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本能って何? その正体は?

あえて「哲学」カテゴリで質問します。 すべての生物が持っていると思われている生命維持や種保存の本能のことです。 霊魂という言葉を否定する科学者も、本能という言葉は、わりと平気で使います。 生物談義では、「それは本能だから」の一言で片付けられてしまうことも多い ように思います。 本能だってワケのわからなさにおいては、霊魂などと大差ないのではないでしょうか? 本能って何なのでしょうか? 実在なのでしょうか? 概念なのでしょうか? 皆さんはどう思われますか?

みんなの回答

noname#254
noname#254
回答No.10

 さて、無理やりにでも哲学の話題にしないと…。ってわけで、「人間と本能」です。両者の関係がどう捉えられているか、概観します。叩き台にでもなれば。 1.本能の役割を大きく認めるもの  なんと言ってもフロイト。車で言えばガソリンタンクにあたる「イド」から無尽蔵に湧き出す「リビドー」(生のエネルギー、しばしば性欲と同一視される)が、人間の行動すべてを突き動かしている。倫理なんかは「内面化された他在」でしかないのだ! 2.人間は本能を失っているとするもの  言語哲学系の論者が多くとる立場。人間が本能的・生理的に外界と関わるのは生後のほんの一時期だけで、その後は文化の網の目を通してしか外界と関われなくなる、とする。性欲も本能によるというより、外からの刺激に「あおられて」作られる。性欲すら「内面化された他在」でしかないのだ! 3.どっちもあるぞ!  人格形成が「遺伝」「環境」双方の影響を受けてなされるとする「輻奏説(ふくそう・せつ)」をとる心理学。…ということは、現在主流の心理学のほとんど。ヒネたものとしては、人間に消去不能の形で内蔵された暴力性が、自己否定的に社会秩序を形成するとするルネ・ジラールとか、文化と本能の間隙に現れる「過剰」が「エロティシズム」なのだとするジョルジュ・バタイユとか…。  他にもあると思いますが、また思い出したら。

mori0309
質問者

お礼

ありがとうございます。 stomachmanさんへのお礼のなかで、ozapanさんの敬称が抜けていました。失礼しました。

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.9

どうもstomachmanです。 ハチとハエとアオムシの話。 関係している生き物はあと2匹いるんですが、お気づきになりませんでした? ・好奇心のために2時間釘付けになってた、stomachman。 ・センチになった、mori0309さん。

mori0309
質問者

お礼

何を示唆されてます? 深遠すぎて、ちょっと見えないです。 う~ん、、、、 この五者の関係論ですか、、、生物学的? 数学的? 哲学的? 文学的? 芸術的? (また仕事が上の空に、、、)

  • tabio
  • ベストアンサー率29% (5/17)
回答No.8

「哲学」というカテゴリーで、ということなので。 本能とは、生きとし生けるもの、すべてに平等に与えられた、 自分の肉体を保持、維持していくための能力だと思います。 ですから、下のご回答では否定されていた性欲も、 その範疇に入れることができるでしょう。 自分の肉体を守ると同時に、その肉体の情報を遺伝子に乗せる ことによって、後の世まで生きながらえようとするわけですから。 生まれたばかりの赤ちゃんが、お母さんの乳房にムシャブリつくのも 「自分自身」が生きたいがため。 ウミガメの赤ちゃんが、殻を破ってすぐに海へと向かうのも 「自分自身」が生きたいがため。 従って本能とは、利己(エゴ)の塊だと言い換えることができると思います。 しかし、そう言い換えることによって、本能とは実在であり、概念でもある ということになってしまうのでしょうかね。 追記 mori0309さんは、いつも新鮮かつ深遠なご質問を寄せられますね。 その質問に対して、私だけではなく、たくさんの人々が思考をめぐらせる。 これこそ「哲学」なのだと思います。 たとえば人間というものを、特に西欧的な科学はとことんパーツに分解して いきました。人間というもの、あるいは「生」というものを知るために。 ところが、いつの間にやら、あんな細胞、こんな機能を組み立てていけば、 人間になるんだ、というふうになってしまったように思います。 パーツをいくらうまく組み立てたとして、生なるもの、ましてや人間なんて できないのにね。究明していく順序が、逆なんじゃないかと思います。 たしかに、人間、生なるものはたくさんのパーツによって構成されています。 じゃあ、どうしてそのパーツが寄り集まったら、たとえば人間になるの? 数多あるパーツをうまく機能させているものは何? その場合に、質問されたように、それは本能というものがパーツを機能させて いるんだ、あるいは脳がそうせさているんだ、という答えがかえってくるのか もしれません。 じゃあ、本能をそうさせているものは何? 脳をそういうふうに働かせている ものは何? 私ごときの頭では、答えを出すことができません。 しかし、学も何もない私でも、そういうことに答えを出そうとして考える。 mori0309さんのご質問は、結構よい体操になりますよ。 関係のないことを長々とすみませんでした。

mori0309
質問者

お礼

tabioさん、回答ありがとうございます。別室でいただいた回答もあわせて考えてみますと tabioさんと私とは、ものの捕らえ方・考え方が、私とかなり似ているなあと、勝手に想像 させていただいております。 > 究明していく順序が、逆なんじゃないかと思います。 まったく同感です。私もいつもそう感じていました。バラバラに分解して、しくみを解き 明かせば、それで真理は究明できたつもりになってしまう。でも、部品や仕組みによって 全体として実現されているもの、それらによって顕現されているもの、そちらのほうに、 より大きな真理があって、そういうものは分析的理性や何でも怜悧に相対化したがる知性 には、分からない(見えない)だろうと思うんです。「実現されているもの」や「顕現され ているもの」は「部品や仕組み」をはるかに超えたものかもしれない。「全体」が「部品や 仕組み」の必然的展開物ならば、それは単なる「言い換え」や「繰り返し」にすぎないと いうことになる。自然はそんな無駄なことはしないと思うんです。 (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.7

 見つけたのは、公園の大きな砂場の真ん中でした。緑色のアオムシを引きずっている小さい寄生蜂。穴に埋めて、卵を産み付けるためです。自分の身体の数倍ある青虫を引きずって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、ちっとも方向が定まらない。アオムシの頭を引っ張ったり、尻尾を引っ張ったり、砂のわずかな凹凸を乗り越えるのに大変な苦労をしているようです。アオムシは既に麻酔されているらしく全く動きません。それにしても、穴を掘るのにこんなに適していない場所で、一体何をやってるんでしょうか。  しかし、五十センチほど離れた砂の上にもっと小さなハエが一匹いることに気が付いて、息を飲みました。北杜夫の短編で読んだことがある。寄生蜂が穴を掘っている隙に青虫に卵を産み付ける寄生蠅です。ハチの卵が孵化するより早くこのハエの卵が孵って、青虫もハチの卵も食べてしまうという。  走り回っているガキ共が踏みつけないように注意を払いながら、観察を続けました。ハエは歩いたりちょっと飛んだりしながら、じりじりと間合いを詰めてきます。しかし、ハエにしてみてもハチが穴を掘り始めてくれなくては手も足も出ない筈です。今近付いたらハチは青虫を捨ててしまうのでしょう。一方ハチの方はまるですっかりうろたえているよう。穴を掘ったらハエの思う壺であることをよく分かっていて、なんとか振り切ろうとしているようですが、巨大な青虫を引きずるだけで精一杯です。ハエは距離を保ったまま執拗に位置を変える。ハチも逃れようとして行きつ戻りつする。どちらも、手を伸ばせば届くところにヒトがいるのに、全く気にしていないようです。  2時間。距離にして3メートルほどしか動いていません。突然、ハチは青虫を放棄して林の方へ飛んで行ってしまいました。するとハエも、青虫に目もくれずに飛び去ります。ハチは諦めたんでしょうか。いや、すでに日が傾き始めていました。おそらくハチにとって「時間切れ」になったのだと思います。そしてハチが引きずっていない青虫は、ハエにとっては無意味なんですね。  これがstomachmanの見た、ひとつの「本能」です。

mori0309
質問者

お礼

stomachmanさん、私はこういう文章にヨワイんです。ものすご~く文学的に読んでしまう んです。「存在すること・存在し続けていかなければならないことの悲哀」みたいなものを 感じてしまうんです。これは、しかしドラマです。三つの生き物に、何だか共感めいた ものすら感じます。やっぱり本能は、記述可能な記号だとしても、実際にそれが動いて いる様は、人の心に何かを訴えてきますね。(センチすぎますか)

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.6

 またまたmori0309さんてば、素直な回答者たちを巻き込むお積りで?質問を作るの、本当に旨いなあ。回答者の皆さんは是非mori0309さんの「過去問」チェックしましょう。  蜘蛛が巣を掛けるところをずっと眺めてますと、実に上手です。変な形の枝の間に見事に丸い巣を作りますね。よく見ると単に機械的動作というんじゃない。ちょっと確かめたり手直ししたりしてます。この小さい体の、顕微鏡的な神経節でこの行動をやってるのかと思うと、不思議さにうたれます。身体の構造が遺伝的であるように、神経回路(あるいはソフトと言ってもいいけど)が遺伝的である。そういうものが本能ですね。  見ていると賢そうでも、実は非常に簡単なルールの連鎖に基づいていることが知られています。たとえばファーブル昆虫記にも、寄生蜂の話がでてきますよね。こういう種類の知的能力は虫よりコンピュータの方が遙かに上ですが、しかし周囲の環境を認識する能力はコンピュータなど足下にも及びません。もちろんその能力も遺伝的であり、広い意味で本能の一部です。  いやいや、人間だってたいしたことはないんですよ。円をひとつ描く。その中に左右並べて黒い点を描き、下の方に横に短い線を描く。少しずつ変えていっぱい描いてみましょう。なんでこんなものが顔に見えますか。感情まで読みとってしまう。とんでもない誤認ですねえ。この誤認によって、漫画って成り立ってます。  ちなみに、職人の技能もルール(AであるならBをせよ)の集合でかなり再現できる。これに着目したのが知識工学(knowledge Engineering)における「プロダクションシステム」であり、いわゆる80年代中盤の人工知能ブームの主役でしたね。

mori0309
質問者

お礼

> 素直な回答者たちを巻き込むお積りで? そんなぁ、、、私に余裕など全然ないです。このOKWebは、深い森のなかをさまよい 歩くうちに見つけた謎の大宮殿です。秘密の部屋のとびらを、これ以上開けるのが、怖く なってきました。何かにのりうつられたり、魂を吸い取られるような気がして、、、 (コラ、電波、オカルトはやめろ) > 見ていると賢そうでも、実は非常に簡単なルールの連鎖に基づいていることが知られて > います。 なるほど。そうなのでしょうね。でも私は、それがどんどん高度なものに自己発展していく というのが不思議でしょうがないです。ozapanからいただいた回答のなかの一般的な進化論 で「高度なものへの自己発展」の説明は片付くのでしょうか。 (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

noname#254
noname#254
回答No.5

 marimo_cxさんの「遺伝的に組み込まれた要素」という説明は適切です。遺伝的に、ということはDNAに刻み込まれている、ということです。紛れもなく物質的基盤を持つものですから、これ自体に関しては、そう遠くない将来に科学的説明がなされるのではないかと思います。  「本能」とは「生物種が進化の過程で獲得してきた、生存と種の保存を利する行動パターンの型」であって、ROM(リード・オンリー・メモリー)に喩えられるものだと思います。遺伝的ですから、先天的で、ハードウェア的、そして書き換え不能。  ただ、上の段落に書いたことには、二点ほど修正・補足しなければならないことがあります。  一つは「進化の過程で獲得してきた」という部分。進化論に照らせば、あまり適切な言い方ではありません。この事態は、「種が獲得した」という肯定的・積極的なものではなく、「ある行動パターンを持たない個体は、死滅して子孫を残せずに終わった」と、否定的な形で記述すべきです。「生存や種の保存に利する行動パターンを、たまたま持っていた個体だけが子孫を残す」、ということを、生物はしてきた。そうして、今日たまたま生き残っている生物種の行動パターンを指して、僕たちは「本能」と呼んでいるわけです。(これに対して、「獲得形質が遺伝する」と考えるのがラマルク進化論で、今日なお支持者がいますが、ほぼ否定されたと言っていいと思います。これ…実はユングの「元型」論に関係があります。別室での話題ですが。)  もう一つ。「本能」をROMに喩えて「書き換え不能」としたところについてです。確かにそうであろうとは思うのですが、しかし、これだけの書き方では、そのふるまいが「決定論的」なものであると受け取られかねない危険性があります。たとえその実体がDNAという物質的・固定的なものであったとしても、そのふるまいはというと、実にダイナミックなのです。  例えば、イワシなどの小型魚は、大きな群れを作って回遊します。そうした行動が、自然界の中では彼らの安全確保に有利だったのでしょう。ところが、人間は大きな魚網を使って文字通りその群れを「一網打尽」にします。この場合に限って言えば、群れをなすのは不利なわけです。かえって「孤独を愛するイワシ」の方が助かる。「そんなイワシ、いるかいな?」と思われるでしょうが、現実に、いるんです。「まれには」ですが。  もちろん、そうした「孤独を愛するイワシ」には大きなリスクが課せられますので、実際に子孫を残すのは難しいでしょう。そしてもちろん、そうしたイワシの子孫が「群れを形成しないイワシ」として、一個の独立した「種」になるまでには、気の遠くなるような時間がかかります。が、そういう「ひねくれ者」がいるからこそ、種としての生存可能性も広がるのです。  また別の実験例も聞いています。ダンゴムシです。『ナウシカ』に出てくるオームの小さいやつです。これは壁と床のへりのような、カドっこに沿って歩く習性があります。ですから、円筒の容器に入れてやると、いつまでも底のへりを円を描いて歩きつづけるわけです。が、このダンゴムシにも、時々その円から逸脱して歩く瞬間がやってくる。その単純な神経系の中で、何かの「ゆらぎ」が蓄積して、本能が敷いたレールから飛び出させるのです。この場合も、「いつまでも律儀に本能に従う真面目なヤツ」よりも「落ち着きがなくていいかげんなヤツ」の方が、種の存続可能性を広げることになります。  この、イワシの話とダンゴムシの話で注目していただきたいのは、「はぐれ者個体」も「ふらふら個体」も、遺伝子レベルでの突然変異の結果、そうした行動をとっているわけ「ではない」ということです。遺伝子による決定ではなく、個体の中での、ある種の「ゆらぎ」が、個体にそうした行動をとらせている。  ここで、さきほど述べた「たまたま生き残っている種の行動パターンを指して、われわれは『本能』と呼んでいる」ということを思い起こしてください。このことと、さきほどの「はぐれ個体」「ふらふら個体」の話とを考え合わせると、「はぐれ」も「ふらふら」も、あるいは遠い未来において「種」として確立されてくるかもしれない。だとすると、その「はぐれ」も「ふらふら」も、その時には「本能」と呼ばれることになるのです。  このように考えますと、次のようなことがいえます。すなわち、「本能」というのは、時間を固定して「今、目の前にあるDNAに刻み込まれた本能」として分析すれば、おそらく、かなり唯物論的な説明が可能でしょう。が、しかし、長い時間の中での、その形成過程やふるまいを見ようとすると、それだけではいけない。実際の「本能」は、DNAという決定論的な要素(秩序)と、危険に満ち、千変万化する周囲の自然環境(事実上のカオス)との間の、「カオスの縁」で、その両方の作用を受けながら形成(自己組織化)されるのです。そういう意味では、DNAを解読したからと言って「本能」の解明が尽くされたということにはならないはずです。自己パクリですが、「一万円札が紙であると喝破したところで、貨幣とは何かを論じられない」というのと、同じことです。  「本能」…これまた…難しいですね…

mori0309
質問者

お礼

ozapanさん、ありがとうございます。 「生存と種の保存を利する行動パターンの型」が本能の正体なのですね。私としては tabioさんの「利己(エゴ)の塊」という説明のほうが好きです。(そういう問題で ないのは分かっているんですけど) > 「種が獲得した」という肯定的・積極的なものではなく「ある行動パターンを持たない > 個体は、死滅して子孫を残せずに終わった」と、否定的な形で記述すべきです。 その「否定的」な進化論で、単細胞生物から人間まで進化してきたという事実を証明できる のでしょうか。否定的進化論では生物なんか簡単に滅びてしまうと思うのですが。進化は 離れた場所にいる個体同士の間で同時多発的に起こるのではありません? 生物にはすべて「絶対に滅びてやらないぞぉ~」という「意志」みたいなものがあって、 それが環境適応能力を高めていく原動力のような気がするのですが、センチな文学趣味で しょうか? 「意志」が「記号情報」でも別にいいです。その「記号情報」が、まったく の偶然で出現したと言われてもいいです。「存在は本質に先立つ」のですから。 (いいですとか、そういう問題じゃないですよね) 進化論をもっと続けたい(はぐれ者理論も興味が尽きない)ですけど、ちょっと勉強して からにさせてください。 (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

  • marimo_cx
  • ベストアンサー率25% (873/3452)
回答No.4

哲学との関わりが判りませんが…… 本能とはその生物が生存のために遺伝的に組込まれている要素です。 これの実装方法は神経回路だけではありません、その点に注意が必要でしょう。 ちなみに霊魂との関わりは私には理解できません。 > 本能って何なのでしょうか? 実在なのでしょうか? 概念なのでしょうか? 例えば自動車は走るように出来ている。 走る事について何か概念が関わるんでしょうか? 何が本能なのかは全て解っているわけではありませんが。

mori0309
質問者

お礼

marimo_cxさん、回答ありがとうございます。 > 哲学との関わりが判りませんが…… 生物を滅びることから救い、存続させようとする力(あるいは記号)の正体は 何か知りたかったのです。ひょっとしたらそれが生物の本質そのものかも知れない ですから。これは哲学的な問答にならざるを得ないと思いました。 > 自動車は走るように出来ている。走る事について何か概念が関わるんでしょうか? 自動車は運転者がいなければ動きません。だから「なぜ走るか」とか「走り方の法則は 内在されているのか」とか、問う必要がありません。しかし生物は別です。 (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

noname#1019
noname#1019
回答No.3

生物がその生命維持や種の保存の目的で起こす行動を「本能」に基づいた行動といえるでしょう。とすれば人間の行動も全て「本能」に基づいていると極論することもできるでしょう。しかし、ほとんどの学者が人間の行動が本能的であるかどうかを「意識」しているか「無意識」に行なっているかで区別しているようです。 例えば、人間がセックスをするという行動を考えてみると、「セックスをする」というのは人間の「本能」であると言うことができます。しかし、その行動そのものはほとんど「意識的」であるはずです。「本能」だけでセックスという行動をとる人間は「反社会的」とか「精神異常」というレッテルを貼られてしまいます。ほとんどの人間が「意識的」にセックスをしているのが現実です。では、人間にとってセックスとは「本能的」ではないのかというとそうではありません、ほとんどの人間がセックスすることを望み、実際に行動に移しているわけです。ということは人間の「無意識」の領域には「セックスをしたい」という「本能」があるということになります。 暗闇を怖がったり、見知らぬ人に突然追いかけられたら「何で追いかけてくるのだろう?」と考える前に逃げてしまうのが現実だと思います。それはやはり「本能」がなせるわざだと思います。 でも人間の行動においてどこまでが「本能」でどこからが「意識的」であるかの境目は非常に微妙だと思います。 ですから、私は「本能」というのは「概念」であって「実在」ではないと考えています。 「霊魂」の存在についてほとんどの学者が否定的であるのは、その存在が人間の外部に存在する「実在」である証拠が得られないためです。むしろ「霊魂」というのは人間がその「心(頭)」の中で意識する概念であると考えた方が説明しやすいのです。外部に存在していると感じるのは「錯覚」であると。しかし、「錯覚」という現象が実際に「心」の中で起こっているという事実は否定できないわけで、「霊魂」の存在を信じている人が「霊魂」は存在すると言っても嘘を言っているわけではなく、その人にとっては真実なのです。ですから現代の科学の解明している現象においては、まだ「霊魂」は「実在」ではなく「概念」なのです。 「実在」というのは科学によって解明されて初めて「実在」と呼べるものだと、私は思っています。

mori0309
質問者

お礼

masmasさん、回答ありがとうございます。 > 「本能」というのは「概念」であって「実在」ではないと考えています。 でも実際にその「本能」が「肉体」という物質を動かしているのですから、『「実在」では ない「概念」』で済ませるわけにもいかないような気もするのですが。 > 「霊魂」というのは人間がその「心(頭)」の中で意識する概念であると考えた方が > 説明しやすいのです。外部に存在していると感じるのは「錯覚」であると。しかし、 > 「錯覚」という現象が実際に「心」の中で起こっているという事実は否定できないわけ > で、「霊魂」の存在を信じている人が「霊魂」は存在すると言っても嘘を言っている > わけではなく、その人にとっては真実なのです。 とすると「国家」「民族」「会社」と言ったようなものも、「心(頭)」の中で意識する 「錯覚」であって実在しないと言えるでしょうか。(話が飛躍しすぎですけど) 結局、精神的・文学的なものはすべて「その人にとっての真実」の域を超えることができ ないのでしょうか。 (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

  • taneyan
  • ベストアンサー率33% (73/215)
回答No.2

最近あるメルマガで、この話が出ていました。 「生物が生き残る為に自然に備わっているもの。」というのが一応の結論となりました。 種の保存の為に、その種がなすべき自然の摂理、っていうことでしょうか。 植物でも、動物でも、生あるものは、必ず子孫を残そうとします。前の方が仰ってみえましたが、性欲は本能ではない、ということですが、私は性欲も本能の一部だと思います。 種の保存=子孫を残すという自然の摂理には性欲は必要だからです。 動物だけではなく、植物も雄しべと雌しべをもっています。これも性です。 性なくしては、種の保存と子孫の継承はありません。 本能=種の保存と継承のために必要な摂理 ではないかと考えています。

mori0309
質問者

お礼

taneyanさん、回答ありがとうございます。 > 本能=種の保存と継承のために必要な摂理ではないかと考えています。 「摂理」という言葉は、語感的には、獲得努力や形成過程なしに、はじめから存在する ものという気がします。本能とは「存在し続けたい」という「根本摂理」そのものなので しょうか? (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

回答No.1

私たちの行動は、自分の意思で判断して行動する場合があります。 しかし、無意識で行動(反応)を起こすことがあります。ほとんどの行動がこの無意識で行われている行動だと思います。意識ではどうすることもできない行動の一部を本能と言っていると思います。 人間の性欲は本能であるかについては、本能ではありません。狼少年のように幼いときに社会性が培われなかった子供には、性欲がなかったということです。 このように、無意識でどうすることもできないものでも、生まれてからの環境とうで作られた反応は本能と言いません。 本能は、主に小脳や中脳などで管理されています。私たちの手の指が5本であるように生まれもった個人が備えているといっていいでしょう。 霊魂とは何かということは、大変難しいです。この定義もはっきりしていないことが多いので答えられません。多くの場合人間の脳がまだ十分に解明されていないために、分からない部分を霊魂として理解をしようとしている場合が多いのです。 私は霊魂を否定するものではありませんが、霊魂が肉体を離れて、何かに影響を与えることについては、現在否定的な考えをしています。 我々人間(生物)とロボットの違いは、「霊魂があるか無いかの違い」と将来定義されるのではないかと思っています。

mori0309
質問者

お礼

sokuratesuさん、回答ありがとうございます。 > 本能は、主に小脳や中脳などで管理されています。私たちの手の指が5本であるように > 生まれもった個人が備えているといっていいでしょう。 遺伝子のなかに設計図として織り込まれているということなのですね。その設計図が形成 されてきた理由や原因は、ozapanさんの回答のなかの説が正しいと思われますか? > 多くの場合人間の脳がまだ十分に解明されていないために、分からない部分を霊魂として > 理解をしようとしている場合が多いのです。 霊魂なるものは脳のなかのどこかに偏在しているというお考えですか? > 我々人間(生物)とロボットの違いは、「霊魂があるか無いかの違い」と将来定義される > のではないかと思っています。 同感ですが、脳偏在説とは矛盾すると思うのですが? (再回答のお願いではないです。自分自身への問い(独り言)です)

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    こんにちは。 このサイトでは、よく幽霊がいるかいないかが議論されていますよね。 『実際に幽霊を見た』と様々な体験談を書いている方や、それに対して『きっと光の屈折や影の効果などによる誤認だ』と頑なに否定している方もいらっしゃいます。 よく持ち出されるのは『幽霊は未だ科学で証明されていない』という意見なのですが、ここからが質問です。 幽霊(霊魂)が科学で証明されていないという理由でその存在を否定するならば、では未だ科学で証明されていないけれども確かに存在する私達自身(私達の肉体に宿っているもの)、その『生命』というものはどう説明すればよいのでしょうか。 生命あるもの『死亡』すれば肉体だけが残り、生命力を失ったそれは同時に体内の全器官の機能が停止し、身体状態の保持能力の消滅、肉体の腐敗が始まるのですよね。(=土に還るということ??) では『生命力(精神?)』とは一体何なのでしょうか?科学によって定義づけられているわけでもなく数値や数式で表されているわけでもない。しかし、しっかりとここに存在している。 僕は幽霊を信じているわけではないですが、そう考えたとき、じゃあこの肉体に宿っているのは何なのか?と疑問に思ったので質問させていただきました。

  • 無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか?

     人間は知恵や知識が発達し、家族(~家の存続)村社会(共同体)というもの  が出来、皇族や豪族 武士等の当時国を制する立場の者は個人の墓というものは有 りましたが、元来当時の庶民層は共同体の墓地に納めるという形だったそうです  が、明治期にその様な身分が無く成り、~家としての墓が造られたという話を聞い た事があります。  ともあれ、弥生期頃には現在の様に法律や形式はありませんが、共同体で葬り  (土葬する位だったと思いますが)、死者を偲んだとも云われております。  それ以前 知恵 知識が発達する前は「死んだ認識も無く」「死ねば放置」  という事だったといわれております。  絶対的な神を否定する佛教の教え(無神論に近いと私は思いますが)も  「近しい方との別れ」「私も亡く成って行く」という悩みがあり、そこからの  解放が「ありのままに受け入れていく」という事で それが又死者に対する儀礼  (今日本ではこれが中心になり元来の佛教の思想とは離れたものになっていると   の指摘はありますが)へと繋がったとも云われております。  現代は科学が発達し、迷信や霊魂は否定 死後の世界等無い  だから「葬儀 墓無用」という方が増えていると思いますが、  その様な考えを持つ方で「無神論」と言われる方は人間の知恵が発達する前の  動物の死生観を引用されている方が多いと思います。  つまり知恵や知識が無いと「唯生きている」「死んだだけ」という事なのでしょう か?科学等は信奉されても、死生観は原始的なものへ立ち返るべきであるという事  なのでしょうか?  (私は霊魂や死後の世界は否定しております 佛教でも「ただ白骨のみぞのこれ  り」ということは云われております。唯「無に還る」という言葉が良く使われておりますが、無神論者の方にとって「無」は「無意味」「無価値」の「無」なのでしょうか? 事実死者に話しかけても応えてくれないし、死後の世界に行って帰って来た人はおりませんが、私のいのちも遡れば、「無」というところから始まったのではないかと思いますし、色々な方の「お育て」があり、今日の私があると思うので、 その様な事から自己の戒めという意味では儀礼や墓参りも必要なのではと思います 最終的に「心で思えば良い」という事ですが、形があり時には「ああそうかな」と 云う事もあるかと思います) (偏見で申し訳ないのですが、「何もしてくれるな」という方は個人主義の方が  多い様に思います。 事実本当の原始時代は徹底した弱肉強食だったそうですから、「自分は自分で今の地位生活を築いた」「誰の世話にもなっていない」 だから、「親戚や知人の煩わしい付き合いは嫌 行きたくない」 「墓も仏事のみならず 子の結婚等もめんどくさい」 「だから俺もほおっていてほしい」という理屈なのでしょうか?) 本能でみれば 生きている今だけ 世の中は弱肉強食 煩わしい付き合いは嫌 死ねば終わり その様な生き方が一番そのままに生きているといえるのでしょうか? ご回答お願いいたします。

  • 定義はどこまで可能ですか?

    初歩的な質問です。 科学全般に言えることですが、哲学的思考は言葉を定義できないと正確な議論ができません。 辞書をパラパラひも解くと、 【定義】ある概念の内包を構成する諸属性のうち、本質的な属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 とあります。 では、とまた見ると、 【概念】事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容 【属性】それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質 【本質】存在者の何であるかを規定するもの これを一部乱暴に置き換えると、 【定義とは】「ある事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容」の内包を構成する諸々の「それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質」のうち存在者の何であるかを規定するものの属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 分かりやすいような呪文のような言葉になります。 さらにこの文章を緻密に「定義」していくと、さらにエンドレスです。 さらに「真理」だの「永遠」だの「存在」だのを定義しても同じようなジレンマに陥ると思います。 と言う事は、定義は重要でありつつも、どこかで「まあ、だいたいこう意味だと。」と妥協しないと、いつまで経っても肝心の思考が始まらず、言葉の定義作業だけで終わってしまいます。 とどのつまり、哲学にとって定義とは何なのでしょうか? 。