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蛭子(日る子)についての疑問
私は学生で,専門ではないけれど教養の授業で,神話や聖書などについてのレポートを書くことになったので調べています. 今気になっている神話は「蛭子(日る子)」についてです.蛭子は後に「恵比寿神」となって奉られるようになったらしいのですが,その出生に疑問を感じました. 蛭子は,イザナギとイザナミの子供ですが,生まれながらに醜い容姿をしていたため,実の両親にさえ嫌われ捨てられてしまったとあります.ひどくないですか?!私はかなりびっくりしました.納得できません. 私はそれまで,神様というのは,慈悲深く寛大で,誰に対しても平等に愛して見守ってくれるものだと信じていました.なのに,容姿が醜いというだけで,実の子を忌み嫌って川に流すなんて信じられません. これはどういうことですか?何が言いたいのですか?容姿が醜い者はむごい扱いを受けて当然なんですか?というか神話ってそもそも何なんですか? あと,もしこのような「容姿の醜い」人物が出てくるような話や,「不条理に忌み嫌われる」人物が出てくるような話があれば教えてください.
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古事記の方の解釈でいきます。 イザナキとイザナミの会話。 イザナキ「おまえのからだはどのようにできているのか」 イザナミ「私のからだは成り整いましたが、まだ成りあわないところが一つあります。」 イザナキ「わたしのからだは成り整って、成りあまったところがひとつある。そこで、この私の体の成り余ったところでおまえの体の成りあってないところを挿し塞ぎ、国を産もうと思う。生むこといかに」 イザナミ「それはとても楽しそう」 イザナキ「それならば 私とお前でこの天の御柱を行き廻ってから逢い、みとのまぐわ(交接)をしよう。お前は右から、私は左から廻って逢おう。」 するとイザナミは廻って最初に「ああ なんと美しい男でしょう」と言い、続いてイザナキが「ああ、なんと美しい女だ」と言った。 それぞれいい終えた後、イザナキは「女が先にしゃべるのはよくない」と言ったが、二神は寝所で交わり、子を産んだ・ しかしこの子は骨なしの水蛭子(蛭のような子。3年たっても足が立たなかったという説は日本書記の方。または日の御子と解する説もある。)であったので、葦の船に入れて流し捨てた。(モーセみたいですねぇ)。 次に淡島を生んだ。 これも子の数に入れなかった。 二神は相談し、「今私達が生んだ子はよくなかった。やあり天津神のところに申し上げるべきだろう」と天津神に相談に行った。 天津神 占っていわく「女が最初に喋ったからじゃ。もう一回廻りなおして、今度は男が最初に女を誉めてみい」 で、二人はもう一度ぐるっと主神を廻って今度はイザナキが最初に「ああ なんと美しい女よ」といい、その後でイザナミが「なんて美しい男でしょう」と言った。 そういい終えてから交わり、生まれたのが淡路島。 そこからどんどん形のできた島が生まれていって日本列島ができた と。 やがてイザナミは火の神を生んだことで黄泉に行ってしまった と。 >もしこのような「容姿の醜い」人物が出てくるような話や イザナミの変容。 イザナミは黄泉に下り形が崩壊した。 それにびっくりしたイザナキはすっとんで逃げた。 http://bymn.pro.tok2.com/karakusa/egypt/hermes.html 主神(柱)の周りを3回廻ってますよね。 醜い容姿といえば、サルタヒコ。 天狗の原型のような人。 ピカピカって光っている。 何故 サルタヒコの容姿が醜かったのか というと、変容(解脱)を表しているという説もある。 >「不条理に忌み嫌われる」人物が出てくるような話があれば教えてください. 容姿が醜いとするか、変容したとするか。うーん。 新世紀エヴァンゲリオンって漫画があるんですね。 ゲンドウが言動で、シンジが神の子で、綾波レイが、、、不思議ちゃん。 生命の木がさっきリンクしたヘルメスの杖と同じもので、人類は生命の木に到達し、神の子であるシンジがその生命の木に磔になることで贖罪をする って物語です。 その時、レイの変容が起こります。 形が崩れるという過程を踏む。 シンジも形が崩れます。 どこまでが自分でどこからが他人なのかわからなくなる。 リリスから出たアンチATフィールドにより取り込まれてしまったんです。 ATフィールドとは、他人と自分の間にある境界線・壁。 これにより 個 というものが存在しうることになる。 これが壊れることを溶解 または その過程を変容という。 全てが一つになり他者がいなくなり 永遠の至福に至るってのが、人類補完計画。 だって他人がいないのだから 意見の衝突が無く 個同士のぶつかりが無いので、これが永遠の至福ってわけです。 というわけで、、、、容姿が醜い とするか 解脱とするかは 捕らえ方次第。 国作りの儀式をイザナキとイザナミがやったとき、何故最初に男が女を誉めなければ形ができなかったのか ですが、、、、 太地母神崇拝の名残かなぁ・・・・。 母なので創造(産み)を司るわけじゃないですか。 したがって生み出す業をやるものを、褒め称える必要があった。 それで、母神を褒め称える者がいなければ、信仰は存在しえないわけで、最初に母神をたたえる言葉を発する必要があった。 って、、、力技的な私個人の解釈であって、専門家の解釈はどうなのか、知りません。 イザナミは母神なので、三面一体 すなわち 産み 育て 破壊するという性質を持っており、それでイザナミも黄泉に下ったという話になったんじゃないかと。 外国だと、どの相を取った状態かで、同じ神なのに呼び名が変わります。 サルタヒコは忌み嫌われていませんが、醜いという形容詞がつく。 不条理に忌み嫌われた人物、、、、 モーセ? 聖書の中のモーセ。 エジプトのファラオはイスラエル人が多くなりすぎたことを懸念して、イスラエル人の男児を殺すように命令し、隠して育てたが、隠し切れないので、葦の船に乗せて川に流した。 あら、古事記の蛭子みたい。 ところが、ユダヤ人学者カール・エイブラハム博士の論文だと、モーセはファラオ・アケナーテンである可能性があると言う。 ファラオ? エジプトの王ですよね。 フロイトによれば、モーセの誕生の話はあきらかにサルゴンの神話(善2800年)やエジプトのホルス誕生の話の焼き増しだと言う。 しかも、モーセの出自の卑しさを語る物語は後世の捏造であり、この偉大なユダヤの預言者が実はエジプト王家の者であることを隠すためだという。 モーセという名前はエジプトの間で一般的な名MOS(子供)の派生語だと言う。 ロバート・フェイザーは「トーラ、タルムード、ミドラシュを丹念に分析した結果、モーセは単にエジプト人として生まれ、育てられたのではなく、実際にエジプトの王子、ファラオの王家の息子であるという結論に達した。 割礼はエジプト王家の間でのみ行われていた儀式。 そのエジプトの王子がエジプトの祈祷文を外に持ち出した。 「聞け おお イスラエルよ、汝が神なる主は唯一なる神なり」 これはユダヤ教の祈祷文ですが、、、、 翻訳の過程でエジプト語のtは転訛されdとなり、eはoとなるということを考慮すると、、、。 「聞け、おおイスラエルよ、汝の神アテンは唯一の神なり」 アテン教が迫害されたためエジプトから脱出し、そのリーダーがモーセだったってわけですね。 王子様、体制不利なエジプトから脱出し、エジプトの植民地だったパレスチナに移住した。 というわけで、語り継がれ、翻訳されていくうち、本来のことから歪んできて、そうなると現実では起こりえないことが起こったとされ、神話ができちゃうんですね。 何故サルタヒコは醜いのかの詳しい説明は http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%8B%90%E3%82%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%9D%BE%E6%9D%91-%E6%BD%94/dp/4061498290/ref=sr_1_1/503-0843059-9409513?ie=UTF8&s=books&qid=1184293497&sr=8-1 に載っています。
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- mapato
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こんにちは。 質問者さんが仰っている「神様」のイメージは主にキリスト教的な解釈による「ゴッド」のイメージではないかと思うのですが、日本人の中には「神様」は総じてそういうものであると思っている人も少なくありません。 これはやはり「ゴッド」を「神」と訳してしまったのがそもそも失敗だったと言われているように、日本古来の「神」と「ゴッド」のような一神教の「神」(本来は同じものですが)はかなり趣を異にする存在なのです。 折角仏教の時には「仏」として区別したのに(積極的にそうしたのではないにしろ、それをずっと守ってきたのは事実です)、当初の「天主」ではなく「神」の訳語が定着してしまったものでかえってその辺がわかり難くなっているようなところがあります。 日本のように多神教の国々では「神」は人間以上の力を持ってはいるものの、決して「公明正大」「慈悲深く寛大」であるようなことはなく、非常にある意味「人間臭い」というか、人間の延長線上に古代の人々が想像したものであるということがよくわかるような存在が殆どです。 ギリシャ神話などを読んでみるとよくわかりますが、「神」達は相当自分の都合・欲求で動いており、人間からしてみると力が大きい分その身勝手さが身にしみるようなことも多々あって、相手が人間であれば「やられたらやり返す」といったようなことも可能でしょうが、それすら許されない場合が多い訳ですから、何とも始末におえないというか、少なくとも「ゴッド」のイメージは簡単に覆ってしまうと思います。 しかし元々「神」というのは自然現象をかたちにしたりしたようなものがはじまりですから、人に恵みをもたらすこともあれば逆に災いをもたらすこともあり、それこそ「神のみぞ知る」都合で人間のことなどお構いなしに動いてある意味当然なのです。 ですから神々同士の間でも色々な揉め事があるのは当然ですし、「捨て子」などまだやさしいほうで「子殺し」「親殺し」のようなことも沢山起こっています。 例えば系譜的には「ヒルコ」の弟に当たる「カグツチ」という火の神様は、生まれた時にその炎で母イザナミに火傷を負わせ死に至らしめてしまったことから、父イザナギに斬り殺されてしまっています。 これを人間に置き換えてみたら本当にひどい話ですよね。カグツチは何も悪気はなく、そういう属性をもって生まれてきてしまった為に、たまたま母を死に追いやってしまう結果になってしまったというだけのことであるのに、怒りに任せて父親は生まれたばかりの子を殺してしまうのですから。 ですが、そもそも人間に置き換えたり現代人の感覚で捉えてしまっては、見えてくるものも見えてこなくなってしまいます。 イザナミが死ぬことによってそこから多くのものが生まれたように、神話での出来事は非常に象徴的なものなのです。そこに倫理や道徳のようなものを持ち込むのはお門違いというものでしょう。 妻の為に子を殺したイザナギもイザナミに会おうと死者の国まで赴きながら、その姿の醜さを見て逃げ出してしまうのですから、何というか人間の尺度ではかったら到底褒められたものではありません。 でも古来より人々は「神」の行いが素晴らしいと崇めてきたのではなく、その大いなる力を自分達に恵みをもたらす方向に発揮して欲しいとお祀りしてきた訳ですから、それで一向構わない訳です。 日本にはその顕著な例として「御霊信仰」というものがあります。 これは「天神様」こと菅原道真などを例にとるとわかり易いのですが、今でこそ「学問の神様」などとして崇められている道真も、当初は人々に災いをなした(つまり「祟った」)からこそそれを恐れた人々によって「神」に祀り上げられたのであって、道真が学問に優れていたのは確かですが、それによって祀られた訳ではないのです。「学問成就」のご利益があるなどというのは後づけでしかありません。 それに一神教の「神」でさえも旧約聖書などを読むとわかりますが、当初はキリスト教的なイメージからは程遠く、人間にとって不条理な存在でした。 信者に恵みをもたらすどころか、その信心を試す為に災いをもたらすようなことすらしばしばあり、ユダヤ教徒はよくそれに耐えてきたものだと感心させられるくらいです。 それが顕著なのは「ヨブ記」のヨブの物語でしょう。これは確かに最後はハッピーエンドと言えなくもないのかもしれないのですが、それまでに失ったものの多さから考えれば信者でなくては到底納得の出来る話ではなく、質問者さんがお求めの「不条理に忌み嫌われる人物」に近い話であると思います(「忌み嫌われる」というよりは「災厄をもたらされる」といったほうがいいですが)。 そのような例は神話の中にはいくらでもあると思いますが、「ヒルコ」と似たようなものであれば例えば和歌山県和歌山市加太の「淡島神社」を根本社とする「淡島明神」などは如何でしょう。 淡島明神は大阪の住吉大社などでも知られる住吉明神の妃でしたが、婦人病に罹ってしまったという理由で離縁された上淡島に流されてしまいました。 そのような経緯から婦人病や安産の神として崇められてきましたが、話だけ聞けば何とも同情を禁じえないようなものである訳です。 例を挙げれば本当に沢山あるのですが、これ以上長くなるのも何なのでこの辺にしておきます。 どこの神話でもちょっと覗いてみるだけでそういった話には出会えると思いますよ。
お礼
ありがとうございます。
- sakurazz
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>神様というのは,慈悲深く寛大で,誰に対しても平等に愛して見守ってくれるもの はっきり言って、これはある特定の宗教の「神様」のイメージです。レポート書くというのなら、まずは、いろいろな神話をざっと読んでみたらどうですか。質問者さんが納得しようがしまいが、神話に出てくる「神」はみんな、古事記だろうがギリシャ神話だろうが、酒飲んで暴れたり、権謀術数を働かせたり女性を誘拐して奥さんにしたりしてますよ。 下の方も書かれてますが、神話は倫理や道徳とは関係ありません。古代の人が世界を納得して受け入れるための壮大な物語、それが神話ですよ。
お礼
ありがとうございます。
- cafatabaco
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神話とは、別に教材ではありません。 教材として使用することは可能でしょうが元々そういうために作られていない。さらに言うと、倫理観を学ぶために作られたものではないので、質問者さんの期待した内容とはだいぶずれているんだと思います。 >私はそれまで,神様というのは,慈悲深く寛大で,誰に対しても平等に愛して見守ってくれるものだと信じていました.私はそれまで,神様というのは,慈悲深く寛大で,誰に対しても平等に愛して見守ってくれるものだと信じていました. 世界中に存在する神様にも質問者さんのいうような神様もいますが、大多数はそうでないように私は思います。ギリシャ神話にしても八百万の神にしてもとても人間臭くエゴイストです。なぜならそういった神話やキリスト教の聖書にしても、それらは大衆小説だからです。今風に言えばテレビドラマです(笑 面白いんですよ。ドラマもそうでしょう?ドロドロした恋愛や、ショッキングな事件、勘違いからすれ違う人々、謎解き、クライマックスは危機が迫り、それに抗う人々、残された解決法。 そして神話の他の側面には、神秘に対する答えという側面もあります。 太陽とは?地球とは?世界とは?星とは?生命とは?運命とは?愛とは? セックスとは?出産とは?家族とは?親とは?子供とは?宇宙とは? 人間は分からないものを恐いと感じます。恐いものは嫌いです。ですから分からないままほっときません。答えを見つけます。しかし見つかりません。だからこじつけでも何でもいいので、答えを作ります。それが神話です。蛭子のエピソードもそうですがセックスという神秘に対しての答えや想像のエピソードです。神もセックスを行います。セックスによって島が生まれたりします。なぜ島が存在するのか?誰が作ったの?どうやって? それは神がセックスして生んだんです。それが人間が作り出したひとつの答えです。 神話とはそういうもんだと思います。ですから常に道徳的で倫理できであるわけではありません。 >容姿が醜い者はむごい扱いを受けて当然なんですか? 別にそういうことが言いたかったわけではないと思いますよ。 ただドラマチックな展開ってやつです(笑
お礼
ありがとうございます。
鉢担ぎの民話もそういう感じではなかったかと。。。 容姿が醜くてもそれを乗り越え成長したとき心は玉のようになるのではないでしょうか。障害でも何でもそれを乗り越え克服したとき人はその有り方に感動する。 舜や孔子や孟子。これらの人も幼少より両親に可愛がられて育ったとは言い難いところがある。ある目的を以ってそのように教育され育てられたふしがある。 曰く 可愛い子には旅させろ。 不肖の子は可愛い。 若いうちの苦労は買ってでもしろ。 背負う苦の度合いは夫々違うが同じような意味合いを持っている。 陶芸もよく子育てにたとえられる。 地獄の業火は温度が高いほど硬くなるが壊れる確立も高くなる。 親と子の真剣勝負なのであると。 そういうものを超えていったとき人はどういう風になっているか。 慰めでも哀れみでもなく腫れ物に触るように扱い扱われる関係性でもない。真に障害を乗り越えるとは一体どういう状態のことをいうのだろうか。 障害を乗り越えられずに心が荒む、もしくは心がひねくれて背いたままで生涯を終えるのを人は悲劇と言う。 ユングは人にはその状態から抜ける機会が何度か訪れるのであるが、その機会を逃がしていってしまう者を哀れんだ。それを超えるのは自らの力によるものである。
お礼
ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。