• 締切済み

神聖ローマ帝国がローマの雌牛状態になった理由

中世において、フランク王国が分割されてできたフランス王国とは違って神聖ローマ帝国としてのドイツ側がローマの雌牛状態に陥った理由は、ローマ教会に対する従順な姿勢をそれほどに生むほどにドイツ側が宗教的に敬虔だったからでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数1

みんなの回答

  • Mumin-mama
  • ベストアンサー率45% (1140/2503)
回答No.2

ローマ帝国によってヨーロッパ各地に広められたキリスト教は神聖ローマ帝国時代のマルティン・ルターによる宗教改革まで、皇帝のローマ法王による戴冠、諸国の貴族のキリスト教へのかかわりによって教会は富んで行きます。初めは北ヨーロッパからローマ等に聖地へ向かう僧などの巡礼で始まり、各要所の巡礼教会は巡礼者の落とすお金で潤うようになります。巡礼者を集めるには教会に「奇跡にまつわるお宝」を置かなければなりません。例えば、「キリストの血」とか、「東方三博士の頭の骨と冠」とか「血の涙を流すマリア像」等と言ったものです。中には、ローマに行って帰ってきた僧を殺して、その人を聖人として祀ることもありました。それらをつくるための資金として、諸国領主や領主司教は農民や市民から税を徴収したり贖宥状(しょくゆうじょう)を売り教会は豊かになり、大聖堂が建てられ、ますます権力を強めて行きます。また、それらのことは司教の地位を保つためにも必要でした。そして、それら教会の収入の多くがローマ法王に渡りました。 そのお陰で、市民や農民は貧困状態に陥り領主や司教に対する不満が募ってきます。そこに現れたのが「95ヶ条の論題」を論じたマルティン・ルターで、ケルンの大聖堂はルターの出現以降、献金が集まらず大聖堂の建設は停滞してしまいます。また、各地には市民や修道士、ユダヤ人も含めて農民戦争が起こるようになります。農民戦争は教会や領主の厳しい税の取立てに対して起こった戦争です。 また、神聖ローマ時代は身分制度がはっきりしていました。数多く居た諸国王、領主司教をまとめていたのは皇帝(自身の定城は持たず、諸国を回っていました。)ですが、皇帝の上にはローマ法王が居ました。 >神聖ローマ帝国がローマの雌牛状態になった理由 ドイツの農民や市民(雌牛)から絞り取った税(乳)はローマ法王へもたらせました。 >ローマ教会に対する従順な姿勢をそれほどに生むほどにドイツ側が宗教的に敬虔だったからでしょうか? 神聖ローマ時代において宗教は、空気や水よりも生きていることに欠かせないものでした。そこに生きていた人たちにとっては教会は絶対で、教会中心で世の中が動いていたのです。従わなければ生きて行けませんでした。

elegantia
質問者

補足

ありがとうございました。この間、宗教改革の年にドイツはイタリアに向けて膨張するフランスを相手にして教皇側について戦争をしていたのだということがわかりました。それぐらいに、フランス側は中央集権化/強大化していて教皇側による搾取対象になりえなかったということでしょう。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

質問の主旨が理解できません。 もう少しかみ砕いた言い方をしてください。 「神聖ローマ帝国としてのドイツ側」というのが、いつの時代の事を言っているかが、全く不明です。 フランク王国の分裂時、神聖ローマ帝国の成立時、叙任権闘争後、大空位時代、宗教改革の前後、etc。 少なくとも、神聖ローマ帝国が、「ドイツ側が宗教的に敬虔だった」事はなかったでしょう。

関連するQ&A

  • 神聖ローマ帝国

    神聖ローマ帝国 高校生で世界史Bを勉強中です 神聖ローマ帝国は、フランスとかと同等の国家なのですよね? 教科書(山川出版)の‘17世紀なかばのヨーロッパ’と題される地図を見ると、神聖ローマ帝国の国境内部に ハプスブルク家の領土(スペイン家) ハプスブルク家の領土(オーストリア家) ホーエンツォレルン家(ブランデンブルク)の領土 ウェストファリア条約によるスウェーデンの領土 があります ここの意味がわかりません しかも、神聖ローマ帝国=ドイツですよね 「ドイツ国内は大小の領邦が分立」と書いてあり、さらに混乱状態です…(-_-#) さらにさらに、「神聖ローマ帝国カルロス1世が退位した後ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に分かれた」とあり、それでも神聖ローマ帝国は分裂せず存在しているのが、矛盾している気がしてしまいます ばーっと書いてしまったので、質問がわかりにくいかも知れませんが、よろしくお願いします(^。^;)

  • 神聖ローマ帝国って…?

    世界史の質問なのですが、フランスの王権伸長について勉強していたところ、ふと神聖ローマ帝国についてわからなくなってしまいました(汗 「イタリア戦争」ですが、これはイタリアが戦争に加わっているわけではなくて、イタリアの領土をめぐった戦争ですよね? 戦争しているのはフランスと神聖ローマだと塾で言われた気がするのですが、復習の段階で「ローマはイタリアじゃなかったっけ?」と思い、調べてみたところ、神聖ローマ帝国はドイツ、ローマはイタリアと出てきたので訳がわからなくなってしまい…。 神聖ローマ帝国とローマとは全く別なのでしょうか? イタリア戦争が本格化した、ヴァロア朝のシャルル8世期、戦っていた相手国は神聖ローマ皇帝のカール5世だったと思いますが、そのカール5世について辞書をひいたところドイツ皇帝と載っていたので、やはり現在で言うドイツを指すのかなと思いました。 ただ、数日前にアナーニ事件やアヴィニョン捕囚、大シスマについて勉強していたのですが、ローマ教皇はアヴィニョンに移される前ローマにいましたよね。ローマはイタリアにあるので、つまりローマ教皇もローマ皇帝もイタリアの人物だと思っていたのですが…。教皇と皇帝の違いすらあやふやになってます;; どなたかご説明してくださると助かります。 よろしくお願い致します。

  • 神聖ローマ帝国とドイツ民族国家について

    神聖ローマ帝国とドイツ民族国家について質問です。 「神聖ローマ帝国」とは、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家だが、様々な領邦が形成した国家連合でもあり、皇帝の権威も弱いという国家であったのですが、ここで以下の質問です。 1.「神聖ローマ帝国」は、ある皮肉として、18世紀のフランス知識人、ボルテールが時代的制約の下で発言した名言、「神聖でもなければローマでもなく帝国でもない」と書かれているが、ここで質問です。 ボルテールが、「神聖ローマ帝国」は「神聖でもなければローマでもなく帝国でもない」と言ったなら、では「神聖ローマ帝国」はドイツ民族の国家だったのでしょうか? 2.「神聖ローマ帝国」の言語は、ドイツ語以外にも、ラテン語、イタリア語、チェコ語、オランダ語、フリジア語、フランス語、スロベニア語、ソルブ語、ポーランド語などがあるが、ここで質問です。 これ程までの様々な言語があるなら、「神聖ローマ帝国」は多民族国家になりますよね。 だとしたら、ナチスの指導者、アドルフ・ヒトラーは「神聖ローマ帝国」を「第一帝国=ドイツ人帝国」を呼ぶには無理があるのではないでしょうか(要はドイツ民族の帝国として呼ぶには相応しいのでしょうか?)?

  • 神聖ローマ帝国について(受験生です)

    962年にオットー1世が戴冠され、神聖ローマ帝国ができましたが、これは東フランク国王だったオットーは”皇帝”になったかと思うのですが 皇帝というコトバは中国における皇帝とヨーロッパにおける皇帝とは どう違うのでしょうか?ヨーロッパの方は地上におけるイエスの代理と 認識しているのですが間違いないでしょうか?あと皇帝というのは国王よりも偉いのでしょうか?そして、神聖ローマ帝国というのは実在するものなのでしょうか?それとも、概念として存在しているものなのでしょうか?後にドイツ領内は分権化し後にハプスブルク家が帝位を世襲しはじめ、後にオーストリアの国王も兼ね、ウェストファリア条約を経て、オーストリアの国王であるハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねると思うのですがハプスブルク家、オーストリアというものも よくわかりません。稚拙な文章ですがどうぞ御回答宜しくお願いします。

  • モンゴル軍が神聖ローマ帝国へ侵攻しなかったのは。

    モンゴル軍は、ポーランド王国相手に「ワールシュタットの戦い」で大勝利を収めましたが、占領せず撤退しています。 この勢いであれば神聖ローマ帝国へ侵攻できたはずですが、モンゴル軍は、なぜ神聖ローマ帝国へ攻め込まなかったのですか。 いろんな理由があると思いますが、私が思いついたのは次のような理由です。 どれか一つくらいは合っていますか。 ア.やはりカネが続かなかった。 イ.遠征の戦い続きで戦士の士気が落ちた。 ウ.ポーランド王国や神聖ローマ帝国は、魅力的な産物に乏しい寒冷地で、占領するに値しない。 エ.神聖ローマ帝国へは侵攻を試みたが手ごわい相手だった。 よろしくお願いします。

  • 歴史上最も長く続いた国、帝国、政権はどこでしょうか。

    歴史上最も長く続いた国、帝国、政権はどこでしょうか。 神聖ローマ帝国、東ローマ帝国、イギリス王国、フランク王国、オスマン帝国・・・・ 色々調べていますが、解釈の違いもあるでしょうし、どう考えるかにもよるでしょうが、もしかしたら我が国日本かもしれません。 他の民族に支配されたことがないので。 どうでしょう

  • 西ローマ帝国滅亡後の教会

    西ローマ帝国がオドアケルにより、滅ぼされたとありますが、別に、皇帝がいなくなっただけで、西ローマ帝国全域をオドアケルが支配した訳では無いですよね? そもそも、西ローマ帝国に所属していた教会は西ローマが滅びたのにどうして、存続していたのですか?また、その教会にはどうして、フランク王国カロリング朝のピピンを西ローマ帝国の皇帝にする権利があったのですか?更に、西ローマ帝国の皇帝になったからと言って、それは名称が変わっただけで、その時点では領土に変わりはなかった訳ですか? 宜しくお願い致します。

  • 西ローマ帝国の冠はいずこに??

    質問2つで恐縮です。 1.カール大帝が戴冠した西ローマ帝国の冠は、その後、誰のときまでかぶられて いたのでしょうか? フランク王国が分割した際、西・東・中フランク「王」国という 名前になっており、あれ、帝国じゃないの?と思った次第です。 2.また、そのカールが戴冠した冠は、オドアケルが西ローマを滅ぼした後からずっと、 ローマ教皇が数百年も保管していたのでしょうか?

  • 聖職叙任権闘争がフランス王国ではどうだったの?

    神聖ローマ帝国、イギリス、では聖職叙任権闘争に教会側が勝利していますが、フランス王国ではどうだったのでしょうか?

  • ローマ帝国とフランク王国の関係について。

    「西洋史概説」という授業を受けている大学1年です。 今回、このレポート課題を出されて困っております。 ローマ帝国の分裂の背後にある、フランク族を含めたゲルマン人の進入、そしてそれに伴う軍事強化、重税による人民の離心などは理解しているつもりです。 又、ゲルマン人の国家によって西ローマ帝国が滅びたこと、 東ローマの皇帝に対抗するべく、教皇がフランク王国を支持したこと (カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国の復活」) なども知ってはいるのですが、 ローマ帝国(恐らく東ローマ帝国)と、フランク王国の関係、と 言われると???となってしまいます。 参考文献も、別個に述べているものばかりで使うことが出来ません。 良い文献がありましたらご教授ください。 お願いします。