• ベストアンサー

《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.14

>>もちろん血も涙もお有りなのですが 教理にかんして柔軟というわけには行かない――それゆえにこそ 宗派は守られて来ているというものなのでしょうね。  柔軟になるべき部分と、守らなければならない者があると思います。確かに教義を曲げることは出来ません。しかし、その教義を基礎に応用していくという柔軟性は必要だと思っています。 >>言語学に言語類型論という研究分野があるように あらゆる信仰にわたって その信仰類型を把握してみたい――このような尋究を進めようとしていたのだと気づきました。この類型が 論理に流されないようにという注意にも 自信があったと思います。 私もそんな研究結果が在れば面白いと思いますよぉ。 >>「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法」  まず私訳を載せます、 私がもし仏になったならば(設我得佛) 世界の生きとしいけるもの全てが(十方衆生) 裏表なく深く信じ(至心信樂) 私の作る極楽浄土に生まれたいと願って(欲生我國) わずか十回程度の念仏をして(乃至十念) 極楽浄土に生まれられない者がいたならば(若不生者) 私は決して悟りを開くことはありません。(不取正覺) ただし、五逆罪を犯したり(唯除五逆) 仏教を誹謗中傷する人は除きます。(誹謗正法) 私の訳ですから、間違いもあるかもしれませんがこのようなところです。 >>この第十八願の内容を是非 おしえてくださいますか。というのも 阿弥陀仏は すでに 成仏しています。報身だとも聞きました。しかも 十念して浄土に生まれないなら正覺を取らないということでしょうか。  そうですね。法蔵菩薩は阿弥陀佛になっているわけですから、この本願は成就されていることになります。だだ、「至心信樂 欲生我國」も重要です。この部分は、浄土教における信心をあらわしているといわれています。『観無量寿経』でいえば、上品上生に説かれている「至誠心、深心、廻向発願心」で、至心は至誠心、信楽は深心、欲生(我国)は廻向発願心です。分かりやすく言えば、 >> 十念して浄土に生まれないなら正覺を取らないということでしょうか。 ではなく、十八願には「心から十回程度でも念仏するものが浄土に生まれないならば、仏になることはない」ということになるのだと思います。 >>五逆・誹謗正法を除けば 大丈夫みんな成仏しますよという意味でしょうか。 文中の「五逆・誹謗正法を除けば 大丈夫みんな成仏しますよ」というのは「五逆・誹謗正法“の人”を除けば、みんな往生を遂げて成仏しますよ」といういみですよね。もしその意味であればその通りです。「唯除五逆 誹謗正法」は、念仏する者であっても、五逆罪を犯したり、仏教を誹謗中傷する人は救いの対象から除くということです。 ただ、そうなると『観無量寿経』の下品下生の文にある五逆・十悪の悪人でも十念を具足することによって南無阿弥陀仏と念仏を称することによって、極楽往生することができるとしている文と、大きな矛盾します。 この『無量寿経』と『観無量寿経』の相違点について、善導大師は『観経疏』散善義に、「抑止門」「摂取門」の二つを説いている。『無量寿経』は五逆罪などの罪をまだ犯していないものたちへの戒めとして、その罪を犯すことを抑止するために説かれた「抑止門」であるとし、『観無量寿経』は五逆罪を、もうすでに犯してしまったものたちへの救いの「摂取門」であるとする。この解釈によれば、五逆罪を犯したものでも、懺悔(さんげ・「ざんげ」とは読みません)し念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださるということです。その説に従い、法然上人は『選択本願念仏集』のなかで、「唯除五逆 誹謗正法」の文を引用していません。 この法然上人の「唯除五逆誹謗正法」の文を引用しなかったことについて、山崎正一氏の説によれば「この文は比較的古い経典には欠けていて、比較的新しい経典に多く書かれているという。したがって、この部分は後世になってから経典が増広や補筆されたときに書き加えられた部分であるといえる。もちろん法然はそのようなことは知らなかったであろうが、あながち、この部分を引用しなかったことは正しいのかもしれない。」としています。このように法然上人は善導大師の説を受けて経意をくみとり、阿弥陀仏の凡夫に対する救いに制限を加えることなく説いています。 >>あるいは 十念した者が浄土に生まれるまでは 仮りの成仏のままでいるということでしょうか。  私が学んできた中には、そういった解釈は聞いたことがありませんよ。 >>急ぐことはない じっくりと今の世間で生きていなさいと言うのか。あるいは 念仏の功徳は すでに 報われているから 今 この今 往生して その場が浄土であるとさとりなさい そしてまた 浄土にするように つとめていきなさい――と言っていないでしょうか。  天台宗や真言宗における浄土教であればそういった解釈もあるかもしれませんが、日本浄土教の主流である法然上人の浄土教の流れを組む宗派においては、そういった解釈はされないはずです。 >>《けれども、仏様から見れば「現生不退現生正定聚」かもしれませんが、自分自身を見つめなおした自覚はあくまで「凡夫である」という自覚が大切かと思います。》とおっしゃるわけなのですが 堂々巡りになるでしょうか。つまり 凡夫→その自覚・念仏→「即特往生」→凡夫の自覚・念仏→・・・  そういったスパイラルによって「深心」という信心は深まっていくとされています。 「深心」については『観経疏』散善義には、 二者深心。深心と言うは、すなわちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと。二つには決定して深く信ず。かの阿弥陀仏、四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑い無く慮無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と。 とといて、まず深心とは「深く信じる心(深信)」であるとし、また深信には二種類あると示しています。 ●信機 一つは、自分自身が罪悪生死の凡夫であることに気付き、このままでは永遠に悟りを得ることは難しい存在であると深く信じる事です。この、自らの機(機根)を罪悪の凡夫であると信じることを、「信機」といいます。 このような、「悟りがたい罪悪の凡夫」という認識は、曇鸞・道綽・善導の流れの浄土教の大きな特色のひとつといえます。しかし、「自身(善導自身)」という、自分のまさに罪悪生死の凡夫であるという主体的な自覚をもったのは善導大師独特のものであるといえます。善導大師の師である道綽禅師は、末法思想を基盤に人間存在を五濁悪世に住する起悪造罪のものと規定し、さらに道綽禅師に大きな影響をあたえた曇鸞大師においては、五濁悪世の無仏の時代の教えとして、阿弥陀仏に帰依を勧めています。この二人の祖師の考えを受けて、善導大師は末法に住む者は全て凡夫であると説き、その点においては道綽禅師も同じ考えといえますが、しかし、善導以前の祖師に自身が末法に住む凡夫であるという考えは見出しにくく、主体的に自己の自覚を説くところに善導大師独自の考えが見られます。 ●信法 そして二つは、この自分自身の悟りがたいという機根を信じる「信機」に対し、そんな悟りがたい者が救われる阿弥陀仏による救済の法を信じる「信法」が説かれています。阿弥陀仏が四十八願をもって定めてくださった称名念仏をする事によって、罪悪生死の凡夫であったとしても救って下さるのだと、疑うことなく、自らの考えを入れることなく、必ず往生が得られるのであると言う法を信じるものを「信法」といいます。言い換えれば、阿弥陀仏の救済を確信することいえます。  そこに善導大師はこのように続けている。 また決定して深く信ず。釈迦仏この観経の三福九品、定散二善を説いて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまうことを。また決定して深く信ず。弥陀経の中に、十方恒沙の諸仏一切の凡夫決定して生ずることを得ることを証観したまうことを。 ここでは、お釈迦様が『観無量寿経』において阿弥陀仏の浄土のすばらしさを説き人々が極楽浄土に向かいたくなるようにしてくださっていると説いています。また、釈尊の真意は「南無阿弥陀佛」の称名念仏を説く事であり、釈迦の十大弟子の阿難に「なんじ、この語を持せよ」と末代まで称名念仏を流布するようにと説いてくださっているとします。そして『阿弥陀経』の六方段において諸仏が舌を出し(出廣長舌相)衆生の極楽往生は間違いないと証明してくださっています。それは、「南無阿弥陀仏」の教えは、釈尊を含めすべての仏が称揚し、全ての凡夫に勧めていると解釈して、仏の勧めを信じることを説いています。 また、二種の信心が成り立つまでの順番や、信心の深まりについて、法然上人は『往生大要抄』に はじめにわが身のほどを信じ、のちにほとけの願を信ずるなり。ただしのちの信心を決定せんがために、はじめの信心をばあぐるなり。 意訳 初めに自身のつたなさを省みて、その上で阿弥陀仏の本願を信じるのです。それは、阿弥陀仏の本願を信じることができるように、わが身を省みることを先に挙げるのです。 と説いて、信機と信法のうち、信機・自分自身が罪悪の凡夫である事を自覚し信じることが、信法・阿弥陀仏の救いを信じることより、先になくてはならないと説いています。 ただ、自らが凡夫であるという自覚をするためには、阿弥陀仏の本願の教えを聞くことがあって初めて気づくことができるので、阿弥陀仏の教えについて何も知らない人が普段の生活の中で罪悪生死の凡夫である自覚を持つということはありえません。ですから、信機と信法はどちらが先かではなく、信機によって信法はより深まり、信法によって信機はさらに深まっていくといった、互いに作用して深いものへとなっていくと考えられ、それを「深信」と呼ぶのです。このように法然上人にとっての深く信ずる心とは、信機と信法が互いに互いを深い信心に導くといことを言うのです。つまり、堂々巡りを繰り返し続ける心ということになるでしょうね。  なぜそのような心が必要かといえば、凡夫は一定に定まることが出来ないから凡夫なのです。自分の愚かさに気づき(信機)、阿弥陀仏の教えを信じた(信法)としても、凡夫は愚かなものですから自分の愚かさを忘れ、また傲慢に振舞ってしまう。そんな傲慢さにまた気づく(信機)、気づいたはずの自分自身の愚かさを忘れてしまった自身を阿弥陀仏は救ってくださる(信法)となるわけです。少なくとも私はほとほと凡夫と見えて、一回で別れといわれてもなかなかそうもいかないんですよね。けれど、そこまで見越して阿弥陀様は『無量寿経』十八願に「信楽」、お釈迦様は『観無量寿経』には「深心」とおっしゃってくださっているのだと思いますよ。つまり深心は、「深まり続ける心」という言い方も出来るかもしれませんね。 >>《そういった自覚の問題からも、悟ることなどかなわないという結論に至ります。》とのことですが こういうふうに考えることはできませんでしょうか。つまり《悟ることなどかなわない》でありつつ 《悟ることが約束されているし わたしは そのことを信じている。つまり 阿弥陀仏に帰依している》という状態です。  私の表現が悪かったのでしょうかね。「悟ることなどかなわないという結論に至ります。」というのは娑婆においての話が前提であることをお忘れなく。  ですから、「《悟ることなどかなわない》でありつつ 《悟ることが約束されているし わたしは そのことを信じている。つまり 阿弥陀仏に帰依している》という状態です」というのは、それで間違いではない思います。娑婆においては悟ることはかなわない身であるからこそ、浄土における悟りを目指すというのが、浄土教を信仰する者の思いですからね。ただ、表現の問題はあるように思います。細かいことを気にしてすみません。 >>ということは いまの循環の過程で 凡夫の自覚が浄土への道を歩ませているのか それとも 信心決定によってこそ歩んでいるのかの問いになります。むろん 後者だと思うのです。前者であれば それは 聖道門となります。  凡夫の自覚は聖道門で信心決定は浄土門ということですか??意味がよく分からんのですが?なぜ、凡夫の自覚は聖道門になるのでしょうか?? 確かに親鸞聖人は往生の原因となるのは信心であるとしていますが、信心のうちに「深心(信楽)」の中には凡夫の自覚が含まれていますよ。 凡夫の自覚というのは浄土門と聖道門を分ける上での大きな特徴であると思います。それは、法然上人が凡夫の自覚が説かれている「深心」を非常に重要視しています。それは『十七條の語法語』のなかで、 導和尚深心釈せんがために、余の二心を釈したもうなり。経の文の三心を見るに一切、行なし、深心釈にいたりて、はじめて念仏の行をあかすところなり。 と説いて、善導大師は「深心」を説くために他の「至誠心」「廻向発願心」二つの信心を説いたとしています。その理由として、善導大師は『観経疏』において三心を解釈するとき深心釈の中にのみ正行(直接阿弥陀仏に頼む修行法)・雑行(阿弥陀仏とは直接関係のない修行法)を明かして、阿弥陀仏の本願にある念仏を称えることを勧めていると指摘しています。 また深心を重視するのは、深心は三心の中でも他の至誠心や廻向発願心とは一線を画する信心であるといえます。至誠心と廻向発願心は、浄土教でない自力聖道門の仏教であったとしても持つべき心です。仏道を修行するに当って裏表のない真実心(至誠心)を持つことは必須であり、その真実心がなくては悟ることはできないどころか、本当の意味でも仏道修行すらできません。また全ての仏道修行者に随喜して自他の積んだ功徳を、すべての者を救うために廻向する(廻向発願心)といったことが行われます。浄土教においては、阿弥陀仏に対してという限定つきではありますが至誠心という真実心を持つことを説き、廻向発願心には浄土へ向うための廻向と共に、浄土往生して後の衆生を救うための廻向が説かれています。このように「至誠心」と「廻向発願心」は浄土教でなくても仏教を信仰するものは持つべき心です。確かに「至誠心」にしろ「廻向発願心」にしろ、厳密に言えば聖道門と浄土門の解釈は全く同一ではありませんが、その意味するところは異質のものではありません。 それに対し、「深心」は浄土教特有の心といえます。なぜならば、自力聖道門においては「悟ることができる」という肯定が前提にありますが、浄土教においては機の深心たる「信機」において「悟れない」自分であることを自覚する否定を前提におきます。そして、娑婆において悟ることが許されない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏が救おうとしてくださっていると「信法」を説いて、一度悟ることはできないと否定されたものを、だからこそ阿弥陀仏は救い悟りへと導いてくれるともう一度否定するのです。ここでは、否定を否定する二重否定の論理が展開されています。この点において、聖道門と違う浄土門の大きな特徴が見出すことができるのです。その、浄土教の特徴を表しているのが「深心」ということになります。 >>となれば 凡夫の自覚によって念仏するという・それとしての聖道門が 信心決定という易行門によって包まれていればよいという問題になるでしょうか。  さてそれは本当に聖道門の教えなのでしょうか??私にはその辺がよく理解できません。親鸞聖人は『歎異抄』第八条において、 念仏は行者のために非行非善なり。 意訳 念仏は真の信心をもって念仏を称える者にとっては、行でもなく善でもありません。 と説いて、念仏は行でもなく、善でもないといいます。親鸞聖人はこの言葉の後に、こう続けて語っています。「わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にてもあらざれば、非善という」と説かれています。凡夫はいずれの行も及びがたき身(どんな仏道修行も出来ない身)であることを知っていても、念仏をもって、わが善とし、我が行とする心は離れがたいものです。しかし、念仏を自分のもののように扱ってしまうことほど念仏の真意から離れるものであることが説かれています。それは念仏は自分のものではなく、阿弥陀仏が法蔵菩薩の昔に本願に定めてくださった行いであって、阿弥陀仏が修した善のあらわれなのです。 また、法然上人は『念仏往生義』のなかで、 善根なければ、この念仏を修して無上功徳をえんとす。余の善根おおくば、たとい念仏せずともたのむかたもあるべし。しかれば善導は、わが身をば善根小なりと信じて、本願をたのみ念仏せよとすすめ給えり。 意訳 これまでさまざまな善根をつんでこなければ、素直に本願念仏を称えてこの上ない功徳を得ようとします。それに対して、念仏以外の多くの善根を積んできた人は、念仏しなくても往生できるだろうとあてにしています。ですから、善導は「自分はこれまでほとんど善根をつんでこなかったと反省して、阿弥陀仏の本願念仏を称えなさい」と勧めています。 と説いて、自身が善根を積んでこなかった凡夫であるという自己反省を持つことで、本願念仏に心から任せきることができると説いています。逆に、善根を積んできたと思い上がっている人は、素直に阿弥陀仏が本願に定めて下さった念仏を称えることができないとするのです。 つまり、「自分は悟ることも、悟りに向って修行することも出来ない自分である」という凡夫の自覚なくば、阿弥陀様に素直に身も心もお任せすることは出来ないということですね。これのどのあたりが聖道門なんでしょうか?? >>すなわち 《親鸞聖人が説かれるところの菩提心とは、阿弥陀仏より与えられた菩提心であって、如来の菩提心がそのまま衆生の菩提心となり、やがて極楽浄土に往生して後に悟ろうとする菩提心の徳として現れ、悟りに入ることができるばかりではなく、仏になって後は現世へと還りすべての者を救うというすばらしい作用として現れるとするのです。》 >>しかもこのとき――ここで 論理に頼ってしまうのですが―― b-hさんは 《まぁ、法然上人にしろ親鸞聖人にしろ「菩提心」という心の完成である悟りは、あくまで往生浄土して後ということになるわけです。》というふうに やはり循環過程において 凡夫の自覚という従属的なだと思いますが聖道門に一たん落ち着くというかたちを見ておられます。  もちろん浄土門の中に聖道門は内包されています。けれどもそれは、極楽往生して後の話であって、今いるこの娑婆における私は「悟ることも、それに向って修行することもかなわない」凡夫であるということになります。ですから、浄土教における聖道門は往生浄土してからであり、今現実の問題として凡夫に提示されているものではありません。しかも、その聖道門でさえ阿弥陀仏の力によるものと考えています。 >>つまり同じく 《私には測りかねることですが、念仏によってこの世で成仏できるとしてしまうほうが、阿弥陀仏の本願の御本意を無視しているようにも思います。》とです。《念仏によって成仏できるとしてしまう》のではなく 《成仏できると約束されていることを つねに 見させてもらっている》 つまり 《自分は莫迦ちんだという凡夫の自覚が つねに 信心決定のもとに 包まれている》状態は 実現していると思うのですが。  それは違和感のない言い方だと思いますよ。 >>いま 二河白道ということを思い出しました。これは 乱暴に言ってしまうなら 彼岸に到達することが――目的ではありますが―― 重要視されるのでは必ずしもなく いま 二河のあいだにあって白道を歩むということが 信じられ 約束されているということだと思うのです。もっと言うならば たとえいづれかの河に落ちても 獣に食われようが何されようが それでも 阿弥陀仏に帰依した結果であるならかまわないという今現在の娑婆での《わたし》のことだと思うのです。 親鸞聖人は『歎異抄』第二章においても、 ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほか別に仔細なきなり。念仏は、真に浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業やはんべるらん、総じても存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。 とまで言い切っていますからね。たしかに、親鸞聖人にとっては念仏がどうこうというのは二の次であって、「よきひと」法然上人のおっしゃるままにお念仏すると言うのが重要であるのかもしれません。しかし、それはなぜかといえば実際往生してみなけれ分からないということであって、この娑婆にいるものが論じることではないということではないですかね。 まぁ、私は親鸞聖人のように潔くはなれませんけどね。 >>たとえいづれかの河に落ちても 獣に食われようが何されようが それでも 阿弥陀仏に帰依した結果であるならかまわないという今現在の娑婆での《わたし》のことだと思うのです。 とは思えません。まぁ、もし私が自分の修行による善根功徳をたよれば、彼岸に向うことなどできずに、河に落ちますし、獣に食われるでしょう。自分の弱さは私が一番よく知っていますからね。そんな私のような者にはお釈迦様や阿弥陀様がお念仏の白道を示してくださって、彼岸にわたることが出来るとおっしゃるのであれば、迷う余地など残されていないというのが、娑婆における《わたし》です。そこに、「河に落ちても 獣に食われようが何されようが それでも 阿弥陀仏に帰依した結果であるならかまわない」などという殊勝な気持ちはこれっぽっちもありません。私が思うのであれば「自分自身がそれを選択せざるをえなかった、結果であれば受け取らざるを得ない」というものであって、「阿弥陀様に帰依した結果であるならかまわない」などとは思っていません。 >>凡夫の自覚ということによって 白道を探し当てるということでないことは はっきりしていると思います。《徹底的な自己反省 / 自分の心と向き合った結果の悲痛な叫び》によって 白道に就くのではない。ということは 二種の深心のうち 第二種の弥陀の願に乗ずるほうが 大事だとなります。これでよろしいでしょうか。  私は二河白道の中にはちゃんと「凡夫の自覚(信機)」が説かれてると思いますよ。旅人が逃げ場がなくなって感じた恐怖を「その時の徨怖また言うべからず。」と表現されていますが、これが凡夫の自覚ではないですかね。そしてその恐怖が襲うと同時に旅人は、 すなわち自ら思念すらく、我れ今回るともまた死なん。住まるともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を勉れざれば、我れむしろこの道を尋ねて前に向って去かん。すでにこの道有り、必ずまさに渡るべしと。 意訳 自分の中に深い決意が起こります。 「私は東の荒野へ引き返しても死ぬことが決まった。ここに止まったとしても死ぬことが決まっている。また、この白い道を行っても死ぬことは決まっている。どれ一つとっても死なないということはない。」 そう決意した時、 「少しでも可能性があるのならこの白い道を進んで前に向っていこう。この白い道を進むほか道はない。必ずこの白い道を渡りきってみせる。」 と決意します。そして、その決意の後に東の声(お釈迦様の声)と西の声(阿弥陀様の声)がしてくるわけです。 たとえを念仏者に当てはめるとしたら、娑婆において悟るどころか修行すら出来ない、仏教における悟りの望みを絶たれ追い詰められた凡夫が、その凡夫であることにうなずけるからこそ、お釈迦様の声や阿弥陀様の声を素直に聞くこともできますし、そんな凡夫を救ってくださる阿弥陀様の教えのありがたさをいただくことが出来るんだとおもます。 だからといって、「阿弥陀仏の教えを信じること(信法)」より「凡夫の自覚(信機)」のほうが大事ということをいう気もありません。両方が同じくらい大事なんです。どちらが欠けても、浄土教は成立しません。 ただ、「信機」をもって「信法」と段階的に説いているのは、浄土教帰入以前の段階を説いているものであるといわれています。しかし、浄土教帰入後であったとしても、どちらかが大切になることはありません。前述したとおり、その両方が作用しあい「深心」となるのです。 >>もし妥当でしたら 歓び踊り 世間に踊り出て行ってもいいように思うのですが。未完成・不完全ゆえ 浄土に遊ぶことができると信じられると思うのですが。この目で はっきりと 未だに仏を見ていないゆえに 深心・信心であり これによって背中を押され促されるでしょうか。  ちょっと文意が読みきれなかったのでおかしな回答かもしれませんが・・・(どの質問に関してもそうかもしれませんけどね)  私は自分が信心決定できているというのは、傲慢なことのように思えてなりません。ただ、お釈迦様や七高僧や親鸞聖人のお言葉に触れていると、私にも信心なるものがあるかもしれないなどとは思っています。それが私の信心です。ですから、それが世間に躍り出ているとは思えません。けれども、外から見れば躍り出ているように見えることがあるそうですよ。何だか、おかしいですね?もし、躍り出ていたならば素敵なことだとは思いますが、少なくとも私にはそんな風には思えません。  「未だに仏を見ていないゆえに」っていうのは、自分の中にってことですかね??もしそうではないんだったら、ちょっと足元をすくうようで申し訳ないのですが、善導大師も法然上人も親鸞聖人も、三昧発得されたときに阿弥陀さんを見てますからね。仏様を見てたってご信心ですよぉ。 また調子こいて書いていたら長くなってしまいました。ほんとにすいません。もっとコンパクトにまとめられるようになりたい、今日この頃。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

★《娑婆において悟ることが許されない凡夫》 ▼この自覚の問題からも離れ 《存在することが許されていない》を通り越して さらに《存在していてもよいし していなくてもよいとして扱われた場合》です。こういう場合 たいていは ひとりふたりは 声をかけてくれるものです。しかも これをも とおり超えた場合はありえないでしょうか。 ★有能で善根だという自己を否定し その自己否定をさらに否定してくれる二重否定の力としての浄土門 ▼もう これにも引っかからない場合です。 ひょっとしたら これは ためにする議論であるでしょうか。ご判定いただけますでしょうか。伏してお願い申し上げます。

noname#80116
質問者

補足

法爾自然なる愚禿さま ご回答をありがとうございます。 信仰類型にかんする試論が思い浮かびました。ご披露致したいと存じます。(脱法爾自然なるbrageloneの 信の構造をご披瀝致します)。 まづその前に 《「唯除五逆誹謗正法」》の不要についておしえていただきました。ありがとうございます。明らかに納得しました。重要ですよね。あまり気にせずに出してしまっていましたので 恥ぢ入っています。 そして軽く 字面にこだわって上べの議論から始めます。 ★「自分は悟ることも、悟りに向って修行することも出来ない自分である」という凡夫の自覚なくば、阿弥陀様に素直に身も心もお任せすることは出来ないということですね。これのどのあたりが聖道門なんでしょうか?? ▼ここでは聖道門が浄土門に包まれていることを前提にしてですが 《自覚する》ことも 《念仏し帰依する》ことも わがはからいによるものです。《非行非善》と言っても わが意志は介入します。つまり その意味でのはからいは これも 浄土門に掬い取られた人間の能力行為(――その限りで聖道門――)だということの確認です。 ★そんな私のような者にはお釈迦様や阿弥陀様がお念仏の白道を示してくださって、彼岸にわたることが出来るとおっしゃるのであれば、迷う余地など残されていないというのが、娑婆における《わたし》です。そこに、「河に落ちても 獣に食われようが何されようが それでも 阿弥陀仏に帰依した結果であるならかまわない」などという殊勝な気持ちはこれっぽっちもありません。私が思うのであれば「自分自身がそれを選択せざるをえなかった、結果であれば受け取らざるを得ない」というものであって、「阿弥陀様に帰依した結果であるならかまわない」などとは思っていません。 ▼これも すべて 浄土門を基盤にした考え方であり行動であると確認させていただければ よいわけです。(もし 浄土門の中でも いくらか 行き方の違いがあるのでしたら 基本的なものについては おしえていただけますか)。 ▼けっきょく 問題は――信の構造にとって―― 《信機と信法》との区別・それらは同等であるか あるいはそこに優先順位があるかになると思います。 ▼そしてさらには 信法にしても信機にしても これらをわたしたち人間が 納得して 反省したり選び取ったりするのかどうかです。つまりこの後者は 誰が選ぶのかです。 ▼誰が選ぶのかで わたしの場合は 《脱》法爾自然となります。 (法を超えるものはないとも言えるとは思いますが 阿弥陀仏なる法を捉える人間・その主観を超えるものは 想定できると考えます。つまり 誰が言うのでもない阿弥陀仏ということになると思います)。 (脱主観・超客観の阿弥陀仏は これこれであると示すことは出来ませんが あれそれではないと言って 話し合うことが可能です)。 ★仏教における悟りの望みを絶たれ追い詰められた凡夫 ▼この凡夫つまりわれわれ一人ひとりが そこで《出離の縁無し》と内に省みてその凡夫の自覚によって念仏に導かれるという場合が 一般にあるとまづ思います。これが 浄土門の内側なる聖道門です。(きっかけとしてだけの聖道門ですが)。 ▼そのほかに 《阿弥陀如来も神も仏もないのか。なぜわたしは見棄てられたのか》と身も心も錆びつく場合があるのではないでしょうか。文字通り錆びつくのだと考えます。 (これは わかりやすい事例は 人びとから無視された場合です。誰とも話が合わなくなった場合です。いっさい言い分を提出することが適わないという状態です)。 ▼いえいえ 出離の縁があるかないかを超えている状態です。つまり いっさいの聖道門は断たれています。浄土門のきっかけとしての聖道門もです。しかも ここに 超阿弥陀仏なる阿弥陀仏の声を聞くという場合があるのではないでしょうか。反省もへちまもないのです。わがはからいも能力も努力も潰え去り 何かが問題になるということもない状態です。 ▼ですから「信機」をも「信法」をも超えてしまったと考えるのです。善良なる市民としてふつうに生きてきたが いま 自分は あたかも十字架上にはりつけになっていると やっとの思いで覚えるのみという事態 これは あると思うのです。 ★凡夫→その自覚・念仏→「即特往生」→凡夫の過ち→念仏→・・・ ▼このらせん状の「深まり続ける心」の過程――ちなみに 《 Si fallor, sum.( If I err, I am. あやまつならば我あり / 欺かれるならば我あり)》と捉えることが出来ると思います―― このふつうの人間の生の歩みから もはや脱線してしまっているという場合が いまの脱法爾です。精確には 法爾の中にあって その法にかんするわが主観を遥かに脱し超えている場合です。

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     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)は?

     ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)は いくら梵我一如と言っても そのオシエにおける概念としてのみ持たれているに過ぎないのか?    つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。  つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか?  次のようなご見解に接してこの問いを取り上げるものです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~  梵我一如については仏教でも説かれていますが、バラモン教のものとは一線を画します。  前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。  詳しくは西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」という二本の論文を参照してください。  (☆ これは 出所をあきらかにしても差し支えないものと思います。   【Q:空海と景教の関係】回答No.8   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8697822.html    ご文章は 取り急ぎの作成になったもので それを引用するのはかえってこの引用者の落ち度になるのですが つかわせていただきました)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  参考:  ■ 西昭嘉:「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」~~~~~   http://ci.nii.ac.jp/els/110002912913.pdf?id=ART0003260118&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1406954848&cp=  (§ 4 結語 pp.34-35)  原 始仏 教 聖 典 に 説 か れ る ウ パ ニ シ ャ ッ ド的 表現 に つい て , 中村氏は     「最初期 の 仏 教 はバ ラ モ ン 教の 優勢な    雰 囲気 の な か で は こ よ うな 説 き か た を    しな けれ ば な ら な か っ た 。     しか し仏 教 が ひ ろ が り さ か ん にな る に    つ れ て こ の よ うな 配慮は 無用 に な っ た 。    だ か ら聖 典 の 散 文 に お い て は〈ブ ラ フ   マ ン へ の 乗物〉とい うよ うな 語は 現 れ な く   な っ た 」(17 )       (17):『中村 元選 集 』 〔決 定版 〕第 15巻     「原 始 仏教 の 思 想 1 」 (春秋 社 , 1993年 )P.68.  と主 張 して い るが ,む しろ 散文 に な る と attan と brahman の 関係が 定型 句 に な る ほ ど繰 り返 し説か れ る よ うに な っ た と考え る べ きで あ り, 我々 は 原始仏教の 悟 りの 境地 がウ パ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 と類似 して い る こ とを認 め ざ る を 得な い 。   け れど も原 始仏教 が 説 く悟 りへ の 道 は 実践 道で あ り, BRhadaraanyaka-UpaniSad に おい て ,Yaajnavalkya が USasta-caakraayana た ち に 対 す る atman の 説明 (18)の よ うに ,     (18) BRhad Up .III, 4.i,2,  形 而上 学的考察 に 基 づ い て 悟 りを 求 め る も の で は な い の で あ る か ら, た と え原 始仏教の 悟 りの 境 地 とウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りの 境地 が 同一 で あっ た と し ても, 悟 りに 到 る道を 区別 して 理 解す べ き で あ ろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。