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短歌/俳句・詩の楽しみ方

昔から読書は大好きなのですが、短歌や俳句、詩といったものにはほとんど触れたことがありません。 最近になってちょっと興味が出てきましたが、いざ読んでみても 数百ページの長い文章に慣れ親しんできた私には、数秒で読み終わってしまう 短歌や俳句は物足りないし、詩は抽象的で説明不足に感じてしまいます。 本棚に祖母から譲り受けたゲーテ詩集がありますが、見事にまったく分かりません。 懲りずに今日学校の図書室で「みだれ髪 チョコレート語訳」を借りて少し読みましたが 分かったような、分からないような感じです。 といっても、国語の時間に習ったものは自分なりに味わえているから、 注釈や解説を読めばいいことなのかもしれません。 でも、他人の解釈を参考にして読み解くのではなく、その作品だけを見て 自分で何かしら感じられるようになりたいのです。 どうすれば、こうした作品を楽しめるのでしょうか。

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回答No.6

   おもむき ~ それがどうした ~    女性は、男声の容姿よりも、男らしい声に性的魅力を感じるそうです。  言葉の意味や内容でなく、声音にしびれるのです。  したがって「役者は一声二顔」と云われます。    西欧の古典は、一に韻文、二に対話、三四がなくて五に散文です。  シュリーマンは、乞食を雇ってギリシャ語の朗読を聞かせたり、言葉 の通じない国の遺跡で、ホメロスを吟じたら、みんな泣いたそうです。    日本語の文学は、七五調の詩歌を生みだし、くわしく述べないところ に趣向があり、代表作は芭蕉の「古池や、かわず飛びこむ池の音」です。  いくら考えても、だからどうしたのか分らない点が、ゆかしいのです。    ふだん「七五調で会話している」と、噂されている佐々木家の三代目 幸綱が(こどもの日に)長男と次男が裸のままはしゃぐさまを詠みます。 「風呂上り ふたつちんぽこ 端午の節句」いやはや……。  

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >いくら考えても、だからどうしたのか分らない点が、ゆかしいのです。 そうです、正直なところ、情景を詠んだ作を鑑賞しても「だから?」と思うことが多いです。 でも、「風呂上り ふたつちんぽこ 端午の節句」に対してはそうは思いませんでした。 > ふだん「七五調で会話している」と、噂されている佐々木家の三代目 >幸綱が(こどもの日に)長男と次男が裸のままはしゃぐさまを詠みます。 このように、作品が詠まれた背景を知ってから作を読んだからです。 私には作品の背景を知ってから作品を読む、というやり方が合っているみたいです。

その他の回答 (7)

noname#194289
noname#194289
回答No.8

自分で詩を書いてみたらどうですか。自分が書いたものでも一旦外へ出てしまうとおそらく他の人が書いた詩を読むときと同じような空虚感あるいは違和感のようなものを感じるのではないかと思います。又有名な詩をある人が読んでいるときその人はその人なりに作りなおした自分の詩として読んでいるのだと思います。つまり書かれた詩を読むということは同時に自分の作詩能力を納得確認することになります。実際難しいのはその詩を理解すること以前に自分の能力の貧弱さを謙虚に納得することのように私は思っています。

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >実際難しいのはその詩を理解すること以前に自分の能力の貧弱さを謙虚に納得することのように私は思っています。 詩を読んでいる人がそう言うのなら、それもまた正しい意見なのかもしれませんね。 もしかしたら詩や短歌などの類は会わないのでは、とも考えているので、 そう納得するのも1つの手かなと思います。 ちなみに、何年も前に学校で詩を作ったことがありますが、読み返してみても空虚だとかは全然感じませんでした。 それに、他の人が書いた作品でも心に響いたものもいくつかありますし。

回答No.7

   なまえ ~ もっとも短い文学 ~    むかし通っていた歯科医院では、いつも下駄箱の上に、七五調の色紙 が架けられ、季節の折々にとりかえられていることに気づいた。  のぞきこむまでもないが、このような変化は、心を和ませるらしい。   「先生は、よほど俳句をたしなまれるんですね」と世辞をいうと、 「なに、まったく金がかからんもんですから」と謙遜された。 「なるほど、慣れると、すぐに作れるらしいですな」   「そう、世界でいちばん短い文学だと云われるくらいでね」 「もっと短いのもありますよ」「はて?」 「それは名前です」「ほほぅ、なるほど」    ちなみに、命名の傑作には、読みくだして意味が通じるものがある。  大島 渚、黛 凛太郎、などである。  有賀 のゆり、は新約聖書「ソロモンの栄華も然かざりき」に由来する。  

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 名前も文学・・・・いいですね。そういう考え方もあったんですね。

noname#111031
noname#111031
回答No.5

詩、短歌、俳句などは、本当のところは解説とかが必要ものなのか如何なのかと思います。もっとも、作品の背景を知ることが必要でしょうが。あとは読む人の感性が重要でしょう。ある詩人の作品はどうも読みにくい、理解し難いということはあります。何でもかんでも理解できるとは言いませんが、詩の読み方などは他人に教わるものではないと」思いますよ。何かしら感ずるものがあるとか、何を言いたいのか理解し難いものもあります。それで良いのではないでしょうか?

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 それは重々承知していましたが、おそらく大部分の人に共通するだろう、 鑑賞に当たってのポイントみたいなものを教えてもらえたらなと思って質問しました。 確かに作者・作品との相性ということも考えられますね。参考にします。

回答No.4

ご自分の気に入った詩人なり俳人なりを探したら如何ですか? つまりですね、「ゲーテの詩を読んでみたがイマイチだったので、自分は詩が好きではない」ではなくて、「ゲーテの詩は自分の好みではなかった」という風に考えてみてですね、色々と好みのものが見付かるまで、図書館などで読み捲くってみるとか。 あとですね、鑑賞のポイントは小説と違ってストーリーとかを楽しむのではなくて、短い言葉に込められた風景だったり、情感だったり言葉のリズムだったりします。ですので詠まれている情景などを想像してみて下さい。また、実際に声に出して読んでみると感じるものがあるかもしれません。 蛇足ですが、私は俳句だと尾崎放哉、詩人だと宮沢賢治、中原中也、ランボー、アレン・ギンズバーグなんか好きですが。

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね、ひとりの作家のものだけで判断してしまったのは短絡的でした。 声に出すことや、想像することもしているのですが、すぐには浮かんできません。 やはり場数踏まないとダメですかね・・。

  • eroihito
  • ベストアンサー率22% (19/85)
回答No.3

只日々を 楽しみゆけば 湧きいずる 我の思いを つむぐ言の葉 俳句・短歌・川柳・詩の楽しみはなんといっても自分で紡ぐ言の葉の流れを 人に見てもらう事ですよ 実際やんなきゃ本当の面白さは分からないさ 枯れ山が 白くなるなり 雪千里

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分で作ったことは何回かあります。 ただ、季語だとかを意識して本格的に作ったことはないですね。

回答No.2

松尾芭蕉の「おくほその道」は、 背景があって、俳句があるので、解説が無くてもどのような状況でその俳句が書かれたかわかります。

komitsu
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 松尾芭蕉は、気になっている人物の1人です。 そういえば「伊勢物語」も、お話の中に短歌があるのだと聞いたことがあります。 そういうものから読んでいくといいかもしれませんね。

  • lililu
  • ベストアンサー率17% (8/47)
回答No.1

>短歌や俳句は物足りないし、 >詩は抽象的で説明不足に感じてしまいます。 でかけりゃいいってもんじゃない。 その短い言葉に昇華するまでどのような想いがあったのか そういうことを考えて読んでみる。

komitsu
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 >その短い言葉に昇華するまでどのような想いがあったのか >そういうことを考えて読んでみる。 そういう発想は全くありませんでした。 考えてみれば、短歌や俳句、詩は主に作者の気持ちを表したものですよね。 私、物語を読むのと同じ考えで読もうとしていました。

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