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対話の探求

対話は人となされるものばかりとはかぎりません。 対話は、自己があることにもつながり、ないことにもつながっています。 対話とはいったい何でしょうか。 自由なご回答を広く いただきたく存じます。 お礼欄はゆっくりですが 必ず書きます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.7

まつ 時。 熔け一体となる。 拍手は別にもとめない。。。 なるに任せる。

noname#96295
質問者

お礼

他者の輪郭線を引きながら 自己の輪郭線を引くような、時間に  輪郭線は 在ったから引かれたのか 引かれたから在るのか迷いつつ そういうことでもなくて、 むしろ複数と一の問題であるという確信にも似て。 ビリヤード台に 無数の軌跡が潜んで在って 混沌 錯綜 渦は、現れてはいないけれども 約束のなかに 場が 一つ現れるのを 観つつ追いかけています。

noname#96295
質問者

補足

たとえば梅の木や、池の鯉の輪郭。 電話相手や、目の前の相手、おもいでのなかの誰かの輪郭。。。。。

その他の回答 (9)

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.10

対話できて 僕にとって よい時でした。 ありがとう。 お元気で。

noname#96295
質問者

お礼

来てくださってよかった。。。 ありがとうございました。 一筆、天上大風 の言葉をいただいたときに、 精神の自由を思いました。 精神の自由がないところには、対話はないと。 きれいな凧揚げを みせてもらいました しばし横にいました 強度と深度にみちた時空はずっと晴天不動でそこにありました

noname#96295
質問者

補足

私は遊びの上手な人が好きです。 囚われのない遊びは きれいな遊びですね。 不自由を感じない。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.9

感情での共感は等価であっても 思想上の同感は深度が異なる場合がおうおうにして有る。 また 現象界に現れるときは方法論も多岐に分派する。 思いは同じであるのかもしれないけれど 在り方の美 意識 玉でありたい。。。 玉を懐に持つものには 僕はなれないと思う。

noname#96295
質問者

お礼

そう 多岐ですね。 多岐が解ることを、同意する意識 その波乗り感覚をどこかで 幾何学的センスと呼んではみたけれど。 玉は 様相を反射する性質、鏡だから 傷や曇りがつかないように 何かでくるまれていたり 映るものと映らないものがあったり 相手を招き入れるものであったり。 むしろ凧揚げを楽しみたいですね。 懐に 揚がる凧を持っている人は他に何もいらない 糸さえ強ければ。 晴天のなかへ 釣り人のように 向こうへゆだねて お茶でも飲みたいです。 

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.8

それ以上 どうすることもできないものもある 時間が醸成するもの 天上大風

noname#96295
質問者

お礼

あ みるみるのぼっていく。 頼りないような不安な気持になりながら糸をしっかり持って 顔がしぜんに笑ってしまう。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.6

現象に対して感受すること それを言葉として現されたものは 自己の中に同じものを観る。 自然との対話の中には 小ざかしい意図性はない 触れ 読み 在る。

noname#96295
質問者

お礼

たしかに 強いね。 現象は 外部をただ約束しているけれど 実際 外部はすごい動き方をしている。 自己の場に 現れる。 現れという字は、玉光のことなんだけれど、 願わくは光に触れ 光を読み、  同時存在を 始まりにも終わりにもしたい。 対話は同時存在の力であればとあらためて思う。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.5

ビリヤードか。 小気味のいい反発。 反応。 打っても響かない太鼓じゃ対話は面白くないですよね。

noname#96295
質問者

お礼

片手の拍手の音は如何に、ってね。 しかと聴こえまするが?、って答えたら、やっぱりいけないんでしょうね。 響かない太鼓もある。 響きを他者と分かち合えない、ということもある。 打ったって別のところばかり響くようなのもあるし。 そういう対話の失敗には どうしようもなく絶望的なものがある。 どういう希望が残されたのかな、 世界には。

noname#96295
質問者

補足

手を打つとき、 右手は 左手が 在ることを知っているのか。。。 そして左手は 右手が 在ることを。。。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.4

対話。。。。。 言葉はなくとも 在る ということが解るだけで いいのだ。

noname#96295
質問者

お礼

そうかもしれない。 対話の拒絶は、自殺、他殺、無視、であるならば。 いや それさえも対話であるような 狂いかたもある。 在る ということを 解るために そうするんだろうか。 在る、ただし何がというのではなく、 けっきょく、在りとは全一のひとつの結束で、 無い、ということが全一的に解るだけ と、なんてよく似ているんだろう? 有りを奪われて在ること、なんて言い草も、20世紀にはあったっけ。 初めに言葉ありき、なんて台詞も。 それよりは、欠けた在りを抱えて有り、と言いたいね。。。 動に巻き込まれている 巻き込まれ方が、同じと感じられるかどうか。 時 場 境界 予測 力 軌跡 反射 我 対象  対話は、、、けっこう厄介なんだろうか。 じつはいま ビリヤードの上達をはかっているところです。複雑系って領域とは関係なしに。 たぶん、この質問を開いたとき、少しビリヤードをしたくなっていた。

noname#194289
noname#194289
回答No.3

人間は頭の中では本質的に孤独です(人間でも体は本質的に孤独ということありません)。孤独な人間が孤独でないかのように思うことは対話のはたらきです。ですから基本的には生きている人との対話が対話ということになります。しかし実際には人間が頭の中では孤独であるという事実は変わりません。逆説ですが人間は孤独であるが故に今は生きていない人人とも対話が可能です(書物や幻術作品などを介して)。

noname#96295
質問者

お礼

孤独が本質的であるかどうかは、問題のとり方によっては、難しいところでもありますね。 至福感は何らかの揺曳、繋がり、ひろがりを、孤独の中にも充満させます。孤独はかならずしも孤独ではない、ひたされた自我の発見でもありますでしょう。 その意味では、まさに、 > 孤独であるが故に今は生きていない人人とも対話 することにもなりましょう。 ホーソーンという作家の、「顔面の大岩」でしたか、岩との対話を通して哲人となる青年の話ですね。 ロシアの「石の花」などもある意味では石と彫刻家の対話なのかもしれませんが、 自然や素材が、人の頭の中に対話を生み出しながら、学と芸術の域に達しめることがあるのは、 おっしゃるとおりに、人間の孤独なありようと関わっているのかもしれません。

noname#96295
質問者

補足

初対面の方というのに、 お礼を申し述べるのを忘れ、失礼いたしました。 ありがとうございました。

回答No.2

私は、対話とは「モノ」とすることではないと思います。 なぜなら、対話とは相手が自分の質問に答えてくれることで成立するモノだと思います。 相手を理解し、自分を理解してもらうための、伝達手段だと私は思います。 対話と言わず、様々なことで相手を理解することが出来ると思います。 それは、ボクシングのリングの上であり、テニスのリンクの上でも、同じだと思います。 つまり、「対話」とは手段は違えど、相手を理解する一つの手段であると私は思います。 (すみません、うまくまとまりませんでした・・。)

noname#96295
質問者

お礼

いえいえ、ちゃんとまとまっていると思います。ありがとうございます。 そうですね、モノが答えてくれないとすると、対話になりませんね。 答えてくれない人が相手だったりもして。 相手を理解しているとき、相手もわたしを理解しているのでしょうか。。。 どうかわからないけど、それでも、理解しようとする手段が対話なのかもしれませんね。 野球のピッチャー対バッターとかもそうですが、勝負の世界で 技を見切ったとか、手の内を読んだとか、言いますよね。 そこにも何か、無言の対話がありそうですね。好敵手とは真の理解者かもしれません。

回答No.1

誰かと自分が何かを感じる、何かを共鳴する。 相手は、人間、自然、宇宙、芸術(絵画、音楽、石造、文化・・) と幅広いと思いますし、 自己満足での自然との対話もありでしょう。 更に、自分の心の中で、心と魂が対話することもあります。 魂の中で、心と魂が対話することはありません。 魂には対話する場所がありません、心には対話する場所として言葉を使えるようになっています。 一度昔経験したことがあります。 心では友人と喧嘩しののしっているのです、そのさなかに魂がそこまで言わなくても良いのに と心は聞きながら無視して続けてののしっている自分に気が付きました。

noname#96295
質問者

お礼

示唆に富んだご回答をありがとうございます。 共鳴には技術もありますね。技術と呼んでよいかわかりませんが。 自己自身との共鳴は、狂わせるとやっかいなものです。 ご経験されたことは、興味深い内容です。 たましいは鬼と一字で書きますが、雲にたなびくものと白い骨に残るものとに分かれて 「云鬼」(コン)と「白鬼」(ハク)になります。 口からでるこころは言と書きます。 たましいのなかには云があり、言のなかにはこころがあります。 口を用いた心の発露に長けた、理知の青年時代を送られたことがうかがえます。 いまの子供の多くは 云のなかにこころを霞のごとく、言のなかにたましいを夢のごとく求めてしまいます。

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