• 締切済み

ビデオの法則

すみません。哲学っていうかわかりませんが、「ビデオの法則」っていうのを考えました。意見を聞かせてください。 ビデオの主人公は何回見ても同じ行動を取り同じ結末に行きつく。 なぜか? ビデオだから。 まあ当然の答えですが、ここを少し深く考えました。 ビデオの主人公のビデオの始まった時点の心境や体調は毎回同じです。 当然ですね。 これはビデオの主人公の「初期値」は毎回同じということです。 そして、ビデオの主人公がその物語で見聞きすることや感じることは毎回同じ。 これも当然です。 これはビデオの主人公への「入力」が毎回同じということです。 ここから『ビデオの主人公の「初期値」と「入力」が同じなら、同じ行動を取り、同じ結末になる』と言えます。 まあ、当り前のことですが。 ですが、これを実世界の人間にあてはめると、ある人間の初期値と入力がその人間の人生を決定することになります。 人間の初期値というのはおおざっぱに言うと生まれた時点での脳と体です。入力というのはまあ環境のことです。 ようは生まれた時点で全く同じ人間でかつ、同じ環境で育てば全く同じ人間になるということです。 まあ、当り前のことです。 ここから何が言いたいかというと、自分の初期値は自分で決定できないですよね。かつ自分への入力(環境)も自分で決定できないですよね。 初期値は運によって決まりますし、環境も運によって決まります。 ということは今の自分のアイデンティティも運によって決まっていることになります。自分ではどうしようもない部分です。 性格の悪い人も犯罪者もそうなった原因は初期値と環境にあります。 よくテレビでコメンテーターが犯罪者を「こんなことやる人間は信じられません。ほんとに死刑になって当然です。」というように罵っていますが、この理論で言うと、そのコメンテーターもただ運がよくて犯罪を起こさなかっただけです。そのコメンテーターがもし仮にその犯罪者と同じ初期値で同じ環境で育てば絶対に同じ犯罪をしているはずですから。 「ビデオの理論」から言うとその犯罪者は「弱い人間として生まれ、悪い環境に育ち、犯罪を犯して死刑になる」という内容のビデオの主人公になるはめになって運が悪かったね同情されるべきではないでしょうか。 犯罪者を擁護する気はないので、やはり同情というのはおかしいと思いますが、やはり運が悪かっただけということはいうべきです。 人を憎んで罪を憎まずと言います。これは、罪事態はもちろん悪いことなので憎むべきだが、それを犯した人はただ運が悪いだけなので憎むなという意味なのではないでしょうか。 人生は運ではない、私は努力で今の幸せを勝ち取ったと反論する人もいるでしょうが、その人はただ単に「努力できる性格」を初期値と環境から授かっただけなのです。「努力できない性格」を授かった人は「努力できる性格」になるよう努力することもできない不幸な人なのです。 ですから、ダメな人間の原因は浅い意味では自己責任と考えることもできるが、深く考えると完全に運が悪かったということになります。 私はこのことを考えていると、世の中のすべての犯罪者はその人自身はなにも悪くなく運が悪かっただけで、世の中のすべての偉人はその人自身がいい人だったわけでなくただ運が良かっただけなのだという結論が頭に浮かんでしまいます。 私の好きな歌にこんな歌詞があります。 「いい人ばかりじゃないけど、悪い人ばかりでもない。」 世の中にはいい人、悪い人ではなく、運のいい人、悪い人しかいないという意味に思えてなりません。 私は間違っているでしょうか?みなさんの意見を聞かせてください。

みんなの回答

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.17

いわゆる「カルマ」論を持ち出せそうな御質問という印象です。 実際、日常で使用されている「ビデオ」というものを、こうした御質問内容で用いるのは、「たとえ」としてであっても些かズレや違和感を感じないでもないのですけれど 小説家作家というものは、その作品世界においては全知全能、神に等しい存在であると言われます。 しかし、その作品の作者においてすら、自分が万全の設定のうえ産み落とした登場人物たちを思うように動かせない、という嘆きを現役作家が洩らすのを耳にしたことがあります。 私は、とくに専門といえるものがなく哲学にも数学科学物理等の理論にも全く疎いですから至って素朴なことしか申し上げられませんので気楽に御聞き流しくださいね。 >他の人から見て明らかに損な行動をとっている人は? その人の主観では一番得だと思うからやっているのです。 この「主観では」と仰るのは、飽くまで精神的な満足ということでしょうね? >犯罪被害者が加害者のことを悪く言ったり復讐するのは悪いことではないと思います。 ですが、コメンテーターのような第三者が「あいつは悪いやつだ」というのは違和感があります。 なぜならいい人、悪い人というのは客観的には存在しえないと思うからです。 「客観的」というのは特定の立場を離れるということです。ですから直接の利害のない「第三者」ならでは一番その「特定の立場」から遠くありやすいということになりますね一応は。 また「第三者」が実被害を受けた者を差し置いて加害者側を「あいつは、いいやつだ」と言う場合もあります。 実は「第三者」というものの直接の利害のなさというのは、直接関係した者と比べて情報の確かさ及び情報量の如何に致命的な弱点を孕んでいるのではないかと思います。 ですから「第三者」即ち「客観的」なのではなく、確かな情報と情報量を確保したうえで尚且つ特定の立場を離れる、こうした条件をクリアできていなければ「第三者」であっても「客観的」足り得ないでしょうね。 >この理論は善人が実は偽善者でしかないと力説するような 「偽善」というのは普通は、自分一個の利益を図っているに過ぎないのに、しかも往々にして自分以外の人にとって不利益になるようなことだからこそ、さも相手側の利益を図ってあげているかのように敢えて見せかける(そのことに無自覚であることも含めて)ということです。 >人類の第一目標は種の保存だからです。 >私たちがしたいことをすれば人類の目標に貢献できるのです。人類の遺伝子がそのように伝わってきたのですから。 >自分の得だと思うことをしろということです。 今までの人類の進化が正しければ自分の得なことと社会のとくなことが一致するような性格になるよう教育がなされているはずですから。 もちろん教育一般において、「自分の得」と「社会の得」が一致するようにという少くとも努力はなされているのではないのでしょうか。 ところで他のかたがたへの補足を取り上げて失礼かもとは存じますが、ここまで御質問者様御自身が述べられたところを通しで振り返ってみて、なんとなく矛盾してる、筋が通らない感じに気づかれませんか? 「私たちがしたいことをすれば人類の目標に貢献できる」 「人類の遺伝子がそのように伝わってきた」 であれば、「コメンテーターのような第三者」も「自分の得だと思うことをしろということ」を実行しているに過ぎないのではないでしょうか? >犯罪が悪いことかどうかを突き詰めて考えていくと「戦争は犯罪か?」や「発展途上国に対する経済的搾取は犯罪か?」「人間以外の動物を殺すことは犯罪か?」など自分自身も実は犯罪者ではないかという意見にたどり着き頭が痛くなってきてしまいます。 「私たちがしたいことをすれば人類の目標に貢献できる」 「人類の遺伝子がそのように伝わってきた」 のであれば、また、客観的な善悪など存在し得ないとするならば、そもそも「犯罪」などと分類されるものはないことになります。 「戦争」であれ、いわゆる弱者に対する「搾取」であれ「動物を殺す」ことであれ全て人類の(何か知らないけど)目標に貢献しているはずということになりますね。なにしろ、そういう遺伝子に動かされているというのですから。してみれば御質問者様は「頭が痛く」する必要もないはずです。 ところが現実には「頭が痛」い、つまり「戦争」「搾取」「殺し」等々を「犯罪」と名づけ「犯罪は悪いことかどうかを突き詰めて考えていく」べき問題なのだという遺伝子もシッカリ伝わっているのであるということになります。 これは私の個人的な経験談です。 私は若い頃そうとうなネボスケ遅刻魔でした。 ある日も相変わらず家を出る時間が遅れ「ああ、もう5分早く出ていたら」と、これも相変わらずのことを思いながら駅に駆けつけ、5分ぶん遅い電車に乗り込み5分ぶん学校に遅れて着き、校門そばで待ち構えている校長先生に「これこれ、またキミか、急ぎなさい」とアタマをぽんぽんされるのです。運の悪い私。 ある日も、もちろん5分ぶん遅れて駅に着いたところ、なぜか、その日は遅刻せず着いたのです。それどころか予想外に早い時間に着いた。お陰で校長先生にアタマぽんぽんも免れました。ラッキーな私。 あとで分かったのですが、その日は、どこか途中の駅でアクシデントがあり、私が、いつも乗り込む電車よりも一本早い急行電車が私の乗車駅で定刻より遅れて待機していたのでした。その日の私は、その急行電車に乗り込んだというわけです。 私がネボスケ遅刻魔なのは、そういう遺伝体質だから、だからいつも遅刻する。でも遅刻しないことだってある。いつもと同じ時間に出たにも関わらず。 私が自分の遺伝体質やら初期入力やらに従って、いつもどおり行動しても、私以外のものが、いつもと違うことをして、そのためにいつもとは違う結果が出る。 そして時が流れ、いまの私は職場で誰より早く出社する、と上司に感心されるような社会人となりました。まあ、ここまで来るのに長らくの紆余曲折はありましたけれど。 ず~っとネボスケ遅刻魔の私で当然。だって遺伝体質や(両親は基本的に遅刻しない人たちでしたが)初期入力で決まってたんだもの。 遅刻魔でなくなった私。だって遺伝体質や初期入力で、やがてそうなるって決まってたんだもの。 また元の遅刻魔に戻ったら、それも遺伝体質と初期入力で決まってることなんだからアタリマエ。 だったら世のなかの困っちゃうようなことが一切起こらないように、あらかじめと、遺伝子操作とかすりゃいいじゃん、ということになっていくのでしょうか。 子ども産む前にも、まずは遺伝子とかから検査は当然、もしヘンな遺伝子持ってそうな子どもが宿ったら即抹殺、親の性格、思想信条、経済力その他諸々、準備万端、万事安全。それなのに。 それなのに、この先どうなるかなんて知れない。 なるようにしかならない。 なってしまったら、「そうだったんだね」。 知れないから自由。 知れないから、いろいろ選んでみるし、やってもみる。 それだけのこと。 知れない、ということに鍵がある。 のではないでしょうか。

Ryo0617
質問者

補足

>>他の人から見て明らかに損な行動をとっている人は? その人の主観では一番得だと思うからやっているのです。 >この「主観では」と仰るのは、飽くまで精神的な満足ということでしょうね? はい、まさにその通りです。 >実は「第三者」というものの直接の利害のなさというのは、直接関係した者と比べて情報の確かさ及び情報量の如何に致命的な弱点を孕んでいるのではないかと思います。 >ですから「第三者」即ち「客観的」なのではなく、確かな情報と情報量を確保したうえで尚且つ特定の立場を離れる、こうした条件をクリアできていなければ「第三者」であっても「客観的」足り得ないでしょうね。 はい、まさにその通りです。 私も同意見です。ただ、その厳密な定義での客観的第三者はこの世界に存在し得ないと思うので、ある程度曖昧な言葉として使用しました。 >ところで他のかたがたへの補足を取り上げて失礼かもとは存じますが、ここまで御質問者様御自身が述べられたところを通しで振り返ってみて、なんとなく矛盾してる、筋が通らない感じに気づかれませんか? >「私たちがしたいことをすれば人類の目標に貢献できる」 >「人類の遺伝子がそのように伝わってきた」 >であれば、「コメンテーターのような第三者」も「自分の得だと思うことをしろということ」を実行しているに過ぎないのではないでしょうか? はい、まさにその通りです。 コメンテーターも人類の利益のためにそのような行動をとっています。そして、それは自分のためであり、そしてブレイクショットの過程でしかありません。 問題はどのレベルで議論するかです。 上手く説明できないのですが、 「善人」のことを議論するときに、ほかの人たちが 「よい行いというのは自分がしてほしいことを他人にすることだ」とか、 「自分の利益より他人の利益を優先することだ」とか言っているのに対し、 「善人が良いことを行うのはただ単に自分が気持ちよくなりたいだけで、偽善者だ」という真理を持ち出すのは気が引けるので、ある程度議論のレベルを変えて、 「自分の利益より他人の利益を優先するなんてすばらしいことだ」といったようなものです。 なんというか、古典物理学で話をしているのに相対性理論を持ち出すべきではないというような考え方です。ですので、矛盾がでるのは当たり前です。 ただし、未来が確定して運命は存在するという真理以外はまだ自分の中でも曖昧なのでいろいろnoname002さんが違和感に感じるようなことがあったかもしれません。反省してます。 >知れないから自由。 >知れないから、いろいろ選んでみるし、やってもみる。 >それだけのこと。 あるレベルではそれもまた正しいのかもしれません。

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.16

Ryo0617様、 大変面白い発想ですね。 しかし、Ryo0617さまの考える世界は、私の考える世界とは少し異なります。 初期値とは脳と体(遺伝子)、入力とは環境であると述べていらっしゃいますが、私はそうは思いません。 初期値はその本人の持つ「徳の量」です。つまり人格です。 人格つまり人間性は与えられたものではなく、自分自身で獲得したものです。 自分の意思で選択し、その結果をふまえて努力し、自分を向上させ、獲得した現在の自分の人格が現在の初期値です。 それぞれ初期値が違うので人は同じ状況でも違った選択をします。 では脳と体は・・・ それはその人の初期値(徳質)が現在の自分の値に最も相応しい脳と体を選ぶのです。 そしてさらに自分自身の初期値(人格、徳の量)に最も相応しい親、兄弟、国籍、環境を選びます。 現在の自分は過去世、現世をもひっくるめた自分の徳の量を体現しているのです。 この最も過去世からの集大成である、現在の初期値によって決定されたスタートラインから、今生の人生が始まります。 さあ、ここからは自分自身の意思の選択によって人生が作られていきます。 見劣りのする脳と体しか獲得できなくても、やりようによってはすばらしい人生を作り出すことが出来ます。 すばらしい人生とは心底満足と幸福が感じられる人生のことです。 それは物質的な成功だけでは得られないものです。 自分は十分に人生を生き抜いた・・ 自分に出来る限りの努力を尽くして、自分自身を向上させることが十分にできた・・・ 家族、周りの人々を慈しみ、尽くした結果、家族周りの人々から十分愛されている・・・ と感じるとき、人は幸せを実感できるのではないでしょうか。 どうすればそれが可能か? 自分にとって一番得なやり方は? それは原因と結果の法則に熟知することだと思います。 どんな行動をとれば自分にどんな結果が待っているのか、が理解できれば人はもっと賢い行動をとれるでしょう。 この宇宙全体を支配している法則・・ 物質界も非物質界もすべてを通じて働いている法則・・ その「原因と結果の法則」別名「因果応報」の法則が寸分の狂いも例外も、えこひいきも無く働いているとすれば・・ 人の本質は永遠の魂(エネルギー)であらゆる人生をとおしてその法則を体験し、向上(幸福)を目指す存在であるとすれば・・・ 人生をもっと違った観点から眺めることが出来るようになるでしょう。 絶望も自殺も無くなるでしょう。 不幸から幸福を紡ぎ出すことができるようになるでしょう。 犯罪者は法則に無知な未熟者なのです。 自分にとってどんなに不利な損な行動をしているのかがよく理解できていないのです。 劣悪な初期値から不利なスタートをしたのかもしれません。 しかし彼らも人生を何度も繰り返すうちにやり方をマスターし、少しずつ自分にとって賢い、得な選択が出来るようになるでしょう。 彼らでも何度も人生を経験する果てには人格者、聖人と呼ばれるようになる可能性が十分にあります。 それが法則ですから。 人は常に自分より人格の高い人から何かを学び、反省し、また自分より人格の劣った人に同情し、その向上のために出来る限りの協力を尽くさなければならないと思います。 さて・・自分にとって最も得な行動とは? 歴史上偉人、聖人、神、仏と呼ばれた人々が口を揃えて同じようなことを言っています。 己がしたことは必ず己に返って来る。 自分が蒔いた種は必ず自分自身で刈り取らなければならぬ。 だから自分が人に望むことを人に為せ。自分がされたくないことは決して人にする無かれ。 だから他者に奉仕する者は自分にも奉仕しているのであって、情けは人の為ならず・・・である。 また物質的欲望、執着は自分自身を苦しめることになるので自己をコントロールせよ。物質では真の幸福は得られない。 などなど・・・改めてここに書くひつようは無いでしょう。 最後に、自分が犯した罪は法的にはのがれられても、運命的には逃れることが出来ないと思います。 何らかの結果が必ず付いてきます。 それが因果応報の法則ですから。

Ryo0617
質問者

補足

非常に有意義なご意見ありがとうございます。 あなたは哲学についてしっかりとした意見をお持ちですね。 頭が下がります。 理系の私にとっては難しすぎて理解しがたいところもありますが、tokytimeさんの意見が人類にとってとてもよいなものだということは分かりました。宗教も悪いものではないなという気持ちになります。 「情けは人のためならず」 この教えがしっかりと守られている世界ならその世界はもっと有意義なものになるはずでしょう。

noname#82286
noname#82286
回答No.15

>>いや違います。人の見方です。運がいい悪いは人の座標の見方(変数)によって違うのではないでしょうか? >すみません。まだ、よく理解できません。バカですみません・・・ そうですねなんか食い違っていますね。 質問者さんの言いたい事を整理しましょう。 ビッグバーンのエネルギーで発生した我々はその経路の一部に存在していていくら犯罪者が出てこようがそれは運が悪かったというはわけですね。 ここで私が言いたいのは運が良い悪いということは人それぞれであって人Aから見たら(座標変数A)運の良し悪しと人Bからみた(座標変数B)良し悪しは違うということです。ブレイクショットの変数の違いもありますが運が良い悪いというのとは関係ないということです。

Ryo0617
質問者

補足

・・・すみません(汗) まだわかりません。 >ここで私が言いたいのは運が良い悪いということは人それぞれであって人Aから見たら(座標変数A)運の良し悪しと人Bからみた(座標変数B)良し悪しは違うということです。ブレイクショットの変数の違いもありますが運が良い悪いというのとは関係ないということです (座標変数A)という括弧が手前にかかってるのか後にかかってるのかもわからない次第です。 でもまあ、文脈からがんばって理解すると、 運が良い悪いは主観的なものであって客観的には述べられないので議論する意味がないというような感じでしょうか? それならなんとなくですが、理解でき同意できる気がします。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.14

こんにちは。 ANo.10です。 >ビデオとは、ラプラスの悪魔以上に全能な観測者を体験できる道具であり、そして未来が確定している事をこの次元で体験できる道具なのです。 ビデオというは録画された時点で決定された「過去の結果」です。観測によって変更されるわけがありません。バカも休み休みにして下さい。

Ryo0617
質問者

補足

すみません。すこし強引すぎるたとえでしたね。 まあ、本当に客観的な観測者はラプラスの悪魔ではなくビデオの中から見た私たちのような存在だということが言いたかったのです。

noname#82286
noname#82286
回答No.13

no.3.6です。 >座標変数とはここでいう初期値の意味でしょうか。 いや違います。人の見方です。運がいい悪いは人の座標の見方(変数)によって違うのではないでしょうか? NO.5.9さんの言っていることが分かりませんが私が言いたいのは不確定性原理が決してこの世が不確定であるということを言っているのではなく今のところ不確定性でしか説明できないのであって決して不確定を証明した訳じゃあありません。no.9さんも仰っているように関数の関数を発見した状態であるという事です。 またno.6でも述べておりますように理由というのが発生した段階でその理由を包括する理由が出てきます。そのように理由というのは数珠つなぎ状態になっていてその内確定的な理論は発生すると思われます。 またリベットを登場させたのは人間の自由意志という意味では決定的といってよいと思います。 自由意志(意識の介入)が現実界にどのように及んでいるかと言えば相補的でしかないのです。

Ryo0617
質問者

補足

>いや違います。人の見方です。運がいい悪いは人の座標の見方(変数)によって違うのではないでしょうか? すみません。まだ、よく理解できません。バカですみません・・・ >NO.5.9さんの言っていることが分かりませんが私が言いたいのは不確定性原理が決してこの世が不確定であるということを言っているのではなく今のところ不確定性でしか説明できないのであって決して不確定を証明した訳じゃあありません。 よかった。やはり妥協の産物だったわけですね。いつか確率論のなくなる日が来るのでしょうかね。来ないか・・・

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

難しいことは全くわからないのですが、真の意味での自由意志というものが存在するか否か、ということで感じたことを述べてみたいと思います。 Ryo0617さんは「>ダメな人間の原因は浅い意味では自己責任と考えることもできるが、深く考えると完全に運が悪かったということになります。」 つまり自由意志は存在しないとおっしゃっていることになると思いますが、ある意味では真理と言えるでしょう。 何か意志による事態の転換を実現したつもりでいても、「君はそう意志するように運命付けられていた」あるいは「君のその意志は過去の環境からの影響によって必然的にもたらされたものだ。決して君独自の自由意志とは言い難い」と言われれば、誰も否定することはできないかもしれません。 環境からの影響を脳に記憶しながら、新たなプログラムを(無論、無意識的に)組み直しつつ人の言動は決定されていくに違いないのでしょう。 そうした因果性の元を辿ってみれば、一つの卵子に向かった幾億という精子のうちの、卵子に到達し得たたったひとつの精子Aにより形成された受精卵が私たちの初期値ということになるのでしょうか。 これを運と捉えることは可能でしょうし、その前の雌雄個体(父母)の遭遇も含めて偶発的な現象と呼ばざるを得ないでしょう。 ここに何らかの必然性を見出そうとすれば宗教の領域に入ると思われるので。 そして、染色体を持ったその受精卵がその後どのような影響を受け続けて「個人」となっていくのか、ということはおっしゃるようにその後の環境が主な要因になります。 ただ、「>自分の初期値は自分で決定できない」わけですが、「自分で決定できない初期値によって今の自分がある」という自覚を持つことが可能だという点がビリヤードの球との決定的な違いであるように思います。 胎教という言葉がありますが、クラシックを聞きながら健全な母体環境で育つ受精卵もあれば、栄養が十分に取れず瀕死の状況に陥る受精卵もあるでしょう。 この世とやらに顔を出したあとも愛情に満ち落ち着いた家庭で育つ子もいれば、諍いの耐えない、時には虐待の嵐の中でかろうじて生き延びる子もいるはずです。 そのような環境の影響によって人格が形成されていくのは確かですが、肝心なことは「それもこれも自分」ということだろうと思います。 「環境の良し悪しに拘らず現在存在する者」という視点で初めて「自分」という言葉が使用できるのではないでしょうか。 Ryo0617さんのおっしゃることは良くわかりますが、それはあくまで「人間というもの」に対してのマクロ的視点でしょう。 それは、あたかも「山といっても所詮地球表面の延長に過ぎない」という真理に似ているように思います。 アイデンティティは意志(あるいは自覚)によってしかもたらされませんし、そこでは常に「現在の自分」が検討の対象になると思います。 この意味で、犯罪者は過去の環境によって作られた運の悪い人間ではあるが、だからといって彼(あるいは彼女)が「自分というもの」を主張する以上は「運が悪かった」という言葉は適用され得ない、といったようなことになるでしょう。(この意味で心身喪失者を罪に問わないという法律は妥当だろうと思われます) そこには必ず「選択」が介在していたはずですし、だからこそ我々は未来への初期値たる可能性も秘めているのだろうという気がします。 そして、この選択には自らの初期値はある程度関係するが環境の影響は(これもまた限度はあるでしょうが)超越可能ではないかと私は思います。 宇宙からの視点で見れば山も平地も似たようなものであるように、「人間とはこういうもの」と俯瞰して見れば真理であることも「私」という視点で見れば適用不可能な場合もあるということで、どちらの視点がお好みかという問題になるようにも感じます。

Ryo0617
質問者

補足

>ただ、「>自分の初期値は自分で決定できない」わけですが、「自分で決定できない初期値によって今の自分がある」という自覚を持つことが可能だという点がビリヤードの球との決定的な違いであるように思います。 深く考えればビリヤードの球と全く同じですが、ある程度のレベルで考えるとこれは非常に考えさせられる言葉かもしれません。 まあ、「「自分で決定できない初期値によって今の自分がある」という自覚を持つこと」ができるかできないかも運なわけですが。 犯罪が悪いことかどうかを突き詰めて考えていくと、「戦争は犯罪か?」や「発展途上国に対する経済的搾取は犯罪か?」、「人間以外の動物を殺すことは犯罪か?」など自分自身も実は犯罪者ではないかという意見にたどり着き頭が痛くなってきてしまいます。

noname#155689
noname#155689
回答No.11

根っからの文系な者ですから ベンジャミンリベットやらハイゼンベルグやらの話にはついていけませんが > 入力というのはまあ環境のことです。 環境は何によって決まるか?を考えると 私も環境の入力要素のひとつなのではないかと思いました。 (入力要素といっても微々たるものなのでしょうが。) つまり、私の半分は環境によって決まるが環境の一部は私によって決まる これではループしてしまって永遠に答がでないように感じてしまったのは 私に理数系知識が足りないからでしょうか? まあ、自分にとってよく分からない話はさておき 良い悪いの判断基準というのは時代や地域によって変わりますよね。 そういう意味では「良い悪いも運」のうちだと思います。 もし「初期値」と「入力」の計算式が確立され人間の行動数式が分かる時代になれば 法律や倫理、我々の価値観もガラリと変わってしまうだろうことは容易に想像できます。 ただ、今はまだその時代ではなく また犯罪や悪行を「運の良し悪し」で済ますことのできる時代でもないと思います。 ご質問者様の考え方で違和感を感じたのは まず、テレビのコメンテーターの例はあまりに卑近ではないかということ。 これはメディア・リテラシーの問題ではないでしょうか? 次に、犯罪者は「生まれ」や「育ち」に責任転換できれば随分と楽であろうこと。 そうではなく、彼らは自分のやってしまった「行為」に対して 責任をどう取るかで悩み、あるいは周囲から糾弾されるのではないでしょうか? 最後に、罪を憎んで人を憎まずですが 多くの人はその考えを否定しないであろうこと。 それでも、例えば被害者や被害者に近しい人たちは 怒りの矛先を犯罪者に向けずにはいられないことに悩むのではないでしょうか? それでも、少なくとも我々は我々の社会が平和であろうと努力する。 これは、少なくとも今は、我々の「意思」なのではないでしょうか? (例えその意思が錯覚・幻想であったとしても。)

Ryo0617
質問者

補足

やはり文系の方の意見は表面的すぎて難しいですが、 非常に癒されます。これぞ建設的な哲学でしょう。 もちろん我々は犯罪者を捕まえ糾弾すべきです。 なぜなら、人類の第一目標は種の保存だからです。 種を保存するためにはできるだけ平和な世界が望ましいわけです。 そのために警察もあります。マスコミもあります。 みんな種の保存の第一目標のために頑張っているのです。 >それでも、少なくとも我々は我々の社会が平和であろうと努力する。 >これは、少なくとも今は、我々の「意思」なのではないでしょうか? まさにその通りです。 種の保存のために犯罪者を憎み、 種の保存のために生きたいと思い、 種の保存のために別の種を絶滅に追い込み、 種の保存のためにセックスし、 種の保存のために平和を願う。 これらはすべて人間の遺伝子にプログラムされています。 ですから、私たちがしたいことをすれば、人類の目標に貢献できるのです。人類の遺伝子がそのように伝わってきたのですから。 私たちがすべきは自分のしたいことをすることです。それはけして遊びほうけろということではありません。自分の得だと思うことをしろということです。 今までの人類の進化が正しければ自分の得なことと社会のとくなことが一致するような性格になるよう教育がなされているはずですから。 なんかよくわからなくなってしまいましたが、全体的に同意します。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.10

こんにちは。 ANo.5です。回答をお読み頂きありがとうございます。 ご自分の意見が通らなければ事実を受け入れることができないというのが残念です。 >もし、そうならランダムの存在を無恥な私に証明していただけないでしょうか? 無知とは申し上げませんが、正しい解釈はひとつしかありません。 ANo.6さんは極めて独善的な解釈を述べておられますが、未来が未確定ではないという根拠が何ひとつ示されていません。これでどうしてあんな断定的な発言ができるのか私には理解できません。因みにベンジャミン・リベットが述べるのは我々脳が扱う「意思」のことであり、これは確定論とは全く関係はありません。事実として用いられるものだけを知識として頂きたいものです。 量子力学はミクロとマクロの違いを説明したのではなく、ミクロの世界での不確定性を立証したのです。 ミクロの世界では観測前と観測後の粒子の運動量と座標を同時に特定することはできません。これは、観測という行為が粒子の運動そのものに作用してしまうという客観的事実に基づくものです。では、観測という行為が行なわれなければ粒子運動量は確定することができませんので、それまでの状態は確率でしか計ることができません。従いまして、現在に現れる結果は全て未確定ということになります。そして、これが確定された時点で、既に次の事象は現在の状態を引き継ぐ確率の集合に組み替えられてしまいます。 ビリヤードの玉といいますのは常にランダムに事象が変遷しています。我々はニュートン力学で示される可能性の最も高い未来というものを選択してポイントを稼ぐのですが、必ずや最も可能性の高い結果が出現するという保障はありません。 ここで最も重要なことは、未来の結果がミクロのレベルで全て決定されているならばビリヤードの玉のコースは最初から決まっていたことになり、我々の意思決定は意味を成さないということであります。量子力学の証明はそれをきちんと否定しています。 正しい解釈ができるならば、不確定性原理の発見以降、未来が確定しているなどと主張するひとはANo.6さん以外にはひとりも現れていないはずです。ベンジャミン・リベットに対して余りにも失礼です。 ANo.9さんのご指摘は理解できますが、ニュートン力学における確定論が自由意志を否定していたというのは歴史上の事実です。 それに、「ハイゼンベルグ方程式とよばれる決定論的な方程式」に従って「間違いなく不確定な結果が選択される」ということではないのですか。

Ryo0617
質問者

補足

ruehasさんは私より明らかに物理学に詳しいでしょう。 私は高校で少し物理学をかじっただけですので。 よって、客観的には ruehasさんの主張が合っている確率<私の主張が合っている確率 なのでしょう。 ですが、やはり私の信じる「古典物理学教」ではランダムが存在しないと教えています。宗教を信じる人は他の人の意見を聞くことができないというのはまさにこのことだと思います。 私のような無知な信者ばかりだと、さぞアインシュタイン先生も自分の理論を主張するのに苦労したことでしょう。 無恥な信者の主張をもう少し聞いてください。 どう考えても未来は帰ることはできません。 ラプラスの悪魔の記述は読みました。 ラプラスは私とほぼ同じ考えです。 しかし、近代量子力学はラプラスの悪魔が未来を決定することができないということを証明したんですね。 私の理解はおそらく大幅に間違っているでしょうが、 (あまりに難しすぎて汗) こんなようなことが書いてあったらいいなっという認識レベルで申しますと、 ある量子をラプラスの悪魔が観察する時、ラプラスの悪魔の目から観察用の物理的な何かが飛び出して量子の位置ないし運動量を変えてしまうということでしょうか? (お恥ずかしい説明です。) もしそういうことならラプラスの悪魔がいかに有能で無限分の1秒で無限制度の予測を行えたとしても取得する情報が正確でないので未来を決定することはできないでしょう。 ただし、私の言っている「ビデオの世界」に対する「再生者」は、「この世界」に対する「ラプラスの悪魔」ではありません。 ラプラスの悪魔は再生者と比べてあまりに無能すぎます。 私はこの再生者の定義を >神の定義は知りませんが、少なくともビデオの主人公から見たそのビデオの再生者がそのビデオの結末を知ることができるように、この世界に全く物理的影響を及ぼさない観測者が無限精度の予測を行えば私たちの未来を1つに決定することができるかもしれません。ただし、そのようなものは定義上この世界には存在しないのですが。 としました。 ラプラスの悪魔とこの再生者が決定的に違うことは「この世界に物理的影響を及ぼさない」という点です。ラプラスの悪魔はそれほど超越的存在でありながら、情報を得るために光粒子を必要とするのでしょうか。観測するためには何かしら光粒子を反射しなければなりません。これはあきらかに物理的影響です。ラプラスの悪魔はその世界の予測されるべき存在となってしまっているのです。これでは未来など予測できるはずありません。ラプラスの悪魔が予測すべきものはラプラスの悪魔自体の脳回路を含んでいるのですから。 ただし、「再生者」は別です。再生者は決してビデオの世界に物理的影響を及ぼすことはありません。再生者がビデオの世界を変えることはできません。そして、この再生者が無限分の一秒で無限制度の予測を行えばビデオの世界の予測を行えます。少なくともビデオの世界の未来は確定します。 仮にこの物語が「主人公が占い師に、お前は貧しい家族をおいてのたれ死ぬ運命だと言われ、そしてその占い通り主人公に次々と不幸が舞い降り何度も死にそうになる。だが、主人公は果てしない努力と勇気でその運命に打ち勝ち家族を幸せにする」というものであったとしても、その主人公は決して未確定の未来を自分の力で切り開いたわけではありません。主人公は自分の運命を変える運命だったのでしょう。 これが本当に確定していたかは巻き戻しボタンを押してみればわかります。まったく同じ運命をたどりますから。 ビデオとは、ラプラスの悪魔以上に全能な観測者を体験できる道具であり、そして未来が確定している事をこの次元で体験できる道具なのです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.9

#8です。 #5さんに対する「回答の補足」で気になることがありますので、口を挟まさせて頂きます。私は物理学の専門家ですので、それなりに聞いてく下さい。 「ラプラスの魔」に関する#5さんのお答えは正しいのですが、量子力学の「不確定性関係」がこの宇宙の「確定論的」あるいは「決定論的」性格を否定しているというのは誤りです。このことは#6さんも指摘なさっております。 不確定性の正しい意味は: 「われわれの宇宙を記述する物理量は、掛け算の順序が交換できる普通の数ではなくて、その順序が交換できない『演算子』(すなわちある意味で関数の関数)である。そしてその物理量はハイゼンベルグ方程式とよばれる決定論的な方程式に従う」 ということです。不確定性原理は、#5さんの言うのとは逆に、この世の中は確定論的に出来ているということの数学的な帰結を表しています。 人類の知的発展史のなかでは、後で考えると誤解を招くような名前を付けてしまったことが繰り返し起こっています。他の例では「虚数」があります。これな嘘(うそ)な数でも仮想的な数でもなく、例えば「負の数」と同程度に現実的な数なのですが、今でもこの命名法のおかげで、虚数をミステリアスな数であると誤解している方に時々お目に掛かります。 このように量子力学の基本方程式とよばれている、ハイゼンベルグ方程式やシュレーディンガー方程式は全て決定論的な方程式なのです。しかし、その演算子や波動関数を物理学者が現実に測定した観測量とどう結びつけるのかという問題が、まだ未解決になっています。その解決のために、例えばフォン・ノイマンの「観測の理論」と言うような、量子力学の基本方程式とは全然違った原理を提案して、何とか分かった気になろうと努力をしていますが、数学者はともかくとして、この世の中に物理学の基本法則とは独立な原理があることを信ぜよと言っても物理学者は納得しません。 この宇宙が決定論的ではなくて、なぜ確率論的にできているのかという問いの答えは、「共鳴」の効果による「不安定性」という、ニュートン力学の基本方程式からも、また量子力学の基本方程式からも導き出される共通な現象にあろうとして、フォン・ノイマンのような基本法則とは独立な原理を導入せずに理解しようという努力がただ今物理学者の間でなされています。 この「不安定性」の概念や「共鳴特異性」の概念は近代非線形力学の「カオスの理論」で本質的な役割を演じています。 因に、フォン・ノイマンは電子計算機の計算は2進法でやるのが良いという理論を出して、コンピューターの理論の父のよばれている数学者です。彼は物理学者ではないので、物理学を基本法則という概念で統一しようという物理学者のこだわりに余り興味がなかった方だという印象を、私は持っています。

Ryo0617
質問者

補足

ああ、だめだ・・・ 難しすぎて理解できません。 >#5さんに対する「回答の補足」で気になることがありますので、口を挟まさせて頂きます。 この「気になる」部分がどこかさえわかりません(汗) 結局未来は決定しているというでしょうか。 確率論的という言葉がよく出てきますが、私は確率論とは主観的であいまいな妥協の産物だという認識です。

  • cyototu
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回答No.8

昔から「運も実力のうち」とも言いますよね。だから運が悪い形で生まれて来ても、実力でその後の運を変えることが出来るのだと。 貴方のような見方もあれば、そうでない見方もある。物事は多面的で一筋縄でいかないところが、われわれの人生を豊かに、そして楽しくしてくれているようですね。 この多面性の有り難味が分からないと、どこかの大統領のように「私が正しい民主主義を皆に教えてあげるのだ」と言って、罪のない人達を殺しまくるようなことになってしまいますね。 そんな、一筋縄ではいかない複雑な世界に生まれて来ることが出来て運が良かったですね。

Ryo0617
質問者

補足

>昔から「運も実力のうち」とも言いますよね。だから運が悪い形で生まれて来ても、実力でその後の運を変えることが出来るのだと。 私の考えはまさに逆で「実力も運のうち」ですねw >貴方のような見方もあれば、そうでない見方もある。物事は多面的で一筋縄でいかないところが、われわれの人生を豊かに、そして楽しくしてくれているようですね。 はい。私もそう思います。 この理論は善人が実は偽善者でしかないと力説するような馬鹿らしいものだと思います(汗)

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