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ムハンマド以前のアラビア半島の歴史がわからない
メソポタミア、イスラムの歴史を学んでいる者ですが、ムハンマド以前のアラビア半島の歴史がわからないのでお願いします。 メソポタミア地域はアレクサンドロス大王からディアドコイ戦争でセレウコス朝の発生までを学び、その後は詳しくは知りませんがメソポタミア地域は117年ごろローマのトラヤヌスに滅ぼされたと聞きます。 そして大体セレウコス朝が発生した辺りでイスラムの歴史に移ったのですが、私の世界史の本ではいきなりムハンマド登場の西暦500年ごろから始まり、そこからイスラム世界の拡大へと繋がっていました。 実にメソポタミア地域を支配したセレウコス朝(紀元前312~紀元前63)と比べて500年以上も年代が飛んでいます。私も個人的に調べましたが、東ローマはいつのまにビザンツ帝国へと名を変え、サーサーン朝ペルシアもダレイオスのペルシアと関係がわかりません。 いったいアレクサンドロス大王からディアドコイ戦争、そしてローマの支配のその後は、アラビア半島はどういう歴史をたどっていったんでしょうか? まさかムハンマドが登場するまでアラビア半島に国がなかったとも思えません。また逆に、昔から国があったとしたらムハンマドはその国家に対して反乱を起こしイスラム世界への道を開いたことになるんですか? だいたい紀元前100年ごろから、ムハンマドの西暦500年ごろまでメソポタミア、アラビア半島の歴史を教えてください。 詳しい方、概要だけでもいいので年表や解説をしてくれると嬉しいです。お願いします。
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<メソポタミア地方について>・・・この地は戦いで何度も支配者が変わっいます。 基本的には、セレウコス朝の次にパルティア王国やローマが支配し、次にサーサーン朝が支配し、イスラム帝国の支配となっていきます。 紀元前247年頃、セレウコス朝の東部で遊牧民の部族がパルティア王国を立て、セレウコス朝と対立します。そして長い戦いとなり、紀元前140年頃にパルティア王国がようやくメソポタミアを支配します。しかし、すぐにセレウコス朝に奪回されています。ですが、後にまたパルティアが戦い取り、セレウコス朝は衰退していき、現在のシリア周辺を支配する程度の小さな勢力となりました。それに代わりパルティア王国がセレウコス朝の旧勢力圏を支配していきます。 ちなみにセレウコス朝は紀元前64年にローマに支配され滅亡します。 セレウコス朝・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%9C%9D バルティア王国・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2 パルティア王国がセレウコス朝と戦い西進し、領土を広げて行く一方で、ローマも勢力を東に伸ばしてきていた為、パルティアとローマは衝突する事になりました。 この戦いも長く続き、紀元前53年の第一次パルティア戦争から、西暦 217年の第八次パルティア戦争まで8回もの戦いがありましたが、パルティアとローマの決着はつきませんでした。 西暦117年の第五次パルティア戦争ではメソポタミア地方はローマに占領されますが、後にパルティアが再び奪回し、西暦166年の第六次パルティア戦争では、また北メソポタミア地方がローマに奪われるなど、メソポタミア地方は両国の争いの場となっています。 西暦216年にパルティアで内紛が起きます。王であるヴォロガセス6世の弟が王位を狙って反乱を起こします。この弟アルタバヌス4世の勢いは強くパルティアの領土の大半を支配しました。この時、ヴォロガセス6世は南メソポタミアを維持するのが精一杯だったと言われます。 この時、ローマ軍がこの内紛に付け込んで侵攻してきますが、アルタバヌス4世が破り勝利しています(第八次バルティア戦争) しかし、西暦224年にバルティアの従属国であったペルシス王国のアルダシール1世が叛旗を翻します。 アルダシールは西暦226年にアルタバヌス4世を破り、後にはヴォロガセス6世を破り、サーサーン朝ペルシアを興しました。 アルダシールはメソポタミア全域も手中にし、その後、サーサーン朝はローマと何度も衝突する事になります。 しかし、642年にはアラビア半島から勢力を伸ばしてきたイスラム帝国に滅ぼされます。 サーサーン朝ペルシア・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D アルダシール1世・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%80%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB1%E4%B8%96 <アラビア半島について>・・・ムハンマドが登場するまでアラビア半島には統一国家はなく多数の部族が群雄割拠していました。以下のウィキの文章を読んでもらえば、どういう状況だったか分かると思います。 ムハンマド・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95 ムハマンドの死後の指導者たち・・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95 アラビア半島をまとめ、サーサーン朝やローマに戦いを挑んだ人達・・・ アブ・バクルー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%AB ウマル・イヴン・ハッターク http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%96 本屋さんにいって地図の載っている世界史の本を見てもらえばわかりますが、ムハンマドの登場以前のアラビア半島は国家名など記載されておらず、空白としている本もあります。
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- nacam
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イスラム以前のアラビア情勢に関しましては、 「河出書房」の「世界の歴史8 イスラム世界」が、850円でお手軽かと思います。 イスラム以前のアラビア半島は、小国家分立の状況で、その地域の2大大国(ビザンツ帝国とササン朝ペルシャ)が覇権を争い、小国はそのどちらかと同盟を結ぶ事により、生存していました。 ビザンツ帝国は、自分達ではローマ帝国と称していましたが、ギリシャ化したため、便宜上ギリシャ化したローマ帝国をビザンツ帝国と呼びます。 私は、ユスティヌス朝までを東ローマ帝国と呼び、ヘラクレイオス朝(610年)以降をビザンツ帝国と読んでいます。 それは、ユスティヌス朝期に急速にギリシャ化した事と、ヘラクレイオス朝前期にシリアやエジプトなどの領土を失い、ギリシャ周辺だけに領土が狭まった事によります。 ササン朝ペルシャは、ダレイオスのアケメネス朝ペルシャとは関係ありません。 アケメネス朝の起こった地域(ペルシャ湾東岸地域 ペルセスとかパールシ呼ばれる地域)と同じ場所から起こった国であるため、どちらもペルシャと言います。 ササン朝が起こった時にイラン地域を支配していたのは、パルティア王国ですが、パルティアは、現在のテヘランから南東の地区になります。
お礼
人によっても基準が違うということは、ビザンツと東ローマの境目は曖昧な部分があるんですね。 「世界の歴史8 イスラム世界」という本を探してみました。なかなか評判よさそうでしたがこれは小説でしょうか? 小説形式の歴史書は読んだことがないので、内容をためしに観覧できる機会があればそのときに見てみます。 回答ありがとうございました。
- Tacosan
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詳しくありませんが: 「東ローマ帝国」とか「ビザンツ帝国」というのは, 後世このように呼ぶようになっただけであって, おそらく当時は「ローマ帝国」と呼んでいたんじゃないでしょうか. まあ, ローマを領有しないのに「ローマ」というのはいかがなものかとか, (特に最後のあたりでは)「帝国」と呼ぶのもおこがましいほどの勢力になっちゃってますが. でこのように呼び方がかわるのは, おそらく「帝国の本質」が変わったからだと思います. つまり, (形式的ではあっても市民が皇帝を選ぶという) 当初のローマ的な形態から, (家系で皇帝を継承する, 専制的で) ギリシア的な形態に変わったため名称もギリシア的な「ビザンツ帝国」とするようになったんじゃないかな.
お礼
回答ありがとうございます。東ローマとビザンツは同じなんですね。 調べてみたところ「ビザンツ」の語源は首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来しているとわかりました。 また「歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い」 ともあり、正確な使い分けはよくわかりませんでした。私は東ローマと読んでいますが、こう考えるとビザンツ帝国に住んでいた人は東のローマと扱われることにどういう感情を持っていたのか気になります。 やはり古代ローマと同じであるという感覚を持っていたんでしょうか。
- siyahqalam
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後藤明 編 『講座イスラーム世界2 文明としてのイスラーム』 (栄光教育文化研究所)の「古代文明とイスラーム」(蔀勇造著) 余部福三 著『イスラーム全史』の「イスラームと古代文明」など をお読み下さい。 ムハンマド以前、アラビアに国がなかった訳ではなく、 小国がいくつも勃興・衰退しています。 ただ、アラブ民族を統一したのがムハンマドなのです。 そして、イスラームが始まってからアラブ民族は中東や北アフリカ、 果てはスペインや中央アジアにまで進出します。 それまでの歴史とは全く異なるわけです。 だから扱われ方も全然違います。 イスラームではムハンマド以前を「ジャーヒリーヤ(無明時代)」と 呼んでいます(「無明」というのは宗教的な意味だと思いますが)。 その時代のアラビアが暗黒だったわけではありませんが、 ビザンツ帝国とササン朝、両大国にはさまれて 時には一方の勢力圏になり、時には他方の勢力圏になるということを 繰り返していました。 しかし、ムハンマドの登場する頃には少し状況が変わり、 大国同士の戦場になりやすいメソポタミアやコーカサス、東アナトリア を通るルートを避けて紅海を通る商人が増えてきたために、ヒジャーズ地方(メッカ・メディナのあるところ)が発展してきたらしいです。 イスラーム誕生の背景には、一部アラブ商人の富裕化に伴い、 アラブ社会に格差が広がったことが挙げられると言われます。 さて、ご質問の件ですが、東ローマ帝国=ビザンツ帝国です。 途中で名前を変えた訳ではありません。 ただし、世界史の本では、西ローマ帝国滅亡後の歴史を書く場合、 東ローマ帝国という名は使わず、ビザンツ帝国という名にしている のではないでしょうか(詳しい方、解説お願いします)。 ササン朝ペルシアはアケメネス朝ペルシアと直接の関係はありません が、同じイラン系です。 メソポタミア、アラビア半島の歴史について書かれた本は、上に挙げた 以外にもまだまだたくさんありますよ。がんばって探してみて下さい。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅れてしまいすみません。 戦争地域を避けてきた商人たちによって力が蓄えられてきたのですね。 現在のムハンマドの影響力により業績が実像と離れてしまうことを注意して学んでいるので、一人の力によって歴史が変わったというようなものとは別の視点の解釈なので大変ためになりました。 回答ありがとうございました。
- at9_am
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> アレクサンドロス大王からディアドコイ戦争、そしてローマの支配のその後は、アラビア半島はどういう歴史をたどっていったんでしょうか? アラブ世界は、大体3つに分けられます。地中海沿岸部、メソポタミア地域、アラビア半島の残り、です。 最初の地中海沿岸部は、BC100~AD500では途中で東西分裂が起こって東ローマ帝国になりますが、ほぼローマ帝国の領土です。ディアドコイ戦争後、この地はシリアとエジプトが領有し、BC200年頃にはこのセレウコス朝シリアに征服されます。が、BC63年にローマ帝国に滅ぼされ、以後はローマ帝国領です。 次のメソポタミア地域ですが、チグリス=ユーフラテス流域を中心とした地域であり、アラビア半島の北側に当たります。この地域は、ペルシャが領有していることが多いです。前述のセレウコス朝シリアが滅んだ後、バルチア王国が3世紀初頭まで、そしてその後を引き継ぐ形でササン朝ペルシャが領有します。このササン朝ペルシャを倒すのはサラセン帝国、ムハンマドの作った国です。 残りの部分は砂漠です。この地域に大規模な統一国家は、ムハンマド以前には存在しません。アレクサンドロス大王もこの地域は砂漠なので放置したようです。この地域にあったのは海岸沿いやオアシスを中心とした都市国家であり、土地の領有という概念の希薄な遊牧民(及び商人)たちです。 > 逆に、昔から国があったとしたらムハンマドはその国家に対して反乱を起こしイスラム世界への道を開いたことになるんですか? その通りです。 彼は最初、メッカの地で布教を始めましたが、迫害されたためにメディナへ引っ越します。その地で支配者に収まり、メッカに戦争を仕掛けて勝利しました。これがサラセン帝国の始まりです。
お礼
回答ありがとうございます。パソコンを使用できる時間が不安定なのでお礼が大変遅れてしまいすみません。 パルティアからサーサーン朝など流れがよくわかりました。
- tanuki4u
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ディアドコイ戦争で、うまく最大領土を獲得したのが セレウコス。 バビロニアが本拠地だったことが功を奏した。 現在のシリアからイラン全土、アフガニスタン、中央アジアまで。けど、セレウコス朝シリアと名乗るように、本拠地がシリアで、プトレマイオス朝エジプトと西の方で戦争状態。ということで東のペルシャ人地帯は独立して、パルティアとバクトリアになります。 地中海からインドまで統一商圏が崩れました。 んで、しょうがないので、陸路でなく海路が発達。メソポタミアを回避すると、紅海経由あるいは、アラビア半島西部、ヒジャース地方経由となります。ここに、アラビア系の中継貿易国家が生まれます。 パルティアの成立が BC247 ここから、アラビア半島の中継貿易(都市)国家群の歴史が始まります。
お礼
お礼がずいぶん遅れてしまいすみません。パルティアの位置からすると、その中継貿易の相手はヨーロッパ~インド間という感じでしょうか。 回答ありがとうございました。
お礼
インターネットを使用できる時間帯が不安定なため、お礼が遅れてしまいすみません。 詳しい解説のほか、WIKIPEDIAへのリンクも張ってくださり良くわかりました。ちょうどパルティアとサーサーン朝の滅亡と建国の年代が226年とかぶっているあたり、自分の知らないところで確かに歴史がつながっているんだとわかりました。 やはりメソポタミア地域の歴史は非常に魅力的です。ムハンマドが啓示を受けたというイスラム教が歴史に絶大な影響を及ぼしているのも、その教えに確かな真理があったのだと思います。キリストも同様に現在では神と崇められていますが、実在した人間として、後に神となるほどの人間とはどれほどの人物だったのか、今より何千年も昔に生きた人間の実像を探求することが歴史を勉強する上で私の何よりの楽しみです。 回答ありがとうございました。