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ほにゃらか形而左右学 檻と機械

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.9

fishbowl66さん ひとこと 補わせてください。 類と個とは別です。《祖先から子孫へ類としての人つまり拡げて人類 この人類としてのDNAをつうじての永続》と そして《個人が始めと終わりのある線分としての時間を生きる存在だということ》とは 別です。 個人の時間的存在であることに 誕生以前と死後との時間を加えて あたかも永続性を持たせても 人類の生命としての存続とは 基本的に別です。 違いは いくつかあります。二点挙げます。 個人の〔想定としての〕永続性と人類のそれとを同一だとすれば 個々の人格の尊厳が薄まります。個々の人は 人類の永続性のもとに 互いにかけ替えのできる存在と見なされかねません。類が存続するから わたしは死んでもだいじょうぶと言いかねません。(そういう思想があるという場合には 常識による検討が必要でしょう)。 類の存続も 個のいわゆる霊魂としての永続性も 経験世界での出来事です。自然科学による検証の対象であるかたちで前者が そうであり 後者は 現在のわたしの信念といったかたちの現実としてです。 不死なる永遠は これらと別でしょう。しかも かかわりを持つという思想が 出て来ているという人類の情況です。なぞの問題です。 

fishbowl66
質問者

お礼

brageloneさん、驚かせてしまったでしょうか。 前回のご回答の、宗教的な表現を、私の科学的?な表現方法でお礼を書いてみました、大変硬い岩盤に当たった、トンネル工事ですね。 私のような無学の人間は、本を読んでも何かしらの色眼鏡が外せなくて、解らない部分を無視して、自分の考えに都合の良い所ばかりをせっせとメモしています。 身体を基礎づける各細胞は、タンパク質やカルシュウムを要求しますが有機体の集合としての生命は、食べられる木の実や捕食物を要求し、人間は、ある意味「記号」を食べています。 違うとも言えますし、同じとも言える、本当に謎ですね。 これについては奇妙な事がある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のために土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまで幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、自らの素質を完全に発達させる域まで到達させる事ができるのである。 (『世界市民という視点からみた普遍史の理念』カント 中山元訳) 色眼鏡で見ると、ベルクソンは元より、ヘーゲルにも同様な考えが見られます。 今回の質問の根本に「内外」の問題が有ったかも知れませんが、今、書きながら気が付きました。 長文のお礼で、大丈夫かな、失礼しました。

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