• 締切済み

神聖ローマ帝国とは?

tiuhtiの回答

  • tiuhti
  • ベストアンサー率66% (447/668)
回答No.9

「国家」という概念がまだ確立していない中世にできて、おまけに800年も続いた「神聖ローマ帝国」を、現代の概念で理解しがちな我々が、神聖ローマ帝国を『わかりやすく』理解しようとすればするほど、現実からかけ離れていってしまいます。そういう限界を知りつつも、あえて、無理に「わかりやすく」するなら、 1.神聖ローマ皇帝は、ドイツ王がもつ称号の一つ。(但し、ドイツ王になると、必ず皇帝になれた訳ではない)。 2.ドイツ王(あるいは神聖ローマ皇帝)を名目上の君主とする地域は、大まかに言えば、現代のドイツとまぁまぁ一致するので、「ドイツ」という国と思っても、さほど問題は無い。(但し、国家組織を持つ国としてのドイツは、962年から存在していたと思うよりは、1871年のプロイセンによる統一までは存在しない、と考えた方がまし。) といったところでしょうか。 但し、ドイツ王という言い方をしましたが、現代のドイツと領域が一致する部分が多いのでわかりやすからそう読んだだけで、実際の称号は、東フランク王であったり、ローマ人の王であったりと、色々です。 >オーストリアやプロイセンなどにまたがってますが、どうして色々な国を含み、かつ存在できるのでしょうか? >あと、神聖ローマ帝国の王は何者なんでしょうか? まず、↓の地図をご覧下さい。18世紀末の神聖ローマ帝国を表すものです。 http://www.hoeckmann.de/germany/index.htm この地図では、神聖ローマ帝国の領域は赤線で囲まれていますが、その中に「Kingdom of Bohemia」っていうのがあります。現代的感覚からすれば、もし神聖ローマ帝国を『国』と考えるのなら、国の中に国があるみたいで変に感じられると思います。「皇帝は王以上の存在だったから良いんだ」という事で納得したくもなります。しかし、実際の経緯は、もう少しややこしいです。ボヘミアは、10世紀半ばにドイツ王(より正確には東フランク王と言うべき)オットー1世の圧迫を受けて、その宗主権を認めさせられます。その後、オットーが神聖ローマ皇帝になったので、ボヘミアも神聖ローマ帝国の一部になりました。しかし、ドイツ王の宗主権はさして強くなく独立性の強い地域に留まります。 12世紀の末に、ボヘミア公オットカルが、ドイツ王=神聖ローマ皇帝の地位をめぐる争いに乗じて、ドイツ王を称する二人のうち一人(神聖ローマ皇帝ではない)から王の称号を得た事で、ボヘミア公領はボヘミア王国になります。(その後、ドイツ王としては二代後の神聖ローマ皇帝から王位を確認される) つまり、ボヘミア王が王になったのは、神聖ローマ皇帝から王に任ぜられたからではなく、緩やかな(=名目上の)宗主権を持つドイツ王に、ボヘミア王と言う称号を名乗る事を認めさせたからです。「王と王は同格でなければならない」というのは、皇帝を中心とするヒエラルキーが概念としては確立していたアジアでの常識であって、ヨーロッパには単純には当て嵌まりません。 次に、プロイセンですが、形式的には、ブランデンブルク選帝侯領(=神聖ローマ帝国の一部)と、プロイセン王国に分けられ、上の地図は、それに従っています。 一方、ほぼ同時期の状況を示した↓の地図では、プロイセン王国として同じ色で描かれ、その中に神聖ローマ帝国の『国境』が走っています。 http://www.ieg-maps.uni-mainz.de/gif/pEu789Serie1_a4_mb.gif これは、↑の地図が誤りと言うよりは、実態と建前のどちらに従って書くか、の違いです。ドイツ王や神聖ローマ皇帝の地位は、オットー大帝の戴冠後300年ぐらいは、まぁ、一応の意味はありました。(勿論、その中にはボヘミアのように、ほぼ独立した地域も含まれているので、現代のような「国家」をイメージしてはいけません。また、ローマ皇帝の地位を口実にイタリアでの勢力拡大に熱心だった為、かえってドイツでの権力確立が疎かになった、という要素もあります。)しかし、13世紀半ば~後半の約20年のいわゆる「大空位時代」、1356年の金印勅書(皇帝は7選帝侯の選挙で決め、教皇の承認は不要とする。選帝侯の領内での完全な裁判権の承認、等々ただでさえ弱かった皇帝の権力の弱体化を決定付け、帝国が事実上分裂)、1648年のウェストファリア条約(事実上独立国家に近いレベルに達していたドイツ諸侯の主権を、正式に確認)、といった出来事を経て、ドイツ王=神聖ローマ皇帝の権力は、単なる名目上のものになっていて、18世紀末のそういう状況を、事実に即して表すならば、帝国外のプロイセン王国と帝国内のブランデンブルク選帝侯領を、まとめてプロイセン王国と表示しても、少しもおかしくありません。 因みに、オーストリアは、最初の地図ではArchduchy(訳せば大公領か?)としています。「大公領なら、国ではないから、存在してもいい」というのはあまり意味がありません。大公領でも、事実上、国家主権はもっているし、当時の国際政治を理解するには、プロイセン王国とブランデンブルク選帝侯領をともに支配するホーエンツォレルン家、オーストリア大公領もボヘミア王国もともに支配するハプスブルグ家、という単位で考えた方が、ずっとよくわかります。 そもそも、ヨーロッパの封建制度の基本は、庇護を受ける代わりに軍役等を負担する、という個人対個人の契約です。この契約が代々続く事で、慣習的に王の権威が確立していきます。ただ、封建領主及びその領内に対して、どの程度王が権力を行使できるか、というのは慣習の積み重ねとその時々の力関係によります。そういう長い過程を経て、今日のような国境内で明確な主権をもつ「国」が出来上がっている訳です。神聖ローマ帝国を考える場合、現代的な意味での「国」ができる前の、その過程を見ているのだ、という事に注意する必要があります。 ドイツor神聖ローマ帝国の場合、他の国と違って、王権あるいは帝権が弱くなる方向に動いた、という事が更に理解しにくくしているのですが、現実には、例えばフランスのカペー朝の成立時には、事実上パリ周辺にしか王権は及ばず、それ以外ではほぼ名目上の存在だった、とかいった様な例は、他にもあります。歴史を記述する場合、フランス史とかいった国単位で記述される事が多いので、なんとなく昔から、明確な境界線をもった『主権を持つ国家』があるように誤解しがちなのですが、歴史上の事実はそういう事です。学問の上では、「皇帝だから、領内に独立した諸侯が存在しえたのだ」と言う風に無理にアジア的な発想にあてはめず、現実に主権と呼べるものを行使した諸侯は、国家(orそれに近いもの)と考えるのが普通です。 長文失礼しました。 追記)ヨーロッパには「皇帝は一人だけ」という概念はありません。ローマには、東西両皇帝がいたし、中世にも東ローマ皇帝がいたからです。また、皇帝が地上での神の代理というのと、同じ意味で、皇帝の権力が及ばない地域では、「王は地上での神の代理」という概念が存在しました。

関連するQ&A

  • 神聖ローマ帝国

    神聖ローマ帝国 高校生で世界史Bを勉強中です 神聖ローマ帝国は、フランスとかと同等の国家なのですよね? 教科書(山川出版)の‘17世紀なかばのヨーロッパ’と題される地図を見ると、神聖ローマ帝国の国境内部に ハプスブルク家の領土(スペイン家) ハプスブルク家の領土(オーストリア家) ホーエンツォレルン家(ブランデンブルク)の領土 ウェストファリア条約によるスウェーデンの領土 があります ここの意味がわかりません しかも、神聖ローマ帝国=ドイツですよね 「ドイツ国内は大小の領邦が分立」と書いてあり、さらに混乱状態です…(-_-#) さらにさらに、「神聖ローマ帝国カルロス1世が退位した後ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に分かれた」とあり、それでも神聖ローマ帝国は分裂せず存在しているのが、矛盾している気がしてしまいます ばーっと書いてしまったので、質問がわかりにくいかも知れませんが、よろしくお願いします(^。^;)

  • 神聖ローマ帝国について(受験生です)

    962年にオットー1世が戴冠され、神聖ローマ帝国ができましたが、これは東フランク国王だったオットーは”皇帝”になったかと思うのですが 皇帝というコトバは中国における皇帝とヨーロッパにおける皇帝とは どう違うのでしょうか?ヨーロッパの方は地上におけるイエスの代理と 認識しているのですが間違いないでしょうか?あと皇帝というのは国王よりも偉いのでしょうか?そして、神聖ローマ帝国というのは実在するものなのでしょうか?それとも、概念として存在しているものなのでしょうか?後にドイツ領内は分権化し後にハプスブルク家が帝位を世襲しはじめ、後にオーストリアの国王も兼ね、ウェストファリア条約を経て、オーストリアの国王であるハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねると思うのですがハプスブルク家、オーストリアというものも よくわかりません。稚拙な文章ですがどうぞ御回答宜しくお願いします。

  • 神聖ローマ帝国について

    神聖ローマ帝国に大空位時代というのがありますが、国をまとめる一人者が長年いなかったにもかかわらず、国が崩壊しなかったのはなぜでしょうか?

  • 神聖ローマ帝国とドイツ民族国家について

    神聖ローマ帝国とドイツ民族国家について質問です。 「神聖ローマ帝国」とは、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家だが、様々な領邦が形成した国家連合でもあり、皇帝の権威も弱いという国家であったのですが、ここで以下の質問です。 1.「神聖ローマ帝国」は、ある皮肉として、18世紀のフランス知識人、ボルテールが時代的制約の下で発言した名言、「神聖でもなければローマでもなく帝国でもない」と書かれているが、ここで質問です。 ボルテールが、「神聖ローマ帝国」は「神聖でもなければローマでもなく帝国でもない」と言ったなら、では「神聖ローマ帝国」はドイツ民族の国家だったのでしょうか? 2.「神聖ローマ帝国」の言語は、ドイツ語以外にも、ラテン語、イタリア語、チェコ語、オランダ語、フリジア語、フランス語、スロベニア語、ソルブ語、ポーランド語などがあるが、ここで質問です。 これ程までの様々な言語があるなら、「神聖ローマ帝国」は多民族国家になりますよね。 だとしたら、ナチスの指導者、アドルフ・ヒトラーは「神聖ローマ帝国」を「第一帝国=ドイツ人帝国」を呼ぶには無理があるのではないでしょうか(要はドイツ民族の帝国として呼ぶには相応しいのでしょうか?)?

  • 神聖ローマ帝国について、

      神聖ローマ帝国について知りたいのですが、どなたかわかりやすく説明していただけませんか?? よろしくお願いします。

  • 神聖ローマ帝国って…?

    世界史の質問なのですが、フランスの王権伸長について勉強していたところ、ふと神聖ローマ帝国についてわからなくなってしまいました(汗 「イタリア戦争」ですが、これはイタリアが戦争に加わっているわけではなくて、イタリアの領土をめぐった戦争ですよね? 戦争しているのはフランスと神聖ローマだと塾で言われた気がするのですが、復習の段階で「ローマはイタリアじゃなかったっけ?」と思い、調べてみたところ、神聖ローマ帝国はドイツ、ローマはイタリアと出てきたので訳がわからなくなってしまい…。 神聖ローマ帝国とローマとは全く別なのでしょうか? イタリア戦争が本格化した、ヴァロア朝のシャルル8世期、戦っていた相手国は神聖ローマ皇帝のカール5世だったと思いますが、そのカール5世について辞書をひいたところドイツ皇帝と載っていたので、やはり現在で言うドイツを指すのかなと思いました。 ただ、数日前にアナーニ事件やアヴィニョン捕囚、大シスマについて勉強していたのですが、ローマ教皇はアヴィニョンに移される前ローマにいましたよね。ローマはイタリアにあるので、つまりローマ教皇もローマ皇帝もイタリアの人物だと思っていたのですが…。教皇と皇帝の違いすらあやふやになってます;; どなたかご説明してくださると助かります。 よろしくお願い致します。

  • 神聖ローマ帝国について

    詳細ではなく概略だけ知りたいです。 神聖ローマ帝国が起こったのはいつ頃ですか? 最も栄えたころの皇帝の名前は? いつ頃なぜ東西に分裂したのですか? ローマ帝国が滅亡したのはいつごろでしょうか?またその原因は何でしょうか? ウィキペディア等では詳細すぎてわかりにくいので簡単に教えてください。

  • オーストリアハンガリー帝国について

    質問します。オーストリア・ハンガリー帝国についてなのですが、元々神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の国から、分裂したのでしょうか? 歴史の地図をみるとややこしくてわからないのですが、どのようにオーストリア帝国が出来たのでしょうか?? お願いします。

  • モンゴル軍が神聖ローマ帝国へ侵攻しなかったのは。

    モンゴル軍は、ポーランド王国相手に「ワールシュタットの戦い」で大勝利を収めましたが、占領せず撤退しています。 この勢いであれば神聖ローマ帝国へ侵攻できたはずですが、モンゴル軍は、なぜ神聖ローマ帝国へ攻め込まなかったのですか。 いろんな理由があると思いますが、私が思いついたのは次のような理由です。 どれか一つくらいは合っていますか。 ア.やはりカネが続かなかった。 イ.遠征の戦い続きで戦士の士気が落ちた。 ウ.ポーランド王国や神聖ローマ帝国は、魅力的な産物に乏しい寒冷地で、占領するに値しない。 エ.神聖ローマ帝国へは侵攻を試みたが手ごわい相手だった。 よろしくお願いします。

  • 神聖ローマ帝国がローマの雌牛状態になった理由

    中世において、フランク王国が分割されてできたフランス王国とは違って神聖ローマ帝国としてのドイツ側がローマの雌牛状態に陥った理由は、ローマ教会に対する従順な姿勢をそれほどに生むほどにドイツ側が宗教的に敬虔だったからでしょうか?