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マホメットまでのアラビア半島

7世紀にマホメットがアラビア半島を統一するまで、歴史の世界地図を見ると、アラビア半島だけいつも白(国がない状態)になっているのがいつも気になっていました。それまでもアラビア半島には重要な交易拠点がいくつもあったということは聞きますが、それではなぜ、すぐ北のオリエントでは5000年前からいくつもの大国が興亡してきたのに、すぐ南にあるアラビア半島はそれらの大国の支配下に入ることがなかったのでしょうか?アケメネス朝ペルシアやローマ帝国の最盛期など、その気になればアラビア半島の征服くらいたやすいことのように思いますが・・・

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  • nacam
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回答No.2

1番です。 >アラビア半島は交易の拠点として重要な場所ではなかったのでしょうか? 交易の拠点でしたが、砂漠ばかりで支配する価値はかなり低いのが実際でした。 (交易で潤ういくつかの都市があっただけです) また砂漠地帯のため、大量の物資を運ぶ事もできませんでした。 また交易と言いましても、イエメンや東アフリカの物資をシリアやメソポタミアまで運ぶような交易でしたから、海上輸送のほうがはるかに大量輸送には向いていました。 ムハンマドがメッカから逃れる時、妻子をエチオピアに逃がしていますから、当時からエチオピアなどとの交流があった事はうかがえます。 しかしエチオピアとしましては、ナイル川を使い、エジプトに出るほうが効率的ですから、エジプトルートが交易の中心であったと想像できます。 >マホメットの時代までアラビア半島を本拠地とする大国が生まれなかった理由はわかりますでしょうか? アラビア半島は、砂漠ばかりであり、大国が成立するために必要不可欠である人口が極端に少なかった事が原因です。 現在のサウジアラビアの人口は200万程度(面積は日本の6倍弱)ですが、この人口をまかなう水が有りません。 そのため、海水をろ過して水を作り200万の人工を維持しています。 そのため、イスラムにおいても、アラビア半島が政治の中心となったのはごく限られた期間で、4代目カリフのアリーの時代には、中心がエジプトやイラクに移っています。 アリーの後のウマイア朝では、シリアを拠点とし、以後20世紀にサウシアラビアができるまで、アラビア半島にはまともな国家は成立していません。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

征服する価値がないからです。 ムハンマド以前の中東では、ペルシャ系の国家(パルティアやササン朝ペルシャ)とローマ帝国(東ローマ帝国を含む)が、メソポタミア(現在のイラク周辺)やアルメニア、シリアなどの領有を争い、常に戦争状態でした。 そのため、利用価値の低い地域へ、軍を遠征させる事は、より重要な地域を相手に奪われる可能性が高くなります。 アラビア半島へ軍を送れるだけの力があれば、敵国の中心部へ攻撃をかけて、相手を倒したほうがより価値があります。 逆に遠征中にシリアがペルシャの攻撃を受ければ、遠征軍は孤立してしまいます。 アラビア半島には、大軍が自給できるところなど無いため、孤立した軍は、簡単に崩壊してしまいます。 また、東ローマ帝国は、西ローマ帝国の滅亡後は、ヨーロッパ圏での戦いもありますし、ペルシャは、中央アジア地域での戦いもあり、利用価値の低い地域への出兵の余裕はありませんでした。 ちなみに、ムハンマド前の150年間の両国の主な戦いです。 483年ペルシャのフィールーズ王エフタルに破れ戦死 494年バンダル人東ローマ領のマルタ島占領 499年ブルガリア人東ローマ帝国侵略 502年ペルシャが東ローマのアルメニア占領 517年スラブ族の東ローマ侵入 528年東ローマとペルシャの戦い(ダラスの戦い、東ローマの勝利) 534年東ローマバンダルを滅ぼす。 535年東ローマシチリア占領 540年ペルシャ東ローマのアンティオキア占領 544年東ローマのイタリア攻撃 554年東ローマがスペイン南部占領 558年アバール人がバルカン半島侵入 562年ペルシャのアラビア半島遠征開始 566年東ローマイタリア占領 575年ころ ペルシャのアラビア半島制圧完了 576年突厥が東ローマ領のクリミア包囲、東ローマ遠征しカスピ海周辺まで進出 579年東ローマとペルシャのメリテネの戦い 581年アバール人東ローマのシルミウム占領 581年~91年東ローマとペルシャ断続的に戦う 584年東ローマがコルドバ占領 588年突厥がペルシャのヘラート攻撃 591年東ローマがペルシャよりアルメニア奪回 592年~602年東ローマがアバール人やスラブ人の侵入からの防衛 598年突厥ペルシャ領のバクトリア侵入 606年ペルシャ軍東ローマ領の小アジア(現在のトルコ侵入) 614年ペルシャ東ローマ領のエルサレム、ダマスカス占領 616年ペルシャ軍東ローマ領エジプト攻撃 617年ペルシャ軍東ローマの首都コンスタンティノープル近郊まで進撃 619年アバール人東ローマ領侵攻 622年ヘジラムハンマドがメディナに移る(イスラム暦元年) 622年東ローマがイッソスに上陸しペルシャ軍攻撃 623年東ローマがペルシャ領アゼルバイジャン攻撃 625年メッカのペルシャ軍ムハンマドの軍を破る 626年スラブ人とペルシャ共同でコンスタンティノープル包囲 627年ニネベの戦いで、東ローマ軍がペルシャ軍を完全に破る 628年東ローマがペルシャの首都クテシホン攻撃 630年ムハンマドがメッカ帰還 634年イスラムのアラビア半島統一 635年イスラム軍東ローマ領ダマスカスとペルシャの首都クテシホン占領 636年東ローマ軍がヤルムクでイスラム軍に降伏 639年東ローマはイラク・シリアの領土全て失う。 642年イスラム軍エジプト征服によりササン朝ペルシャ滅亡

fumidera2
質問者

補足

アラビア半島は交易の拠点として重要な場所ではなかったのでしょうか? それと、マホメットの時代までアラビア半島を本拠地とする大国が生まれなかった理由はわかりますでしょうか?

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