキ、クワイン、デイヴィドソンあたりの流れを頭に入れることができる。ただこの本ではグライスにはほとんどふれられていません。 グライスは、サールの「言語行為」を受けて、会話のなかにある「協調の原理」(なんかグライスっていうと、こればっかりが有名ですが)をさぐっている。グライスはここで発話者だけでなく受け手の「了承」と「理解」ということを扱っています。 聞き手が「どう聞くか」ということを正面切って取り上げているものはグライスをのぞいてはあまりないかな、と思います(重ね重ねいっておきますが、わたしはあまり詳しいわけではありません)。 ともかく、G.H.ミード以降、コミュニケーションの開始は主体の発話ではなく、聞き手が受け取ってから始まる、ということは、あらゆる言語行為論の前提にあります。聞き手の存在抜きのいかなる発話もありえない。となると、発話行為を探ることは、同時に聞き手を問題にしていくということでもあるわけで、「聞き手」がいかに聞いているかを問題にした言語哲学というのはあまりないかな、と思います。いや、わたしが知らないだけかもしれませんが。 あと、まったく別の角度から、これは分類からいうとカルチュラル・スタディーズになると思うんですが、スチュアート・ホールのオーディエンス理論があります。 わたしはホールはここで質問に答えたときに、逆に質問者の方から教えてもらったんだけど、ホールのいう「オーディエンス」は、単なる聞き手というよりは、もう少し広い対象を扱っている。TVの視聴者とか、読者とか、メディアという媒体を通したコミュニケーションの受け手全般が「オーディエンス」です。 発話者がメッセージを記号化してオーディエンスに送り届ける。この記号化がエンコーディングです。そうしてオーディエンスの側がこの記号化を読み解く。それがディコーディング。オーディエンスがこのディコーディングをどの立場から行うかによって、メッセージの意味そのものが変容していく、というのが、ごくごく荒っぽい説明です。 わたしはまだホールはこれ一冊しか読んでないんですがJ・プロクター『スチュアート・ホール』(小笠原博毅訳 青土社)はおもしろかった。 さらに「読み手」という観点になると、これは受容者理論になっちゃって、これまたもうどっさりありますが、きっと質問者さんの問題意識とはずれてるね。 あと哲学の方に行っちゃうと、「聞く」というか、他者論になっちゃうかな、という気がします。フッサール、メルロ=ポンティ、レヴィナス、それはもういろいろありますが。 ただ、 >大学院で会話について研究しようと考えていて ということでしたら、こういうところで質問せずに、ちゃんと指導教官と相談してみてください。 あくまでも思いつきなので、あまり参考にせず、こういうのもあるべさ、ぐらいに受け取ってください。だけど一応、読んでおいて損はない本ばかりではあります。

noname#63019
質問者

お礼

回答有り難うございます。 言語学でいうと、やはりグライスになるのですね。 オースティンの『言語と行為』、サールの『言語行為』は読んだことがあるので、グライスやウィルソン&スペルベルの理論も見てみたいと思います。 私がオースティンやサールを読んだ時も、聞き手の影響も含めつつ、発話行為について考えられているものの、ではそもそも聞き手(の影響)とは何かということについては、述べられていなかったように思いました。 他にも、身体論、カルチュラル・スタディーズ、他者論と、さまざまなアプローチの可能性を提供していただき、参考になりました。 有り難うございました。

その他の回答 (5)

noname#50219
noname#50219
回答No.6

二つの文献及び人物を紹介いたします。 一つ目は、学問探究の立場からでも、その他の立場からでも、それを聞き、考察、恕することのできる文献、言葉とその起草者を紹介いたします。 http://www.geocities.jp/srkw_buddha/index.html 参照されたい項目をクリックしてください。聞くと言うことや、言葉について解説されている項目があります。 二つ目も同じように、対象者の立場を問わないものを紹介いたします。これは原文が外国語であり、日本語訳が出版されております。 http://www.msz.co.jp/book/detail/02197.html 人は(言葉を含め)事をどう受け取り我がものとするか、また、それらからいかにして自由になれる(転ずる)かが、心理的諸タイプと言う方法を用いて述べられています。臨床に基づいた経験から述べられたこれらは、過去から人々がこのことに関心を持っていたことをも、過去の文献を分析することで、心理的諸タイプの発見を示しています。 直接的に論文の参考にはならないかもしれませんが、私の知っているもので、ご紹介できるのはこれらです。聞き手ズバリそれを対象にした理論、文献と言うのは、どのようなものを想定されているのか。 例えばラジオやテレビと視聴者、ネットの配信と受信、親と子、世間と個人、又は異種生物(犬など)と人間、信頼関係の有無、秘密情報の共有、歌唱、物語、音声(言葉以外も含めて)、聞き手の存在する様々なシチュエーションが私には数限りなく想定され、これら様々なシチュエーションを「聞き手は」と言う観点で一つの基盤によって統合し、聞き手の在り様、立場、性質、条件などを説明できるようなものを勘案されているのでしょうか。 私が後半部分に述べたような雑多な表象はざわめく木陰のようなもので、平安と不穏が入り混じったようなものです。もしこのような表象や想いがふと過ぎったとしても、おおらかな心で、ご自身の探究を、ぶれない様に導かれてください。

noname#63019
質問者

お礼

回答有り難うございます。 宗教もユングも、自分にとってはなじみのないものですが、面白そうだなと興味はありました。 参考にさせていただきます。

noname#50219
noname#50219
回答No.4

おもいやることの大切さを、教わったことがあります。 様々なことを聞いて来ましたが、これがエッセンスです。 やさしいなら、他の事は知らなくてもいいです。特別な知識なども必要ありません。 それでも、、と感じられるならば、文献と人物を合わせてご紹介いたします。

noname#63019
質問者

お礼

回答有り難うございます。 私は自分の研究に関して参考にできそうな理論を知りたいと思い、今回の質問をしました。 言語学や社会学(エスノメソドロジー)を始め、会話についての研究は多々あり、またその中には聞き手について(付随的に)語られているものもあると思うのですが、自分が調べてみた限りでは、「聞き手」や「聞く」ということを主題として行われた研究はほとんど見当たりませんでした。 恐らく自分が勉強不足なだけで、そうした研究はきっとあると思うのですが…。 BABAaさんが参考にされた理論や文献を教えていただけると嬉しいです。

noname#50219
noname#50219
回答No.3

時間を気にしないと言う事は、人の話を聴く上での注意点として、挙げれるかもしれません。 もう一つは、相手が話しやすいように、受け手側になるというスタンスは大切なように思います。 人の話を遮ってしまわないよう気をつけ、石ころのようなものを適宜除いて、本音が出やすいように、やさしく居るのがよいように思います。 相手に束縛されず、自分もまたごく自然であるという状態です。 人は、相手を見て、話のできそうな人かを、本能的に見抜いている様に思います。少しでも不信があれば、回りくどい表現や、どこか隠した言葉ないしそぶりを見せるものではないでしょうか。 故に、本能的に怪しいと察知されない姿勢が、もっとも相手にとっても、自分にとっても自然な、灰汁のない、ニュートラルのような気がします。人はそれを見て、心のしょうげをはなれて、囚われのない心から接しよう決めると私は思うからです。  私が悩んでいるのは、自分が本能的に相手を見て、それで本音をさらけ出すかどうかを決めかねてもじもじしてしまうことです。 自分が、本能的な揺れ動きでなく、いつも自然だったら、ちゃんと、はっきりとものをいえるようになれるのかなと、思います。自分に違和感がないというのは、とても近い様に思うのですが、難しい。

noname#63019
質問者

お礼

回答有り難うございます。 私は、大学院で会話について研究しようと考えていて、今回この質問をしたのですが、BABAaさんがこの回答を述べるにあたって、参考とした理論や文献はありますか? もしあれば、ぜひ参考にさせていただきたいです。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.2

仏教に「真理の護持」や「真理の分類」等があります。 分類には 1・聞いた話 2・自分の能力で出来る範囲で論理的に考えた結果 3・実際に何度も確かめ確認したもの <ルール> 自分こそ正しいと思ってはならない 常に更新可能な柔軟な状態にしておく 根拠を持って考察する…など 実践をざっくりと書くと 1・根拠のある見解を作る 2・聞いただけで執着しない 3・真理の護持=範囲を守り、理解する範囲内でただそうだといい、真理に結び付けない。観ないこと知らないことを論拠にしてはならない。自分が真に正しいと思ってはならない。=を守る 4・他者の話を聞くとき自分の智慧によって根拠があると思う事だけを思惟する、それを言う人が誠意ある偏見無き慧のある人と思ったなら、引き続き真実の根拠を求め確かめるために受け入れる。 5・心が受け止めたことを論理的に熟慮して自分の見た限りの根拠で感動するまで間違いないと確信したら、真実を知覚できるように実践することが出来る。 6・もし疑念があれば清浄なる気持ちで急いでたずね智慧を目指しその信を確固たるものにしてその根拠を完全に役立てるためはっきり調べる ざっくりとですがこんな感じです。 実際はもっと厳密ですがw 自費出版の「仏法」を参考に書きました。 そのうちサンガ出版からちゃんと出るかもしれません。

参考URL:
http://www.j-theravada.net/
noname#63019
質問者

お礼

回答有り難うございます。 仏教や、その他の宗教、宗教学についてはほとんど知識がないのですが、参考にできる部分がありそうですね。

回答No.1

全然違うかもしれませんが・・・ 「聞く」ではなく「読む」ことに関する本ならば 近代読者論(外山滋比古著)があります。 これは、「書き手」ではなく「読み手」に焦点をあてた 理論や歴史の話です。 なにかの、参考になれば・・幸いです。

noname#63019
質問者

お礼

回答有り難うございます。 読者論というものがあるということは、聞いたことがありました。 話し手と聞き手の関係は、書き手と読み手の関係に類似する部分があるので、もしかしたら参考になるかもしれませんね。

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     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。また うまいマの取り方を求めます。  (α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。        〔* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で        鎮静の逆のことのようです。ただし それも しづめる        ためにそうするのだということのようです〕。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  以上の所論をたたき台として ご見解をおおしえください。

  • マ(間合い)の理論⇒マを取る⇒芸術といういとなみ

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  そして マをうまく取ると ひとは我れに還る。我れに還った状態というのは たましひがやすらかで 身と心とがすこやかであることだ。  では マをうまく取るというのは どういうおこないか?  一般に 《たましづめ(魂鎮め)》だと考えられる。しかもこれには 魂振りと狭義の魂鎮めとがあるはずだ。  静かなたましひを保つために 人は互いにまづ先に魂振り・すなわちツッコミをおこなう。ここからマの取り戻しが始まる。  ちなみに このツッコミをいくらおこなっても相手が反応してくれないときには こちらは手に負えなくなる。交通渋滞が起きる。現代人の悩みは これである。  この交通渋滞としてのマのチガイや抜けを 元に戻す魂鎮めなる行為は 一般に芸術がになうのである。  芸術とは たとえてみれば尺八や法螺貝のひと吹きによって 世界が その今の舞台としてどんでん返しに遭ったごとく 変わるそのきっかけのことである。    この仮説にもとづき 芸術のになう《癒し》の具体的なあり方を哲学してください。  また この仮説じたいについてのご批判をも寄せてください。  芸術の担う癒しないし魂鎮めのキッカケは 一般に美である。この美については それが人それぞれの美学のもとにあることを 次の質問で尋ねました。   【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html  そして 音楽の美については 次の質問で問い求めています。   【Q:音楽って何のためにあるの?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8902931.html  芸術の全体をまとめて述べてくださってもよいですし 個別に音楽や絵画等の具体的なコトゴトについて明らかにして行く作業も 歓迎します。  要するに あなたの美学をご披露ください。  ○ よろしかったら 次の マの理論を参考にしてください。    (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してくださっても 歓迎です。感想だけでも よろしいです。

  • 《わたし》なる理論は 哲学プロパーではないか?

     次のような理論は 人生哲学であっても 哲学プロパーなる哲学ではない。という見方が 提出されました。  果たして いかがお考えになりましょう? おしえてください。          *  《わたし》なる理論  1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《アートマン(霊我)もしくはブッダター(仏性)》ないしは《プネウマ(神の霊)》をやどす。《非知》としてのナゾなる神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。  2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツハリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。  3. われに立ち還るというのは 自己還帰また自己到来と呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば:    (α) わたしは わたしである。 1=1  4. そして立ち還るときの姿としては:   (β) わたしは《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1  5. 人はおのれのついたウソからわれに還り 他人(ひと)のイツハリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己のさらに二乗を繰り返し 《わたし》を生きる:   (γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。        1x1x1x・・・x1=1 すなわち 1^n=1  6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。超えた部分をも持つ。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たというものでもない。つまり人間なる存在にとって 生来の所与としての人間の条件である。  6-1. この人間の条件を無条件に受け容れることが 自己の内なるアートマンもしくはブッダターないしルーアハ(神の霊)にめざめることである。  6-2. そのときわたしは アートマンにつうじているブラフマン神もしくはダルマ・カーヤ(法身)のブッダないし普遍の神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここでわが心なる《非思考の庭》が成る。  7.  非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが ふつうはそれは (β)および(γ)における意志行為一般に道をゆづって 背後にしりぞいている。  7-1. 意志行為が 生きることの基本であり 記憶行為や知解行為との連携において中軸を成す。  7-2. 言いかえると 現実に生きる過程において芽を出し花を咲かせ実が成るという場合 中軸の意志のほかに じつは中核として あまり顔を出さないところの・(α)の《わたしはわたしである》その動態がはたらいている。  8. あとは 実際問題としてこの世の中には シガラミがすでにあり よく言えばそれは伝統にかかわって飾りや誉れであったりしつつ よくもわるくも自己の心の・正負の充足にかかわる。これは 空(シューニャ)であるが 仮りのものごととして確かに現象している。  9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては シューニャター(空性)は捉えられない。  9-1. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。生きる過程の問題であってよい。  10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。  10-1. ここに(α)の《わたし》にそなわるアートマンは 思考の緑野へと翻訳され 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛――互いに隣人であること――》という言葉で説明される。  11. ・・・・・・