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幕末の侵略思想

江戸の後期から末期にかけて、欧米帝国主義への危機意識を背景に佐藤信淵や島津斉彬らの粗豪な大陸論が雨後の筍ように出てきますが、その破天荒な侵略的性格はどこからくるのでしょうか。

noname#40588
noname#40588
  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • cse_ri2
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回答No.3

まあ、現代人の目から見れば確かに粗暴ですけど(苦笑)、しかし粗暴と言い切るのは、当時の時代背景を何も知らない無知からくるものです。 江戸時代の知識人の教養は、ほとんどが漢籍から来ています。 それは儒学を始めとする中国古典であり、また中国の歴史書であるわけです。 島津斉彬みたいに西洋の学問に通じる人もいましたが、これは当時では少数派に属します。 さて、中国の歴史を少しでもかじると分かりますが、かなりの部分が戦乱と領土の取り合いの歴史です。 つまり、中国の歴史に通じているということは、戦国乱世をいかに生き延びるかということと、同意義なのです。 そういう観点で見ると、海に囲まれた日本を外敵から守るには、こっちから進出しなければいけないというのは、ごく理にかなった考え方です。 国際法による秩序が進んだ今と違い、当時は武力で侵略することがタブーではありませんでしたし、そもそも先進国である西洋列強が進んでそれを行っていました。 実際にそれができるかどうかは別にして(まあ、当時の和船では不可能に近かったですが)、理論としては成立すると思います。 それから、幕末の少し前の寛政時代、その後の日本の混乱を予想した警世家に林子平という人がいました。 まあ、あまりにも先見的すぎて、寛政の三奇人に数えられるような人ですが、この人の書いた三国通覧図説には、ロシアの南下を牽制するために、いち早く蝦夷地(今の北海道)を抑えるべしといった主張があります。 幕末に西洋からの侵略に危機感をもった人の多くは、林子平の著作も読んでいたと思われますから、この思想の延長上で、大陸や南洋に進出すべしといった考え方が出てきても、決して不思議ではないと思います。 過去には、過去の事情があります。 過去の歴史的事実を現代の価値観で裁断するということは、思考実験としては面白いかもしれませんが、それを歴史評価として定着させることについては、私は乱暴な考え方だと思っています。

noname#40588
質問者

お礼

詳しい説明ありがとうございます。 >この思想の延長上で、大陸や南洋に進出すべしといった考え方が出てきても、決して不思議ではない というのは理解できますし、情報不足から自国を世界に対して相対化できてないことも想像できますが、それだけではあの破天荒な大陸論の説明としてもうひとつ物足りない気がします。 最後のご意見は全く同感です。 まだ国学思想の影響に触れた方いらっしゃいませんが、どなたかお願いします。

その他の回答 (3)

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

私は#1さんから#4さんまでの意見に概ね賛成いたします。 こんなことを考えたことがあります。開国以降の弱肉強食の超不安定期に日本が植民地化されなかったのは、日本が千年にも及ぶ軍事国家だったからなのではないか。#4さんのご指摘のように、軍人(武士)として育まれた者には生き残りに対する深刻な思索と経験の蓄積がある。それとは対照的に、隣の国の旧朝鮮は千年以上に渡って科挙の制の基づいた安定したシビリアンコントロールをして来た。軍人の直感を持たないこのシビリアンコントロールが原因で、朝鮮は当時西洋に範を垂れた弱肉強食の世界のなかで赤子が手をひねられるように簡単に植民地化されてしまったのではないか。 日本と旧朝鮮のたった二つの事例だけでここまで言って良いかどうかは判りませんが、あまり無意味な仮説だとも思えません。どんなものでしょうか。

noname#40588
質問者

お礼

日本が危機意識に敏感だったのはおっしゃるような背景があるからだと思いますよ。 質問に「欧米帝国主義への危機意識を背景に」と書いたのは、幕末の大陸論がヨーロッパみたいに収奪のための侵略ではなく、危機意識に基づく海外経略論だという(個々をみるとかなりアグレッシブですが)、私なりの目配せのつもりではあるのです。 No.4までの方が触れた大陸論が生まれる背景ではなく、それが持つ攻撃性とか突拍子もない部分への考察が伺いたい部分なので、それにかなうご意見ありがとうございます。 ↓この記述のおかしさやアンバランスさは私にもわかりますよ。 http://en.wikipedia.org/wiki/Sat%C5%8D_Nobuhiro

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.2

あーた、もちょっとグローバルにモノを見なきゃあ。当時列強と呼ばれた国は全て植民地を持つ国でした。植民地を持たなければ、どこかの列強国家に植民地にされるのが普通です。植民地も持たず、植民地にもされない国はタイや日本などのごくごく一部の国だけです。当時の世界は草食動物を食べる肉食動物と、肉食動物に食べられる草食動物しかいなかった世界なんですよ(一応断っておきますが比喩表現です)。食べられたくなかったら、肉食動物になるしかなかったんです。 太平洋の向こうはアメリカだし、南のフィリピンやインドネシアは既に列強の植民地、北のシベリアはもうロシアのものですから、あとは西に朝鮮半島か中国大陸くらいしか「日本が取れそうな場所」はなかったんですよ。

noname#40588
質問者

お礼

No.3の人はどんなこと言ってましたか?もう一回出てきてくれないかなあ。私だってある種のひとが「侵略思想の源流」とかいって幕末の大陸論を近代日本の侵略性の濫觴のように取り上げるのは快くおもってないんだけどなあ。

  • kantansi
  • ベストアンサー率26% (658/2438)
回答No.1

決して破天荒ではないですね。 大国・強国になる為には広大な国土と、多数の国民が不可欠であると言う自明の理があるからです。 日本の先達たちもそのために、有史以来何度か支/鮮への進出・併合を試みましたが、最終的に第二次大戦で破れ極東の島国に押し込められ、大国への夢は立たれてしまいました。 幕末の頃はまだその夢がかなえられる可能性があったのです。

noname#40588
質問者

お礼

使用した字についてちょっと説明します。 「粗豪」は明治中期の佐藤信淵の伝記で、著者が彼の大陸論を形容していた言葉を借用したものです。佐藤信淵みたいな問題のある人物を顕彰する本ですら、彼の大陸論は「粗豪」といわざるを得なかったようです。 「破天荒」は徳富蘇峰が『吉田松陰』の中で本多利明の北方経略論を「これ実に破天荒の卓識といわざるを得ず」と皮肉ったのを借りてきたものです。

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