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釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

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回答No.5

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。 >>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?  そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。 >>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。  菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。 1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ 2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ 3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ 4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。 >>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。  私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。  この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。  しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。  確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。 >>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。  「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。 >>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。  この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。  個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。  また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には 「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない) というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。  お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。  思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。  合掌 南無阿弥陀佛

nossoripig
質問者

お礼

詳しく回答して頂き、真に有難うございます。 回答から察するところ、浄土真宗系の御方とお見受けいたします。私は仏教に興味を持ち始めたばかりですので、大乗仏教に対して正しい解釈が出来ていないと感じています。曲がった解釈に対して忠告してくだされば、幸いです。 >ここで言う釈迦は修行時代ということですよね?? 「修行中の身であることが菩薩の条件」と考えて質問致しましたし、又仏であっても下化衆生を行っていた釈迦は菩薩とは言えないのか?(逆に考えると菩薩は仏になれるのに敢えてならないだけで、それなら仏と変わらないのでは?)それならばなぜ仏になる必要があるのか? という風に考えて質問致しました。 「釈迦は菩薩の仕事はしていた」「釈迦はもともと仏だった」(mmkyさんの回答より)と「菩薩は参考修行を続ける向上心と衆生の間に交わる親近性がその特徴」「菩薩は機動性に富んだ仏」(ANo5のneil2112さんの回答より http://oshiete1.goo.ne.jp/qa651066.html )からなんとなく解釈出来ました。 >大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。 >他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。 成る程、仏教にも大乗部と上座部の両方の考えを取り入れた宗派が生まれても当然ですよね。そういう柔軟性も仏教の魅力の一つでしょうか。 >梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。 >天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 (中略)この言葉は成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。 この二文、相互的に考えても論理的で非常に分かり易かったです。参考になります。 私もbaka-hageさんに習い、柔軟に考えてみようと思います。

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