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薩長同盟

幕末、なぜ薩長は手を結んだのでしょうか。薩長同盟の性質&目的について教えてください。

  • copio
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  • ベストアンサー
  • komes
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回答No.2

長州藩は尊皇攘夷を忠実に実行した結果欧州連合軍艦隊に完敗し、また幕府軍の長州征伐にあいました。 しかし新軍制による奇兵隊などの活躍で都度優勢を維持してきました。 しかも数次の戦争の間に幕府軍の弱体が判明し、幕府軍に参加した諸藩の戦意が弱い事を知り、倒幕の可能性がある事を知るようになったのです。 しかし長州藩だけではその可能性も少ないことを自覚していました。 この為同志を糾合する必要性を感じ、有力な諸藩に働きかけていました。 土佐藩は佐幕派であり、肥前鍋島藩は自重派でした。 薩摩藩は倒幕派でしたが薩摩と長州とは蛤御門の変で闘い長州の敗戦の原因でしたのでいわば犬猿の仲で到底手を組む事は出来ない関係でした。 この仲を取り持ったのが土佐脱藩の坂本龍馬でした。 彼は有力な薩長両藩がお互いにいがみ合う事は幕府を利するだけであると説き、両者の同盟を結成する事に成功しました。  その結果海外との貿易手段を有していた長州藩が薩摩藩の新式銃を輸入するのを援助しました。 この結果、既に外国艦隊と戦闘の経験があり、近代的武器の威力を良く知り軍備を一新していた薩長が倒幕戦に乗り出す事になったのです。

copio
質問者

お礼

詳しい説明ありがとうございます。よく理解できました。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • mouryou
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回答No.1

 確かに倒幕の時点でも薩長はお互いの仲が悪くできるのであれば単独で倒幕したいと思っていたことでしょう。おそらく幕府を倒幕した後、幕府を作るのではと疑っていたことでしょう。それでも手を組んだのは1藩では流石に土台の緩んだ幕府といえど倒せる自信がなかったからです。  幕府はその当時、フランス式の洋兵部隊を持っていましたし、海軍力も日本随一でした。そのため土佐や洋式軍隊の充実した肥前を味方にと工作しています。時代の流れとはいえ、戦術上の勝利は火力で決することが多いのです、もし鳥羽伏見の戦いで負けていたら明治維新といったかたちではない新しい日本というのがあったかもしれませんね。

copio
質問者

お礼

もう一つの質問にも答えていただいて本当にありがとうございます。参考にさせていただきます。

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