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G・ガルシア=マルケス 『大きな翼を持った老人』感想
G・ガルシア=マルケスの『大きな翼を持った老人』を読んで感想文を書いているのですが、簡単な作品ではないので悩んでいます。 翼を持った老人が現れることによって浮き彫りになる人間の滑稽さ、自己中心さ、思慮の低さ、ということは感じていますが…。 皆さんはどのようなことを感じるだろうかと、質問させていただきました。 参考に、お教え下さいm(_ _)m
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- zephyrus
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この翼の生えた老人、何なんでしょうね。 何かの寓意でしょうか。 それとも人々が言うように、本当に天使なんでしょうか。 天使にしては「曽祖父を思わせる惨めたらしい恰好で、威厳らしいものはこれっぽちもな」い。 悪魔めいている。勇気があれば「棒で殴り殺」してやりたいくらい。 「神のことばを解せず、その代理人(つまり神父さんですね)に挨拶を返すことも知らない」。 周りのことに無頓着なだけでなく、「自分をめぐって起きている事態に」さえ「無関心」。 肉体に対する苦痛はあるらしいが、一人前に怒りや憤りが備わっているかはあやしい。 奇跡を起こすわけでも、「人間的な真実味」があるわけでも、「恐ろしい教訓」をほのめかすわけでもない。 何の脅威も感じない。人畜無害なだけ。 何も与えない。何も奪わないかわりに。 これほど魅力のない存在もめずらしい。 だからちょっとしたきっかけで(蜘蛛女の出現)、 あれほど熱狂していた人びとは、すぐにすっかり忘れ去ってしまいます。もはや誰も顧みない。 人びとの関心を引こうが引くまいが、相変わらず鶏小屋で汚れている、何なんでしょう、 一体、この老いた生き物は。 そしてただ、人間であるべき背中から、一点の曇りもなく翼が生えているのです。 「ほかの人間が同じように翼を持たぬ理由が納得しかねたほど」自然に。合理的に。 その翼もぼろぼろになり、いよいよ死んでしまうかと懸念した途端、 最少の元気を快復して、よたよたと飛び立っていってしまいます。 なにかがあった。それは終わってみれば、誰の負担にもならないものだったが。 なにかが目の前を通過した。それは何の主張も要求もしないものだったが。 そして、そのために家族が少しばかり裕福になった。それだけだ。 本物の天使とは、われわれが想像するものとは随分ようすが違って、あんなものなのかもしれない。 また、あれが天使でなかったとしても、あれがここに何年かいたことは事実だろう。 ちょうど、長い人生のあいだには、そんなふうにわれわれの前を通り過ぎていく人びとがいるように。 そういう人たちが確かにいるように、その老人も確かにここにいた。 え、なんだって?翼の生えた老人だよ。 ええ、いたんです。 だんだん、そう思いはじめてきませんか。 以上、まったく自己流の読みです。(あまりうまく書けなかった。ごめんなさい) 参考になるところあれば幸いです。 なお、「 」内は、ちくま文庫にある『エレンディラ』中、『大きな翼のある、ひどく年取った男』鼓直氏訳からの引用です。翻訳者に感謝します。
お礼
回答ありがとうございます(o^∀^) そうですね、この老人はとことん無関心ですね。 この無関心さが神的(俗っぽくない)なんだと思います。