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narrative/story/plot

今更なような気がしますがnarrtiveとstory、そしてplotについて質問があります。narrative と story は同じ物だと理解していたんですが、どうやら違うみたいなんです。storyはイベントやキャラクターを指し、plotはそれらイベントやキャラクターを構成する(コントロール)するのは理解できるのですが、そうするとnarrativeにはいったどいう役割があるのかはっきりしません。narrativeにはコンテキスト(context)内で時間をコントロールしたりするという役割があるのは理解できるのですが、でもこれはplotの役割のような気がしますし... ここで質問があります、narrativeはイベント内の構成なのでしょうか? また、narrativeの名詞化するとnarratorになります。つまりnarrativeとは作家のsubject(主観、主体?)によるイベント内でのコントロール(筋??これはplotの役目かな...)をさすということになるんでしょうか? 最後にジャンル (genre)はplotに依存しているのでしょうか、それともnarrativeでしょうか?

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回答No.14

こんにちは。 バタイユの小説ですか……。 またオットロシイものを(笑)。 どこから手をつけたものか見当もつきませんが、ともかく健闘を祈ります。 ゴシック・ロマンスっていうのは、バタイユとあまり関係がありません。 また必要がでてきたら、別項で質問してください。 これぞ「ゴシック」っていうのをひとつあげるとしたら、エドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』かな。 ゴシック・ロマンスの「ゴシック」は、建築様式のゴシックからきています。 パリのノートル・ダム大聖堂みたいな、塔とかアーチとか、一見すると「装飾過剰」(実はそれも建築上の必然があったのですが)の建物がゴシック。 そうしたゴシック様式の建築物であるお城や修道院や大邸宅を舞台にした18世紀から19世紀にかけて、イギリスで流行した小説のジャンルです。 ゴシック建築のピークが13世紀から16世紀であることに注意してください。 つまり、18世紀でもすでにそれは古びた建物だったってことです。 そんな古い建物に、出るんです(笑)、幽霊が。幽霊はでないにしても、謎があり、歴史があり、秘密がある。それがゴシック・ロマンスです。 それが19世紀にアメリカに移る。そこ南部の旧家と結びついて、独特の「南部ゴシック」というスタイルをつくりあげます。それがフォークナーだったりするんだけど、フォークナーの話を始めるとわたしは終わらなくなるので、これでおしまいです。 シュルレアリスムもまた何かあれば聞いてください。あんまりこの分野は詳しくないんだけど。 とにかく何かテーマを決めてやっていこうとするのは、こんなもの、先行研究が山のようにある、という気持ちと、こんなバカみたいなことを取り上げる阿呆は自分しかいない、という気持ちが交互に襲ってくる孤独な闘いです。だけど、みんなそうだったんだって、もうひとつ、これが最後じゃない、腰を据えてやっていこうと思えば、何十回だって、何百回だって味わせられる気持ちなんだ、って、自分に言い聞かせてみて。 いっしょに頑張っていきましょう。

ken-deleuz
質問者

お礼

ありがとうございました。 この2ヶ月、私の質問につきあっていただいて、とても感謝しています。これでこの質問を閉めたいと思います。 バタイユは読みはじめたばかりなので、分析はこれからということになります。ゴシック文学の研究対象にバタイユを選んだのは、ゴシック・ナラティブとエロティシズムを考察したときに、バタイユの作品が当てはまるかなぁと考えたからです。読んでいる作品はstory of eyeです。 まだ解りませんが、これはチャレンジです。がんばってみます。 また解らないことがあれば、文学のカテなり哲学のカテなりで質問したいと思います。その時またご教授いただければ幸いです。 長い間おつきあいしていただいて感謝です。

その他の回答 (13)

回答No.13

>やはりテクストごとに編み込まれているこの含意されている作者は違うのかなぁと思います。 たまに、作者が書簡や日記などで、この作品を通してこういうことが書きたかった、と書き残しているケースがあります。ニュー・クリティシズム以前の批評というのは、それを「作者の意図」として実体化してきた。「作者の意図」は誰宛の書簡に書いてある、これでまちがいないではないか、という具合に。 ところが書簡というのは、やはり相手のあることですから、その相手に合わせてしまう、という要素が不可避的にあるのです。相手に合わせて言葉遣いを変える、というレヴェルではなく、誰かに宛てて書く、それだけで、主体の構えそのものが変わっていく、ということは、わたしたちが日常的に経験していることでしょう。 となると、そうした書簡が「作者の意図」を保証するものになるのか。 あるいは「日記」であっても、少なくとも作品と同時に(字義通り、同時に)書いていないのであれば、たとえばわたしたちが、とくにこれといった出来事に遭遇しなくても、あれやこれや考えているうちに、朝と夜ではものの見方がまるで変わってしまっているような経験を照らし合わせてみれば、これもどこまで「作者の意図」を裏打ちするものかはわからない。 つまり、書簡は書簡というテクスト、日記は日記というテクスト以上の意味は持たないし、そこから、その人の手によったテクスト全体を貫く像を引き出すことは、もちろん意味のあることですが、そのことと個別のテクストの「作者」を検討することは、またちがう話なんです。 > 結局、作者の意思の所在を掴むことは不可能 というか、「誰それの意志」という括り方そのものが、連綿と続いていく意識に「始め-なか-終わり」という切れ目を入れた「物語」なのだというふうに考えた方がいいと思います。 ただ、この作業は、できるだけテクストの指示に従って忠実な読みをしていくことが前提になっていくわけです。よく言われるように「なんでもあり」では決してない。 そういう「縛り」をかけるものとして「含意された作者」という概念が要請された、という側面もあります。 一方で、精神分析批評というのは、積極的に作者を問題にしていくんですが、このときも、従来の何の注釈もない「作者」ではありません。あくまでも物語の「語り手の欲望」を問題にしていくわけです。 > 例の指輪物語をフェミニズムの観点から解いていくこともできると書いてありました。 たぶん、同じようにポストコロニアルの観点から読んでいくこともできるんだと思います。エルフから領土を奪おうとする人間の帝国主義的野心、トカナントカ(やれやれ)。 あくまでもこれはわたしの見方なんですが、こういうポストコロニアリズムとかフェミニズムとかの見方っていうのは、結局「近代が悪い」という意味の出口を持ってしまっているように思ってしまうんです。こういうのは、それこそ「大きな物語」の先祖帰りじゃないのか。近代批判という「大きな物語」。 そもそもフーコーがディスクールの分析を始めたのは、監獄を作りだした国家を批判するためではなく、みずからの時代を認識するためであり、自分自身の無意識に作り上げられてしまった思考のクセに気がつくことだったはずです。そのディスクール分析という観点から見て、どうなのかなあ、って。 もちろん、テクストのなかから、隠された父権性資本主義、という権力構造が働いていることを暴いてみせることで、見晴らしがよくなる場合もある。だから、こういう人が相手にするのはもっぱら「カノン」(聖典:つまり文学上の古典的名作)です。カノンとしてふんぞりかえっているけれど、こんな権力構造を隠し持っているではないか、という具合に、カノンを貶めて、それで「上がり」。 けれども「同じ構造を持つ」という認識は、煎じ詰めれば「AとBはよく似ている」ということで、月とすっぽんだって丸いかたちが似ていると言えば言えるように、どこまでいっても恣意的なものです。それを単にアジテーションとしないためには、批判の先に、だったら何をどう読んでいくのか、という生産的な観点が必要なんじゃないか、みたいに、フェミニズムやポストコロニアリズムに関しては思っています。 『草枕』は新潮文庫で持ってないんですが、これは江藤さんの文章かな? んーと、日本では文芸評論は、理論的裏付けとは関係なく、一種の芸(術、もつけておきましょうか)として発達してきた、という経緯があります。その傾向が変わってきたのは、やはり二十年前くらいからでしょうか。 もちろん小林秀雄にしても江藤淳にしても伊藤整にしても中村光夫にしても、学ぶべき点はたくさんあるんですが、 > 絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然派や西欧文学の現実主義への批判をこめて、その対極に位置する東洋趣味を高唱した と言われると、ちょっとなんだかな、って。やっぱり、一種の「権威づけ」みたいなものを感じてしまう。 もちろん江藤淳がこの文章を生産するまでには、その「眼」を養うための勉強をたくさんしてきたことは理解できるのですが、やはり文学が開かれたものである以上、その批評も開かれたものであるべきではないんだろうか。そうして、開かれたものをめざすのなら、職人技もしくは芸術家としての鑑識眼に依拠するのではなく、だれもがアクセスできるような理論に裏づけられたものであるべきなのではないか、と、わたしなどは思います。 「言説」はディスクールの訳語として使っています。 いまはディスクール、って言っちゃう方が多いのかな、だけど本によっては「言説」と訳されているものも多いので。「語る行為、語られた内容」全般を指すものとして使っています。辞書には載ってないんだよね(笑)。 だいたい答えになってますでしょうか。

ken-deleuz
質問者

お礼

どうもです。お礼が遅れた事、申し訳ありませんでした。度重なる丁寧な回答ありがとうございます。 最近、大学の後期もいよいよ大詰め、目が回るぐらいの忙しさです。質問もnarrative/plot/storyから始まり、ラカン、アルセチュール、フーコー、バルトと実に充実した回答を得られました。ここで本当はゴシック文学とsurrealismについての質問をしたいのですが、さすがに最初の質問から大きく外れてきそうです。 先日の講義で先生が少しバタイユについて触れていたように思いますが、彼の文学はゴシックとは違いますよね。一応、彼の本を借りて来たんですけどまだ読んでいません。最後の論文のテーマを探している最中なんですけど、今回このゴシック文学でいこうかなぁと考えています。もしバタイユの作品がゴシック文学であれば、そのまま分析に入ります。フランケンシュタインも候補の一つなんですよ(笑) ありがとうございました

回答No.12

> 物語を作り出す個人(作者)の意思はどうなってしまうのかなぁ と思ってしまったりもします。 「作者」というのは、やはり非常に厄介な概念です。 たとえバルトが殺してしまった今日でさえ、作者というのは作品の所有者であり(たとえばわたしたちが「ディッケンズの『オリヴァー・トゥイスト』」というように)、作品の起源であり(「ディッケンズが『オリヴァー・トゥイスト』を著した」)、作品の生成の場(「ディッケンズは『オリヴァー・トゥイスト』を通してかくかくしかじかのことを言おうとした)である、という見方は根強いものがあります。いまだにここの文学のカテでも、ある本を読んでストーリーを組み立てられなかった人は、「作者は何がいいたかったのか」と質問を出します。なぜ、そういうことがおこるのか。 これは、読書という行為そのものに起因するものだからなんです。 わたしたちが本を読む、それはつねに与えられたテクストの背後に意味を見いだそうとするものだからです。 与えられたディスクールを通して、プロットを追い、ストーリーを組み立てるわたしたちは、決してそれだけでは満足しない。さらに「これは結局どういうことか」という意味を求め、歴史小説ならそれに対応する「史実」を、ノンフィクションならそれに対応する「出来事」を求める。そうして、文学作品であれば、それが収斂していく先が「作者」なのです。 読書という行為が意味を見いだそうとする営為であるかぎり、この意味を保証していく「核」はどうしても必要です。そうして、「作者」はこの位置に非常におさまりやすい。 ただ、作者というのは、バルトが明らかにしたように、何らかの実体でも、根元的な存在でもないのです。それは、読者の意味を見いだそうとする営為によって要請された概念なのだということ、そうして、それを「機能」として位置づけていく、というフーコーの(フーコーばかりではないのですが)主張は、非常に重要なものだと思います。 ここからナラトロジーでは「含意された作者(implied author)」という概念を使います。 この「含意された作者(implied author)」はあくまでも「実在の作者(real author)」がいかなる人物であったかを探るためのものではなく、その意味の「核」として仮に設定されたものである、という点です。 たとえば、ジョージ・オーウェルに『動物農場(Animal Farm)』という作品がある。 これはジョージ・オーウェルの「全体主義」に対する批判を背景に読まなければ、ただ動物たちが叛乱を起こして人間を閉めだし、農場を自分たちのものにしたが、やがて豚による独裁が始まって、豚は人間と取引を始めた、という、ただの「おとぎ話」にしかなりません。これを寓話として成立させるためには、これに対応する歴史的な出来事、あるいはオーウェルの全体主義批判を理解しておくことが必要になってきます。 こういうとき、この「含意された作者(implied author)」という概念はきわめて有効です。ただ、この「含意された作者(implied author)」であるオーウェルは、あくまで『動物農場』というテクスト内部で獲得された作者であること、『1984』に含意された作者と同じではないことをふまえておくことが必要でしょう。 フーコーの「機能としての作者はこの分裂(※現実の作者と虚構の発話者)そのもののなかで――この分割と距離のなかで作用するのです」(「作者とは何か」p.398)というのは、やはりこの「含意された作者」に対応するものであるように思います。 > 構造解析では物語の質を無視しているような部分もあるので、 確かにこのことは従来から言われてきたことです。。 たとえば、80年代から90年代のカルチュラル・スタディーズはシェイクスピアの詩の代わりに、マドンナの歌詞を嬉々として分析するようになった、みたいな物言いとして。 けれども、マドンナの歌詞が取り上げられたのは、たとえばフェミニズムの観点から有効だったから、あるいは消費社会というものをとらえるときに有効だったから、という理由なのです。90年代、売れに売れたマライア・キャリーの歌詞がそうした分析の対象になるか、というと、ならない。それは歌詞からは何の意味も引き出すことができないからです(って、まともに聞いたことはないんですけどね)。つまり「質を無視」しているように見えて、実は無視していないんです。 あるいは、いまだに漱石に関する論文・研究は量産されています。それは、漱石が偉大だったからではなくて、その作品を通して、いまださまざまな解釈なり思想なりを引き出すことができる。たとえばテクスト論から読むことも、ポストコロニアルから読むことも、フェミニズムから読むことも、身体論から読むことも可能なのが、漱石というテクストであるということなんです。 一方で、ひとつの解釈をしてしまえば、それ以上のものは受けつけない、という作品もあります。反面、シェイクスピアのように、あるいはディッケンズにしても、あるいはドストエフスキーにしても、あるいはD.H.ロレンスにしても、フォークナーにしても、無限の読みを可能にする宝庫のような作品がある。そういうものは、その時代によって、読み直され続けている。 つまり、「物語の質」というのは、つねに問題にされているんです。けれども、その質というのが、従来の「作品の質」(これ自身、定義不能なんですが)という、超越的なモノサシではない、ということなのだと思います。

ken-deleuz
質問者

お礼

回答ありがとうございました。さらに質問があるので上記しています。 重ね重ねありがとうございます。

ken-deleuz
質問者

補足

回答ありがとうございました。 作者の意思についてもう少し質問があります。前にディッケンズのA Visit to Newgateも分析したんですが、オリヴァとは違うものでした。やはりテクストごとに編み込まれているこの含意されている作者は違うのかなぁと思います。テクストを解す時に学問の分野ごとにその手法というか、テクストの見方は変わってくるのは分ります。ある文献で、例の指輪物語をフェミニズムの観点から解いていくこともできると書いてありました。これを読んだ時に、思わず”...っえ”と思ってしまった次第なんですけど。指輪物語はまだ読んだことはありませんが、映画を見る限りどの辺が... 僕はまだそれほどジェンダースタディに深くないのでこれは何ともいえませんが。本当にTolkienが意図や意思を考慮した上でフェミニズムの観点からテクストを解しているのかなぁとも思います。これはむしろテクストを通して文化やイデオロギー、制度を映し出しているものを僕らはただ暴(解く)いているだけに過ぎないのではないか。こうするとやはり、個人のテクスト内での意思の存在が怪しくなってきます。含意された作者とは読まれたテクストの副産物というか、後から批評家達によって生み出されていくものではないのかぁと感じます。 作者の作品群がディスクールナラティヴとして考えられると思います。作者は幾つかの書物を残します。これはフーコーの作者論の中でも少し述べられていました。作者の初期の書物、中期、そして後期。図書館の棚にはフーコーセクション、マルクスセクションがあり、年代ごとに並べられています。こうすると、作者名によって集められたテクストがそれ自体おおきな物語に変わると思います。こうしてテクストを見た時、作者の思考の変化や、テクストの作り方の向上(書き方)を読み取ることができ、個人の作者としての生涯、そして時代のエピスメーテを見ることができると思っていましたが、このシリーズ化(例えばフーコー)は結局は制度化されたアカデミアの意図する所であって(さらに同じ作家であっても学問の分野によっては違うセクションに同じ作者の本が並びます)、個人、フーコーの意思の流れを掴むことではない、と思ったりもしてしまうんです。 結局のところテクストの質というのは学問の分野の質として考えることもできるんじゃないのかなぁと思います。ここに作者としての個人の意志を考えているようには思えない。また作者のバイオグラフィの本への付随も眉唾ものです。これはアカデミアによるテクストへの信頼性の追加、そして、よく文学作品にある説明。例えば漱石の草枕、下記引用 知に働けば角がたつ、情に棹させば流される--- 春の山路を登りつめた青年画家は、やがてとある温泉場で才気あふれる女、那美と出会う。俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然派や西欧文学の現実主義への批判をこめて、その対極に位置する東洋趣味を高唱した、小説家としての漱石初期の名作である (草枕、 新潮文庫) これは読者の一定の読むための方向性を示唆させているもので、個人、漱石の意思を本当に述べているのかなぁと思います。そして物語の質すらも決められているような気がします。こうするとghostbusterさんが示唆された”マライア・キャリーの歌詞がそうした分析の対象になるか、というと、ならない。それは歌詞からは何の意味も引き出すことができないからです”が制度(institution)から追い出されたテクストになると思います。きっと、質を無視しているのではなく、質は創られるのでしょうね。 結局、作者の意思の所在を掴むことは不可能なんでうかね。生前のフーコーと話すことができたとしても、人が言語を使う限り、誰かのコピーであり、主体それ自体も幾つも存在してることも考えると個人の意志自体が単なるコピーだと思ってしまいます。これは少しおかしな考えかもしれませんが。でもフーコーが作者論でやろうとしたこと、言葉と物で言うとしたこと、芥川龍之介の薮の中、蜘蛛の糸(これ芥川ですよね)、彼らは作品を生み出す時に彼らの目的(意思)をテクストに編み込んでいるのもまた事実のような気もしますが、この意思自体、制度と文化の模写であるならば、意思は結局存在しないのですかね。 ところで、”言説”ってどういう意味ですか?これ何度も質問しようと思っていたんですが、忘れてしまっていて。 ありがとうございました

回答No.11

遅くなってごめんなさい。 > バルドは作者を殺したというより、構造分析によって記号の世界から追い出したように思えるのです。 そういうことです。 もちろん、これはバルトだけがそうであった、というのではなく、構造分析の祖ともいえるようなノースロップ・フライが、そもそも文学を「科学的」に体系化しようとした時点で「作者」という観点はすでに落ちていた。 フライは習ったかな、ともかくフライは、すべての文学作品は、他の文学作品から作られており、その文学体系の外側にある材料からは作られていない、と考えたのです。 ここでは作品は「作者」の自己表現などではない。表現は、全人類からなる集合的主体から湧き出たものであり、「作者」というのはそのなかではごくごく限られた役割しか果たさない。 バルトが出てくる以前に、文学を構造主義、あるいは記号論の観点から分析していく方法は、かなり幅広く行われていたわけです。それを一番象徴的に言ったのが「作者の死」という言葉だった。 フーコーの「人間の死」という言葉が、『言葉と物』を離れて一人歩きしてしまったように、この「作者の死」も強烈だったので、あっというまに広まってしまい、そのおかげで「作者の意図」を問うことは誤りである、という考え方が一般的になったのはよかったけれど、同時に多くの誤解も引きうけた言葉だったように思います。 ところがその作者の役割、作品における創造主ではないとしたら、ではいったい何なのか。 構造主義批評はその作者の機能をあきらかにすることが求められていった。 フーコーの「作者とは何か」の趣旨も、そこにあったと言えるでしょう。 > そして作品(books)は作者の作品ではなく、単なる他のテクストの寄せ集めだと。 まず、作品というのは、なによりもまず言葉の寄せ集めです。 そうして、その言葉というのは、すべてあらかじめそこにあるものです。わたしたちはその言葉を組み合わせて、あたかも「自分の考え」のようにそれを言表しているわけですが、それも、他で使われているのを見たり、聞いたりして、模倣しているのにすぎないのです。 つまり、あらゆる表現行為は模倣である。これが、根本にあります。 わたしたちが「自分の考え」と思っていたとしても、それは、まず言葉にした段階で、借り物であり、模倣である。 そこから、作品というのも、単独で生まれたわけではない、とするのも当然です。 すでに先行する物語があり、作品があったから、その、引用のモザイクとして、また新しい作品が生まれた。 このとき、一番新しい作品を生みだした人を「作者」という特権的な地位に置いて良いものだろうか。 読み手が相対するのは、この引用の織物である「テクスト」である。 さらに読み手もその言葉を使って思考し、かつ、その時代のエピステーメーのなかにいるわけですから、読者もまた、超越的な位置にあるわけではありません。テクストのなかに、既に読者も織りこまれている。 そう考えると、テクストのなかには従来「作者」と呼ばれた人もおり、「読者」と呼ばれた人もいる。つまり、それが「テクスト」なのだと。 これが構造主義的な批評理論の根本にあるものです。 こんな例は的確じゃないかもしれないんですが、たとえば海にいっぱい魚がいるとする。漁師が魚を捕ってくる。それを消費者が魚を食べる。 これを図式化すると  漁師 ― 商品としての魚 ― 消費者 となります。批評理論が登場する以前の文学評論というのは、この商品としての魚の分析に終わっていた。この魚の鮮度とか、種類とか、どこで獲れたとか、そういう情報は漁師が知っている。魚のことは、それを捕まえた漁師の仙三さんに聞け。消費者はそれを味わう、そういう発想だったわけ。 このあいだにニュー・クリティシズムがあるんですが、それを言い出すと終わらなくなっちゃうので飛ばします。だから、一種簡略化したあまり正確ではない説明として心に留めて置いてください。 けれども構造主義の批評理論というのは、商品としての魚を、もういっぺん、海に戻してやろう、海に泳いでいるところから始まって、わたしたちの口にはいるところまでをトータルに「テクスト」と考えよう、という試みであるんです(ああ、アヤシイ説明だ)。 普通、「作者の死」に関しては、読者対テクスト、みたいな単純化がなされがちなんですが、それはちょっと誤解です。読者もテクストのなかに含まれている、と考えるべきです。 さて、こうなると、もういちど、そこから漁師の機能を位置づけなおしてやらなくてはならない。というのも、漁師さんが魚を捕ってきてくれなくては、少なくともわたしたちは食べることができないわけですから。そうして、漁師さんの「魚というテクスト」における機能を明確にすることによって、その漁師さんが魚を捕った方法、一本釣りか、地引き網か、捕った場所、沖合か、磯釣りか、それとも遠洋か、そういうことを考えていくこともできる。 ここらへんからナラトロジーが生まれていきます。ナラトロジーの話になるとまたややこしくなるので割愛。 > >イギリス経験主義、フランス合理主義、宗教改革の結果としての個人信仰により発見された「人格」の威信に基づいて生み出されたものである フーコーが『言葉と物』で指摘したように、「人間」というのは、近代の発明です。 いまのわたしたちは、ひとりひとり独立した個人が集まって、社会を形成している、というふうに、なんとなくそれをあたりまえだと思っているのだけれど、実はこれはすぐれて近代的な発想だった。 士農工商なんて言うけれど、当時の人はそんな差別を受け入れていたんだろうか、みたいなことをたまにいう人がいるのだけれど、そもそも当時は「人間ひとりひとり平等」という概念どころか「人間ひとりひとり」という考え方すらなかったのだから、問題になるはずもありません。「差別」が生まれたのは「平等」という概念が生まれたからだし、さらにそれは「人間ひとりひとり」という概念が生まれたからだ。 つまり、わたしたちが無意識のうちに依拠している「人間」あるいは「個人」という発想は、歴史的に見ると新しいものに過ぎないわけです。 「人間」の時代である近代は、同時に、「偉大な人間」を称揚した時代でもある。すばらしい科学的な発見をした人を讃え、すばらしい発明をした人を讃え、同様に、すばらしい物語を書いた作家を讃えた。トルストイはすばらしい作品を著した、そうしてまた、その人格もすばらしかった、というふうに。 けれども「農奴解放をした人格者であるトルストイ」と『アンナ・カレーニナ』のあいだにどのような関連があるのか。『アンナ・カレーニナ』を読むときは、常に「人格者トルストイ」を念頭に置いて読まなければならないのか。むしろ、それは『アンナ…」を読むときは、忘れていてよいことではないのか。 まあ、こんなところです。 ええと、フーコーに関しては、まだよくわからないです。 わかりにくいのは、ひとつはこれがフーコーの思想のなかでどんな位置を持つのか、がよくわからないからでもあります。ラカンとの関わりとか、あと、アルチュセールとか読むと、もうちょっとわかってくるかなあ、という感じもします。 だから、フーコーのこの講演に関しては、わたしはこれ以上答えることができません。 それ以外のことに関しては、まだもうちょっと余力がありますから(笑)、わかりにくいところがあればない知恵をしぼります。 あと、You Tube、教えてくださってありがとうございました。 フーコーの予想通りの、金属的な、耳障りで意識にひっかかる、意識の柔らかいところにすり傷さえ残しそうな声、わたしが本を読んでいるうちに耳の奧で聞いていたのは、ああ、この声だったんだ、って思っただけで、十分な価値がありました。 チョムスキーが普通の人に見えましたよね(笑)

ken-deleuz
質問者

お礼

丁寧な回答をありがとうございました。指輪物語の回答もとても参考にさせていただいております。Jeff Lewis culture studies の構造主義とポスト構造主義はちゃっかりダウンロードしました。 トルストイは、まだ日本にいる時に(15、6歳の頃)”戦争と平和”を読もうとしましたが、登場人物の名前が複雑というか、憶えられないというか(笑)、結局断念したことがあります。内容が分って読んでいたかも疑わしい(笑、笑)。 ノースロップ・フライはまだ習っていません。これを知っておけばいい先制攻撃になります。ありがとうございます。図書館を探ってみます。※最近、図書館に通いづめです、お腹がすけば図書館のバフェで食事し、疲れれば館内の隅で寝ています、それも2、3時間(笑) フーコーのところで書かれたghostbusterさんの言葉の使い方、表現は詩的ですね。そこで僕も一つ、というかこれ一つしか知らないんですけどね。 yesterday is history tomorrow is mystery today is a present by god これ有名な人の詩なのか僕は知りませんが、頭に残っているものです。広告の一部に利用されかねない詩ではありますけどね(笑) ありがとうございました

ken-deleuz
質問者

補足

とくにこれは補足ではないんですけど、お礼欄で1000文字超えてしまったので、そこで入らなかった文章をここに残します。 今回、改めてテクストのラテン語の意味 ”織物”を思い出しました。読者と作者がテクスト内に編み込まれているというのは、そうですよね読者も作者も言語を通して同じ文化と制度を共有していますものね。でもフーコーも述べていましたが、まず作者名は彼自身のディスークールを形づける、記号に痕跡を残す。これは批評家達が作者の作品かどうか、否かの判断材料にすると。僕はこの作者の”目的”(英語で”motives”になっていましたが)このテクストに編み込まれているのだと思います。こうすると個人の経験もそうですし、記号の使い方など他人の変わってくるのではないのかなぁと思うんですよ。この作者(個人)のmotivesが編み込まれているテクストを解すのが読者であり、またこの作者として機能させられた個人(個人と作者は切り離されていますけど)の経験と同調、反論(polysemy-- dominant, negotiation, opposition)するのも読者です。確かにバルトの言うようにテクストは解す快楽でありますが、物語を作り出す個人(作者)の意思はどうなってしまうのかなぁ と思ってしまったりもします。構造解析では物語の質を無視しているような部分もあるので、これを無視するのは乱暴のような気がします。 一度、Dickensのテクストを分析した時に彼の過去を調べてました。彼の家は倒産して、13歳のときからジャーナリストとして仕事をしていた経緯があります。そこでオリバーなどの作品を生み出したのかなと考えたんですけど、先生曰く、個人Dickensとテクストは別物だと言われました。確かに構造分析ではそうなんでしょうけど、僕は納得できませんでした。 ありがとうございました

回答No.10

いやいや、フーコーを読んで初めてご質問の「ジャンル」ということの問題意識の所在がつかめました。 ともかくまずは最初にフーコーのほうから。 この講演の前提にはロラン・バルトの「作者の死」があります。 そのために、バルトが『物語の構造分析』で殺してしまった「作者」とは何ものなのかを簡単におさらいしておきましょう。 ---(「作者の死」簡単なまとめ)---- ここでの「作者」は、「権威」を語源に持つ " author " です。 バルトは「作者」が歴史的産物であることを指摘します。 イギリス経験主義、フランス合理主義、宗教改革の結果としての個人信仰により発見された「人格」の威信に基づいて生み出されたものである、すなわち、資本主義イデオロギーの要約であり帰結である、それが作者である、と。 そこから導かれるのは、「作品」の意味を保障する権威としての中心が、作者であるということです。 「作者」と「作品」の関係は「父」と「子」にあたる。「作者」は「作品」より前に存在し、「作品」を生み出し、「作品」のために考え、悩み、生きる。 この立場によると、解釈は「作者はどう考えていたのか」を問うものとしかなっていかない。従来とは別の解釈は「作者はそんなことは言っていない」の一言で退けることができる。「権威」というのはそういうものだと考えてください。 さて、はたして作品というのは「父」の「子」なのか。むしろ「父」ひとりが生み出した「子」というより、「引用の織物」としてあるのではないか。「引用の織物」である「テクスト」には中心は存在し得ない。「父」にあたる「作者」は成立せず、「書き手」(writer)はテクストとともに誕生する。 ここから、テクストは「作者の意図」を問う「解読」ではなく、織物の解きほぐしとなり、「読者」の快楽のための営みとなる。 ------ フーコーはこの「作者の死」を前提とした上で、そこから「作者の機能」ということを考えます。 あとの質疑応答のなかで、こんなふうに言っている。 「作者というものは、言説に固有な形態に道を譲るかたちで、消えなければいけない、あるいは消されなければならない。これを認めた上で、私は次のような問いを立てました。作家あるいは作者の消滅というこの法則によって何を発見することができるのか。このような問いは、作者という機能がどのように作用するものなのかを発見させてくれるのです」(p.422『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』) つまり、この講演の趣旨は「作者の機能」の解明にあると理解すべきでしょう。 そのまえにまず、フーコーは作者名とは何か、ということを明らかにしていきます。 ここでジョン・サールのいう「固有名」との比較をしていることに注目してください。 ちょっと寄り道ね。 「固有名」というのはいったい何なんだ、と、言語哲学では問題にされてきた経緯があって、いろいろあるんですが、そこらへんから話をすると終わらなくなっちゃうんで、いきなりサールへ。 たとえば「アリストテレス」という「固有名」から、以下の記述が可能である。 ・アリストテレスはスタゲイラで医者の息子として生まれた。 ・アリストテレスはプラトンの弟子である。 ・アリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師である。 ・アリストテレスは『形而上学』の著者である。 ・アリストテレスは……。 「アリストテレス」という「語」に、たとえば「晴天」という語に「晴れた日」という意味があるような結びつき方をする「意味」があるわけではない。けれども、「アリストテレス」という固有名と、「スタゲイラの医者の息子」「プラトンの弟子」「アレクサンダー大王の家庭教師」…という複数の同定記述が選言的に(disjunctive)に結びついている。たとえばここで、後年の研究によって「スタゲイラ」ではなく「テーバイ」で生まれたとしても、「アリストテレス」という固有名そのものをわたしたちが使わなくなるというものではないのです。 この固有名とその意味は「ゆるやかな結びつき」をしている、というのが、サールが言ったこと、とここではまず押さえておいてください。 ところがフーコーは、作者名は単なる固有名ではない、と言います。 「作者名は固有名のように言説の内部から言説を産出した外部にいる現実の個人へと向かうのではなく、いわばテクスト群の境界を走り、テクスト群を輪郭づけて浮きあがらせ、その稜線を辿って、その存在様態を顕示する、あるいはすくなくともその存在様態を性格づけるという考え方に、作者名は或る一定の言説総体という出来事を顕示し、或る社会や文化の内部におけるこの言説の身分に照合するのです。…… われわれのような文明のなかには《作者》という機能を備えた若干数の言説があり、一方、他の言説はこの機能を備えていない、と。ある私的な手紙が署名者をもつことはあっても作者をもちはしない。ある契約が保証人をもつことはあっても作者はもちはしない。…したがって《作者》という機能とはある社会の内部における若干の言説の存在と流通と機能の様態を特徴づけるものなのです」 これがフーコーの言う「作者」です。 さて、ここからフーコーは作者の機能の分析に移っていく。 フーコーはその機能を四つにまとめます。 1.所有の対象物 そもそも言説はひとつの行為としてあった。危険をはらんだひとつの動作としてあった。すなわち、作者とは処罰される人でもある(たとえばサドのように)。 おそらくここからフーコーは「侵犯」ということを言おうとしているのだと思うのですが、この講演だけだと、わたしにはもう少しよくわかりません。「侵犯」に関してはまだ読んでないので、この部分はそれ以上にわかりません。 2.機能としての作者はあらゆる言説に対して、普遍的かつ恒常的に作用するものではない。テクストの種類によって「作者」の作用はかわっていく。たとえば今日の文学作品にあっては全的に作用している(今日では作者不在の文学は成立しない)。 3.「作者」は、ある言説を個人に帰属させるものとして自動的に形成されるものではない。その帰属は批評的諸操作の結果としてある。 4.「作者」はテクストを出発点として二次的につくりあげられる純粋単純な再構築物ではない。 たとえば数学論文を ・序文で語る自己(一定の場所と時において、ある仕事をなしとげた唯一無二の一個人) ・証明過程で「私は結論する」「私は仮定する」という形式の下での自己(これはその記号体系のもとではいかなる個人であることも可能) ・証明行為の意味、遭遇した障害、得られた結果、なおも提起される問題を述べるために語る自己 「機能としての作者は、これら三つの同時的な自己が散乱するようなかたちで作用する」 つまり、作者の作用というのはきわめて複雑なものであるといえる。 以上が非常に雑駁なわたしの「メモ」です。 フーコーは「作者の機能」を以上の四点にまとめているわけです。 ただ、わたし自身まだよくわかっていないので、参考程度にとどめておいてください。 さて、ここで質問者さんのかねてからの問題意識であったジャンルということ、この部分に関連づけることができそうです。 「テクスト群の境界を走り、テクスト群を輪郭づけて浮きあがらせ、その稜線を辿って、その存在様態を顕示する、あるいはすくなくともその存在様態を性格づけるという考え方に、作者名は或る一定の言説総体という出来事を顕示し、或る社会や文化の内部におけるこの言説の身分に照合するのです」 ここでは「テクスト群の境界」という言い方をされているます。 たとえば『重力の虹』というタイトルだけだと、これがいったい何の本かわからない、物理学の本かとも思う。ところが「トマス・ピンチョン」という作者名を見るとそれだけで、ポストモダンノヴェルだということが読者にはわかる。作者の名前がジャンルを示す手がかりになるわけです。 (predictable というのは「見当がつきやすい」ぐらいに訳すといいかもしれません。) ただ思うのは、「ジャンル」というのは、伝統的には「韻文-散文」という分類であったり、あるいは「叙事詩、叙情詩、悲劇、喜劇、小説」だったり、という文学形式の種別を指すものだったわけです。おそらくそのジャンルの起源というと、ギリシャ時代にさかのぼると考えられます。そうして、そのジャンルに当てはまらないものが出るたびに、あるいはときにみずから宣言をして、従来のジャンルをずらそうとするものが登場するたびに、新しいジャンルができていった、と考えられるのではないか。 もちろんメディアの要素はあるでしょうが、それもひとつの要素に過ぎないのだと思います。 まず、言語というのは本質的に模倣しかできませんから、あらゆる言説は「引用」です。 そのジャンルにおさまって、新しいものを作ろうともなんとも考えていない作品はいいのですが、そこから何か新しいものをうみだそうとしたとき。 たとえば、フロイトはあたらしい自分の思想をあらわすときに当時流行していた熱力学の述語を使った、といいます。つまり、「新しいもの」はちがうジャンルから引用してくるのです。つまり、「新しい思想」というのはかならずしも正確ではなくて、従来とはちがう言葉の組み合わせ、というのが正確な表現なのでしょう。 これを考えると、ジャンルというのはフーコーが言うみたいに、「侵犯」されるために必要である、みたいな言い方ができるかもしれません。 ここらへんは、わたし自身がかならずしもよくわかっているわけではないので、言わんとするところをくみ取っていただけるとありがたいなと思うんですが。 何か、読書メモみたいな回答になっちゃいましたが。 わかりにくいところ、いっぱいあると思いますので。 わたしももう少し他の箇所も読んで考えてみたいと思っています。

ken-deleuz
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 今、まだ、僕もフーコーを読み返している段階で、なんとも言えませんが、このghostbusterさんの回答が理解の手助けになってくれると思います。 引き続き読んでから質問があればしたいと思います。それからghostbusterさんはyoutubeなど見ることはありますか?Foucault と Chomskyの対談がみれます。チョムスキーが英語、フーコーがフランス語(英語のサブタイトルあり)で話しています。彼らはinstitution (political power)そしてhuman natureについて話しています。今回初めて生前のフーコーと肉声を聞いて感動しました。おそらくこの二人の対談?は日本でも有名だと思うので、ghostbusterさんも既に見られているかもしれません。 youtubeのテクストボックスに "Foucault Chomsky"と入力して、検索をかけて下さい。残念ながら日本翻訳版は見つけられませんでした。

ken-deleuz
質問者

補足

どうもです。かなり返答が遅れているので、ghostbusterさんがこの補足を見てくれることを更に願って書きます。 まず今回、バルドの『作者の死』を読み返しました。僕は思うんですけど、バルドは作者を殺したというより、構造分析によって記号の世界から追い出したように思えるのです。それはまた作者(writer)の経験、存在を追い出してしまった、と読み取れるのですが。バルドはこのようの述べています。"only language acts, performs, and not me" (Barthes, 1977, p.143).そして作品(books)は作者の作品ではなく、単なる他のテクストの寄せ集めだと。ちょっと日本語でなんて説明して良いかこまっているのですが、バルドは作者をテクストから追い出した代わりに、作者を読み手、読者という位置に納めているように思えます。"the birth of the reader must at the cost of the death of the author" (Barthes, 1977, p.148)。 そしてフーコー。※回答ありがとうございました。非常に助かりました。以前より読みやすくなりましたが、しかし未だに意味不明な箇所も多々あり、読みこなすには時間が必要です。 フーコーは作者の機能の説明中で、author と writer を切り分け、そしてなおかつ、作者の痕跡がテクスト内に存在しているとほのめかしているように思えるのです。それがこの一節です。 it does not refer purely and simply to a real individual, since it can give rise simultaneously to several selves, to several subjects- positions that can be occupied by different classes of individuals. 作者は違うsubject positionを持っています。それは今、作者が置かれている場所(階級)に起因すると思います。フーコーはここで作者は純正な個人ではない、それは階級など、言語を通しinstitutionsによって創られる複数のsubjectが作品を創っているとほのめかしていると思います。それでも個人は作品に残っていると一方で読み取れてしまうのですが、これは間違って解釈の仕方でしょうか。 そこで僕が導いたwhat is the authorのcentral argumentはバルドが追い出してしまった作者を呼び戻しているという解釈です。そこででは作者個人もテクスト内に保存されていると。しかし、これも確かではく、もう一度、 ghostbusterのお考えもいただきたいと思っています。僕のこの解釈は大きくズレているでしょうか。 また >イギリス経験主義、フランス合理主義、宗教改革の結果としての個人信仰により発見された「人格」の威信に基づいて生み出されたものである の部分を噛み砕いて教えていただけるとありがたいです。 これは、まったく上記とは関係がないのですが、今、文学を考えた時のpostmodernism と modernismの違いで困っています。一応、文学のカテで質問しているのですが、(指輪物語)modernismの特徴がpostmodernismとして見れるような気がします。intertextualityとかmetanarrativeとか。最近ファンタジ(指輪物語)を勉強していて、こんがらがってきました。もし知っていることがあれば、御教授願えないでしょうか。勝手なことを言って申し訳ありません。 丁寧な回答ありがとうございました。(実はghostbusterさんの回答の一部がかなり難しいです。特に作者の機能の部分。考えてみたんですけどやっぱり、脳みそがパニックになりました(笑))

回答No.9

ご質問拝見しました。 "what is an author?" は日本では『フーコー・コレクション2』に所収されていて、読もうと思ってたんですが、講演だからだるいな、なんて思ってまだ読んでませんでした(笑)。 このご質問を機に読みますので、ちょっと待ってね。 ジャンルも一緒にそのときに。

ken-deleuz
質問者

お礼

質問のためにわざわざ読んでいただけるなんて、ありがたいし、本当にありがとうございます。僕ももういちど読み返して、さらにリサーチしてみます。 来週はstudy weekなので、大学が一週間もお休みです。時間があるので好きな勉強に集中できます。 ありがとうございました

ken-deleuz
質問者

補足

言い忘れたことがあります。 補足欄の書き込みが2000文字を超えてしまったために、お礼を書くことができませんでした。さらに、半角の英文字にしなければならなかったために、英語と日本語が入り交じるドタバタした文章になってしまったことを、お詫びしたいと思います。中には英語から日本語にしずらいものがあり、bricolage(ブリコラージュ:有り合わせのもので一つのものを作る)などは専門用語のため、どう訳していいものか分らずに書いてしまいました。 何度もいいますが、ありがとうございます。

回答No.8

まず、 > 無意識がオリジナルと感じてしまう という部分に関して。 構造主義・ポスト構造主義というのは「何がオリジナルか」、言葉を換えると、そのものの起源を問う、ということになると思いますが、そういう考え方はしません。 ラカンに即して言えば、主体とは象徴秩序=象徴界に流通する意味の起源ではなく結果ですから、そこで無意識と意識、人間にとってどちらがより本来的なものなのか、と問うことはあまり意味がないように思います。 わたしたちの意識自体が、ラカンの言うとおり、大文字の《他者》から意味を借りてくることではじめて存在するものだと仮定すると、主体はみずからの外部で生み出されるということになる。そうなれば、主体の起源を求めることにも意味はない、ということなんですが。 > まず子供が自分の姿を鏡で見た時、この段階ではまだ母親と自身の区別がついていない状態であり、それから自身を言語の世界においた時に初めて他者を言語を通して認識する。 ええと、鏡像段階理論の一番のポイントは、「母親との区別」ではなく、「鏡のなかに自分自身の統一的なイメージを誤認する」というところにあります。 そうして、このイメージ的自己同一化を第一のステップにして、つぎの段階、シンボル、もっと限定的には「言語」によって、主体は自己を自己として設定する。この言語は、たとえば「父」という名として存在するものですが、あくまでも具体的な人間としての父ではなく、シンボル的な父、ラカンいうところの大文字の《他者》ということになる。 ちょっとこのふたつの段階を区別しておいたほうがいいかなあと思います。 こういった説明で、少し整理の助けになりましたでしょうか。 > signifierとパロールは区別して考えるべきなのですかね。 区別というのはどんな場合でも方法論的な区別でしかありません。それこそ、シベリアン・ハスキーを、チワワと同じ犬に分類し、オオカミとのあいだに区別の線を引くことに、どんな根拠もない。つまり、区別されているものを考えるとき、考慮に入れなければならないのは、それがいったい何とのあいだに引かれた線なのか、その補助線の性質を見抜くことです。さきほどの「犬」の例ならば、「人間が飼うことができるかどうか」が線なのね。 それと同じように、パロールというのは、ラングに対する、場面によってはエクリチュールに対するものであって、シニフィエの対立項ではありません。 シニフィアンというのは、信号も、矢印も、標識も、身ぶりも、喘ぎ声も、全部シニフィアン。もちろん文字や標識として書かれることもあれば、音声のみのこともある。 エクリチュールである場合もあるだろうし、パロールとしてあるときもあるでしょう。 > テクストの権威性を否定する ごめんなさいね、けっこう無自覚に使ってました。 つまり、文学にあっては(じゃなくても同じなんですが)、誰がどんな権威をもって話すのか、というのは、すごく重要なことなんです。 まずわたしたちのコミュニケーションの基本は、「相手の言うことに意味がある」「自分の言うことは相手に伝わる」ということにあります。 この信頼性が脅かされると、わたしたちは不安になってくる。ぶつぶつひとりごとを言いながら歩く人が恐いのも、自分の話を遮られると腹が立つのも、この最大の原則が脅かされるからです。 聞き手、あるいは読み手は「相手の言うことに意味がある」と思っているのですが、その「相手」によって、わたしたちの聞き方は変わってきます。たとえば新聞の衝撃的な見出しを目にして「えっ!」と思った直後、その新聞が東京スポーツ(知ってます?)だったりすると、な~んだ、ということになる。読み手・聞き手は相手によって、読む構え・聞く構えを変化させているのです。六歳の子がしゃべることと、大学の先生が授業をしているのと、決して同じ調子では聞かないでしょ。 いま「相手」と書きましたが、わたしたちは実はこのとき「相手がどんな権威をもって話をしているのか」によって、主体の構えを決めているのです。たとえばここでも「専門家」「経験者」「一般人」という区別がありますが、何でこういう区別が必要なのかといえば、回答の信頼性を測る目安ということですよね。本の奥付にその人の経歴が記されているのも、その「権威」です。 小説を書くのは、もちろん作家なのですが、ナラトロジーで語りということを問題にするとき、語り手と作者はまず分離させます。作者は語り手ではない。 そうして、この語り手に注目して考えるとき、だれともつかない語り手が 「  明治元年戊辰(ぼしん)の歳(とし)正月、徳川慶喜(よしのぶ)の軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へ遁(のが)れた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄てて潜(ひそ)み匿(かく)れ、これ等の都会は一時無政府の状況に陥った。」(森鴎外「堺事件」) と語りはじめたとき、読み手はここでだれも「大阪、兵庫、堺が一時無政府状態に陥った」ということを疑いません。 このように、読み手に疑いを持たせないような語り手は「権威性がある」と呼びます。 アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』、あるいは横溝正史の『本陣殺人事件』はごぞんじかしら。このふたつはともに、語りの権威性に対するわたしたちの錯覚を軸にミステリが組み立てられているんです。 わたしたちは一人称の語り手が主人公の場合、その人と一緒になって笑ったり泣いたり行動したりしますが、彼の見方に全幅の信頼を置いているわけではない。たいていこういうストーリーでは主人公はすべてを知っているわけではなく、失敗したり、あとになってわかったり、わたしたちは一緒になって「ああそういうことだったのか」と思ったり、おいおい、そんなことしちゃいけないぞ、と思ったりする。 この語りの場合、権威性はあまり高いとは言えません。 それに対して、一人称の語り手は登場するのですが、シャーロック・ホームズにおけるワトソンのように、主人公ではないケースがあります。そういう場合、この語り手は全知の語り手ほどすべてを知っているわけではありませんが、事件の一部始終を知っていて、その報告を正直に語ってくれていると思っていますから、上記の場合よりはやや権威性がある。けれど、全知の語り手ほどにはないのです。 このように、「誰がどのような権威をもって話すのか」というのは、物語の信頼性ということに大きく関わってくる。 > こういう事実を語るテクストはフィクションとして見ることは可能でしょうか? またいや絶対にノンフィクションだと言い切ることは可能でしょうか?  これがその信頼性という問題なんです。 これはかならずしも歴史研究者とのあいだで意見の一致を見ているのではないのでしょうが、ヘイドン・ホワイトなどはメタヒストリーという考え方をしています。 つまり、歴史において、ただなにごとかが起こっただけでは事件にはならない、それについての物語がなされて初めて歴史となるのである、という考え方です。 できごとというのは、それ単独ではわたしたちに意識されることもない。その無限に連続するできごとに「始め-なか-終わり」という切れ目を入れて語るのが「物語」である。 そう考えると、事実とそうでないもの、フィクションとノンフィクションのあいだに切れ目を入れることはほとんど不可能になってきます。 で、先に答えておくのですが、こうした観点に立つと、ジャンル分けというものに、ほとんど意味はありません。 そもそもいったい何を文学と呼ぶのかという質問に、答えられる人はいなくなるからです。 もちろん方法論的に区分を入れることは可能なのでしょうが、たとえば「オデュッセイア」と「桃太郎」と「スター・ウォーズ」(あるいは「パイレーツ・オブ・カリビアン」)同一の構造を持っているとなると、「叙事詩」「昔話」「映画」という区分にあまり意味がなくなってきますよね。 さて、最後まで来たぞ。 >「わたし」≠「私」この間の「ずれ」とは何なのでしょうか?このずれを認識することはできるのでしょうか。 まずこの「ずれ」というのは、あるていど自分の口にした言葉に自覚的な人、あるいは、アイデンティティということを考えたことのある人なら、だれでもあるていどは気がつくことなんじゃないでしょうか。 つまり「私は~である」と言ったときの、言葉と自分自身のどうしようもない「ずれ」として。 あるいは、言葉はどこまでいっても言葉でしかなく、決して「ものそのもの」には届かない。こうしたもどかしさとして。 アイデンティティという言葉を使いましたが、これは「自我同一性」ということですよね。 けれど、いまではデカルトの言うような、明証的な自我というものは考えにくい。 だから、このアイデンティティというのは、「自分とは誰か」を自分に、あるいは社会に対して語る「物語」である、というふうに考えることが多いように思います。 主体という日本語にした段階で、文法の用語であること、そして「服従」という意味を持つことが抜け落ちてしまっているのですが、この主体(Subject)という言葉は、主体のもつ複雑さ、矛盾や断絶をとりこむ言葉だなあと思います。 質問に回答するということは、わたし自身、勉強になるので、どうか遠慮なく聞いてください。 あと、イーグルトンは、最初のニュー・クリティシズムのあたりはだるいし(笑)あんまり思想には関係ないから、構造主義のあたりから読むといい。現象学のところも、解釈学とか勉強するときは参考になるんですが、いまはちょっと必要ないかもしれません。 基本的にイーグルトンはマルキストで(『イデオロギーについて』ではフーコー的な権力観を批判しています)、この本でも「構造主義・ポスト構造主義」の部分は、ちょっとそこらへんを気に留めておいたほうがいいような記述もあります。 ただ、アルチュセールを経由したラカンの読解の部分はものすごく参考になるようにわたしは思っています。ラカンは二次文献、いくつか読んだんだけど、これが一番わたしには頭に入りました。 おっと遅刻だ。読み返してないので、おかしいところがあると思います。ひらにご容赦。 あ、散文忘れた。 散文は、詩以外の文学と思ってください。そのぐらいの理解で十分(笑)。

ken-deleuz
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 >主体とは象徴秩序=象徴界に流通する意味の起源ではなく結果ですから、そこで無意識と意識、人間にとってどちらがより本来的なものなのか... 主体はみずからの外部で生み出されるということになる。そうなれば、主体の起源を求めることにも意味はない、ということなんですが。 これは、なるほど、と思いました。整理をつけていくのは、これからghostbusterさんの回答をヒントに、文献を読みながらといったところです。文献にも、もっと目をむけて、また疑問がわいてきたら、質問したいと思います。その時、また回答していただければ、とてもありがたいです。 このidentityという単語、これは深すぎて、今の僕では手に負えないモノのひとつになっていて、もうずいぶんと使っていないし、なるべく考えないようにしているんですよ。僕たちが知っている主体も一つではなく、複数あると思います。例えばworking mother というフレーズ。この一種oxymoron的なフレーズは、働く女性(profession) と 母親 としての主体がイデオロギー的に衝突しあっている感じがします(申し訳ありません、ぎこちない表現になってしまいました)。こうした時に自分は...であるとすることが、果たして可能なのかな?と思うんですよ。これを「ずれ」、として見るということなんでしょうかね。 >そして「服従」という意味を持つことが抜け落ちてしまっているのですが... そうですよね。形容詞、動詞の subject には服従という意味が含まれていますよね。(we are subject to the laws)のように英語は日常的に使われています。この主体という言葉、なるべく避けて通りたいんですが、そうもいかないんですよね。友達がsubject という単語を使うたびにドッキ!っとします。 えーと、またもや質問がありますが、今は、レポート、プレゼンとふたつの論文を抱えていて、論文が来週の月曜日まで、プレゼンとレポートが金曜日。死にかけています(笑)。僕はマイナーでネットも勉強してるのですが、これが今回けっこう厄介なんですよね。明日には形にするつもりですけど。 イーグルトン(what is literature?)とフーコーの(who is an author?)を読んでから質問したいので、少し時間をいただいてから質問したいと思います。おそらく日曜日に書き込みますので、よろしくお願いします。 ありがとうございました。

ken-deleuz
質問者

補足

どうもです、書き込むのが遅くなりました。ghostbusterさんがこの質問を見てくれることを願って書きます。 今回、ジャンルについての質問なんですが、ジャンルとはtextをカテゴライズすることによって理解しやすくし、narrative structureのパターンにより、textをpridictable(良い日本語が見つかりませんでした)にする。ここで質問なんですが、narrativeがジャンルに習っているのではなく、narrativeからジャンル分けされるのでしょうか? またアーティストはmediaを仲介させて、作品を世に出します。この時、mediaがジャンルを決めているようにも思えるのですが、ジャンルとはmediaによるdiscourseと考えてもよいのでしょうか?media institutionによる記号の管理、例えばtext内で使われているsetting, characters, iconography, structureなどは因習にしたがったもののような感じがします(discipline/統制と規律)。つまりジャンルとはinstitutionによるテクストの商品化のように思えるのですが。 しかし実際textをジャンル分けすること自体無理があるようにも思えます。イーグルトンのwhat is literature?をscan readingしました。彼はジャンル分けに関して、narrative structureと記号、discourseによってtextをカテゴライズすると考えているような気がします。ジャンル(区分)にはあまり意味がないと述べている感じがしました。以下引用。 All literary texts are woven out of other literary texts, not in the conventional sense that they bear the trace of influence but in the more radical sense that every word, phrase or segment is a reworking of other writings which precede or surround the individual work. There is no such thing as the 'first' literary work: all literature is intertextual. 一番気になったのはnot in the conventional sense that they bear the trace of influenceの部分です。text(?)は因習的な権力(影響)の痕跡ではない、とイーグルトンは述べ、textはintertextuality: bricolarge of other textsだと。しかしnarrative structureはいまだに因習的な側面も持ち合わせていると思うんですよ。ジャンルとnarrative の繋がりには何があるのか、どういうふうに考えれば整理ができるでしょうか。 先週のreadingでフーコーのwhat is an author?を読まさせられました。久しぶりにフーコーを読んで脳みそがビックリしました(笑)author、writerとは何が違うのかなと言う疑問です。日本語ではどちらも作者ですよね。authorはフランス語に翻訳した場合、権力という意味に変わります。おそらくここに違いがあると思うんですけど、権力とinstitution そしてauthor、こうするとauthor自体がすでにジャンルを指しているように思えるのですが、間違っているでしょうか? what is an author?のcentral argumentをなかなか、見つけられずにいるんですが、フーコーはauthorとはgodと同じ並びで見ているのでしょうか。つまりauthorと書いた本人とは別物で、author、例えばフーコー自身は死んでいますが、彼の名前は生きています。これは神と同じtranscidental signifier またはdisourseと what is an author?から僕は読み取ったのですが、これがフーコーの論点ではないとは思いますが... またauthor's function について。以下引用 (1) the author function is linked to the juridical and institutional system that encompasses, determines, and articulates the universe of discourses. (4) it does not refer purely and simply to a real individual, since it can give rise simultaneously to several selves, to several subjects- positions that can be occupied by different classes of individuals. まず一番目のから、universe of discoursesなんですが、僕の一番嫌いな言葉 universe(普遍性)が使われています。author functionとはまずinstitution による権力と司法とリンクしている。これはおそらく、printing technologyの発達により、authorの名前の擁護と権威が必要になったと読み取れなくないのですが、やはりthe universe of discoursesの部分が理解できません。 そして四番目でフーコーは個人(individual)はテクスト内で生きてるいると言っているような気がします。text内には作者の痕跡が残っているとフーコーは述べているような思います。ここでauthorとwriterとはなにかという疑問が再浮上してきます。authorとは単なるdiscourseで個人とは関係がないとすれば、writerとはいった何なのでしょうか? そしてここでいうauthor functionとは、どう考えれば良いでしょうか?

回答No.7

返事、遅くなってごめんなさい。しばらくまとまった時間が取れなかったので。 > ラカンはパロール/言語と無意識、そして無意識を主体のオリジナルとしているような気がします。 パロール、というより、ラカンの場合、シニフィアンです。 ラカンのいう「言葉」は、意味されるもの=シニフィエではなく、「シニフィアン」のほうです。これは重要なポイントなので、長くなっちゃうからここでは書きませんが、必要ならまた書きますのでそう補足要求してください。 > 無意識を主体のオリジナル > 意識は無意識の従属にすぎないと考えることはできますでしょうか? まずここの回答 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3191839.html でイーグルトンを引用していますが、ラカンは無意識はわたしたちの「なか」にあるのではなく、わたしたちの「間」に存在している、といっています。 たとえば、ユング派の河合隼雄氏の本を読むと、たいてい大きな丸いモデル図があって、たいてい上1/3あたりに線が引いてある。そうして、てっぺんに、太陽の黒点のごとくぽっちりと黒丸がある。上1/3が「意識」、下2/3が「無意識」、そうして黒点が「自我」です(ユングが本当にこんなことを考えていたかはわたしは知りません)。 たとえば「従属」とか「オリジナル」という言葉で理解しようとすると、こうしたモデルになっちゃうかな、と思います(もしそうでなかったらごめんなさい)。 けれどもフロイトはそんなふうには考えない。 「自我を、無意識と世界との間で折衝する、外皮や外壁である。「自我の主な役割は、都合の悪い欲望やそのせいでの葛藤を覆い隠してしまうことだ。自我は、物事と事物の間に「偽の結びつき」を続々と作ることでこれをやってのける」(フィリップ・ヒル『ラカン』ちくま学芸文庫) さらにラカンは、主体というのは、そんなふうに閉じられた円で描かれるものではなく、言説の連鎖に沿って無限にひきのばされるものである。それが主体であって、自我(あるいは意識)というのは、そのような主体の機能、もしくは効果でしかない、というふうに考えていく。 「無意識とはだから、記号表現(※シニフィアン)の連続運動でありまた作用にほかならず、その記号内容(※シニフィエ)は、抑圧されているがゆえに、しばしば私たちには近よりがたいものとなる。…無意識とは、意味のたえまない消去と消散である。無意識とは、読解がほとんど不可能な、しかもその究極の秘密を解釈へと絶対にゆずりわたさない名状しがたい「現代的」テクストなのだ」(イーグルトン『文学とは何か』) そうして、自我というのは、この言語の総体を交通整理し、フィルターにかけて、特定の語を特定の意味に結びつける働きをする。意識化されたものというのは、この自我のフィルターにかけられたこちら側です。 ところがここで遮断された語は、あらゆる機会を通じて、この目をかいくぐるチャンスをうかがっている。そうして、夢や冗談や言い間違いとして、意識の側にまぎれこんでくる。 さて、ラカンの精神分析が文学で重要になってくるのはここからです。 アルチュセールによるラカンの読解は(イーグルトンは重要な誤読をしているとも書いていますが)、ラカンと文学の間に橋をかけるようなものでもあったわけです(もちろんクリステヴァとか、ほかにも重要な人はいますが。 ここではあまり「無意識」を考えに入れない方がいい。そういうことではなくて、文学理論で重要なのは「自我と主体のあいだのずれ」ということです。 「明日、私は芝を刈る」とわたしが言うとする。 このカギカッコで括られた「私」と、語る「わたし」はまったくべつものです。 私によって発音された「私」という語はただちに了解可能な、安定した準拠点となることができる。それによってその語を発音した「わたし」のなかのどろどろとしたわけのわからないものは覆い隠される。 「私」は「発話の主語(subject)」 「わたし」は「発話行為の主体(subject)」 「私」=「わたし」であると、わたしたちはふつう、何の疑問も抱きません。 けれどもそれは想像上の一致でしかない。「発話行為の主体(subject)」の「わたし」は「わたし」を完全なかたちでは絶対に再現できません。そういうことが可能な記号など存在しないからです。だから「わたし」は、都合の良い代名詞「私」を使って、言語のなかで「わたし」を指定することにします。 「わたし」≠「私」なのです。 これはある種のものと類縁関係がある。 つまり、文学における「語られるわたし」と「語るわたし」のずれです。 「語り」と「視点」はほんとうに書くのがいやになるくらい、人によって分類のしかたはちがうところなのですが、ジェラール・ジュネットは「誰が見ているのか」という問題と「誰が語っているのか」ということを分けて考えます。一般に「視点」という言葉で言われているのは、「誰が語っているのか」と「誰の見方が提示されているのか」が混同されている、と。これでかならず出てくるのがヘンリー・ジェイムズの『メイジーの知ったこと』なんですが、これは小さな女の子メイジーの目を通してストーリーは提示されていますが、子供ではない、だれともつかない語り手です。このとき、ストーリーはメイジーの目を通して「焦点化」されている。 この焦点人物は、語り手と同じ場合もそうでない場合もあります。 『オリヴァー・トゥイスト』は昔むかしに読んだおぼろげな記憶がありますが(笑)。 この作品の場合の語り手は、通常、全知の語り手と呼ばれる存在です。 まず、この全知の語り手の役割は、誰が、いかなるもくろみをもってどのように語るかを隠すことにあります。そのことによって、読者の気持ちを「発話行為」からそらし、語られる内容そのものに目を向けさせようとするものです。その結果、語られたものは権威性を帯びる傾向が大きく、わたしたちはそれに同調していきます(たとえば新聞記事は決して「私が首相から聞いたところでは」と記述することはなく「首相は語った」と記述します。それはこの匿名の語り手の持つ「権威性」ということなのです)。 いっぽう、現代的テクストはこのテクストの権威性をまず否定するところから始めていきます。 たとえばカート・ヴォネガット・ジュニアによる『スローターハウス5』の冒頭。 「ここにあることは、まあ大体そのとおり起こった。とにかく戦争の部分はかなりのところまで事実である。」 こういうことによって、語り手は、このテクストが現実を構成する方法は、偏向した、特殊なものにすぎないことを見抜くよう、読者にうながしているわけです。語り手が語る世界は描く現実とはまったく別の現実があり得たかもしれない、と。 なんとなく筋道はつかめてきましたか。 ちょっと荒っぽい説明なので、わからないところがあったら、またどうぞ。

ken-deleuz
質問者

お礼

いつも、いつも丁寧な回答ありがとうございます。 ghostbusterさんには、いつも質問をぶつけてしまって、貴重な時間を費やさせてしまっているのではないかと、罪悪感を感じてしまう今日この頃です。しかし開き直ってまた質問してしまいます、御勘弁下さい(苦笑)。 ラカンの無意識と言語について、僕が無意識がオリジナルと感じてしまうのは、自身とは無意識/言語(signifier)に疎外されたものなのかなと考えていたからです。まず子供が自分の姿を鏡で見た時、この段階ではまだ母親と自身の区別がついていない状態であり、それから自身を言語の世界においた時に初めて他者を言語を通して認識する。自分とはthe I of discourseであり、他の記号との差異により自身、また主体を構成していくディスクールだと思っておりました。また僕、おかしなこと言ってますかね... さらにsymbolic order という言葉が出てくるのですが、前にghostbusterさんから頂いた回答で父親の存在とこのsymbolic orderの関係、そして他者の認識にこのsymbolic orderが重要になってくると思います。ここで質問があるのですが、symbolic orderとは他者、the I of discourse を形成するものなのでしょうか? そして、パロールとはスピーチのことだと思いますが、signifierはsensory impressionだとして(音とか記号それ自体とか)、このパロールとの関係を見た時、ふたつに共通するのは音だと思っています。そこで無意識はパロール、音(発話)の世界なのかなと考えてしまったわけなんです。そして発話=無意識、そしてそれに従属する意識みたいに。やはりsignifierとパロールは区別して考えるべきなのですかね。この辺に関してもっと文献を読まなければいけないなぁと考えております。 最後に”テクストの権威性を否定する”というのが、少し分りずらいです。もう少し噛み砕いて説明していただけると、うれしいです。 補足欄につづきます... すみません ありがとうございました

ken-deleuz
質問者

補足

更に質問があるのですが、「わたし」≠「私」この間の「ずれ」とは何なのでしょうか?このずれを認識することはできるのでしょうか。 また今、Charles Dickens の短編も読んでいるのですが、その中のA Visit to Newgateはrealist textとして見ることができると思います。彼は主語を「we」としているんですが、これは彼、本人が実際にニューゲートプリズンに訪れてリポートしたテクストだと思います。ここでは語り手がDickens本人です。この主語weに読者が同調するには物語を伝えるnarrative techniquesの重要性、そしてideology of 19th century Londonが重要になってくると思います。おそらくDickensはこのリポートの中で事実を述べているかもしれませんが、このA Visit to Newgateは完全な物語です。descriptive witting (説明文)ではありません。それは読んでいて、彼のnarrative structureから分ります。こういった形式の物語はおそらく沢山あると思います。こういう事実を語るテクストはフィクションとして見ることは可能でしょうか? またいや絶対にノンフィクションだと言い切ることは可能でしょうか? こうなるとジャンルとnarrativeそしてdiscourseに話しを移していかなければいけないのかなぁと思ってきました。 今、イーグルトンを読み始めました。次回、ジャンルについて質問したいと思います。ところで散文(prose)ってなんですか? ありがとうございました。

回答No.6

まず、アルチュセールについてですが。 わたしはアルチュセールについては一次文献を読んでいません。概説書をいくつかならべて、そこからおおまかな見取り図を取りだすに留めるので、そこから先はご自身でいろいろお読みになってください。 まず、アルチュセールの「イデオロギー」は、やはりフーコーのエピステーメーとすごく近いです。ただし、エピステーメーとちがうところは、大きくはここにあります。 アルチュセールが注目するのはこの点です。 資本主義が自己を維持するシステムというものがある。 資本主義体制下にいる人々は、自主的に、その資本主義の基礎となっている階級関係を再生産していく。それはどうしてか。 アルチュセールはここで《イデオロギー的国家機構》というものを想定します。 《イデオロギー的国家機構》というのは、意味や価値を生産・再生産する制度です。 たとえば宗教、家族、政治システム、改良型の労働組合、メディア、スポーツ、文学や芸術、教育などなど。つまり、イデオロギーというのは、人々の「同意」によってシステムを安定化させる役割を果たすのです。 たとえば教育システムということを考えるとき、教育の場では、読み書きを初めとする必要な知識を教えるプロセスで、同時に目上の者に対しては従順であること、共同体への関わり方、義務と権利、そうして社会に出て現状を維持するために「働く喜び」といったものを教えます。あるいは「家族の価値」「共同体への参画」、義務の反面そこから歓びを見いだすことを教えられます。 そうして、主体は共有する慣習に進んで参与し、それだけでなく、今度は支配的なイデオロギーを再生産する側に回っていく。仕事の場で、あるいは教師になって、親になって、地域社会の一員となって。 テリー・イーグルトンは『文学とは何か』のなかで、こうまとめています。 ----- 私にとって社会は非個性的な構造などではなく、個人的にこの私に「よびかけ」てくる「主体」のようなものだ――社会は私を認知し、私に価値があることを教えてくれる。そしてまさにこの認知行為によってこの私は、自由で自律的な主体へとかえられる。このとき私が感ずるようになるのは、あたかも世界が私のためだけに存在するということではなく、世界があたかも私を「中心にして」有意義に構成されているというようなことだ。そうしてそう感ずる私の方が今度は逆に、世界を「中心にして」有意義に組織化されることになる。アルチュセールによれば、この中心化をおこなう信念と実践の集合がイデオロギーである。 ----- 主体はイデオロギーの内に生まれ、イデオロギーに呼びかけられ、イデオロギーによってみずからを認める。そうしてイデオロギーを再生産する主体となっていく。 フーコーが時代のエピステーメーは目に見えないと言ったように、イデオロギーもやはり目に見えません。 では、主体はどうやって自分自身のイデオロギーを知り、それを批判していくことができるのか。 ご質問の箇所はそこです。 意識がイデオロギーに気がつくためには、イデオロギーの外に出なければならない。それでも意識が、その内側にいるかぎり、自分の外に出ることはできない。そのとき「自分以外のもの」を根本的に発見することによって、それに気がつくことができる。 引用されている箇所はこういうことを言っています。subjectlessは「自分以外のもの」というふうに理解していいんじゃないでしょうか。 さらにアルチュセールは続けます。 そのやり方が、おもしろいんです。 人間のイデオロギーは、無意識のディスクールとして、さまざまな場所に書きこまれている。その「兆候」を読みとることによって認識できる。 こう続いていくと、フーコーへとつながっていく道筋がよく見えてくる。 イーグルトンもイデオロギーの概念をラカンの「想像界」に置き換えて説明しています。 というのも、アルチュセールのいう社会全体と主体の関係は、幼児と幼児の鏡像の関係に似ているからだと。 ここも引用してみましょう。 ----- どちらの場合でも、満足のゆく統一された自己イメージを人間主体が手に入れるのは、閉じられたナルシスティックな循環のなかで、この統一イメージを主体へと投げかえすかたちで映し出される対象を、主体が自分と同一視することによる。どちらの場合でも、このイメージは主体の真の状況を理想化してしまう点で、誤認をふくむ。幼児は、鏡像と同じ程度に実際は統合されていない。私は、イデオロギーの影響下では、自分のことを、首尾一貫した自律的な自己形成的主体であると考えているが、実際にはそうではない。自分が受けとる自分自身のイメージにしかるべきかたちで呪縛されることによって、私はそのイメージに自分自身を従属させる。そしてこの「従属化(subjection)」をへてはじめて、私は主体(subject)へと変わる。 ----- 言っていることはほぼ同じです。 the I which is perceived and the I which does the perceiving. この対比が以下の対比に対応しているのは明らかです。 the I of discourse, the subject of the enonce, and the I who speaks, the subject of the enunciation わたしが受けとった自分自身のイメージ=ディスクールのなかで主語として語られる「わたし」 ←→ その像を実際に見ているわたし=話している、言表行為の支配下にあるもの こういうふうに理解すればいい。 ポイントは、アルチュセールにあってはsubject ということが多義的に、たくみに使われていることです。 subject は主体でもあり、動作主でもあり、同時に「わたし」と言表する人物を指す言葉でもあります。同時にこの subject は、従属するものでもある。 屹立した「自我」にくらべて「主体」というのは、ほんとうに現代思想の言葉だなあと思いますね。仏教をやってる人から見ると、そんなことは二千年前?からわかっている、と言われそうですが(笑)。

ken-deleuz
質問者

お礼

度々の回答ありがとうございます。 イデオロギーと主体、僕たちは社会の制度に言語を通して介入した時に作られていくと思います。イデオロギーはその社会の制度の数だけ、また様々な形で(目には見えないので形はありませんけよね)存在すると思います。こうしてみると主体とはいくつもあり、また自身(self)を覆っているような感じがしますね。つまり制度配下の主体というか、なんというか... そうするともう既に個人というのは存在しないのかなぁ なんて考えたりもしてしまいます。こうするとバルドのthe death of the author が響いてきます。ただ幾つも主体が自身を取り巻いているなら、そこからの差異というか主体同士の反発がその後ろに隠れている自身をもっと彩りのある有意味の個人にしているんじゃないのかなぁ...なんて思ったりもしてしまいます。これは推測ですけど。アルチュセールのsubject の使い方は少しドライだなぁ... 今、時間の合間にアルチュセールは読んでいます。彼を読む上でghostbusterさんの回答は参考になります。そして、テリーイーグルトン、読んでみたくなりました。確認したら大学にもおいてありますし、「literary theory」、「criticism and ideology」あたりから読んでみます。きっとこの学期の勉強には役に立つと思います。 まだ質問がありますので上の補足欄で ありがとうございました

ken-deleuz
質問者

補足

今回、ラコンについてもう少しだけ深く知りたいと思います。 まず、ラコンはソシュールの記号学からパロールとラングそして無意識と意識をフロイトから受け継ぎ(ちょっと違うかもしれませんが)、ラカンは言語と無意識の分析をしていると思います。 ソシュールはパロール優勢の姿勢を持ちながらも、音の差異につても述べており、これがデリダの差延/脱構築に繋がっていくと認識しているのですが、ラカンはパロール/言語と無意識、そして無意識を主体のオリジナルとしているような気がします。そこで、ラカンに関して言えば意識は無意識の従属にすぎないと考えることはできますでしょうか? また物語を読む上で、作者の語りと(説明)、フィクショナルキャラクターの語り(主語として語られる)、そして読者の主体(ideal reader)があると思います。まず最初のふたつは両方とも作者の主体としてみなすことができるかなぁと思いますけど、そして読者の主体、ここでラコンの無意識と意識の関係、つまり主体の従属とオリジナルとして(読者/作者の主体)分けて考えることができるのかなぁと考えているんですけど。Oliver twistのエピソードを引用します。 the undertaker, who had just put up the shutters of his shop, was making some entries in his day-book by the light of a most dismal candle, when Mr Bumble entered. 'Aha!' said the undertaker, looking up from the book, and pausing in the middle of a word; 'is that you, Bumble?' 'no one else, Mr Sowerberry' replied the beadle. 'here. i've brought the boy.' Oliver made a bow. "Oh! that's the boy, it it?" said the undertaker, raising the candle above his head, to get a better view of Oliver... ※店を開けたばかりの葬儀屋は薄暗い蝋燭のそばで帳簿?に記載をしていました。そこにMrバンブル(と思われる人物)が尋ねてきました。葬儀屋は途中で手を止め、帳簿から少しみあげながら ’あっ!’、’君かい、バンブル?’と言いました。その男は、’違います、私は教区小役人のソワベリーですよ’と返答しました。’ほら、少年を連れてきたよ’少年オリバーはお辞儀をしました。葬儀屋は蝋燭を持ち上げ、オリバーを見て”あ、その子かい”... (どうもカクカクした和訳ですね(笑)) ここで、三人のキャラクタが登場しています。葬儀屋、教区小役人のソワベリー、そしてオリバー。読者はまずオリバー、題名にもなっている彼の視点で物語に同調できるとおもいます。しかしオリバー自身が知り得ない情報を作者の説明で(narrative)で読者は知ることができます。例えば葬儀屋が”店を開ける”行為とか。ここでオリバーの視点、the subject of the enonce(主語として語られる私)、そして作者の視点(the subject of the enunciation)、narrative、読者に説明される情報。読者は、主語として語られるオリバーと同調することによって、作者の言表行為の支配下(話している私/オリバー)に入っていくのでしょうか? どうもこの辺がこんがらがっていて(ラカンの無意識と意識の関係、特に無意識)、この質問をしている僕もよく整理がついていません。なので質問がとても理性的とはいえないんですよ(笑) ありがとうございました

回答No.5

しばらく出かけていたので、回答するのが遅くなりました。 まずなかなか見事なtreeですが、一箇所を除いて、全体にこうした理解で問題はないかと思います(ほんとに、詳しく見ていけばみていくほど、どうにかしてくれ、というぐらい、分類のやりかたは一人ずつちがっている(笑))。 さて、一箇所というのが「to audience」というところ。 ここがそんなに単純じゃない(笑)。 ナラティヴにおいては「誰が話すのか」だけでなく、「誰が、誰に、話しかけているのか」が大きな問題になっていくんです。 つまり、作者が読者によって読まれるテクストを作るわけですが、読み手はそこから語る声を推測します。 その「語り手」が話しかける対象は、三人います。 1.潜在する受け手 2.テクストの内部に含意されている受け手 3.だれであるかがわかる受け手 1.の「潜在する受け手」というのは、まあ読んでいるわたしたち、と理解して、おおむね大丈夫です。 2.の「テクストの内部に含意されている受け手」というのは、たとえば英語でしかわからないようなジョークが散りばめてある文章を、翻訳で読んでもちっともおもしろくない。つまり、そこで「含意されている受け手」というのは、英語を理解する読者なわけです。 あるいは、主人公が好意を抱く対象が大変美しく、性的魅力をそそる女性として描かれているとする。ここでは男性が含意されている受け手です。 つまり、語りというのは、語りの都合上、当然とされることで、あるいはその内容によって、暗黙のうちに聞き手を構築しているのです。 3点目は、物語の内部で話しかけられる人。たとえば『嵐が丘』のロックウッドのように、あるいは『あしながおじさん』でのジャービー坊っちゃんのように。 つまり「audience」というのも、いろいろあるのです(笑)。 なんというややこしい話なんですが、こうすることによって、「物語行為」を「語られた内容」から引きはがして見ることが可能になってくる、というわけ。 さて、つぎ。 えと、引用されたAbbot さんという人はしらないのですが、この部分は Seymour Chatman は"What Novels Can Do That Films Can't (and Vice Versa)" での Narrative の記述がもとになっていますね。 そもそも時間という要素を、こういう研究の元祖でもある『物語のディスクール』(ジェラール・ジュネット)は 1.順序 2.持続 3.頻度 という観点から分類しています。 2.の「持続」に関しては、むしろ「語られた出来事の時間」と「語りのスピード」というふうに考えたらいいかもしれない。 これはwikipediaから「スター・ウォーズ」のストーリーを要約した文章です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BA 「遠い昔、遥か彼方の銀河系において、銀河共和国という巨大な共同国家体が存在した。しかし、時が経つにつれ政治の腐敗が生じ、統治秩序は崩壊、共和国も存亡の危機を迎えた。こうした状況の中、古より銀河共和国を陰で支えてきたジェダイと呼ばれる騎士団が、共和国の秩序を回復させるために奮闘する。だが、彼らの前に、数千年も前に滅びたといわれる恐怖の信奉者シスが現れる。彼らの理想は恐怖で人々を支配する国家の樹立とジェダイの排除。そんな中、ある辺境の惑星で一人の少年がジェダイとして導かれ、銀河共和国・ジェダイ・シスの運命に関わっていく事となる。この少年と後のその子供達、ジェダイとシスの攻防、そして、銀河共和国から銀河帝国へ、そして、再び銀河共和国へと復活を遂げる変遷を描いた壮大な物語である。」  A.「遠い昔、遥か彼方の銀河系において、銀河共和国という巨大な共同国家体が存在した。」 A.のなかで「物語内容」の時間は、「共同国家体」が存在していた数千年(あるいは数万年?)という、とてつもない長さの時間を、「物語行為」のほうでは、たったひとつの文章で言い表しています。  B.「しかし、時が経つにつれ政治の腐敗が生じ、統治秩序は崩壊、共和国も存亡の危機を迎えた。こうした状況の中、古より銀河共和国を陰で支えてきたジェダイと呼ばれる騎士団が、共和国の秩序を回復させるために奮闘する。」 文章Bでは、「物語内容」の時間はA.よりも短い時間、スパンとしては数百年の出来事でしょうか。それを「物語行為」としては、A.より時間をかけて、「ジェダイと呼ばれる騎士団」という情報をおりこみつつ語られていく。つまり、A.にくらべて語りのスピードは遅くなっています。  C.「だが、彼らの前に、数千年も前に滅びたといわれる恐怖の信奉者シスが現れる。」 この「現れる」というのは、換喩的な表現ですが(つまり、言葉通り「現れる」ことを言っているのではなく、人々が認知し受け入れる、という一定のタイムスパンが含意されている)、それでもこの文章の「内容」が指しているのは、せいぜい数年の期間の出来事でしょう。語りのスピードはがくっと落ちています。  D.「彼らの理想は恐怖で人々を支配する国家の樹立とジェダイの排除。」 この文章には、具体的に対応する「出来事」は起こっていません。「恐怖の信奉者シス」に対する説明です。つまり、ここでは「物語内容」の時間はゼロ(進行が止められている)、にも関わらず「物語行為」は続けられている。テクストの「語り」の時間は進行しているのです。 つまり、語りの要約や省略によって出来事の継起は速くなり、反面、細部が盛り込まれ、描写が広がり、あるいは語り手による介入が起こることによって、出来事の継起は遅くなります。 つまり「語り」ということに注目すると、テクストの内部にはふたつの時間の流れがあることに気がつきます。 ・出来事の時間(物語の内的な時間) ・語りの時間(物語外の時間) これでだいたいイメージはつかめたかしら。 > ラバイ ストラウス へ? と一瞬思いましたが、これ、レヴィ=ストロースですね(笑)。 わたしは『生のものと火を通したもの』はまだ読んでないので、あまりはっきりしたことは言えないんですが、わたしの知っている限りでは、彼は神話体系をラング、そうして、実際に語られる神話の方をパロールと考えたわけですよね。 上でもあげたSeymour Chatman は text organization という考え方をします。 つまり、物語というのはひとつの深層構造であると。これはやはりレヴィ=ストロースの神話研究に起源を持つ考え方でしょう。 『レヴィ=ストロース講義』を見ると、彼はこんな例をあげています。 近親同士の恋人が死によって初めて結びつき、死後ひとつの体になるという物語は『トリスタンとイゾルデ』を初め、西欧ではいくつかの文学で伝えられている物語である。 いっぽう、北アメリカのインディアンでは、こんな物語がある。祖母が生まれたばかりの兄妹をくっつけて、一人の子供にしてしまう。成長したその子が、ある日真上に矢を放つと、落ちてきた矢が体の真ん中を貫いて、兄と妹を切り離し、二人は近親でありながら恋人同士という関係になる。 この語られた物語は、まったくちがうものです。 けれど、第二の物語は第一の物語を逆にたどったものである。つまり、同一の神話であることがわかる。数多くの物語群は、より少数の物語に置き換えられる。つまり、 「神話の意味は、他から切り離された個々の神話のなかにあるのではなく、互いの関係の関係のなかで初めて明らかになるのです」(p.121『レヴィ=ストロース講義 現代社会と人類学』平凡社ライブラリー』) チャットマンは物語というのはつまりふたつの領域からなるものである、として以下のように分類します(もちろんここからさらに下位区分されていきます)。 ・物語の構造…ストーリー ・それが現実化された作品…ディスコース これはほぼレヴィ=ストロースの「神話体系」と「神話」を踏襲したものであると考えていいと思います。 ただ、レヴィ=ストロースの神話研究の目的は「神話的思考の研究に対する人類学の関心は、いっそう正当なものとなるでしょう。なぜなら人類学は、精神の働きにつねに内在する心的制約を明らかにしてくれるからです」(p.127『…講義』)というところに目的があるのに対し、ナラトロジーの目的は、あくまで「物語」の形式に焦点をあてます。さらに、ここから「語り」に注目することによって、「作者」や「読者」までもが考察の対象となっていく。 荒っぽい説明ですが、こんなところでどうでしょうか。

ken-deleuz
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 レヴィ=ストロースですか、ラバイ=ストラウスは英語読みなんですよ。こういった英語と日本語での名前の違いがまだまだ沢山ありそうですね。R. Barthesも日本語(フランス語読み??)読みではバルドでしたよね。英語ではこのままバースと読みます。これからwikiで名前調べて書くようにします(笑)ちなみにLacan はラコン(なぜかフランス風)です。 補足というか質問を上記します ありがとうございました

ken-deleuz
質問者

補足

>ナラティヴにおいては「誰が話すのか」だけでなく、「誰が、誰に、話しかけているのか」が大きな問題になっていくんです。 ちょうど、このトピックが先週のweekly readingの一つでした。今回の質問はBelsey Catherineのcritical practiceのチャプター1、addressing the subjectがベースになっています。 まず作者は物語の中でフィクショナルキャラクター(テクストに出てこない作者の声でもいいです)を作ると思います。これを英語でaddresserというんですけど、日本語ではなんと言っていいものか... そしてテクストを受け取る人(読者)をaddresseeと言います。(これは読者そのものではなく、ghostbusterさんの言われているテクストの内部に含意されている受け手になると思います)。これらを総称してsubject positionというんですけど。これはテクストが読者を招き入れる際、(英語でideal reader)受けてと送り手とイデオロギーを通して同調します(すみません、いい日本語が見つかりませんでした)。 Belseyのテクストの中でLouis Althusser(ルイ・アルチュセール)がでてきます。そしてこの受け手を呼び込む行為をinerpellation (hailing)-- ideology interpellates an individual as a subject. つまりテクストは読者をa certain subject positionに置くことにより物語、語り手と同調する ※いい日本語がでてきません、すみません。 僕が今、頭をいためているのは、ここでいうアルチュセールのイデオロギーとディスクール一般?の関係です。subjectはinstitution 内で言葉を通して作られて行くと思います。ここで僕はディスクールによりsubjectが作られている思っていたのですが、イデオロギーがsubjectを作るとこのテクストの中で述べられています。イデオロギーとディスクールは切り離し考えるようなものではないと思いますが、Belseyはこのようにも述べています Althusser argues that there is a form of knowledge which is 'outside' ideology in the sense that it is subjectless, which knows ideology for what it is and knows the mechanisms of ideology (Belsey 1980, p.62) これはscientific discouseについて話しているものなんですけど...どうもsubjectlessというのが理解できないんですよ。イデオロギーとディスクールは別物として区分できるのでしょうか?またsubjectとの関係は...混乱してきました。 さらにsubjectの説明の中でラカンが出てきます。 the mirror-phase, in which the infant perceives itself as other, an image, exterior to its own perceiving self, necessitates a splitting between the I which is perceived and the I which does the perceiving. the entry into language necessitates a secondary division which reinforces the first, a split between the I of discourse, the subject of the enonce, and the I who speaks, the subject of the enunciation (Belsey 1980, p.64) まず、子供が鏡を見た時、鏡に映る自分を他者として受け取り、ghostbusterさんが前に説明してくれた通り、表象界...でしたっけ(the imaginary)に介入します。そして言葉の世界に入ることにより、この他者と自分がはっきり理解できるようになる。この引用の分らない所は、このthe subject of the enonceなんです。enonceって表現とかこのenunciationと同じ意味でとらえていたんですけど、Belseyは分けています。enonceはフーコーの専門用語ですよね。この喋っている私とsubject of the enonceについて何かわかりますでしょうか? いろいろ質問してしまって申し訳ありません。

回答No.4

すいません、訂正です。 最後のところ、「オデュッセイア」ではなく、「オイディプス王」でした。 「オデュッセイア」と「スター・ウォーズ」と「桃太郎」が同じ話である、というのと、どちらを書こうかと思っていたので、一緒になっていました。 蓮實重彦は『小説から遠く離れて』のなかで、村上春樹の『羊をめぐる冒険』と井上ひさしの『吉里吉里人』と丸谷才一の『裏声でうたへ君が代』と村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』は異母兄妹による近親相姦的な結合によって実父と対決する説話構造を持つと指摘しています。 構造は同じでもプロットに何を選ぶかによって、あるいは、そのプロットをどこに持っていくかによって、物語は無限の種類を持つ、ということです。

ken-deleuz
質問者

お礼

ありがとうございました。 >「オデュッセイア」と「スター・ウォーズ」と「桃太郎」が同じ話である。 これはビックリですね。スターウォーズと桃太郎ですか... チューバッカと桃太郎の家来のイヌが共通ですけどね(笑)やはり「オデュッセイア」や「イリアス」など、ひな形(archetype)として今のテクストにも使われているということなんですかね。 明日、下の補足欄に書き込みたいと思います。 ありがとうございます。

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