• ベストアンサー

室町幕府の機構について

rczdの回答

  • rczd
  • ベストアンサー率29% (33/113)
回答No.2

鎌倉幕府における将軍の補佐役が執権ですよね。執権は北条氏が独占したためか、他御家人を排除し、のちに得宗専制体制を築きました。 すぐ目の前の時代にこのような反面教師がいたからこそ、三家に権力を分散させた…とも考えられます。

ilmf
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 3家に権力を分散させた背景について、鎌倉幕府の反面教師に学んだという視点、参考になりました。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 室町幕府の直轄国/料国について

    室町幕府の地方支配の方式として守護制や御料所がありますが、それとは別に、将軍直轄国としての料国というものがあります。応永年間には少なくとも信濃国、日向国が将軍料国とされ代官が派遣されていました。また、山城国についは、幕府・侍所直轄とされています。ですが、この料国についての説明がなされている文献や参考書を見つけることができません。幕府の政治・軍事的な戦略を知るためにもこの料国について詳しく知りたいのですが、何か文献や参考書はないのでしょうか?

  • 室町時代には「南北の朝廷」だけでなく「東西の幕府」も存在していた?

    室町時代前期における「南北朝」の対立は非常に有名です。 しかし、この時代には京都の幕府とは別に、関東にも「もうひとつの幕府」の ような存在がありました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BA%9C その名は「鎌倉府」といい、足利尊氏の子の基氏(二代将軍義詮の弟)とその子孫が 代々世襲しました。 この鎌倉府の組織とは、「鎌倉公方」をトップに「関東管領」が補佐し、その下には 「侍所」「政所」「問注所」があり、これは室町幕府の機構にソックリです。 室町幕府はどうしてこの模倣品のような組織を認めたのでしょうか? ちなみに私は学校で初めて「鎌倉府」の組織について学んだ時に、 「これはきっと将来争いが起こるに違いない」と予感していました。 そうしたら、次のページにはもう永享・嘉吉の乱が起こり、これが「応仁の乱」の 引き金となりました。 まるで漫画のようなお約束展開に笑えました。 ではなぜ幕府は「絶対もめる」と分かりそうな組織作りをしてしまったんでしょうか?

  • 関東公方

    戦国時代には室町の足利将軍家の他に 関東にも公方の足利家がありました 恐らく室町の足利家の分家でしょうが 関東公方足利家は何のために関東にあったのでしょう? 公方とは一般に将軍の意味でしょうか? また 関東管領だった上杉憲政は関東足利家の家臣で管領職に任ぜられていたのでしょうか? それとも室町幕府から関東管領を任されていたのでしょうか?

  • 足利家の分家

    室町時代の幕府の将軍足利氏の分家の渋川氏は何故、管領の地位についた事が無いんでしょうか?お詳しい方、お答えください。

  • 関東管領はなぜ上杉氏の独占

    関東管領はなぜ上杉氏の独占  鎌倉幕府は執権を北条氏独占にしたために、将軍の実験を執権に奪われる結果となりました。  それを反省して、室町幕府は中央においては管領を3氏(細川、斯波、畠山)の交代にしたと考えています。  しかるに、なぜ関東管領は上杉氏の独占としたのでしょうか。上杉氏が優れた一門だったのでしょうか。交代制にしたかったのだが、独占にせざるを得ない事情があったのか。  この当たりのいきさつをお教えいただけないでしょうか。よろしくお願いします。

  • 関東管領について

    1400年代後半からの関東の勢力について。 そもそも関東管領とは、鎌倉(古河)公方の補佐として関東に下向したはず。複雑で判りにくいので当時の関東情勢を教えてください。 1・どのようなきっかけで鎌倉(古河)公方と関東管領は権力を争うはめになったのでしょうか? 2・幕府は混乱を収めるために、新たに堀越公方をたてていますが、最初から関東管領のような補佐を任命してはいなかったのでしょうか? 3・山内上杉家の方が扇谷上杉家からみて主筋であるのにこちらも関東管領家を名乗っています。これは自認するところから名乗っているのでしょうか?それとも公式に幕府から認められていたのですか?(関東管領は何人いても良かった?) よろしくお願いします。

  • 幕府というものについて

    浪人生です。日本史の勉強をして疑問に思ったことがあります。 幕府と聞いて連想するのは鎌倉・室町・江戸の三つですがこれ以外にも幕府ってあると思います。幕府というのは日本史の教科書によると蝦夷征討のため陣を敷く際にまわりを幕で囲ったことからこのように呼ばれるようになった、というような内容が書いてありました。しかし頼朝以降その存在が変わったものになった気がします。そこで (1)頼朝はなぜ権右近衛大将の地位を捨ててまで征夷大将軍になりたかったのか。(それまでに征夷大将軍という存在は歴史の流れの中であまり知れ渡ったものではないのになぜなりたかったのか) どこかの参考書に蝦夷征討のために武士を率いる権利を持つ→武士の棟梁として名実ともに認められるとありましたが、では (2)もし(1)が上で述べたようなことであるあらば、天皇ありきの世の中でなぜ政治の実権を握ることが出来たのか。 征夷大将軍に任命されるのも天皇が全てであった世の中であったのになぜ将軍は政治の実権を握ることが出来、またなぜ天皇はそれを許したのか。それに関連して (3)鎌倉の六波羅探題、江戸の京都所司代に代表する、いわゆる朝廷の監視を名目とした役職がなぜ存在できたのか。 そして (4)幕府とは何か。頼朝以降幕府のあり方が変わったのは一目瞭然ではあるが、ではどのように、そしてなぜかわったのか 以上の四つを教えてほしいです。こういうことではないかというようなことでもかまいません。よろしくお願いします。 (上に述べた質問は全て高校範囲で疑問に思ったことなのでもし事実と違っていたらすいません。高校の範囲を超えていいので納得できるような回答をしてほしいです。図々しくて申し訳ありません。)

  • 足利6代将軍について

     小学生の子供の父親ですが子供の社会の教科書を見たところ、室町幕府の第6代将軍足利義教はくじ引きで将軍になったとありました。  私自身昔日本史を勉強した時に同じように教わった記憶がありますが、将軍をくじ引きで決めたことに違和感を感じていました。なぜ6代将軍をくじで決めることになったのか、その辺のいきさつを詳しく知りたいと思います。  ご存知の方がいましたら、是非教えて下さい。よろしくお願いします。

  • 関東管領・その2

    前回、関東管領の初期の混乱について質問し、回答をいただきました。 今回、関東管領の行方について教えていただきたく再度質問させていただきます。 1・関東管領上杉氏を譲渡された謙信は死後、景勝には管領職を譲っていなかったのでしょうか?(つまり最後の関東管領は謙信?) 2・景勝が名乗っていないとして、織田家家臣、滝川一益が関東管領を名乗っていたというのは事実でしょうか?何かの本で読んだ記憶がありますが・・・ 3・信長が足利義昭を追放し、足利幕府終焉状態では公方の補佐である関東管領そのものが意味を成さないと思うのですが、その時点(義昭追放時)で関東管領を名乗っている家(氏)はありましたか? 以上よろしくお願いします。

  • 大政奉還について

    僕は歴史が好きで、特に幕末~明治にかけては大好きなのですが、大政奉還がいまいちよく理解できていません。 どうやら坂本竜馬が船中八策を考え後藤象二郎に提案したところ、後藤象二郎が土佐藩藩主山内豊重(容堂)に進言し、山内豊重(容堂)がかなりの勢いで「それやっ!!」と乗り気になった例のあれです。というのも、この当時幕府はすでに力もなく薩長の倒幕にびびっていたんでしょう。そこで大政奉還することにより、朝廷側が倒幕の密勅を出せないからです。この部分がわかりません。 山内豊重(容堂)は後藤象二郎から大政奉還について提案された直後、徳川15代将軍徳川慶喜に進言し、慶喜は悩んだ挙句大政奉還を受け入れ政権を朝廷に返しました。 徳川家終焉の歴史的な日です。 しかし、幕府としては朝廷に政権を返したところで朝廷には政治を仕切る力はないと仮定し、実質的には幕府に政権が戻ってくると考えたのでした。 しかし、そこで朝廷側は王政復古の大号令を出し徳川幕府を崩壊させました。これは幕府側にとってかなりの誤算だったみたいです。この朝廷側の決定に小御所会議で文句を言ったのが土佐藩藩主山内豊重(容堂)です。かなりのカウンターをくらったことでしょうね。 ここまでは何とか独学で学べたんですが、ひとつ理解できないことがあるんですね。さっきも書いたように、なぜ大政奉還(朝廷に政権を返す)することによって、倒幕の密勅が出せなかったのか??ということです。僕個人的な見解としては、大政奉還することにより政権は朝廷にあるのだから、その時点で倒幕をさせることはできなかったのか??ということです。 本当に気になってます。教えてください。