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八木重吉 祈 ゆきなれた路のなつかしくて・・・

kimosabeの回答

  • kimosabe
  • ベストアンサー率59% (137/230)
回答No.4

以下の解釈は、あくまでも私案です。 「おなかが空いて耐えられない」 といえば、 「耐えられないほどおなかが空いている」 ということでしょう。 とすれば、「ゆきなれた路のなつかしく耐えられぬように」は、 「歩き慣れた路が、耐えられないほどなつかしくてたまらないように」 と言う意味でとらえられないでしょうか。 つまり、詩全体の意味は、 「歩き慣れた路が、耐えられないほどなつかしくてたまらないように、 (将来なつかしくてたまらないと思えるような)私の祈りの路をつくりたい」 ということになります。いかがでしょうか。 詩ですので、あまり文法にこだわらないで解釈してみました。

kenta001
質問者

お礼

歩き慣れた路が、耐えられないほどなつかしくてたまらないように。 私が考えていなかった解釈です。 耐えられないくらいとっても懐しいのですね。 ウーン、深い。わからない。 ありがとうございました。 参考になりました。

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