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(文法)「ありはしまいか」と「ありはすまいか」

現代文に於いて「ありはしまいか」と「ありはすまいか」は併用されているようです。両者の正誤に迷い自己流ながら文法上から調べた結果、「しまい」は口語の文法で、「すまい」は文語の文法で説明がつき、共に正しいと判断しました。下記の質問は、この判断が前提になっています。この前提に誤りが有れば解説の上、以下の質問は無視して下さい。 さて、質問です。 ア)「ありはすまいか」から「ありはしまいか」へ移行しつつあると考えてよいですか。 イ)「ありはしまいか」と「ありはすまいか」の使い分けは全くの個人の言語感覚によるとか、それとも地域や年齢、性別など他の要因と関連しているとか、何か知られていることがありますか。 ウ)「ありはすまいか」の「あり」は口語の動詞「ある」の連用形なのか、文語の動詞「あり」の連用形なのか、それとも何れでもないのか。一般に現代文中の一部分が文語の文法でないと説明がつかず、その前後は口語の文法でも文語の文法でも説明がつくとき、どちらの文法で説明づけるのが正しいとされていますか。 よろしくお願いします。

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  • gekkamuka
  • ベストアンサー率44% (138/309)
回答No.3

 慣用句という意識から少し考えてみました。 1.「…まい」という助動詞については、打消しの推量を表わす語として、中世(室町期)に使われだしたとされています。 「七年がいつもひでりでは、草木も人もあるまいぞ」(「史記抄」) これが更に、例えば狂言のセリフのような形で、文章語と話言葉の間に位置する、打消しの意思でも、もっと時代が下れば、禁止や打消しの勧誘の形で使われてもいたでしょう。 「さて、この雨戸を開けずはなるまい」(狂言「連歌盗人」)。 (この清音の「明けずは」は近世では「開けずば」と濁音になって行きます。) 2.為(す)…まい  また、更には「する【為る】(他サ変) 未然形の用法に、正則的用法「せナイ・せナンダ・せマイ・せズ・せネバ」「せウ」「せラレル」「さセル」、変則的用法「しナイ・しナンダ・しマイ・しズ・しネバ」「しヨウ」「しラレル」「しサセル」がある」(前田勇編「江戸語の辞典」)  あるいは、この辞典の「まい(助動)」の項では、「サ変「せ」「し」「す」「しょ」に付き…」ともある。 従って、「ありはせまいか」が本則でしょうが、変則用法としては「ありはしまいか」「ありはすまいか」「ありはしょまいか」もありうると。 「性の知れぬ者がこの闇の世からちょっと顔を出しはせまいかという 掛念 が…」(夏目漱石「琴のそら音」) 従って、現代語としては「ありはしまいか」「ありはすまいか」「ありはするまいか」とも使えると。 3.在り+は+為+まい+か  この場合の係助詞「は」は、「複合動詞の中間に入り、あるいは活用語の連用形・副詞などを受けて強調し、打消または逆説の表現に続く」(小学館「国語大辞典」) これは、構文上はそもそも、対比や仮定が前提となった形で、その反語的表現をもって、部分肯定の強調用法とするものが慣用語化したと見做してはいかがでしょう。 「泣きたい人は確に泣くことの出来る処があるが、同時に笑ひたい人は確に笑ふことの出来る処がありはすまいか。」(森鴎外「追儺」) 「 いよいよ刑に逢ふまで、若し赦免になりはすまいか、偶然助かりはすまいか、奇蹟がありはすまいかなんぞと思つてゐるのです。」(森鴎外「即興詩人」) このように、「あろうことか、あるまいことか」という慣用語のようになっている。「確かに…があるが、同時に…がありはすまいか(笑う処だってあるにちがいないだろう)」「いよいよ…まで、…になりはすまいか、…ありはすまいか(奇蹟だってあってもおかしくないだろう)」  こんな点を考えると、この言い回しが慣用的に確定した時期が明治期であるとすれば、歴史的仮名遣いということであり、森鴎外の反語肯定法としてみれば「ありはすまいか」が一番落ち着くでしょう。 実際現代語の言い方ではこのような構文自体が消えつつあり、「限られた表現として終助詞的な性格を強めている。また「まい」の代わりに「…ないだろう」「…ないでおこう」などの表現が用いられることが多い」(小学館「国語大辞典」)  慣用法として反語強調的に用いるなら「ありはすまいか」、打消しの推量の疑問形なら「あるのではないか/あるんじゃないか」、打消しの意思や禁止なら「あるまいことか」「あるまじきことか」「あっちゃなんないだろう」「ありゃしないだろうさ」など多様な言い回しがほかにもあるでしょうし。  江戸期以降、打消しの意思や禁止の色の濃い「めえ」の言い回しの方は今日でもくだけた言い回しとして生きていますね。 ありはすまい→ありゃす(ん)めい ありはしまい→ありゃし(ん)めえ ありはしょまい→ありゃしょ(ん)めえ

sono-higurashi
質問者

お礼

3 に関して ご意見には心当たりがあって、こういう事だったのだと納得させられました。 同じ私という同一人物であっても機械的に「ありはしまいか」と「ありはすまいか」のどちらか一方だけを使っているのではなく、反語の度合いがどれ程なのか、反論をどの程度認めるかなどを無意識のうちに、しかも一瞬で勘案して使い分けているのだと気づきました。 自説に強い確信をもち説教口調で反論を許さぬといったときには「ありはすまいか」を使うし、相手の反論を場合によっては認めなくはないといったときには「ありはしまいか」になっている気がします。今まで「ありはしまいか」が正しいにも拘わらず何らかの理由で軽い違和感があるために「ありはすまいか」も併用するらしいと感じていました。落ち着き先が「ありはすまいか」であれば「ありはしまいか」に違和感が生じるのは当然ですし、「ありはすまいか」は反語の度合いが強いのであれば、より緩和された「ありはしまいか」の方を選ぶことがあるのは自然なことだと思います。 違和感の正体が何なのかが判らなくて質問のイ)となったのでした。 以上は私の場合に限った話ですが、こんな具合に人それぞれの感覚と言葉に対するイメージがあって「ありはしまいか」、「ありはすまいか」を使い分けているのだと思います。 「ありはしまいか」と「ありはすまいか」はどちらに収斂するにしてもしないにしても、両者とも先細りで将来は文語臭のしない用語に移行していくのだと受け取りました。 ご返事、有り難うございます。素人には勿体ないほどの解説で感謝しています。

sono-higurashi
質問者

補足

2 に関して 全体に、特に3では説得力のある解説を戴き感謝しています。2にも助けられましたが一つだけお尋ねしたいことがあります。これが解決すると完璧になりますので遠慮なく伺ってしまいます。 今まで「せまいか」には強い違和感をもつと同時に、何か背景があるなと察知しつつ調べることもせず読み飛ばしてきました。今回、事情が整理されて助かりました。「せ」が正則の時代があったのに「せまいか」には失礼なことをしてきたものだと反省しています。「江戸語の辞典」は一応読んでおきました。 さて、質問です。 ネット上の記事は正誤を問わず日本語の見本市なのに、意外にも「ありはするまいか」はGoogleで検索してもYAHOOで検索しても使用例が無く、「ありはするまい」で検索して、やっとYAHOOで一件、見つかるだけでした。しかも、その一件を追求すると2chの一レス中のただ一度だけです。もしも、この検索法が正しいとすると「ありはするまい」の使用例は無いと言ってよいと思います。 このことは、ご回答中の2の最終行の >>現代語としては・・・「ありはするまいか」とも使えると。 の記述と整合しない気がします。 「するまい」は無数というほど使われているのに「ありはするまい」は何故使われないのでしょうか。心当たりがあれば教示して欲しいと願っています。ご返事は決して急ぎません。検索法に誤りがあったらお詫びします。 よろしくお願いします。

その他の回答 (3)

  • gekkamuka
  • ベストアンサー率44% (138/309)
回答No.4

No.3です。  このような慣用的言い回しといいますか常套的表現の構成の根拠や要素の意味をただすというのは何とも難しいものですね。そもそも、その寄って来たる根拠たるや、結局その都度の年長者たちの交し合う口調であったり唱歌や流行歌の歌詞であったりするようです。  「遇いはせなんだか、小島の鴎」  「雉も鳴かずば撃たれまいに」  「んなこと、ありゃすんまいぞなモシ」  「んなの、わかりゃすまいで」  「さては貴殿におかれても、もしやお心当たりの程がござりはすまいかと尋ね申した次第」  ご確認を求められております現代語の活用例を書いた一行に関しましては、あくまでも歴史的仮名遣いとおなじ活用をさせた現代語としては対比的に見ればこのようになることだろうし、そうするとやけに馴染みにくいことを類推していただけるでしょうか、という意味での付随でした。  三省堂「広辞林」の「まい」の項にはどちらかといえば古典語の属する用法だと触れていますし、実際のところ、ご指摘の通り、仮に「するまい」と用いても「ありは…」との親和性はまず希薄であろう、だから「まい」自体はまだ現代語として残っていても、少なくとも「ありは…」+「…まいか」の構造での反語的用法はもちろん、打ち消しの推量は慣用的表現としてはもはや文語表現の扱いになるのだと思われたわけです。  「ありはせなんだか」「ありはすまいか」「あらざるべけんや」などといった、どことなく時代劇調の言葉は、どうも漠然と漢文読み下しのなかに「こそ」原因が「ありはすまいか」と。 「時代とともに──殊に漢文の翻訳のための日本語の体系の整備の必要から──表現の体系を豊富にするために…」(大野晋「日本語の文法(古典編)」)

sono-higurashi
質問者

お礼

再度のご回答、有り難うございます。 2段落に関して。 分かりました。理屈の上では使えても実際には馴染みにくいことを察知するべきでした。 3段落、4段落に関して。 ここも分かりました。「ありは」と「するまい」の親和性がしっくりしないこと、「ありはするまい」が感覚として文語に近いこと、漢文読み下し調でもあること、これらが「ありはするまい」の使用例のほぼない理由だと受け取りました。 上の記述がご回答を正しく理解しているか否か心配ですが、まぁまぁ許容範囲に入っている場合には特にはご返事を要しません。 皆さんのお陰で当初の疑問に、ほぼ答えが出たようです。30日(月)24時までに何方様からも新たな寄稿がないときは当方の都合のよいときに締め切ります。またの機会にも宜しくお願いします。

  • kwan1234
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回答No.2

ア)そのように移行しつつあるのかも知れませんが、私は「しまいか」と発語する気はありません。違和感があります。また、この文の中では「するまいか」はNO1の回答者のおっしゃるようにおかしいですが、他の文の中では「しまい」より「するまい」の方がふさわしいものがあるように思えます。「朝寝坊はするまい」のように。 イ)個人的なものではないでしょうか? ウ)文語とは何か?という問題になりそうですね。「平安時代よりあとに新たに出てきたものは文語ではない」という立場からすれば、「まい」は文語ではないということになるのでしょう。私は「すまい」は文語であると思います。したがってこれに先立つ「あり」は文語の「あり」の連用形と考えるべきだと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

余談ですが、もしかすると首都圏育ちなのではありませんか。私の場合は頭では一瞬「しまいか」が正しそうに思えるのに、感覚では「しまいか」に軽い違和感があって「すまいか」の方を使いたくなるのです。そこで正誤に迷う訳です。当否は不明ですが東京方言との関係を疑っています。この語と限らず、「し」を使わなくても不自然でないときは「し」を使わないで済まそうとする心理がある気がするのですが果たして真偽は。そこで質問イ)が生まれた訳です。 ウ)は文語で統一した方がよいのですね。 有り難うございました。 (ANo.1のOKATさんへ お礼は手元にない「大辞林」第2版を読んでから書きます。)

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.1

「まい」は現代語の助動詞のなかでも、かなりやっかいな助動詞です。だから、直接質問に答える前に、少し全貌を明らかにしておきたいとおもいます。(と、偉そうに書き出しましたが、回答に満足してもらえる自信はありません。)  古語の「まじ」は、活用は形容詞型、接続は終止形(ラ変・ラ変型活用をする語には連体形)に付く、意味だけが多様であり、ちょうど「べし」の裏返しになるとなっていました。  しかし、中世以後の国語史上の大変化に巻き込まれて、話し言葉では室町時代の「狂言」の中に「遣るまいぞ、遣るまいぞ」のように「まい」という形がすでに登場しています。これが現在にまで尾を引いているのですが、途中で整理されて簡単になった一面もあります。例えば「活用形」は「終止形」・「連体形」の二形になりましたが、その一方で接続はなんとも不思議なものになっています。下記リンクの上のものは「goo辞書」の「大辞林」の記述ですし、下のものは「yahoo」の知恵袋の回答です。更にそこのリンクをたどって「補説」を読むと、その複雑さはさらに増大します。  結局、質問者が挙げられた「ありはしまいか」「ありはすまいか」に「ありはするまいか」も加わり、三種が存在しそうです。  で、ご質問ですが、 ア)移行というより、三種存在してどこに落ち着くのか分からないのではないでしょうか。ただ「あるはするまい」は口調からして除外すべきかと思います。 イ)個人の言語感覚によるのかも知れませんが、辞書の扱いからすれば、「しまいか」が もっとも普通に思われます。 ウ)「あり」は文語・口語同形ですから、どちらでもいいようなものの、「す」に引かれれば「文語」、「まい」に引かれれば「口語」という曖昧な答しか浮かびません。   http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A4%DE%A4%A4&search_history=Google&kind=jn&kwassist=0&mode=0&jn.x=25&jn.y=13 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010514840

sono-higurashi
質問者

お礼

1 「まい」と「まじ」は本当に厄介なのですね。「まじ(の各活用形)」の後に助詞が付くことが音便を起こす切っ掛けになり、新たな助動詞「まい」が生まれた原因のような気がします。何の根拠もありませんが、何につけ門外漢は無責任ですから発想が大雑把で大胆なのが特権です。 2 書籍の「大辞林」を見てきました。そっくりネットの辞書に転記されているのを今、知りました。書籍の「大辞林」には別の情報があるのだと思っていたので、お礼が遅れました。すみません。 3 質問への直接のご返事部分からは私の言語感覚も、ほぼ正しそうなので安心しました。 有り難うございました。十分満足のいくご回答を頂きました。 休日になれば回答をしてやろう、という方がおられるかもしれませんので早くても29(日)の24時までは閉じずにおきます。ご了解下さいませ。

sono-higurashi
質問者

補足

折り返し、ご返事を求める訳でも、それを拒否する訳でもありませんが、ご回答を読んで生じた疑問点を記します。何方様なりと、お答え下されば有り難いですが、この手の質問は何処までも発展していくので何処かしらで線引きをしないといけません。よって、ご返事の有無は一任します。 ご回答中にあったサイト、ならびに其処で引用されているサイトの記事を読んだ結果の疑問です。よそ様のサイトに悶着を付けるとの誤解があってはいけません。読後感ですから質問人の考えです。 1 「来(く)まい」の実例が古文、現代文を通じて実際にありますか。あれば是非知りたいです。「大辞林」の他に、小学館「日本国語大辞典」でも「来(く)まい」を認めているので国語学者達に抵抗する積もりはないですが、論より証拠で身元のはっきりした使用例を知りたいです。 2 「来(こ)まい」は使うのではないですか。特に年配者の話し言葉で、話者が聞き手に同意を求めていたり、逆に返事を要求していないニュアンスの時には。 「この先、寒の戻りはもう、来(こ)まい?」、「そんなに早く返事は来(こ)まい」・・・事実上、どちらも来ないことを確信している。 辞典は「来(こ)まい」を認めているのは承知しています。 この辺は各自の言語体験によるので水掛け論になりそうです。それに 1で「来(く)まい」の実例を示せと言いつつ、「来(こ)まい」の実例を資料で示せないのは質問人の弱みではあります。「来(こ)まい」、「来(く)まい」、「せまい」、「しまい」、「すまい」などへの好みや違和感は地域、年代、年齢などと関係している気がします。質問イ)を立てた所以です。 何はともあれ毎度回答を寄せて下さって感謝しています。

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